「時計は14時46分で止まっています」

山根 ここがJR双葉駅です。品川駅から仙台駅まで繋がっている常磐線の駅です。2011年3月の原発事故の影響で帰還困難区域に指定されて、常磐線の夜ノ森駅、大野駅、双葉駅、浪江駅の区間は、電車が通れなかったんです。そのあいだは代行バスが通っていました。こっちはもともとの駅舎で、それが新駅舎になって、2020年3月に再開通しました。それがなぜ2020年3月だったか、おわかりになりますでしょうか。
――すみません。わからないです。
山根 2020年には。東京オリンピックが開催される予定になっていました。実際には2021年に開催されることになりましたけど、当初の予定だった2020年までに常磐線が開通していないと「福島第一原発の状況はコントロールされている」と言った(2013年の)安倍晋三総理(当時)の言葉が嘘になってしまうので、なんとか再開通させた……とも言われております。
――おお、なるほど。
山根 言われておりますが、ただ、理由はどうあれ、2020年3月14日に常磐線が再開通することになって、一気に状況が動いたと感じています。それまで、双葉町の避難指⽰はいつ解除できるかわからないとか、廃炉の作業が終わる30年後(国と東京電力は事故発生から40年で福島第一原発の廃炉作業を完了すると発表していた)までは戻れないっていう話もあって、色々なことがずっと不確定だったんですけど、2020年3月に常磐線が再開通するってなったら、そこを目標にして色々なことが大きく動くようになったんです。

山根 なので、もし東京オリンピックがなかったら、今もまだ避難指示は解除になっていなかったかもしれない。無理矢理だったかもしれないけど、そういうきっかけがあってよかったなという。私は11年前に双葉町の復興支援員として働いていたんですけど、その頃は自由に双葉町に入ることはできなかったんですよ。私はもともとの双葉町民でもないですし。だから、この常磐線の再開通のときに初めて(復興支援員として関わってきた)双葉の人と双葉の街で会うっていうことが起こり、もうお互いに泣きながら「みんなと一緒に双葉にいられる!」みたいな、はじめての状況があったりして。

山根 避難指⽰が解除されることになっても、住めるようになるまではそこからもう少し時間がかかった(2022年8月30日、JR双葉駅の周辺エリアに限定して避難指示が解除され、居住が可能になった)んですが、2020年3月の時点でまずは自由に出入りができるようになったんです。この駅の周りだけなんですけど。私自身、双葉町の人に色々な思い出を聞いてきたけど、その話に出てくる場所を実際に見ることができていなかったんです。2014年に復興支援員として働き出して、2020年、6年越しに皆様の記憶との答え合わせができるようになりました。
――そうだったんですね。
山根 たとえば(双葉駅から南へ10㎞ちょっとの距離にある)夜ノ森(よのもり)というところは桜の名所なんですけど、「いやいや、夜の森のバリケードの奥にも実は綺麗な桜があるんだよ」みたいなことを地元の方が言うわけですよ。でもそこにはずっと行けなかったんです。それが、2020年にやっと行けるようになったりして。
――なるほど、それまではずっといわき市に?
山根 いわきに5年、双葉郡に住むようになって5年です。今、双葉町の居住人口が195人なんですけど、そのうちの90人ぐらいが元々の人で、100人ぐらいは私みたいに転入してきた人なんです。今でもまだ、駅周辺の限られた地域にしか住めないんです。

山根 もともといた方でも、双葉に戻ってこられる人って、たまたまこの辺りに自分の自宅があって、しかも自宅を再建できるだけの財力があって、健康な状態で、ある程度の体力がある人だけなんです。本当に恵まれた人、運がいい人しかまだ戻れていないと思います。たとえば「あと30年は戻れない」って言われて避難先に住宅を再建した人もいるわけです。そういう人が戻ろうと思ったら、避難先に建てた住宅を売るなり貸すなりして、もう一回こっちに自分で家を建てなきゃいけないわけで、相当な財力がないと無理なんですよ。それだけの思いをしてまでなぜ双葉町に戻ってくるかって言えば、もちろん生まれ育った地元だということがまずあって、それだけでなく、双葉に戻ってくれば「あの人たちは避難してきた人たちなんだと」というふうに後ろ指をさされて肩身の狭い思いをしなくていいという部分もあるんじゃないかなと。
――避難先ではそれだけ肩身が狭いということですか。
山根 さすがに最近はそこまでひどくはないと思うけど、「あいつら避難していっぱいお金もらってる」とか「ここは避難者御殿だから」みたいなふうに言われたりしてきた人も多いんです。でも、実情としては二重ローンを抱えている人もいるし、震災の直前に建てた家のローンが終わったばかりのタイミングで避難しなければならなかった人もいて、お金で解決できることじゃないと感じています。

山根 ちなみにここは、元々ブティックだったんですけど、その店の向かいで、洋食屋さんをやっていた方の息子さんが「自分たちの街を悲惨に見られたくない。『おっ!』て思うような感じにしたい」っていう思いで東京の「OVER ALLs」っていうアートチームに依頼して、壊れた建物とか、もう使わないような建物でアートを作ろうっていうことで、避難指示が解除される前に始めたものです。「FUTABA Art District」というプロジェクトで、もともとはアメリカのスラム街で生まれた文化だそうです。

山根 ずっと残す前提で作ったわけではないので、もうなくなっちゃったアートもあるんですよ。こことかはたまたま残されてるけど、向こうにあった薬屋さんの建物にも描かれていたんですけど、そこもないし。あれは消防署の屯所だった建物です。

山根 時計は14時46分で止まっています。震災の発生時、停電になったんですよ。停電になって時計が止まってしまって。

山根 この消防団第二分団の消防団員の皆さんが「津波が来るので避難してください」っていうふうに、町内を巡回するために、ここからポンプ車を出さなきゃいけなかったんです。でも停電でシャッターがあがらないから、なかからカンカンって何度もポンプ車をぶつけて、それでガーって押し出して、避難誘導をしに行ったんですよ。だからシャッターがこういう形になっているんですね。

山根 消防団の第二分団の皆さんは何かあったときに色々とサポートしなきゃいけないから夜もずっとここに詰めていて、あの奥にリポビタンDが見えると思うんですけど。

山根 あれは、3月11日の夜に双葉中学校に社協(社会福祉協議会)さんが詰めていたらしいんですけど、屯所の人たちにも持って行ってあげようということで持って来たリポビタンDだそうです。奥に「白富士」っていうお酒の瓶があるでしょう。それが双葉町唯一の酒造だったんですけれども、そのお酒を造っていた冨沢酒造店さんも当然ここではお酒を造れなくなって、今はアメリカでお酒を造っているんです。

山根 第二分団の屯所は、こっちの新しい建物ができるまでは使われていたんですけど、近いうちに解体することになっています。私はこの新旧の建物が並んでいるのが、震災遺構という意味でも重要だと思うんですけどね。ちなみに、この古い建物の壁に描かれている人たちが、この屯所の第二分団の団員たちです。


「あの桜が双葉町でいちばん初めに咲く桜だから」
山根 この通りはもともとは商店街で、ちなみに、向こうの黄色っぽい建物はかつての役場の建物なんですけど……というか、ここから古い役場が見えるということはだいぶ周りの建物がなくなったんだな……。どんどん解体されていくんです。私は2014年の12月に双葉町に来たことがあるんですけど、電柱が傾いていて平衡感覚がおかしくなるような感じだったし、建物ももっと壊れてたし、まだ震災から3年しか経ってなかったから、壊れた建物もそのままだったんです。今はもう解体されて建物がないから、私はもちろんだし、地元の人も多分もうどこに何があったかすぐには思い出せないと思うんですが。

山根 ここが「相馬妙見宮初發神社(そうまみょうけんぐうしょはつじんじゃ)」っていうところなんですけど、毎年、地元の人たちが集まって神楽を奉納したりするようなところで、皆さんの心の拠り所になる神社だから、ここはなんとか早く直したいということで2019年11月に修繕されました。

山根 震災で社殿が平行四辺形になるぐらいずれていたんです。無事だった屋根の部分だけをまずどかして、社殿の屋根の下の部分を直してからまた屋根を戻すっていうような工事をして、氏子総代(うじこそうだい)さんがクラファンで費用の一部を募って、直すことができました。

山根 神社のしめ縄って最近はビニールっぽい素材で作ったりしているところもあるんですけど、ここのしめ縄は毎年、避難先にいる氏子(うじこ)さんが避難先で作って奉納してるんです。それは避難が解除される前からずっと続いていて、「建物はすぐに直せなくてもしめ縄だけは作れるだろう」ってことで避難先で作って、防護服を着てそれを鳥居にくくりに来てっていうことをしばらくやっていて。
――なるほど。
山根 今もまだほとんどの氏子さんが避難されていますし、宮司(ぐうじ)さんも郡山(こおりやま)に避難されているから、毎日、郡山から来てるんですけど、とにかくこの神社だけはなんとか先に綺麗にしようっていうことで、みんなで頑張ったんです。「相馬野馬追(そうまのまおい)」(相馬地方で毎年3日間にわたって開催される伝統行事で、甲冑を身につけた“騎馬武者”たちの姿が見られる)の双葉町の「標葉(しねは)郷」の馬たちはこの神社から出るんですよ。だから“初發”神社なんですけど、それが去年、震災から13年ぶりにやっとここから出られたという。
――それだけの時間がかかったわけですね……。双葉町に住んでいて、たとえば病院とかはあるんですか?
山根 診療所はあります。でも診療所って、ちょっと風邪ひいたときに診察してもらったりとか、あとはワクチンを打つとか、そういうことはできますけど、持病がある人は車で大きな病院に行かないといけないから、持病があっても車で病院に行けるぐらいの状態の人しかまだ双葉には住めないということですね。
――なるほど、他にも不便なことはありますか?
山根 今年の8月にイオンができて買い物は便利になりましたけど、まだまだ最低限のものしかなくて、例えば私、今とっても髪の毛を切りたいんですけど、髪の毛を切ってくれるところはこの街にないわけです。
――そうですよね……。
山根 ここが図書館なんですけど、ここも2011年の3月で止まっています。このケースに掲示されているような新刊もその時点での最新ですからね。ここにある柳田邦男の『人生やり直し読本』……って、今読みたいわ(笑)。

山根 この図書館も近いうちに壊されると思うんですけど、なかは……あ、だいぶ整理したのかな。でも、観葉植物が真っ白になっていたりして。

山根 こっちはグラウンドだったんです。この先に双葉高校っていう学校があったんですけど、けっこう野球が強くて、甲子園にも行ってるんですよ。私、昭和51年生まれなんですけど。同じ年に生まれた人が高校三年生だったときに甲子園に行ってるんですよ。だから私の同い年の人は、野球部だった人はもちろんだけど、そうじゃない人も応援に行きました。

――このグラウンドで子どもたちが野球をしてたんですね。
山根 そうそう。これから双葉高校のほうに向かうんですけど、このあたりは通学路でもあったんですよね。図書館があるし、児童館もあるし。商店街にはバーとかスナックもあったりして。

――かなり壊れかけた建物もあるけど、これは放置されたままなんですか?
山根 解体工事も順番待ち状態なので、その順番が来てないか、もしかしたらタイミングを待って建て直すつもりなのかもしれないです。どっちかはわからないですが。

山根 ここにしだれ桜がありますよね。この横に「石田医院」っていう診療所があったんです。

山根 双葉って街の花が「さくら」なんですよ。それもあって、皆さんに「双葉町に思い出の桜はありますか?」って聞いたら、けっこうたくさんの方が「石田医院の桜」って答えて、「あの桜が双葉町でいちばん初めに咲く桜だから」と言って、それを挙げる人がすごく多かったんですね。私は福島に来てから6年のときを経てやっと見ることができました。「これがみんなが言ってた石田医院の桜か!」と(笑)。

――みんなの思い出の桜なんですね。新しく建てられたおうちもちらほらとありますね。
山根 あります。住まいが増えていってほしいから町が予算をつけて、100万までは修繕費用を出しますと。でもまあ100万っていっても、水道ぐらいしか直せませんよねっていう。
ここはお寺だったんですけど、2011年の震災のときはここまで壊れ方がひどくなかったんです。福島って3年前に震度6の地震があって、そのときにこれぐらいひどくなった。震災の後はまだ屋根がちゃんと建っていたんですよね。震災ではなんとかなっていたけど、そのあとの地震で壊れたっていうところもけっこうあって。
