接続する柳田國男

学び
スポンサーリンク

はじめに

本稿は「柳田國男と主権者教育」と題され断続的に書いてきたノートの続篇である。充分に伝わり切れていないかもしれないが、そこで指摘したのは柳田民俗学とは、現在のアカデミックな人文学の一領域の座を目指したものでは全くなく、普通選挙施行を前提に、その担い手のための主権者教育として設計されたということだ。

しかもそれは何らかの「知識」を「啓蒙」するものではない。いかにして自らの政治的判斷(つまり「投票」)を可能とするか、その「方法」を公共化する社会運動としてあった。その意味で「普通選挙」の達成を持って終わった大正デモクラシーの、孤高の継続としてある。

今回のノートではその「続き」として、柳田が設計した主権者が「自ら考える方法」についてメモを重ねていく。実際のところ、ここから先の「考える」手続きは柳田の読者一人一人の問題であり、それが可能なように、実は彼の書物は丁寧にその「方法」が明瞭に述べられている。

それが読みとれないのは、書物から得るものが「知識」や「情報」であるという思い込みが大きいようにも感じる。だから柳田の書から、日本人の民俗やフォークロアに関する蘊蓄に類する知識を読みとって満足することで読者は終わってしまう。しかし示されているのは「方法」であり、それは「今」を考える手立てに他ならない。それこそが読み取られてしかるべきである。

ノートでは柳田の「方法」が現在、特にオンライン以降の社会に実は接続可能な知であることを出発点にその方法と問題系が「現在」の文脈の中でいかに豊かな可能性を持つかを考えてみる。

過去の記事はこちら

接続する柳田國男

1 データベースとしての歴史 重出立証法のメディア論的検証

柳田國男の「知」がいわゆる人文領域に留まらないことはその弟子の一人、千葉徳爾の継承した学問を手懸かりに論じたことがある(大塚、二〇一七)。柳田が布川と布佐の二つの故郷でそれぞれ旧家の書庫に籠もったことはよく知られているが、もう一つ、兄・井上通泰に連れられて上京、通泰らとともに新体詩の翻訳を行った森鷗外の書庫に三度目の引き籠もりをした可能性がある。その鷗外からの影響は過小評価すべきでない。

鷗外は文学者であると同時に、日露戦争の行く末にまで影響を与えた軍医であり、他方ではコロボックル論争への参加や解剖学を踏まえた美術教科書の刊行など、今日の「理系」「文系」といった俗な区分をあらかじめ超越しており、そもそも、明治の知はその後継者を含めて今日のように文理融合のお題目を唱えずとも一つの総体としてあった。

それはフォークロアに於いても同様で、民俗学と粘菌学が不可分のものとしてあった南方熊楠や、原形質や遺伝といった生物学的概念がその思考の基層の一部を確実に成す折口信夫も同様であった。

だが柳田國男の人文知に注意すべきなのは、ただ「文理」を横断する知であるだけではなく、その学問の設計が情報論的思考に支えられている、ということだ。

柳田がその学問を構想する中で幾度かアカデミックな研究者との協同を試み、そして頓挫していることはよく知られる。

例えば関敬吾は、柳田國男が岡正雄に編集を担当させた『民族』(一九二六年刊)の背景についてこう論じている。

第一次世界大戦のあとを受けて、欧米諸国においても民俗学研究は一つの発展段階にあった。日本民俗学もまた、それ自体の研究の発展、さらに諸外国の影響とまって、一般的関心も高まり、その研究範囲も拡大され、研究方法も厳密性が要求されるに至った。このとき柳田を中心とする少壮学徒からなる研究グループを主体として、雑誌『民族』は創刊された。(中略)

『民族』においては、問題はこれまでの『郷土研究』におけるよりははるかに広範となり、人類学・考古学・言語学的諸問題・社会制度・原始宗教・中国思想・芸能・物質文化などの諸方面におよび、単に日本の問題にとどまらず、比較民俗学的方法によって問題がとりあげられたことがとくに目だっている。このことは一面、柳田の学問的広さと深さ、さらに氏の民俗学理論と関係をもつとともに、編集者たちの専攻領域とも関連するものであろう。

(関、一九六二)

参加したのは岡に加え石田幹之介、田辺寿利、奥平武彦、有賀喜左衛門らで、物故した奥平以外は、後に東洋史学や社会学等の権威となる人々だ。それより先、一九一三年に創刊した『郷土研究』に協力した高木敏雄もそうであったが、関の回想が示すようにこれらの雑誌創刊の目的は、彼らの参与による柳田の学問の学術化が一方にあった。

一方にあった、というのはパートナーとして研究系の人材を招き入れながら、柳田の目論む雑誌とは根本の構想の差異が露わになるからだ。『郷土研究』や『民族』も含め、大正期から昭和初頭にかけて柳田の周辺で、時には柳田抜きでの折口信夫らの『民俗学』のようなものまで、民俗学関連の雑誌はいくつも創刊したが、いずれも短命だった。

このように柳田は学術雑誌を試みながら、しかしそれを必ずしも自らの執筆の足場として必要としていない。例えば関が先に引用した一文で「通俗雑誌」と形容する『旅と伝説』に、柳田は昔話や伝説に関わる彼の代表的な論考を発表した。関の一文は、戦後、一九六二年に書かれたもので、民俗学関連の雑誌類を追いつつ民俗学史を述べるものだが、『民族』を「当時の学会に清新の気を醸成した」と高く評価し、アカデミズムと「通俗」「在野」に雑誌やこの学問に関わる者たちを分断することに頓着していない。

『民族』休刊は、柳田と一時は成城の妻子を置いて移り住んだ新居に同居までした岡正雄との離反にあった。その原因に私的な事情を指摘するものもいるが、『民族』の編集方針の齟齬にもあったことは、創刊当時の協同的関心を失ったと終刊の辞に記されたことからも明らかだ。

この『民族』という雑誌が重要なのは、その編集方針をめぐるアカデミシャンとの対立が、柳田の学問観を自ずと浮び上がらせる資料だからだ。

柳田と岡の雑誌観の解離は「データベース」と「ジャーナル」の違いであるとひとまず総括できよう。

現在のアカデミズムの概念でそう例えれば理解し易いことは、これまでも述べてきた。「ジャーナル」とはつまりは学術論文からなるアカデミズムを前提とする学術雑誌である。現在では研究者のキャリアは、このジャーナルへの査読論文の掲載数や、ジャーナルそのものランクによって定量化される。『民族』創刊当時はそこまでではなかったにせよ、黎明期のアカデミズムの所在を根拠付けるアイコンとしては確実に構想されていたはずだ。

しかし柳田の考える雑誌はそれとは全く異なった。

柳田にとって雑誌とは何よりも「投稿空間」であった。

そして「投稿」を期待されるのは学術論文ではない。

仮に「論文」が投稿されてもそれは場合によっては切り刻まれる運命にあった。

『民族』編集後記にはこうある。

▽編者の排列選択は此意味に於て大に自由を認められなければなりません。故に──文章結構等に自信があつてただ寄稿の全部としてのみ取捨を決せよと希望せられる方は、予め其旨を通知して戴きたい。但し我々は全部を採用し得ないばかりに、其中の有益なる知識をも公にし得ないことを惜む者であります。

(柳田、一九二七─3)

つまり柳田は必要に応じ、「論文」の一部を切り捨て「其中の有益な知識」を「公け」にする、と宣言しているのだ。「有益な知識」とは民俗文化に関わる一次資料的な報告であり、切り捨てたのは論文の「研究」部分であることは以下からも明らかだ。

▽折角沢山のよい報告が出て居るのに、本誌の研究はどれも是も、横ぞっばうを向いて自分の卓見のみを独語して居られるのは不本意である。悪くすると二つの相長屋住居の様に世間から評せらるの危険がある。

(柳田、一九二七-2)

柳田は「沢山の良い報告」が投稿されることを喜び、かつ期待する。反対に「研究」を「自分の卓見」「独語」とも批判する。

この二つの編集後記から浮び上がるのは、柳田の雑誌が、極論を言えば一編の論文から研究者の見解を削ぎ落とし、「報告」という一次資料のみを選別するという特異な編集方針である。これは研究のオリジナリティやプライオリティが研究者の自明の権利である現在のアカデミズムの規範からは、許容できるはずもないだろう。

そこから以下のような柳田批判の定型が早々に出来上がる。

先にも述べましたが、先生は雑誌への報告寄稿の取捨はきわめてきびしかったのですが、こうした会合での報告でも、生のままの資料を好まれ、雑誌寄稿は直接採集資料であること、これに手を加えたり、整理したり、解釈や意見を加えたりしたものはだめなのです。ときどき報告者を気の毒に思ったことがありました。それはともかくとして、柳田学の基礎資料は多くの有名、無名の報告者の報告なのです。無名の報告者の報告の上に立っている学問なのです。ずっと後になって、先生に対する僕の悪口の一つが、柳田学は「一将功なって万骨枯るの学問」だということです。お前たちは報告だけしろ、まとめるのはおれがやる。僕もいつも何か割りきれない気持で見ていました。

(岡、一九七三)

『民族』編集で柳田と離反した岡正雄の戦後における回想である。

アカデミシャンにしてみれば、柳田の行為は「論文を書く」という研究者の特権を剥奪する狼藉に等しい。しかし、そもそも柳田の文章の中でアカデミックな「紀要」「学会報」の類に掲載された学術論文は皆無に近い。学術誌に書くという「権威」とは縁遠く、関が無自覚に侮蔑したように、柳田の寄稿の場は「通俗雑誌」や新聞など、そもそも場を選んでいない。昨今は、柳田の文章を先行研究の整理や引用の註などがないことを書式の不備として批判する向きがあるが、そういうアカデミズムの書式と柳田の学問設計自体が無縁だといえる。柳田の文章に「××の話」と題するものが多いが「話」というのは彼が論考を公に語る時、好んでつけるものだ。

柳田の学問設計は何より「報告」という過程それ自体にある。

それは柳田民俗学の方法論として一時期集中的に議論され、放擲された「重出立証法」に関わる議論にも連なる問題だが、柳田の方法は、まずデータベース作成が前提であった。柳田が「報告」に拘泥するのは彼の学問構想が膨大で精緻な「ローデータ」を必要とするからだ。

その学問設計は『民族』創刊号の以下の一文で、かなりの部分が明らかである。

殊に我々の志さんとする人類学の部面に於ては、久しい間世上の之を目して、珍奇なる話柄の供給者とするが如き態度を改めしめることが出来なかつた。従って別に其以上に大なる期待を係けられる代りに、学問は終始野育ちの状態に置かれて居る。二三の異常に幸福なる人々を除くの外、地方の学徒は銘々の小さい書斎に立籠って、同時に誰かが着手しているかもしれぬ研究を、準備せねばならなかった。資料や文献は割拠して居る。信賴すべき索引は一も供給せられて居らぬ。此間に在ってまなべば必ず織り、労すれば必ず獲ることは既にに難事である。ましてや仔々倦まざる多年の蓄積が、徒に門外漢の耳目を驚かするに止まらず、偶々世に問う所の一編の力作が、即ち遼東頭白の豚たることを免がれんとは、殆ど之を望み難かつたのである。

(柳田、一九二五-1)

柳田がここで述べている学問像は二点である。

一つめは、一人一人の研究者が「遼東頭白の豚」つまり「小さい書斎に立籠もって」自分が世界で唯一と錯誤する状態からの脱却する環境を用意すること。即ち、研究者間のネットワームの構築である。

二つめは、「割拠」している資料の「シェア」とデータベース化、アーカイヴ化である。データベース化・アーカイヴ化を柳田は「索引」とオールドスクールに表現する。

そして「ネットワーク」「シェア」「データベース」「アーカイヴ」といったオンライン以降のことばで表現すれば自明すぎることを、柳田は現在から百年近く前の一九二五年に述べていて、その学問の構想としていることにこそ注意したい。

だからこそ個人の「卓見」よりも「報告」の集まるプラットフォームとして雑誌は計画された。

それ故、柳田は雑誌編集権を主張したわけだ。

研究者の文章そのものの編集権は編者にあり、先に見たように、「文章結構」、つまり、文章上の創意は不要で、それらを捨てて「有益なる知識」のみを公けにすべきだという。それは「論文」の執筆者から見れば岡の批判にも連なる資料の剥奪に思えるが、柳田にしてみればこの雑誌に集うべきは研究者ではなく、「報告者」である。

それでは「報告」は岡の言うように中央集権的に柳田に捧げられる供物でしかないのか。同じ『民族』の編集後記にこうある。

▽第三巻に入って愈々資料の新たに又豊富になったことを感じますが、既に実例によっても認められるように、多くの類似と変化との比較が、個々の事実の価値を高めることは甚だ著しいものがあります。故に我々としては常に若干の待合わせの必要を感ずるのであります。 ▽俗信比較などの部分的な仕事でも、比較によって最も深い印象を受ける人は、往々にして報告者自身であります。それが今後の観察を力づけ又導くことは申す迄もありません。併しその効果を十分に挙げようとすれば尚益々報告の盛んなることを望まねばならぬのであります。

(柳田、一九二七─1)

ここで「比較」という柳田の方法の中心概念がさらりと語られる。

今、その「比較」の意味には立ち入らないが、「報告者」自身が「比較によって最も深い印象」を享受するという主張には、注意する必要がある。つまり「報告者」は「報告」が集積し、差異が可視化することで自身の「報告」が位置する文脈や位置を知ることが出来る。その、立ち位置を「比較」を以て実感し得ることが重要なのである。

このことは改めて論じるが、それは研究者がとる第三者的な俯瞰とは全く異質であり、文化の多様性の中に自身を位置付ける態度である。

関連商品