ミュージアム研究者・小森真樹さんによる新連載「ミュージアムで迷子になる」を開始します。本連載では、2024年5月から11ヶ月、ヨーロッパとアメリカなど世界各地でおこなう小森さんのフィールドワークをもとにして、ミュージアムの営みについて辿っていきます。
ミュージアムでは古代から現代までの美術品、考古標本、動物や植物、はては人体など、さまざまなものが収集・展示されます。それらをどのように収集・展示するかの判断には、そのときどきの社会や経済、歴史、政治状況の影響があります。
ミュージアムの営みを辿ることは、私たちが生きる社会とその歴史がどのように作られているのかを考えるということです。その中に迷い込むことで、この社会の思いがけない一面を発見することができるかもしれません。
第一回は、まさに現在第60回が開催されている、世界三大芸術祭のひとつ「ヴェネツィア・ビエンナーレ」を取り上げます。国際政治の代理戦争の舞台となってきたヴェネツィア・ビエンナーレの変遷に迷い込みましょう。
「飛行機独特のあの匂い」としか言いようのない、むせ返る匂いで目が覚めた。自分の背中も少しだけ汗ばんでいたが、周囲の人たちはもっと汗をかいているとほとんど明白にわかった。ほんの少し距離を置いておきたい気分で、離陸後にドアが開くまでしばらくの時間を過ごす。カタールで乗り換えて約六時間、うたた寝をしながら悠に10カ国ほどの国境を跨いだことになる。
LCCの安チケットで乗ったフライトは見るからに安っぽい機体で空調も弱く、飲み物もサービスされなかったし、しまいには喉が痛いだなんだと口々に英語で文句を言っているのが聴こえ始めていた。皆がウンザリした顔をして、暑すぎる機内から急足で地上に降りていく。2019年8月14日、寝ぼけ眼でイタリア・ヴェネツィアの地を踏んだ。
このとき、翌年に世界がパンデミックを迎えるとは全く想像もしていなかった。直後、ここイタリアは医療崩壊の危機へと陥ることになった。
ヴェネツィア・ビエンナーレに見る「文化政治」
旅の目的はヴェネツィア・ビエンナーレである。現在まで続く最古の国際芸術祭だ。三大芸術祭として、ドイツのカッセルで開かれるドクメンタ、ミュンスターの彫刻プロジェクトに肩を並べる。
ヴェネツィア・ビエンナーレはパビリオン国別展示が特徴で、「美術のオリンピック」と呼ばれることもある。その知名度や規模、美術界への影響力という点で世界最大水準の芸術祭とみなされている。美術と建築部門がその代表で、「ビエンナーレ(二年ごとの)」という言葉が意味する通り、それらは二年に一度交互に開催されている。日本でもよく知られる映画祭や、演劇、ダンス、音楽部門は毎年の開催である。
ヴェネツィアはビエンナーレでつくられてきた都市である。国際芸術祭の歴史からは、国家や街と文化の関係が見えてくる。この巨大な芸術観光イベントは、その歴史においてつねに「国家」の力学のなかにあった。130年に及ぶその歴史をこの視座から概括するなら、次の五つの段階に分けられる。まずは①―④までの経緯を追いかけてみよう。
①王・国・市が連携した文化政策
②万博モデルの美術運動の見本市
③第二次大戦下の急進化と中断
④再開と冷戦構造での文化外交
⑤「自己批判」とキュレーション
①王・国・市が連携した文化政策
ヴェネツィアで芸術祭が生まれたのは19世紀半ばのことである。その起こりは王族を記念するイベントだった。国民国家としての統一運動のなかで現「イタリア共和国」がヴェネツィア王国を組みこんだ時期だ。
1893年、国王ウンベルト一世と王妃サヴォイア家マルゲリータとの銀婚式のお祝いに「イタリア国家による美術ビエンナーレ(Esposizione biennale artistica nazionale)」を開催することがヴェネツィア市議会で決議された。文化芸術への貢献を全面に打ち出すことで、「文化都市」として街のアイデンティティを更新しようとしたのである。
その趣旨は自然と「イタリア美術」の豊かさを国外にアピールしようという方向へと向かった。計画は、イタリア外の国民国家からアーティストを招待する制度を加える形で具体化し、「ヴェネツィア市の『国=際』美術ビエンナーレ(Esposizione Internazionale d’Arte della Città di Venezia)」として結実した。これが、1895年に開催された第一回ヴェネツィア・ビエンナーレである。
これらふたつの名称には、美術祭につけられた冠が、「国家(nazionale)」から「国際=国と国のあいだ(internazionale)」へと展開した経緯が反映している。ビエンナーレは、国家・市が王権に基づいておこなう文化政策として生まれた。
②国家代表型展示:万博モデルの美術運動の見本市
ビエンナーレの展示スタイルもまた、「国民国家」の枠組みを色濃く反映していった。19世紀の後半、国際芸術祭同様に盛んになった文化イベントに、「万国博覧会」がある。これもまた、国民国家の単位で、文化芸術や技術などを顕彰し、質や量を比べながら競い合う「展示メディア」である。
こうした趣旨からして万博では、芸術の各領域のなかでも「装飾芸術」が多く扱われてきた。同時に、国内に有する植民地の達成を競うときには、西洋宗主国から見た「異文化」の物品が展示された。ここでは、エキゾチックな「文化」あるいは形容詞つきの「部族芸術」などが、それら非西洋社会に対して外側から充てがわれるというオリエンタリズム的なまなざしが存在していたのである。
こうした欲望と表裏一体のものとして、西洋の「近代芸術」、つまり「自文化」たる西洋社会で達成された、同時代的かつ先進的な芸術様式が栄華を極めた[1]。それは、「装飾美術」や「部族芸術/文化」よりも格上のものとして序列が与えられ、相対的に価値づけられていったのである。他方で明治の日本では、「洋画」というジャンルが形成されたが、それは日本がこのような国家間力学のなかで「西洋近代国家」への仲間入りを目指すために、この種の西洋様式の芸術である必要があったわけである。
かくして「国際芸術(美術)祭」のビエンナーレは、「万博」と役割分担するようになっていく。西洋近代の芸術を中心とする「芸術様式・美術運動」を見本市的に展示し、西洋社会に“かくあるべき”最新の前衛様式である「近代美術」ないし「現代美術」を扱うメディアとして確立していったのである。
列強国が帝国主義によっていかに植民地を獲得するのかとしのぎを削っていた時代である。この成立背景が、ヴェネツィア・ビエンナーレを、のちには「美術のオリンピック」と呼ばれる、国際政治の代理戦争の舞台へと移行させる契機となった。
具体的には、1907年にベルギーがパビリオンをジャルディーニ(庭園)と呼ばれる公園地区に建設する。以後、次々とドイツ、ハンガリー、イギリス(以上09年時)、フランス(12年)、ロシア(14年)などのパビリオンが建設されている。常設のパビリオンを有していることもまた、「列強」たる証であり、これ以降、国民国家がこの華々しい舞台への「常任参加資格」獲得を競うように、パビリオンを建設するという流れが生まれる。
西洋社会に主導されたある特定の「近代美術」なる価値観が、国民国家に文化的価値を与える道具として使われる。芸術は、こうした政治的な側面も有しているのである。ビエンナーレはそのゲームボードとなった。「国家代表型展示」というゲームのルールは、いわば一種の「キュレーション」である。国家間競争によって構成され編集されることで、美術品が武器としての顔を持つからである。
③大戦下のファシスト国策による急進化と中断
戦況の変化は、国民国家的事業のビエンナーレに影を落とすこととなる。1916年、18年のヴェネツィア・ビエンナーレは第一次大戦によって中止されることとなった。
1930年には、ビエンナーレの管轄がヴェネツィア市から離れファシスト体制の党政府へと移行する。このときファシストの管理下で始まったものこそが、国別のパビリオンの強化とコミッショナー制度である。作家や作品の選択はふるいに掛けられ、競争原理が強化されることによって、国家属性に基づくプロパガンダ性は強まっていった。こうした流れは、1938年に導入される「グランプリ(国際大賞)」と国際審査委員会へと結実する。
第二次大戦の緊張が高まるとこの傾向はより露骨になった。たとえば1942年には枢軸国と中立国のみに参加資格を与えるルールが導入されている。このように、政局にしたがって次第にビエンナーレは孤立していったが、いわばゲームボードはブロックのなかに囲いこまれたのである。
1944・46年にはエンナーレは中止され、戦後まで開かれなかった。なお、この時期には部門が拡大し、1930年に音楽祭、32年に映画祭、34年に演劇祭が始まっているが、これらも大戦中は中止された。
④再開と冷戦構造での文化外交
戦後イタリアは枢軸国=敗戦国としてビエンナーレを再開することになる。映画祭、音楽祭、演劇祭に続き、いよいよ美術祭も1948年に開催されることとなった。政治的・社会的な背景が芸術の様式面に影響したことがうかがえるのは、連合国側の前衛芸術運動がビエンナーレで活況を見せたという事実である。
とりわけ、戦前とは対照的に冷戦体制のなかで力をもったのがアメリカ合衆国の前衛表現だ。たとえば、1950年代には、フランスのアンフォルメルのカウンターパートとして抽象表現主義が、1960年代に入るとポップアートなどがビエンナーレで存在感を見せた。
美術史の教科書においては、しばしば「美術の中心は、戦後になってパリなど『ヨーロッパ』からニューヨークの『アメリカ』へと移行した」と説明される。こうした「近代美術/モダンアート」の名で語られる美術の語りは、ある特定の史観にすぎないということは以後見直されていくことにもなるが、すくなくとも戦後の冷戦体制では、こうした視座がいっそう支配的なものとなっていった。
ヴェネツィア・ビエンナーレはその受け皿であり、西洋近代中心史観の文化政治学を反映している。国際美術祭という「展示メディア」は、国家間の文化外交の様相を映す鏡なのである。
こうして戦後冷戦下では、「近代美術史」そして「ビエンナーレ」というゲームボードにおけるアメリカの「覇権」が始まった。
1964年、ネオダダやポップアートなどが積極的に紹介される中、ロバート・ラウシェンバーグがアメリカ人として初のグランプリを得た。彼の受賞は、キッチュで商業主義的な印象から保守的な美術界からは反発も多かったポップアートという表現に、そして「アメリカ人」という国家的枠組みで代表されるアーティストに、ビエンナーレがお墨付きを与え規範化するきっかけとなった[2]。
「新旧」アートの聖地として「米仏」間競争の構図がこの時期生まれたが、このことはオリンピックゲーム各競技でのライバル国のようなイメージで捉えるとわかりやすいだろう。なお、日本は1952年から公式に参加をしており、58年に日本館が完成した後は各回参加を続けている。
アメリカ合衆国を筆頭に、冷戦構造下の自由主義圏の国家においては共産主義陣営への敵対姿勢、いわゆる反共主義が大きな影響を持った。赤狩りのように国内外の思想弾圧のような形でも、そして文化や芸術などの文化政策的プロパガンダのような形でも反共主義は先鋭化していくことになる。
このとき、自由主義に基づく国家体制を文化的に誇示するために選ばれた美術の動向、「イズム(主義)」が、50年代には「抽象表現主義」だったのである。
そのキープレイヤーとなったのは、ニューヨークを中心とした前衛系アーティスト、ミュージアムやギャラリー、それを支える大富豪の篤志家たちである。
ニューヨーク近代美術館(MoMA)は、このアメリカ政府の情報局によるプロジェクトに秘密裏に協力した。グッゲンハイム美術館・財団はコレクションを制度化することで、それを具体化し未来へとつないでいった[3]。そして、ユダヤ美術館館長アラン・ソロモンとキュレータのアリス・デニーは、コミッショナーとしてラウシェンバーグをヴェネツィアへと送り、「アメリカ政治に欠けていた栄冠」を勝ち取った[4]。
つらなる「主義」で語られる美術史は、中立的な見方でも自然な流れでもない。ある特定のイデオロギーを色濃く反映した歴史が、ある特定の視座から切り出されたものである。冷戦下においてビエンナーレは、国民国家間競争の主たる舞台として活況を呈していった。
いまなお続く「美術のオリンピック」
19世紀末から1960年代初頭までのヴェネツィア・ビエンナーレの歴史を振り返ってみると、国際芸術祭のルーツには「国民国家」体制の歴史が色濃く反映されており、今に息づいているとわかる。
その特徴は第一に、国際芸術祭とは、万博と並び帝国主義・植民地主義体制の歴史的由来によって生まれたものであった。
第二に、万博と役割分担をしつつ、その領域は芸術とくに「モダンアート」という西洋を中心として形成される現代美術へと特化されていった。
第三に、国際芸術祭は、国民国家という単位で国際政治の覇権を争うフィールドとなった。美術という領域はすぐれて文化外交政治の舞台である。
そして第四に、戦争及び政治外交は、芸術祭という舞台装置の変化を色濃く反映するものである。第一・二次大戦を経て先鋭化したイタリアのファシズム体制で、国家間対立の構図は先鋭化していった。戦後の冷戦体制では、国家間競争のモデルは維持しつつ、ゲームボードは自由主義陣営に握られていった。
ヴェネツィア・ビエンナーレは国民国家と文化政治の舞台であった。ここから生まれた「美術のオリンピック」という国別競争の形式は、2024年現在まで維持されていると言ってよい。
国と国のあいだにある線は、誰かが引いたものである。つまり、「国民国家」という枠組みは歴史的につくられているのだ。人々はなんとかそれをうまく利用しようと努めてきたが、とても不安定なものである。そのもろさは、外交の嘘を塗り固めた結果築かれたイスラエルという「国家」が、パレスチナという「国家と認められていない」地域に対しておこなう暴力が露顕した、ポスト・パンデミックの現状を引くまでもないだろう。
プレ・パンデミックの「クオランティン」
パンデミックで誰しも身近に感じることとなった、「隔離による検疫」。これを英語ではクオランティンという。語源はヴェネト語で「40日間」を意味するクオランティーナ・ジョルニ(quarantina giorni)にあり、14世紀頃のヴェネツィアで、隔離場所で過ごすこと自体を指すようになった。海運貿易の拠点としてグローバルな交易点だったこの地では、「黒死病」という名で知られたペスト病原菌の蔓延を防ぐ水際対策がうん万の生死を分かつ一大事だった 。
興味深いことに、この日数の根拠はキリスト教の信仰に由来している[5]。聖書をはじめとするキリスト教の文脈では、40という数字がたびたび登場する。イエスが断食したのも、モーセがシナイ山で祈ったのも、ノアが方舟で免れた洪水が続いたのも、「40日40夜」。神がこの数の期間で試練、すなわちメッセージを与えたとされている。
ヴェネツィアはよく知られたように、干潟にある島々である。病気からの隔離も、島の構造を利用しておこなわれた。14世紀末に作られた最初の検疫施設は、サンタ・マリア・ディ・ナザレと呼ばれた離れ島にある。その「ナザレ」が訛り、キリスト教の聖者「ラザロ」と一緒になって、イタリア語や現在では英語でも、検疫所や検疫船のことを「ラザレット(lazaret/lazarette)」と呼ぶようになった。のち18世紀には別の島に検疫施設が作られ「ラザレット・ヌオーヴォ(新・検疫所)」と言われるようになり、最初のナザレは「ラザレット・ヴェッキオ(旧・検疫所)」という名に定着して今に至る。
二つの島は現在ミュージアムとして保存されている。1970年代に立ち上がった島の再生プロジェクト(Per la rinascita di un’isola)が、考古史跡の文化保存を進めてきた[6]。ヌオーヴォではガイドツアーが提供されていて、まさにその現場に立って隔離検疫の歴史を学ぶことができる。あるツアーの体験者によれば、“40分間”島内を巡ったあとで施設に入ったのだとか[7]。ヴェッキオの方はいま施設を改装していて、ヴェネツィア市立ミュージアムとして開館する計画が進む。ヴェネツィア・イマーシブ・アイランドという名でヴェネツィア映画祭の会場にもなった。
2020年に起こった新型コロナウイルスのパンデミック。近代史上、国と国のあいだを人が行き来することについてこれほど意識された時期はなかったのではないだろうか。国のあいだに線を引くこと、人の所属を「内」と「外」で分けること、そして、国境を越えてやってくる人々を隔離すること。ヴェネツィアは「クオランティン」の街である。コロナ禍のはるか以前に隔離検疫を発明し、国という単位で芸術祭を発展させた。この言葉ほど、街の歴史を一言で表すものはないだろう。
プレ・パンデミックの2019年、入国時に機内で覚えた、むせ返る匂いと汗ばむ寝苦しさ。越境機械が不快さをもたらしたのは、「クオランティン」せずに国を越えたからなのだろう。それは、私たちが罹患した「国民国家」の病である。
[1]「ブラック・アートはなぜ形容詞つきなのか? 展覧会とミュージアムの歴史からたどる」『BT美術手帖』(特集「ブラック・アート」)、75、1074、2023年3月、美術出版社、108−9。
[2] Velthuis, Olav (June 3, 2011). “The Venice Effect”. The Art Newspaper. Retrieved October 22, 2011.
[3] 小林剛「「アート・アフター・トランプ」『ユリイカ』2017年1月号(特集=アメリカ文化を読む)
[4] アメリカ政治と戦後の抽象表現主義の経緯を描いた最新のドキュメンタリー映画に『トーキング・ヴェニス(Taking Venice)』(Amei Wallach監督、2024年)がある。
[5] Johanna Mayer, “The Origin Of The Word ‘Quarantine” Science Friday(September 4, 2018).
[6] Lazzaretti Veneziani公式ウェブサイト。https://lazzarettiveneziani.it/
[7] Julia Buckley, “What It’s Like to Tour Venice’s 14th-Century Quarantine Island,” Condé Nast Traveler(September 18, 2020).
筆者について
こもり・まさき 1982年岡山生まれ。武蔵大学人文学部准教授、立教大学アメリカ研究所所員、ウェルカムコレクション(ロンドン)及びテンプル大学歴史学部(フィラデルフィア)客員研究員。専門はアメリカ文化研究、ミュージアム研究。美術・映画批評、雑誌・展覧会・オルタナティブスペースなどの企画にも携わる。著書に、『楽しい政治』(講談社、近刊)、「『パブリック』ミュージアムから歴史を裏返す、美術品をポチって戦争の記憶に参加する──藤井光〈日本の戦争画〉展にみる『再演』と『販売』」(artscape、2024)、「ミュージアムで『キャンセルカルチャー』は起こったのか?」(『人文学会雑誌』武蔵大学人文学部、2024)、「共時間とコモンズ」(『広告』博報堂、2023)、「美術館の近代を〈遊び〉で逆なでする」(『あいちトリエンナーレ2019 ラーニング記録集』)。企画に、『かじこ|旅する場所の108日の記録』(2010)、「美大じゃない大学で美術展をつくる vol.1|藤井光〈日本の戦争美術 1946〉展を再演する」(2024)、ウェブマガジン〈-oid〉(2022-)など。連載「包摂するミュージアム」(しんぶん赤旗)も併せてどうぞ。https://masakikomori.com