ふやけて崩れたハンバーガー、やる気のない食堂の冷たいからあげ、サービスエリアの伸びきったうどん……。おいしくなかった食事ほど、強く記憶に残っていることはありませんか。外食の「おいしい」が当たり前となった今、口に合わなかった食事の記憶から都市生活のままならなさを描く短編小説連載、いよいよ完結。
目が覚めると喉の奥が貼り付いたように乾いて痛い。寝汗をぐっしょりとかいていて、細かいことは忘れてしまったが悪い夢を見ていた事実だけは覚えていてうんざりする。マンションの一室で半身が溶けかかったじぶんの死骸を、こぶし大はあるデカいハエになって窓の外からながめている夢。ここ最近はほとんど毎日見る夢だった。内臓が腐るほど誰にも見つけてもらえないなんて、いくらなんでもあんまりだと思わないか。
そろそろエントランスの植栽を手入れしなくては。それから外壁の塗装も塗り替えどきだし、宅配ボックスの鍵の調子が悪いって連絡もあったっけ。入居者情報と紐づいた、管理人用の画面に記されたアラートをざっとチェックしてコーヒーをいれる。となり町で管理している物件もそろそろオーナーとの契約が切れるころだし、やることはいくらでもあった。
寝覚めが悪いということはうまく眠れていないということの証左なのか、このところ寝ても寝てものしかかるような眠気に襲われていた。インスタントコーヒーの粉末を、ひとさじ多めにすくいあげて湯に溶かす。日に日に濃くなるコーヒーの味を、もうおいしいとは思わなくなった。生活を維持する装置としての一杯。
ワンフロアに2世帯という仕組みのマンションは、最上階部分だけをペントハウス(といってもセレブのそれではなく、ほんのすこしばかり間取りが広いというだけの)に仕立てて、わたしはそこで生活を営んでいた。屋上があるわけでもないから開放感は大して得られなかったが、広く取った非常階段部分をバルコニー代わりにしてこっそり椅子なんか置いちゃったりして天気のいい朝の時間はここで過ごしている。この前は夜中にバスタオルを干していたのを4階の男の子に見られておかしな顔をされたけれども、ここはわたしのマンションなのだから多少のわがままは許してほしい。君がゴミの分別をまったくしないことをわたしは知っているが、今のところお咎めなしなのだから。
いつも頼んでいる剪定業者に、来週あたりに来て欲しいという旨の連絡を入れて、ぱたりとパソコンを閉じる。今日は久しぶりに実家に顔を出すことになっているのだ。
「それでね、三位一体サンドイッチっていうのを今度作ろうと思うの」
急に降り出した雨が、アスファルトを点描画のようにぽつぽつと濡らしはじめる。「に にこサン イ チ」と看板の塗装が剥げかかった小さな店のカウンターで『天界からのグッドバイブス&ヒーリングメッセージ』と書かれたクリーム色のパンフレットを嬉々として広げながら目の前の老婆、もといわたしの母親はそう言った。一見、J-WAVEの帯番組かと見紛うタイトルを冠したそのパンフレットには、悪名高きスピリチュアルビジネスの団体名が書かれている。わたしはいったん目を閉じて深く息を吐いた。雨が強まってきた。
表に出て、店頭に置かれた値下げ品のワゴンをがらごろと引っ張って店内にしまう。ファサードは退色が激しく、元の色が何だったかを正確には思い出せないほどだった。ここには本当は、「にこにこサンドイッチ」と書かれていたのだ。そしてここが、わたしの実家でもあった。
このあたりの有名な地主だった祖父が戦後に始めた数坪のサンドイッチ店は、全盛期をとうに過ぎて今ではほとんど絶滅危惧種のような存在感を放っていたけれど、この手の店の需要は意外となくならないようでなんとか存続できている。混乱期、焼け出された人々を笑顔にしたいという殊勝な思いで始めたという祖父のサンドイッチ店は、いわゆる小金持ちの道楽という立ち位置で、まあ正直なところ味は普通の域を出ないのだけれども、なんというかそこに宿る不思議な味わい深さというものはちゃんとあった。じぶんが子どもの頃から、ルーティンで毎朝たまごとツナを買いに来るおじいさんに、朝練前の高校生だとか、家族の分までまとめ買いしてくれるおばさんとか、こづかいを握りしめたチビちゃんまで、この街の人々の生活の一部として店は機能していた。テレビや雑誌の取材も何度か来たことがあるし、わたし自身、この店に多少愛着があった。数年前に祖父が他界してからは、二代目として後を継いだ母も創業時と変わらぬ思いと味を継承している──そう呑気に思っていたが、実はもう危ぶまれているのかもしれないと、わたしはここでようやくぴりっとした緊張感を覚えたのだった。
サンミイッタイサンドイッチ。妙に語呂が良いのが腹立たしい。ねえねえどう?と無邪気に尋ねる母の、直近の記憶よりも多くの皺が刻まれた顔から思わず目をそらして、さらに目をそらしていたはずのクリーム色のパンフレットを薄目でめくった。ここでいう三位一体というのは、キリストと親鸞とアッラーのことらしい。どういうことなんだよ。宗教戦争にしかならなそうな意味不明かつ危険な思想だったが、とりあえず黙って次の言葉を考える。実家にしばらく顔を出さないうちに、こんなものに足を突っ込んでいたとは迂闊だった。祖父の土地ではじめたマンション管理の仕事にかまけているうちに、すっかり忘れていたのだ。母は気立てが良く素直でそして、ひどく無知な人であるということを。
店の2階部分、久しぶりに帰った実家には透明な液体が入ったペットボトルが台所から居間にいたるまで大量に並べられていた。秘石のミネラルが入ったグッドバイブス・ウォーターなの。と屈託無く笑う母を無視して、半分ほど開いたボトルから一口手に取り舐めてみると妙な味がした。これでご飯を炊くととってもおいしいの、体の奥からパワーがみなぎってくるの、と母は言う。そうでしょうね、と思った。だってこの液体の味は明らかに、にがりである。豆腐作る時に使うやつ。「にがり 米」でちょっと検索すれば、マグネシウムたっぷりのふっくらご飯の炊き方というのがずらずら結果に表示される。ミネラルというところまではまあ合ってるし、母の課金対象がもっとわけのわからない変なサプリじゃなくてひとまず安心したけれども、500mlのにがりボトルで3000円もむしり取られているらしいとわかってまた腹立たしくなった。こんなの、店の数軒隣の豆腐屋の爺さんだって同じものをはるかに安い値段で仕入れてるぜと喉まで出かかる。なにがグッドバイブスウォーターだよ。
もう買わないで、とだけ釘を刺すと、わかっているのだかわかっていないのだか曖昧な返事だけが返ってくる。母がこういうものに手を出すのは、実際のところ初めてではなかった。父のギャンブル好きが度を越しはじめた時も、わたしが中学を不登校になった時も、祖父が床に臥した時も、母はいつでも何かに祈りを捧げていた。いったいどこから“そういう”話をもらってくるのか知らないが、とにかく水だとか壺だとかお札だとか石だとか、いいと言われたものを信じ切って考えなしに対価を支払ってしまうのだ。家が破産するような大きい額ではない。でも、しだいに家の中に増えてくる祈りの道具の存在に息苦しくなっていったのはわたしのほうで、懸命に祈ってばかりいる母から逃げるように不動産の管理業を引き受けたのだった。
今回の祈りの対象は母自身だった。結局、わたしにも言い出せなかった体調不安を抱えていたところに、たまたま店に来た客に弱みをつかれてグッドバイブスなんとかに入会してしまったというのが事の顛末で、三位一体サンドイッチを店に並べるまでもなく母は検査入院に入ることになった。よかった。いや、よくはないんだけど……。
検査入院自体は1週間と言われたが、その後もこまめな通院が必要になったとかで、「にこにこサンドイッチ」の休業は長引きそうだった。もし余裕がありそうだったら、少しお店、開けてくれないかなあ。と、ベッドの上でわたしの顔を見ずに母は小さくつぶやいた。それはわたしに対して発せられた、ほとんど初めてのお願いだった。いいよ。もちろん、できるよ。やるよ。
しばらくお休みします、の貼り紙には、うれしいことに常連客からのいくつかのメッセージがマジック書きで添えられていた。待ってるよだとか、むりしないでね、だとか。剥がす前にスマートフォンでぱちりと撮ったのを、母に送る。きっとよろこぶだろう。空気がこもって少しだけ蒸し暑い店の戸を開け放ち、レジの下にしまわれた手引き書のキャンパスノートをめくりながら厨房に立ってみる。使い込まれたノートは祖父の文字と母の文字が交互に記されていて、読むにつれ小さい頃に祖父のかたわらでお手伝いをしていた記憶がうっすらとよみがえってきた。過去の純然たる時間のなかに、わたしの幸福と呼べる素朴な瞬間が確かにあったような気がしてきた。そしてそれと同時に、何か複雑だった問題がわずかに氷解したような、わかる、という気持ちがやってきたのだった。
店のサンドイッチを作ること自体は経験があったし、何もかもまるっきり初めてのことではない。手伝っていたのと同じことを、ひとりでやるだけだ。今朝に合わせて届けてもらった仕入れの食パンにバターを薄く塗って、それからキュウリ、ハム。たまごのフィリング。いくつかの決められた手順をこなし、刃渡りの長いパン切り包丁で耳をそろりと落としてやれば、それなりにきれいなサンドイッチができあがった。これは、試作品。直角三角形の鋭角にかじりつけば、しっとりとやわらかいパンの食感とともに、ふうわりとバターの香りが鼻に抜ける。ぱりぱりのキュウリもちゃんとアクセントになっているし、ゆで卵をつぶしたフィリングに、レシピには書かれていなかったが試しにしのばせてみたからしマヨネーズもいい塩梅だ。うん、なんか、できる気がしてきた。
数日経てば、店番の代わりは自己評価としてはよく務まっているように思えた。ルーティンで毎朝たまごとツナを買いに来るおじいさんに、朝練前の高校生だとか、こづかいを握りしめたチビちゃんにてきぱきと白い三角形を手渡して、そして昼過ぎにはほとんど空になったショーケースに少しずつまた三角形を詰めて隙間を埋めていく作業は思いのほか充実感が得られるものだった。立ち仕事はきついけれど、問題なくやれる。人気メニューの売り上げ推移なんかをExcelにまとめてみちゃったりなんかして。
二代目を当然のように引き受けた母がいたせいか、じぶんが後を継ぐという発想はなかったけれども、このまま店を継いでもいいのかもしれないな。土地持ちといったって、さほど高くないこの地域の物件をいくら管理したところで到底暮らしていくには足りない。不労所得があっていいねと周りの人間は半分うらめしそうに言ってくるけれど、彼らの想像する不労所得とやらを手にするにはじぶんの置かれた環境など、どう考えてもほど遠いものだった。なんだ、いいじゃないか。人を笑顔にするサンドイッチ。ありがとう、と口々に言っては立ち去る客たちの姿は、神々しくさえ映った。お礼を言ってもらえる仕事って素敵なことだ。もともと飲食業には興味があったし、母の通院が落ち着いたら、店のことは切り出してみよう。
店に立ち始めて10日ほど過ぎたあたりで、せっせと米を炊くのに使いまくったおかげで実家の台所のにがりウォーターがなくなってきた。邪魔だったペットボトルを店先で資源ごみにまとめているところで、あら、と後ろから声を掛けられた。振り向くと見覚えのある顔だった。家族の分までまとめ買いしてくれるおばさんだ。たぶん、母と同じくらいの年齢だろう。名前は知らないが、彼女もまた常連客のひとりである。
お母さん大変でしょう、と言うおばさんに、でももうおふくろも無理がきかないと思うんで、継ごうかと思って、とへらへら世間話までする。おばさんはニコニコと効果音が付けられそうなくらい顔じゅうの皺を深くして笑った。殊勝な息子だと思ってくれればいい。まぁ〜そうなの、というおばさんの相槌に返すように、数種類のサンドイッチを包んではい、と手渡すのと同時に、お金とは別に薄い冊子のようなものがこちらにも手渡された。え、と見れば、それは『天界からのグッドバイブス&ヒーリングメッセージ』と書かれた、クリーム色の表紙のパンフレットだった。これお母さんに渡しておいて。しばらく忙しいかもしれないけど、こういう時ほど効くから。ネ。
ことの発端はおまえだったのか。パンフレットを凝視して思わず息を呑んだわたしの態度でおばさんは少し察したのか、人生ね、こういうのが必要なときもあるのよ。と続けた。そもそもお母さんがどんな病気か知ってんの。ずいぶん自由に暮らしてるみたいだけど、お母さんの苦労考えたことあるの。継ぐだなんて簡単に言うみたいだけど、本当にお店のこと考えた? と、なかば捲し立てるようにおばさんはなおも続ける。続けながら、おばさんはさきほど手渡した袋の中からたまごサンドをひとつ取り出し、あろうことかわたしの目の前でひとくちかじりついた。
「まあ、パンはいいにしても、具がいつものと違う感じがするよね。特にたまごが……ちょっと、ねえ。あたしおじいさんの頃から知ってるけど、これじゃまるっきり別物」
クチャクチャと口を動かしながら、おばさんはこれ捨てといて。と食べ終わったサンドイッチの包みを無造作にカウンターに置いて去っていった。
なんだったんだ。ただの一言も言い返すことができなかったその嵐のような来襲に、わたしは立ち尽くすことしかできなかった。
あやしいビジネスの勧誘はひとまずさておき、おばさんの言うことにショックを受けているじぶんを認めるとまたショックだった。見ないようにしていたことを、言い当てられたからだ。母の病気のことも、店のことも本当のところはよく知らない。知りたくもならない。
わたしには人のために何かをしたいという欲求が根本的に欠けていた。人を笑顔にしたいだとか、お礼を言ってもらえる仕事が素敵だとか、ちょっとした親切のたぐいまでも、それがじぶんの自然な感情の発露から生まれたことはおそらく一度もなかった。社会通念上良いとされていることをただなぞって真似をしているだけ。だからひとりきりのマンションの一室で死骸になったじぶんの姿が、容易に想像できてしまう。
薄々、いやずいぶん前からわかっていたことだったが、それをきっとあのおばさんは見透かしている。心底みじめな気持ちになった。目の前で口元を歪めて嗤うたった一人でさえ、言い返すこともサンドイッチがうまいと言わせることすらできないなんて。
たまごが……ちょっと、ねえ。
気落ちしたままマンションに帰ってきたあとも、コーヒーをいれて飲み干したあとも、不自然に歪んだ唇が脳裏にこびりついて離れない。もう夜中をとうに過ぎていたが、今度は眠れなくなって冷蔵庫をひっくり返して12個入りの真新しい卵のパックを取り出した。祖父のレシピを記したノートは手元にある。もう一度よく読んで、やってやる、と思った瞬間、手を滑らせてパックが丸ごと、がしょんと床に落ちた。
透明なパックにはみるみるうちに、割れた卵の殻と中身が混ざり合っていく。ワッと声を上げて、取り落とした卵を懸命に拾い集める。ずるずると黄身のはみでた粘性のそれは、雑巾で拭っても余計に染みが広がるだけのように思えたので、仕方なく手ですくいあげる。何度も、何度も、何度も。
床に這いつくばり、こうべを垂れて両の手を合わせるその様子は、滑稽な祈りの姿に見えたかもしれない。
・・・
遠くからサイレンが聞こえる。マンションの下が、なんだか騒がしかった。
(おわり)
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【お知らせ】
当連載を収録した書籍『お口に合いませんでした』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年10月29日(火)より発売いたします。
筆者について
イマジナリー文藝倶楽部「オルタナ旧市街」主宰。19年より、同名ネットプリントを不定期刊行中。自家本『一般』『ハーフ・フィクション』好評発売中。『代わりに読む人』『小説すばる』『文學界』等に寄稿。