お口に合いませんでした
第1回

ゴースト・レストラン

暮らし
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ふやけて崩れたハンバーガー、やる気のない食堂の冷たいからあげ、サービスエリアの伸びきったうどん……。おいしくなかった食事ほど、強く記憶に残っていることはありませんか。外食の「おいしい」が当たり前となった今、口に合わなかった食事の記憶から都市生活のままならなさを描く短編小説連載。

 すこしの残業を終えて自宅マンションへ帰りつくと、エレベーターのすぐ脇にある101号室の真ん前にぽつねんと薄茶色の紙袋が置かれているのが見えた。きっとフードデリバリーの置き配だろう。この部屋の住人はおおかたいつも似たような──わたしがちょうど帰宅するころの時間に──デリバリーを頼んでは玄関にしばらく放ったらかしにしているようで、エレベーターを待つあいだこの孤独な紙袋と出くわすのはすでに今週で2回目だった。またか。いや、エレベーターホールの脇に玄関があるということは、そこにいる他人の気配を察知して、鉢合わせるのを避けているのかもしれない。101号室の住人は、わたしが階上へ去るのをドアスコープから確認したら、きっと玄関の扉をすこしだけ開け、にゅっと腕1本だけを伸ばして紙袋を回収するのだろう。

 数世帯しか入居していないコンパクトなマンションということもあって、わたしたちはなるべく住人同士の個人情報を明かさず(今どきはどこもそうなのかもしれないが、ポストにも玄関にも表札すら下げないのだ。配達に来る業者にとってはまことに厄介極まりないとは思うのだけれど……)、なおかつ顔を合わせないように暮らすというのが暗黙の了解であった。引っ越してきたばかりのころ、ゴミ捨てで一緒になった隣の部屋の女におはようございますと挨拶をしたら無視されたことを思い出す。目も合わなかった。ふつう、人に声をかけられたら驚くにしろ訝しむにしろ多少なりとも身体が反応してしまうものだが、まるでわたしが存在していないかのごとき華麗なシカトのお作法であった。しばらく腑に落ちない気分だったのだが、ここで暮らすうち、あれは隣人が失礼だったのではなく、このマンションの不文律を解さないわたしへの洗礼だったのだと思うことにした。

 エレベーターに乗り込んでじぶんの部屋に入ったあと、ポストを開け忘れたことに気がつく。注文していた本が届いているはずなのだ。やれやれ再び階下へ戻ると、101号室の前にはまだデリバリーの紙袋が忘れ物のように鎮座していた。さっき見かけてからはゆうに30分ほど経過していたが、家主は一体いつ、このできたてとは到底言いがたい食事にありつくのだろう。可能な限り温かいものは温かいうち、冷たいものは冷たいうちに食べるのを是とするわたしにとっては、おーい、お夕飯が冷めてしまいますよとドアをノックしてお節介してやりたくもなったし、101号室に住む名も顔も知らないだれかの晩餐に、生活への諦めのような気配を感じずにはいられなかった。現代の哀愁はこういう光景に宿っている。

 そもそもよほど手が離せないだとか病気だとかの理由がないかぎり、食べ物を自宅まで運んでもらうというのはいかにも都市生活者のための贅沢なサーヴィスのように思えてならないのだが、もとをたどれば日本では昔から出前の文化が盛んだったわけだし、抵抗感を抱くほうが不自然なのかもしれない。なにしろ高度経済成長期のころは会社にもラーメンや蕎麦なんかの出前が手数料もなしで届くのは当然だったというのだから。それでも現在の、自転車なりバイクなりで運ばれてくるデリバリーの食事には、個人的にはなんだか「金を払って人に食べ物を運ばせている」という感じが強く、ちょっと申し訳ないような気分になるのだ。運んでくるのが飲食店の従業員ではなく、食事を運ぶためだけに介在するライダーだからというのもあるかもしれない。寿司屋の出前なんて、食べ終えたあとの寿司桶まで翌朝回収に来てくれるというのに、「わざわざ呼びつけて申し訳ない」などという気持ちはさほどわかない。ただし、この心境の違いにはじぶんでも不思議と説明がつかなかった。配達員が注文先の従業員でないのが理由であるなら、郵便だって宅配便だって同じことであるのに。

 まあ、そんな御託を並べていたわけでウーバーイーツやら出前館やらのフードデリバリーが流行してからもなんとなく利用する機会がなかったのだが、自宅マンションはコンビニもスーパーも徒歩5分圏内に存在しないという、東京都心における基準では陸の孤島のような場所なので、風邪をひいてどうにも調子の出なかったいつだかの晩に、ふと思い立って頼んでみたことがある。機会はなかったけれども前々から興味はあったのだ。体調不良というのは、はじめてのデリバリーにはうってつけの言い訳だ。アプリでちょこちょこと個人情報を入力し、カタログ状に提示されるバラエティに富んだフードのなかから食欲のそそるものを選んで決済。画面に表示された時間を超えることなくあっさりと到着した配達員がチャイムを鳴らす。こんなご時世に風邪をうつしたら悪いので、置き配でお願いしますと伝える。わたしはドアスコープをのぞきこんで配達員が立ち去るのを確認すると、玄関の扉をすこしだけ開け、にゅっと腕1本だけを伸ばしてビニール袋を回収した。もちろんまだ温かい。それでも地べたに置かれた一人分の食事というものは、どことなく寂しく見えた。

 注文したのは具だくさんが自慢のお野菜スープ専門店という、風邪っぴきにはおあつらえ向きの店であった。クラムチャウダーやミネストローネ、シチューなど商品の写真はどれも彩り豊かで、たいした食欲もなかったがそれだけはおいしそうに見えたのだ。チェーン店というわけではなさそうだったが、どこにでもありそうと言われたら頷けるような感じ。住所を見るとわりあい近所にあるみたいだったが、ふだん通らない道なので気がつかなかったようだ。ビニール袋から、野菜とソーセージの入ったホワイトシチュー&パンセットをそろりと取り出す。さて栄養を摂らねば。ファストフードやカップ麺を胃に流し込むより数百倍よい選択だろう。この時点で既に風邪に打ち勝ったような気で、こぼれないようしっかり包装されたパッケージを剥がすと「あったか~いスープでお腹もココロも満たしてくださいね♪」と書かれた手書きのメッセージカードまで添えられていた。なんとまあご丁寧なことである。顔の見えない客相手だからこその心配りということなのか。遠くの親戚より近くの他人。なんだ、フードデリバリーも思ったより寂しくはないのかもしれないな。

 ところがこの心温まるお気遣いとは裏腹に、意気揚々と口に運んだシチューの正体はひどいものだった。匙ですくうとシチューにしてはやけに粘度が高くねっとりとしていてこの時点で嫌な予感がしたのだが、なんだか独特の、冷えて固まった油のような、あるいは古びた冷凍庫の奥底のようなにおいもする。おそるおそる一口舐めてみると、一応ホワイトソースみたいな味はするものの、一応ホワイトソースみたいな味がするという事実以上の情報を受け取ることはできなかった。というか、「具だくさん」はどうした。容器をかきまわしても中から出てきたのは親指の先くらいのジャガイモが3つと、小指の爪ほどのブロッコリーの破片、かつてタマネギだったであろうものの残骸、それから申し訳程度に入れられたソーセージが1本。しかもこのソーセージが皮と中身の食感に差がない、パリッとしていないタイプなのであった(わたしはこれをハズレのソーセージと呼んでいる)。挙げ句の果てには底のほうに溶けきっていない調味料だか油脂だかのダマが貼り付いていたのだが、ただでさえ粘度の高いこの液体がより濃いめ固めアブラ多めになってしまうのでそれ以上かきまぜるのはやめた。なんだか熱が上がってきたようである。胃に何か入れねばと思って途中までは食べ進めたものの、完食することはあきらめて早々にシンクに流してしまった。ゴミをまとめている最中、あらためて添えられていたメッセージカードをよく見たら、手書きではなく手書き風フォントで印刷されたものだった。開けたときにはちょっとうれしかったはずなのに、今見るとあったかいスープがどうのという歌が少し前に流行った覚えがあるし、そこに乗っかって2秒で考えたような陳腐なメッセージが余計に腹立たしさを加速させてくる。化かされた。栄養を摂るどころか1500円もする得体の知れない優良誤認シチューを食わされる羽目になり、わたしは風邪をその後一週間ほど引きずることとなったというのがはじめてのフードデリバリー体験の顛末である。

 日ごろからこの類のサーヴィスを利用する人にとってはここまで読まずとも当然の常識なのだろうけれど、このときわたしはゴースト・レストランという存在のことを知らなかったのだ。いわゆるデリバリーに特化した事業形態のことで、厨房だけの設備をこしらえて、そこで作った料理を配達のドライバーが取りにくるという仕組みだ。デリバリーのアプリ上ではたしかに飲食店として登録されているけれど、客席はなく、料理人も顔を出す必要がない現代のゴースト。つまり最低限の経費でおてがるに飲食業を営むことができるというわけだ。このところずいぶん急増したそうだが、たとえば薄汚いアパートの一室でひとつの厨房がいくつもの飲食店の名を名乗るだとか、前述のような「専門店」を騙る店が跋扈しだしたとか、衛生的にも景表法的にもアウトな事業者が問題になったようで最近ではしっかり規制されているらしい。どうやらこのゴーストにわたしは一杯食わされたようだった。インターネットで検索してみると、「おいしいゴースト・レストランの見分け方」だとか「ゴースト・キッチンの怪しい実態に密着」などという、手慣れた都市生活者たちによるゴースト指南がたくさんヒットした。フードデリバリーひとつとっても、あらかじめ知識をたくわえていないと損をする時代なのだ。なんだかなあと思い、それからはよく知らない店のデリバリーを頼むのはやめてしまった。

 さて、食べ物の恨みは時間が経てばおおむね癒えてくるというもので、ひどいシチューのことなどすっかり忘れていたのだけれど、なんと後日、わたしはあのインチキ専門店の居場所をはからずも突き止めてしまったのだ。近所に新しいドラッグストアができたと聞いて家のまわりをうろついていたところ、いつもは通らない路地の一角に、自転車やバイクに乗った人たちが幾人かたむろしていた。なんだろう? そこがあたらしいドラッグストアなのかと思って立ち止まってみると、そこは小屋つきのこじんまりしたガレージのような場所で、小屋の正面には役所の深夜窓口みたいな小窓が設けられていた。遠くから様子をうかがっていると、なんと半開きになったシャッターから、「××番、お待たせしましたー」というマイク越しのくぐもった男の声とともに、にゅっと腕1本だけがビニール袋を携えて奥から伸びてきたではないか! じぶんの番号を呼ばれたライダーは、けだるげに立ち上がると腕の幽霊から品物を受け取り、じぶんの乗り物にまたがって颯爽と去っていった。しばらく眺めているうち、小窓の脇に掲げられたロゴマークに見覚えがあると思ったら、例のあのいまいましいシチューを注文した店と同じ住所だったというわけだ。ゴースト・レストランって、こういうところなのか……。レストランというよりは、なんだか無人の工場みたいだった。あの仄明るい小窓の向こうで、くず野菜を煮込んだり、手書き風のメッセージカードをせっせと量産している従業員がいるようには到底思えなかったのだ。それに、こちら側にたたずむライダーたちは誰一人として言葉を発さず、配達の品が出来上がるまで薄暗いガレージでぼうっと佇んでいる。小窓の奥の明るさと対比するような、かれらのダウナーな雰囲気もなんだか不気味だった。どちらがゴーストかと問われたら、答えに窮してしまうかもしれない。

 そんな奇妙な目撃譚から半年もしないうち、気まぐれにデリバリーアプリを開いてみると、もうあのスープ工場のデータはあとかたもなく消え去っていた。さすがにこの狭い町内ではやっていけなかったのだろうか。やっぱりもう一度確かめてみたい気になって出かけてみたのだけれど、困ったことにわたしはあの時に見かけたゴースト・レストランがいったいどこの路地にあったのかさっぱり忘れてしまっていて、ぐるぐると長いこと町内を回ったのだけれども、とうとうたどり着くことはできなかった。こんなに小さい町なのに。こうなると、わたしが本当にあの不気味なガレージを目撃したかどうかも怪しいものだ。二度も化かされたとなると、昔話に出てくるまぬけな町人にでもなったようで無性に可笑しくなった。煙のように現れては消え、都市をさまようレストラン。数百年後の子どもたちに読み聞かせたら、どこまで信じてくれるだろうか。

第2回につづく

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筆者について

イマジナリー文藝倶楽部「オルタナ旧市街」主宰。19年より、同名ネットプリントを不定期刊行中。自家本『一般』『ハーフ・フィクション』好評発売中。『代わりに読む人』『小説すばる』『文學界』等に寄稿。

  1. 第1回 : ゴースト・レストラン
  2. 第2回 : ユートピアの肉
  3. 第3回 : 愚者のためのクレープ
  4. 第4回 : 終末にはうってつけの食事
  5. 第5回 : メランコリック中華麺
  6. 第6回 : 町でいちばんのうどん屋
  7. 第7回 : 冷たいからあげの福音
  8. 第8回 : フライド(ポテト)と偏見
連載「お口に合いませんでした」
  1. 第1回 : ゴースト・レストラン
  2. 第2回 : ユートピアの肉
  3. 第3回 : 愚者のためのクレープ
  4. 第4回 : 終末にはうってつけの食事
  5. 第5回 : メランコリック中華麺
  6. 第6回 : 町でいちばんのうどん屋
  7. 第7回 : 冷たいからあげの福音
  8. 第8回 : フライド(ポテト)と偏見
  9. 連載「お口に合いませんでした」記事一覧
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