フェミニスト批評家・北村紗衣さんの新連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」を開始します。本連載では、映画を見る際に注目するとよいポイントを、北村さんがいままで見たことがなかった映画の感想を話しながら紹介していきます。
これまであまり見てこなかったジャンルの映画も、「なんかよかった」「つまんなかった」しか感想が思い浮かばない映画も、あるポイントに注目して見ると、これまでと違った感想が思いつくかもしれません。昔懐かしい映画から、聞いたことのない映画まで、北村さんの感想とポイントをお楽しみください。
本連載はテキストだけでなく、収録の様子を一部、YouTubeの太田出版チャンネルに公開していく予定です。記事におさめられていない話も含まれていますので、本記事とあわせてどうぞ!
こんにちは。シェイクスピアやフェミニスト批評の研究をしている北村紗衣です。本連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」では、映画を見る際に注目するとよいポイントを私が実際に映画の感想をお話しながら紹介していきます。
私はいまアイルランドのダブリンにいます。大学にはサバティカルといって、大学などに所属している研究者が一定期間、大学の仕事から離れて他の機関で研究をするという制度があります。2024年度はサバティカルを使って、主にダブリンで研究する予定のため、しばらくは日本で公開される映画を見ることができません。
これでは批評の勘が鈍ってしまうと思い、しばらくは昔の作品をレビューしようと考えていました。そこに太田出版の編集者から連載の提案があり、この「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」を始めることになりました。
この連載では、拙著『批評の教室』(筑摩書房)で編集協力をしてくださった元指導学生の飯島弘規さんと連載の担当編集に、私が見たことがない映画をお題として出していただきます。鑑賞後、飯島さんと感想を話し合ったものをもとに、テキストにして掲載します。さらに、収録の様子を部分的にYouTubeの太田出版チャンネルにも公開していきます。
映画を見終えた直後に感想を聞かれて「よかった」「つまらなかった」以外に具体的なことが思い浮かばず、印象に残ったシーンやセリフについて脈略なく話しながら考えた経験がおありだと思います。
そういうとき私は内心では焦りつつ、主人公の衣装だとか、トイレのシーンだとか、そういう比較的細かいポイントに注目した感想を思い付いたままに話して、この映画がなぜ面白かったのか、どんなところがダメだったのかが具体的になっていくのを待ち続けるようにしています。
この細かいポイントは、時間稼ぎとして使えるだけでなく、自分が考えていることを話しながらまとめるのにもけっこう役立ちます。しかも映画をより深く見ることができたり、新たな発見をしたり、人と違った面白い視点で感想を話すこともできるようになったりします。本連載ではこうしたポイントをできるだけたくさん紹介したいと思いますし、私も皆さんと一緒に、どんな映画にもすぐ対応できる力を鍛えていきたいと思っています。
なお本連載のタイトルには「感想」と「批評」の二つの言葉が使われています。私は感想を「思ったことをわりとランダムに、まとまっていない形で発してもよいもの」、批評を「ある程度まとまった形で作品を見て考えたことを発するもの」と考えています。もちろんこれは私が個人的に考えていることなので、そういうふうに分けていない人もいると思いますが。
批評の場合は、同じジャンルや周辺の映画をみたり、文献を読んだりして、事実誤認や解釈の誤りをチェックしないといけません。しかし感想の場合は、必ずしもその映画やジャンルについて詳しい必要はありません。気軽に話せる感想だからこそ面白いものが出てくるかもしれません。荒唐無稽な感想を人と話しているうちに、核心に迫るような読解に出会うこともあるでしょう。感想だからってバカにされる筋合いはないんですよ! あなたの感想は最高なんです!
それではさっそく第一回の感想を話していきましょう。今回いただいたお題はジャッキー・チェン主演の映画『ドランクモンキー 酔拳』(以下『酔拳』)です。
※あらすじ紹介および聞き手は飯島さん、その他は北村さんの発言になります。
『酔拳』あらすじ
ジャッキー演じるウォン・フェイフォンは、カンフー道場の名家に生まれ、腕も立つし、実はそこそこ正義感もあるが、どうしても悪戯と喧嘩を吹っかけずにはいられない不良青年。ある日、叔母と姪とは知らず二人に無礼を働き、さらに別の道場の子息でもある町の乱暴者をボコボコにしていたことが父親にバレてしまう。
フェイフォンの放蕩三昧を見かねた父親は、彼の肉体のみならず精神を鍛えさせるため、ソウ・ハッイー(ユエン・シャオティエン)なるカンフーマスターのもとへ預けることを決意する。厳しい修行に辟易してサボったり逃げ出したりするものの、なんとかこなしたフェイフォンだったが、それは究極の奥義「酔拳」を学ぶための第一歩に過ぎなかった……。
お酒の飲みすぎには要注意!
――北村先生はジャッキー・チェンが出演している映画をほとんど見たことがないとおっしゃっていましたがどうでしたか?
カンフー映画の伝統を知らないので『酔拳』にはわからないところがいっぱいありました。フェイフォンが師匠のソウに教わる「酔八仙(すいはっせん)」って、お酒を飲んでないといけない拳法なんですよね?
お酒が切れて手の震えが止まらなくなったソウが、フェイフォンに急いで酒を買ってこいって言うシーンがありましたよね。フェイフォンは修行をサボる絶好の機会を逃すものかと町でぶらぶらしていて全然帰ってこない。そうしているうちにソウのもとに刺客がやってきてやられそうになるじゃないですか。つまり酔八仙を使い続けるとアルコール依存症になって、お酒がないと戦えなくなっちゃうってことですよね? 違います?
アルコールや薬物を使ってブーストをかけること自体はよくあることだと思います。昔読んだものなのでどこまで確かなのかはわからないんですけど、覚えたての外国語はじゃっかん酔っている方が話せるという研究があるらしいです。一定以上を超えると、喋れなくなっちゃうみたいなんですけど。
コカインを摂取してハイになり、ウォール街で成り上がっていく『ウルフ・オブ・ウォールストリート』の主人公は次第に破滅に向かっていきました。『トレインスポッティング』でも、ハイになるドラッグを打って仕事の面接に行ったら、キマりすぎちゃって大失敗するシーンがあります。
『アナザーラウンド』も、ぱっとしない4人の高校教師が少量のお酒を飲んで常に酔った状態で授業をしたら生徒の受けがよくなって、いろんなことがいい方向に進んでいくのだけど、徐々にアルコールの摂取量が増えてそれぞれ窮地に立たされてしまうという話ですよね。
このように映画でもアルコールやドラッグを摂取してブーストをかけるものはたくさんあります。ただ、最終的には良くない方向に転がるようになっているんですよね。
じゃあ『酔拳』はどうかというと、ソウは「酔八仙は危険な拳法なんじゃ。用法用量をよく守らなくてはならないぞ」みたいなことを言いません。酔八仙は強力だけど危険な拳法でもあるという視点は最後まで出てこないんです。
つまり『酔拳』は、サブスタンス・アビューズというか、薬物使用に関してめちゃくちゃポジティブな描き方をしている映画なんですよね。『酔拳』は1978年に香港で公開された映画なので、時代性が反映されているのかもしれません。
あとこれは勘ですけど、東洋の映画ということも関係あるのかなとも思いました。東洋の文化だと、仙人みたいに隠棲している人たちがお酒を楽しんでいる様子を優雅に描くじゃないですか。アルコールを通してボーダーを越え、なんらかの境地に達するというのは東洋のほうが受け入れられやすいもののような気がするので、酔八仙は東洋的な考え方が反映されているのかなあと思いました。専門外なのでわからないんですが。
――『酔拳』から20年弱経った1994年に公開された『酔拳2』には複数のエンディングがあります。そのうちのひとつでは、アルコールを飲み続けることの弊害が描かれている。具体的には、敵を倒すために工業用のアルコールを飲んだフェイフォンが失明するんです。その後、様子がおかしくなったフェイフォンが出てくるエンディングもあるんですが、コミカルに描かれていて、いまみると問題だなと思いました。
そうなんですね。毒性のあるメタノールが飲用のアルコールに混ざって死者が出た事件があるので、それはそれでビビりますね。ちなみに私はいっさいアルコールが飲めないので、残念ながら酔拳は習得できません。まあ誰もできないと思うんですけど。
女性らしさで敵に勝て!
酔八仙は八人の仙人による型のことで、それぞれ酔っぱらってふらふらになりながら、飛んだり跳ねたりブレイクダンスのような動きをしたりしていました。それらのうちの八つ目の型である何仙姑(かせんこ)だけが女性の型になっていましたよね。しかも何仙姑は他の型と違い、自分が飲酒するのではなく相手に飲酒させるものをベースにした色っぽい型でした。なお藍采和(らんさいか)の性別には諸説あって女性とする伝承もあるようですが、この映画では何仙姑のような女性らしい型ではありませんでした。
何仙姑をケアする女性とみることも可能だとは思うのですが、私は美女のステレオタイプなんだろうなと思いました。現実の事件だと男性が女性にドラッグを盛ることのほうが多いと思うんですけど、スパイ映画や神話では女性が男性にお酒を飲ませて情報を引き出したりしますよね。まあ、『ハスラーズ』だと、女性が男性にアルコールやドラッグを飲ませて情報を引き出し、クレジットカードの不正利用をしていましたけど。
日本だったらヤマトタケルが女装してクマソの宴会に忍び込んで、酔ったクマソタケルの兄弟を倒す話がありますね。ああ、そうか。ヤマトタケルなんですね! フェイフォンは。いや、違うかもしれませんけど。
フェイフォンはお酒を飲むことでいろんなリミッターを外しているんだと思います。そんななか何仙姑だけは最後まで会得できない。ラストシーンで敵に追い詰められたときも、何仙姑を思い出せなくてピンチになっていました。しかもソウに泣きついたら、そんなにいきなり教えてって言われても……と言われちゃう。そのうえ、お前なりの何仙姑を作るんだと無茶ぶりをされ、一生懸命創意工夫して、しなやかでトリッキーな動きをする自分なりの何仙姑をものにしていました。
これってフェイフォンは、お酒をたくさん飲んで、窮地に陥って、いろんな負荷がかかってようやく、飲む人/飲ませる人やジェンダーの境界を越えられるくらいリミッターを外せたってことなんだと思います。そう考えると、この映画はアルコールとジェンダーのモチーフに繋がりがあるのかもしれないですね。
ただ、『酔拳』をそんな風に見るべき映画なのかどうかというと……。だって、楽しく笑えるアクション映画を普通こんな風に見ないと思うんですよ。「『酔拳』ってどんな映画ですか?」って聞かれたときに、さすがに「薬物摂取を通じて、ジェンダー境界を越える話です」と紹介してはいけないとは思います!
他にもわからなかったのが、ソウがパンツ一丁になったフェイフォンの太ももをまじまじと見つめて「脚が色っぽいのう」ってほめるシーンがありますよね。あれはなんなんですか!? カンフー映画ってみんなで足をほめあうシーンがあるものなんですかね?
隠棲している仙人が川で水くみだか洗濯だかをしている女性の足に見とれて失敗するみたいな笑い話が中国にあったと思うので、これはソウのホモセクシュアリティを表しているのだろうかとか、笑いのシーンなんだろうかとか考えていたんですけど……。女性らしい動きをする何仙姑を使わないと敵に勝てないって話に繋がるところでもあるので、どんなに強くても、足がきれいで色気がないと勝てないってことなんですかね?
西洋のアクション映画だと、女性性が必要とされる場合は男性主人公のサイドキックとして女性が外注されることが多い気がします。男性に女性らしさがないと敵に勝てないように作られている映画という意味で珍しいものだと思いました。
もうひとつジェンダー描写でいうと、序盤でフェイフォンがおばさんとその娘にセクハラしたらこっぴどく怒られるシーンがありますよね。ソウの下で修業するきっかけになったところです。でも、別のシーンで無銭飲食がバレたときは逃げ切れるじゃないですか。つまりこの映画は、セクハラはダメだけど、無銭飲食は許されるものとして描いているんですよね。
全般的に男性的な映画なのに、そういった点はバランスがとれているのかもしれないです。最初に活躍したおばさんが、最後は全然登場しないのは残念でしたけど。
ソウは良い先生?
――師匠であるソウとフェイフォンの関係性はどうでしたか? たまには遊びに行こうというフェイフォンの誘いにソウが応えているシーンは、『トップガン マーヴェリック』でマーヴェリックが選りすぐりの若手パイロットたちを砂浜で遊ばせるシーンを思い出しました。
私の授業って、私が一方的に学生に喋ってばかりなんですよね。飯島さんはもちろん知ってると思いますけど。レクリエーションを導入して息抜きしたりができていない。マーヴェリックを見習わないといけないなと思いました。
また『トップガン マーヴェリック』では、教員が目的とそのために何を達成すればいいのかをちゃんと若いパイロットたちに説明していました。ほとんどのパイロットが、なぜこれをやっていて、なにができるようになるのかを理解している。教育映画としてちゃんとしているんですよ。
話を『酔拳』に戻すと、ソウはおちょくりながらフェイフォンと戦いつつ、受け身が大事なんだと教えたり、指先でクルミを割らせたりとひたすら基礎をやらせていました。基礎の大切さはあらゆることに言えます。音楽もまずは音階の練習から始めると思います。音楽学校を舞台にした『セッション』もひたすら基礎連をさせていましたよね。教師が怒鳴りつけたり追い詰めたりする指導をしていたので、明らかにハラスメントだと思うんですが。
批評ももちろん基礎が大事です。作品をたくさん見て、周辺の作品を見て、文献を読んで、とにかく書いて……と数をこなさないといけません。途中で飽きちゃう人が多いんですけど。フェイフォンは厳しい修行から何度も逃げ出すけど、ソウは大事な基礎をひたすら叩き込んでいたわけです。
ただ、フェイフォンが逆さまに吊られた状態で桶から桶に水を移す修行をやらされているシーンは、ホロコーストを描いた映画『ベント/堕ちた饗宴』で、石を移動させて、それを同じ場所に戻す「仕事」をやらせていたシーンを思い出しました。
厳しい修行ってコンテクストによっては拷問と変わらないと思います。ソウは教え子との関係は悪くないのかもしれないけど、マーヴェリックと違って、なぜこの修行をするのかは説明していませんでしたし、先生としてはまだまだなのかもしれませんね。
厳しい修行で思い出したんですけど、「タイガー・マザー」っていう言葉があって、同じタイトルの本も出ているくらいなんですが、中国系アメリカ人の母親が子どもをひたすら管理するスパルタ教育術で子育てするっていうステレオタイプがあるんですよ。イギリスや、特にアメリカで顕著だと思うんですけど、白人の家庭より中国系や場合によってはアジア系の家庭のほうが、子どもに厳しい教育をしているというステレオタイプがあるようなんですね。もしかしたらカンフー映画の厳しい先生が、英語圏のステレオタイプに関係しているのかもとも思いました。
――カンフー映画は、いま見ると「体罰」と思われるシーンは多い気がします。例えば『少林寺三十六房』では、砂袋に頭突きをし続けるといった過酷な訓練をひたすらやらされていました。ジャッキー自身も、子どものころから京劇や中国武術を教わっていたので、『酔拳』での修行のシーンって、実際の現場の感じに近いのかもしれません。そういう意味では、自伝的映画と見ることもできる。ちなみに『酔拳』のユエン・ウーピン監督は、ソウを演じたユエン・シャオティエンの息子です。
父親にアルコール依存症の役をやらせているってことなんですね!
最初にお話しした通り、私はカンフー映画自体をほとんど見たことがないんです。今回『酔拳』を見て、少し前に見た『カンフー・パンダ』がいかに影響を受けているのかがよくわかりました。ジャッキーも声優として参加していますし。
あと戦いのシーンが面白かったですね。私は90年代くらいから映画を見始めたので、『マトリックス』みたいなスタイリッシュなアクションを見てきたんですね。『酔拳』の殺陣は、飛ぶようにして攻撃をかわしていました。いまみたいなスタイリッシュな感じではない。ああいうのは事前に振り付けを決めているからできることだと思うので、ダンスみたいで楽しかったです。
私は3月までヨガをやっていたんですけど、転がった状態から体幹を使って戻るという動きが全然できなくて、ずっとじたばたしていたんですよ。フェイフォンの動きを見ていると、体幹を鍛えたらこんなことができるんだ! と思いました。
他にも気になることはいろいろありますが、以上が『酔拳』を初めてみた私の感想です。
今回出てきたポイント
いくつかポイントが出てきたと思います。アルコールに注目してみると、この映画はサブスタンス・アビューズといいますか、飲酒に対して非常におおらかな描き方をしていました。いまだとそういう描かれ方はめったにしないと思うので、時代性を感じるところでした。薬物の助けで何らかの壁を越えるというのは、ちょっとサイケデリックな映画なのかもしれないと思います。
ジェンダーに注目すると、セクハラはダメだけど無銭飲食は許されていて、かつ女性らしさがないと敵に勝てないように作られていました。西洋のアクション映画だと、女性性が必要だとする映画は皆無ではありませんが、必要とされる場合も外注されることが多いと思います。男性の主人公がいて、サイドキックとして女性が登場する。全般的に男性的な映画なのに、そういった点はバランスがとれていることに気が付きました。
あとは師弟関係ですね。フェイフォンはソウに文脈によっては拷問に見えるような修行をさせられている。しかもなぜその修業をするのかは教えてくれない。ただ、修行の最中に一緒に遊びに行くレクリエーションをしているので、その点は教員として見習わないといけないと思いました。
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批評家としては、得意なジャンルについて書くのが一番安全で、不得意なジャンルのことを書いても大して面白くならないだろうなというのはあります。何度も言うように、私はジャッキー映画だけでなくカンフー映画をほとんど見てこなかったですし、ちゃんとした専門家がすでにいろいろお書きになっているじゃないですか。
これはカンフー映画にまったく詳しくない私が、『酔拳』を見た後に、アルコールや師弟関係といったポイントから感想を話してみたもので、間違っているところや不足もあると思いますし、批評という形にする場合は、他の作品を見たり文献にあたったりする必要があります。感想はアイディアの断片みたいなものなんですね。でも、その前の段階のものだからこそ、新しい面白さがもしかしたらあるのかもしれません。
この連載では今後も私が見たことがない映画を見て、苦労しながら感想を話しつつ、取り上げる作品だけでなく他の作品でも使えるポイントを紹介していきたいと思います。なお、私が見ていなさそうな映画でこれを取り上げてほしいというものがありましたら、#感想最高 をつけてX(旧・Twitter)などでリクエストしてください。
筆者について
きたむら・さえ 武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評。著書に『批評の教室――チョウのように読み、ハチのように書く』(筑摩書房、2021)など。2024年度はアイルランドのトリニティ・カレッジ・ダブリンにてサバティカル中。