コンドームをつけた上でセックスをすれば、妊娠の可能性は下げられる。ただ、射精する以上、その可能性はゼロとはならない。体内に精子が存在し続ければ、「予期せぬこと」が起こる可能性があり、それにより時に、他人の身体や人生までを大きく変えてしまうこともある。そのことを私は、決して望んでいない――そう考えて、パイプカット(精管結紮術)に臨むことになった評論家の荻上チキさん。しかしそこに至るの道のりは決して平坦ではなかったようで……?
男らしさ、孤独、性愛、セルフケア……中年男性として新たな親密圏とアイデンティティの構築に七転八倒する、新感覚の社会評論エッセイ連載がスタートです!
第7回は、パイプカットに対するFAQをチキさんの経験談も踏まえてご紹介します。
手術から、100日ほど経ったある日。一つの郵便物が届いた。中には、検査結果が記された紙が入っていた。それは、とても簡素なものであった。
「沈渣物においても、精子は認められません。」
ほかの説明はない。数値なども書かれていないし、解説書のようなものもない。
沈渣物。これはなんと読むのだろう。ググる。「ちんさぶつ」らしい。そして沈渣は、「液体の底に沈んだかす」のことらしい。
精液を遠心分離器にかけ、沈殿した成分。その中に、精子が観測されなかった。つまりミッションは達成。やった。あの病院に、二度行かなくて良いのだ!
いかん……。そちらの嬉しさの方が勝ってしまう。それは本題ではないはずだ。
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さて、この100日間は、パイプカットについてあれこれ調べる期間ともなった。日本において、SRHRには多くの改善余地があるが、パイプカットについての認知向上もまた、大きな課題である。
WHOの医療従事者向けガイドブックには、パイプカットの実行について、多くの前提がまとめられている。以下に、要旨を整理しておこう。
・妊娠可能性のある人の多くは、生殖可能期間が終わるよりもはるか前に、妊娠のための活動を制御するようになる。そのため、何年にもわたって、予期せぬ妊娠に対する効果的な防御が必要になる。
・パイプカットは、男性が責任をもって選択することのできる、数少ない避妊方法の一つである。その効果は非常に高く、持続的で、手術に伴うリスクも低いとされている。
・もう子どもを作らないと決めた場合、女性不妊手術とパイプカットという効果的な永久避妊法がある。カップルがどちらの方法も受け入れられるような場合、パイプカットの方が女性不妊手術よりも簡単で、安全で、手軽で、費用もかからない。そのため、より望ましい手段であると言える。しかし世界では、パイプカットよりも女性不妊手術の方が広く使われている。
・手術後も、男性の精巣は、精液を作り続ける。精管切除の有無にかかわらず、男性では通常、未使用の精子細胞は、体内に吸収される。手術後、精液を作る腺は、同じ量の精液を作り続ける。男性が射精するときの唯一の違いは、精液中に精子が含まれないことだ。
・パイプカットは、男性ホルモンの分泌に影響しない。男性らしさ、体の強さ、衝動、勃起、オーガズムなどの身体的特徴の変化を期待してはならない。予定外の妊娠の心配や、一時的な避妊具を使う心配がないため、精神的な変化は存在しうる。逆に、感情的な後悔を経験する男性もおり、常に推奨される選択肢というわけでもない。
・将来的に、後悔する可能性を最小限にするためには、適切なカウンセリングが欠かせない。パイプカットは、いくつかある家族計画法のひとつである。「パートナーを喜ばせる」「性的問題を解決する」といった期待をして選択するべきではないし、後で手術をして元に戻したいと考えている男性にも勧められない。
「子どもが欲しい」「子どもは欲しくない」という希望は、経済状況や身体の状態、そしてタイミングや運などによって左右される。個人の生活にとって、妊娠には偶発的要素が多く、「予期しなかったものの、歓迎する妊娠」「望んでいたものの、混乱する妊娠」「計画的に試みているが、達成しない妊娠」もある。
バースコントロールの知見や技術が向上したことで、妊娠については、計画的な要素が増した。それでも、妊娠や不妊を巡る悩みは尽きない。むしろ、計画ができる<にも関わらず>という、根深い葛藤が刺激される。存在するはずの不確実性が、今では個人の計画性の至らなさに帰属されている。
もちろん、不妊が個人の問題と捉えられることは、迷信の時代にも存在した。いまでは、様々な対処策が存在すること、それが社会的に知られていることが、戸惑いの種にもなっている。予期せぬ妊娠は、「ちゃんと計画的に避妊しなかった」ことの結果とされ、逆に不妊は、「計画的に妊活しなくてはならない」というプレッシャーにもなる。
「良い子を産みたい」という発想に限らず、「子を産める親でありたい」「子どもを産み育てる資格がない」といった判断にも、優生思想は忍び寄る。自分にだけ厳しい目を向けていると、主観的には思っていても、である。「自分自身への優生思想」は、じわりと思考を蝕んで、他者への言葉に紛れ込む。
パイプカットを含めて、子を産まぬ身体を選ぶのは、自分のためである。だが、個人の身体の問題であるはずなのに、子を設けないという選択は、何かしらの社会性を持ってしまう。だからこそ、懸命に「私の体は、私が決める」と押し返そうとする個々人の営みを、世界の医療者たちは尊重して欲しい。
さて、パイプカットであるが、とにかく世間の関心は低く、誤解も多い。
そのためであろうか。WHOの家族計画ハンドブックには、「バセクトミー(パイプカット)に関するQ&A」が書かれているが、「そんなことまで書くの?」というほど、細かいアンサーが並んでいる。
私も一人の経験者として、思うところはある。FAQの要旨をまとめつつ、n=1の感想と、いくつかの情報も加えておこうと思う。
Q.パイプカットによって男性の性的能力は失われるか?
A.失われない。パイプカット後の性器の見た目も感触も以前と変わらない。セックスも以前と同じようにすることができる。勃起は手術以前と同様の硬さで、持続時間、精液の射精も以前と同様である。仕事も以前と同じように頑張ることができ、パイプカットのせいで体重が増えることもない。
→そのとおりだった。 勃起や射精に関して、ことさら変化は感じていない。なお、もともとうつ病や投薬治療の影響もあり、性欲そのものが減衰しているため、仮に以前と比べて変化があってもいいや、という気持ちではあったのだが。
Q.パイプカットの痛みは長く続きますか?
A.手術後、陰嚢や睾丸に慢性的な痛みや不快感があり、それが1年から5年以上続くという男性もいる。数千人の男性を対象とした最も大規模な研究では、陰嚢や睾丸に手術で治療しなければならないほどの痛みがあると報告したのは、1%未満であった。パイプカット後の痛みがひどく、長く続くことはまれだが、パイプカットを検討しているすべての男性にこのリスクについて説明する必要がある。
→私の痛みは、数十日で落ち着いた。そのうち、管を結紮したことによる痛みは短期間で、多くは縫合がうまくいかなかったことによる痛みであった。
Q.パイプカット後に、別の避妊法を使用する必要はありますか?
A.最初の3ヶ月間、そうする必要がある。パートナーが何らかの避妊法を使用していた場合、その間はその避妊法を使用し続けられる。手術後の妊娠の原因のほとんどは、最初の3ヶ月間に別の避妊法を使用しなかったことによるものである。
→加えるならば、パイプカットをしたとしても、性感染症対策は必要となる。また、コンドームを使わず、膣内に射精すれば、のちに溢れ出てくる精液の処理が面倒になることもある。パイプカットしたからといって、いつでも「生」で自由に、というわけではない。
余談だが、コンドームを使わないセックスのことを「生」、外に出さないセックスのことを「中出し」というのは、一種のレトロニムである。携帯電話の登場によって、それまで使っていた電話のことを「家電(いえでん)」と呼ぶようになったように。レトロニムは、新しい技術や存在が生まれることで、もともとあったものがリネームされたものだ。
ピルを飲んでいたりミレーナを装着している場合でも、コンドームなしのセックスであれば「生」と呼ばれるこの風潮。「生」というレトロニムは、ペニスと精液を中心とした見方であると言える。
Q.パイプカットがうまくいっているかどうか調べることはできますか?
A.できる。精液サンプルにまだ精子が含まれているかどうかを、顕微鏡で調べることができる。精子が確認されなければ、パイプカットはうまくいっていると判断できる。精液検査は、手術後3ヵ月以降であれば、いつでも受けることを勧めるが、必須ではない。精液検査で動く精子が多く確認された場合は、予備の避妊方法の使用を継続し、精液分析のために毎月クリニックに来院する必要がある。精液に動く精子が含まれ続ける場合は再手術も検討すべきである。
→調べたところ、日本の多くの病院では、最初に提示される手術費用に、精液検査が含まれているところも多い。もちろん、パイプカットとは別に、精液検査を単独で行うこともできる。今では郵送などでも検査可能なため、便利である。
Q.パートナーが妊娠したらどうなりますか?
A.パイプカット手術を受けるすべての男性は、パイプカット手術が時に失敗し、その結果、パートナーが妊娠する可能性があることを知っておく必要がある。パートナーが妊娠した場合、不貞行為であると決めつけてはいけない。手術後3ヶ月の間に他の避妊法をきちんと使用したかを確認し、精液検査を受け、精子が見つかった場合、再度パイプカット手術を受ける。
→手術が失敗することは、稀にあるようだ。その確認のためにも、精液検査はした方がいいと思う。なお、手術後の妊娠は、その多くが3ヶ月以内の避妊を行わなかった場合であるとのこと。
Q.パイプカットは時間が経つと効かなくなりますか?
A.一般的にそれはない。パイプカット手術による効果は恒久的である。しかしごくまれに、精子を運ぶ管が再び成長し、パイプカットの再手術が必要になることもある。
→パイプカットは予期せぬ妊娠を防ぐための行為であるため、その後の妊娠は、術前以上に想定外となりそう。気になる人は、手術からしばらく経ってから、改めて精液検査をするのも良い。
合わせて、複数の人とセックスする可能性がある場合は、性感染症の検査もしておこう。性感染症検査も、いまは自宅で採血して郵送するという手段があるし。
なお、私は痛みが苦手である。以前、自分で採血を行うキットを使う時、血を出すために針を刺す勇気がなかなか出ず、涙目になったことがある。えいやと針をさしても浅かったりして、結局何度も刺す羽目になった。痛いのは嫌だ。
そんなこんなで、衛生面や確実性の観点からも、まずは医療機関を第一の選択肢にするのが良いと思う。何かあった時のことも考えて、最寄りの保健所や病院を調べておいても損はない。
Q.男性がパイプカット手術を受けるのと、女性が女性不妊手術を受けるのとでは、どちらがよいのでしょうか?
A.どちらの方法が良いかは、それぞれのカップルが自分たちで決めなければならない。どちらの方法も、それ以上子どもを望まないとわかっているカップルにとっては、非常に効果的で安全な、恒久的な方法といえる。理想的には、カップルが両方の方法を検討し、両方とも受け入れられるのであれば、パイプカットの方が女性不妊手術よりも簡単で、安全で、手軽で、 費用もかからないので、望ましいだろう。
→侵襲性の度合いを比べたら、男性が手術をしたほうが良いと、私も思う。また、射精をする身体を持つ者にとり、パイプカットの方が良いと思えるのは、セルフコントロールを確かなものにできる点だ。パートナーと別れたとしても、パイプカットの効能は続く。もし自分が手術をするのが嫌だと考えるなら、「なぜそれをパートナーになら要求できると考えるのか」という問いを深める必要がある。
Q.パイプカットは、後年、男性の癌や心臓病のリスクを高めるか?
A.いいえ、精管切除が睾丸のがん(精巣がん)や前立腺のがん(前立腺がん)、心臓病のリスクを増加させないことは、十分にデザインされた大規模な研究から証明されている。
→パイプカットを検討した際、予期せぬ疾病リスクを高めるのではないかという不安があったが、「そこまで強く気にしなくて良さそうだ」というところに落ち着いた。もちろん、身体にメスをいれ、パーツの形を変えるのだから、ある程度の負荷がかかるということは理解していこう。
Qパイプカットを受けた男性が、HIVを含む性感染症(STI)に感染したり、感染したりすることはありますか?
A.はい。パイプカットは、HIVを含む性感染症を予防するものではないため、パイプカットの有無にかかわらず、自分自身とパートナーを感染から守るためにコンドームを使用する必要がある。
→繰り返しになるが、パイプカットは避妊のための方法である。性感染症予防のためではない。パイプカットをする人が、性を無制限に謳歌できるわけではない。避妊の責任を果たしたとしても、性感染症対策の責任を果たすことは、また別だ。
Q.パイプカットについて男性が決めるとき、医療提供者はどのように助ければよいでしょうか?
A.パイプカットと他の家族計画法について、明確でバランスのとれた情報を提供し、男性が十分に考えて決断できるようにする。子どもを持つことや生殖能力を終わらせることについて、男性の気持ちを十分に話し合う。例えば、パートナーの変化や子どもの死など、起こりうる人生の変化について、男性がどのように感じるかを考える手助けをする。
→当たり前だが、医師はパイプカット前に、手術方法や検討すべきリスクを説明すべきだ。私はこのような説明を一切受けていない。「適切なカウンセリングをしてくれる医師か」というのもまた、重要な判断材料である。
手術できる病院が限られている以上、不穏な医師の元にも行列はできる。手術を検討している人は、ここに書かれた情報などを参考に、最低限の防衛はして欲しい。どうぞご安全に。
参照
World Health Organization. (1994): Vasectomy What health workers need to know. Family Planning and Population Division of Family Health World Health Organization.
World Health Organization. (2018). Family planning: a global handbook for providers: evidence-based guidance developed through worldwide collaboration, 3rd ed. World Health Organization.
Savage, J., Manka, M., Rindels, T., Alom, M., Sharma, K. L., & Trost, L. (2020). Reinforcing vasal suture technique improves sperm concentration and pregnancy rates in men undergoing vasovasostomy for vasectomy reversal. Translational Andrology and Urology, 9(1), 73.
https://doi.org/10.21037%2Ftau.2019.09.41Fantus, R. J., & Halpern, J. A. (2021). Vasovasostomy and vasoepididymostomy: indications, operative technique, and outcomes. Fertility and Sterility, 115(6), 1384-1392.
次回の更新は、2025年1月7日(火)17時を予定しています。みなさん、セーフセックスでよいお年を!
筆者について
おぎうえ・ちき 1981年、兵庫県生まれ。評論家。「荻上チキ・Session」(TBSラジオ)メインパーソナリティ。著書に『災害支援手帖』(木楽舎)、『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書)、『宗教2世』(編著、太田出版)、『もう一人、誰かを好きになったとき:ポリアモリーのリアル』(新潮社)など多数。