飯島愛のいた時代
第8回

自衛隊との「共演」、そして「テレビCM」へ

飯島愛のいた時代

『日本エロ本全史』『日本AV全史』など、この国の近現代史の重要な裏面を追った著書を多く持つアダルトメディア研究家・安田理央による最新連載。前世紀最後のディケイド:90年代、それは以前の80年代とも、また以後到来した21世紀とも明らかに何かが異なる時代。その真っ只中で突如「飯島愛」という名と共に現れ、当時の人々から圧倒的な支持を得ながら、21世紀になってほどなく世を去ったひとりの女性がいた。そんな彼女と、彼女が生きた時代に何が起きていたのか。彼女の衝撃的な登場から30年以上を経た今、安田理央が丹念に辿っていきます。(毎月第1、3月曜日配信予定)
※本連載では過去文献からの引用箇所に一部、現在では不適切と思われる表現も含みますが、当時の状況を歴史的に記録・検証するという目的から、初出当時のまま掲載しています。

おなじみTバックアイドルの飯島愛ちゃんである。が、場所がおかしい。ミスマッチだ。そう、ここはなんと、富士山麓にある陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地なのである。
滝ヶ原駐屯地では、普通科教導連隊、第110施設大隊など9部隊1400名が日夜、訓練に励んでいる。なぜ、アイちゃんがこんな男のニオイでいっぱいの(婦人自衛官もいるが)場所に現れたのか。
実はこれ、セクシーアイドルから今度は歌手にも進出した飯島愛ちゃんのデビューシングル『ナイショ DE アイ アイ』(7月21日発売)のプロモーションビデオ(非売品)の撮影現場なのである。いままで誰もやったことのない奇抜な場所で撮影しようと考えたフタッフが自衛隊の基地に目をつけ、駄目で元々で防衛庁に掛け合ったところ、意外とすんなり許可が出て実現してしまったのである。
(中略)当日午前10時、Tバックにカリブ風衣装をまとった愛ちゃんは、まず装甲車整備工場へ。まるで隅田川に派手な熱帯魚が迷い込んだようだ。隊員たちが食い入るように見つめるなか、同じくTバック姿の少女たちとダンスシーンを収録。手の空いていた隊員や東京の会社から3泊4日の体験入隊に来ていた人たちが、エキストラ出演の光栄に浴したのであった。(『週刊ポスト』 1993年7月2日号)

この記事にも書かれているように、1993年7月21日にBMGビクターから発売された飯島愛のデビューシングル『ナイショ DE アイ アイ』のプロモーションビデオは、自衛隊の協力のもと、陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地で撮影された。
70年代ディスコ調ナンバーに乗せて、カリブ風衣装&Tバックや、迷彩服姿の飯島愛が歌い踊る映像は、確かにインパクトがあった。
『週刊ポスト』の記事によれば以前、C.C.ガールズが戦車の砲身にまたがった写真を広報誌に掲載した時は幹部から顰蹙をかったそうだが、なぜか今回はOKが出た。

なんとも寛容な時代だったと言えよう。もうひとつ、このプロモーションビデオで現在では考えられない演出が、飯島愛のバックダンサーに起用された小学生女子たちだ。主役の飯島愛同様、ミニスカートは履いているものの、ビキニにTバックという姿なのだ。
当時、飯島愛は彼女たちを引き連れてテレビ番組でも同曲を披露している。1989年の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件に端を発する「ロリコン弾圧」以降の時期ではあったが、世間的にはまだまだ少女の性的消費に対する意識は緩かったのである。

ちなみに、この『ナイショ DE アイ アイ』のプロモーションビデオを見て、とんでもないアイディアを思いついたのが、90年代に鬼才AV監督と呼ばれたバクシーシ山下だった。
それは自衛隊駐屯地でAVを撮影しようというものだった。自衛隊員向けのイベントで彼らがAV女優を出演させたショーを行うという形でそれは実現した。AV女優に仕込んだワイヤレスバイブを自衛隊員に操作させるというものだったらしい。その様子と、応募してきた自衛隊員を男優に起用したカラミを収録し、異色のAV『戦車とAVギャル』は完成した。

しかし、撮影許可を出していたはずの自衛隊は後日それを否定。『戦車とAVギャル』は結局オクラ入りとなってしまった。
考えてみれば、許可が出る方がおかしいというような事案ではあるが、そんなことが実現しそうになりかねないのが90年代という時代だったのだ。

話を『ナイショ DE アイ アイ』に戻そう。バブルガム・ブラザーズのブラザー・コーンの作詞作曲によるこの曲は、間奏部に「いつもと違うチョットHな夜にしたいの 胸のボタンはあなたがはずして」というセクシーなセリフが入るものの、全体としては正統派のアイドル歌謡であり、ことさら性的イメージを強調したものではない。

同年に同じく『ギルガメッシュないと』に裸エプロン姿で出演して人気を集めていたAV女優の憂木瞳がイジリー岡田とのデュエットでリリースした『マンゴ・ナタデ・ココ』(ポニーキャニオン)の、あからさまなお色気歌謡感(振り付けでは、タイトルにもなっているサビの歌詞に合わせて股間を撫でる)と比べるとそれは明らかだ。
自衛隊での撮影やTバック小学生ダンサー、さらにCDに飯島愛が実際に着用したパンティを細かく裁断した生地をオマケとしてつける、などのインパクト重視のPR戦略に比べると拍子抜けするほど「普通」なのだ。

拡大する音楽活動

『ナイショ DE アイ アイ』はオリコン87位というそこそこのヒットを記録。続いて11月には『“愛”のクリスマス・メモリー』、そして12月には飯島愛のおしゃべりなども収録されたクリスマス向けの企画色の強いアルバム『なんてったって飯島愛』も発売される。

翌1994年の2月に発売されたサードシングル『あの娘はハデ好き』(アルバム『なんてったって飯島愛』からのシングルカット)では本人が作詞を手掛けている。
「あの娘はハデ好き 青山のマンション だけど日曜日の午後 電話が止まった」「『遊びだけならば都合がいいけど恋人には出来ない』 彼氏が笑った」など、自虐的とも言える辛辣でシニカルな歌詞は、前2作の差し障りのないアイドル歌謡的な路線から大幅にはみ出していて、かなり面白い。

5月には、ある意味で最も有名な飯島愛の楽曲とも言える『まんがらりん』がリリース。白夜書房系列の漫画専門店「まんがの森」のCMソングである。
飯島愛が、セーラームーンを意識したと思われるツインテールの髪型と露出度の高いコスプレ姿で、「まんがらりんたら おもしろりん いっぱいありらんたら きてみろりん」と、コミカルでシュールな歌詞の曲を歌い踊る姿は、極めてインパクトが高く、今なお印象的なCMとして語り注がれている。

00年代以降に流行する電波ソングの先駆けとも言えるこの曲の作詞はコピーライターの梅田彰宏、そして作曲は巨匠・小林亜星である。
この「まんがの森」CMが注目されたのは、曲やビジュアルの面白さもさることながら、あの飯島愛が、ついにテレビCMにまで進出したという驚きもあった。

この年の10月にリリースされた『Dear 女子高生』が歌手・飯島愛としては最後のシングルとなる。作詞は飯島愛と、作曲も手掛けた水野有平との共作で、彼氏が女子高生の若さに目を奪われるのではないかと心配するという内容で、『あの娘はハデ好き』から引き続いて等身大のスタンスから書かれているのがユニークだ。

森高千里にも通じるような独特の視点を持った感性に作詞の才能も感じるのだが、飯島愛の音楽活動はここで途絶えてしまう。
中学生からディスコに入り浸り、NYのクラブでも踊りまくった飯島愛にとっては、自分に与えられた楽曲は好きになれなかったのかもしれない。

『プラトニック・セックス』には、お気に入りのアーティストとして、コクトー・ツインズの名前が挙げられる下りがある。
コクトー・ツインズは80年代から90年代に活動したイギリスのバンドで、「神憑り」とも称される女性ボーカリストのエリザベス・フレイザーの個性的な歌声を中心にした幻想的なサウンドで知られている。
飯島愛のパブリックイメージとは、全く正反対のこのバンドを愛聴していたとすれば、やはり本人にとっては、芸能的に押し付けられた音楽活動は熱が入らなかったのも仕方なかっただろう。

ちなみに、飯島愛の死後の2014年に、突然『RE:BORN featuring Ai iijima』(アットレコーズ)なるCDが発売されている。老舗AVメーカー、VIPの企画で、EDMに出演AVからの飯島愛の声をサンプリングしたというものだ。もしかしたら、飯島愛本人はこちらのサウンドの方が自分の歌唱作よりも気に入ったかもしれない。

『RE:BORN featuring Ai iijima』(アットレコーズ)

「飯島愛はなぜか女のコに人気がある」

さて『ナイショ DE アイ アイ』でCDデビューを果たした1993年7月は、飯島愛としての最後のAV出演作となる『ラストTバック』(コンフィデンス)も発売されている。AV女優・飯島愛から、タレント・飯島愛へと本格的に移行した時期ということだ。

フリーライター対馬正晃による『アサヒ芸能』の連載「『時代の顔』を気鋭が抉る!」の第8回(1993年10月21日号)に飯島愛が登場しているが、その中で彼女の女性人気に触れたくだりがある。

この夏、飯島愛の所属するプロダクション「オフィス・レオ」では、新しいスターを発掘することを目的に全国各地でミス・コンテストを催した。その司会役兼ゲストとして飯島愛がすべての会場に登場したのだが、おもしろいのはコンテスト参加者たち。
飯島のマネジャー(原文ママ)の北沢進也氏が苦笑いしながら話す。
「別にセクシー・アイドルを選ぶコンテストじゃなかったのに、ほとんどTバックでセクシーさをアピールする女のコたちが集まってしまったんです」
つまり、飯島愛のコピーないしはコピーミスが殺到したというわけ。
飯島愛はなぜか女のコたちに人気がある。一時期はファンレターの半数が女からのもので、なかには小学生の女の子から、「愛ちゃん、かわいい!」という手紙も来るという。
ディスコでのイベントのときは、プロレス会場並みにガードをつけて観衆をかきわけて進まないとステージに上がれない状態になる。
「女のコが飯島に抱きついて、キスしまくる、なんてころもあるんです」(北沢氏)

この記事と同じ月の『女性自身』10月5日号の「家田荘子の『私にだけ聞かせて!』」での家田荘子との対談では、飯島愛のファッションを真似た女の子が増えていると家田荘子が指摘している。

家田 六本木でも渋谷でも、愛さんそっくりな髪型して、真似しているコがいっぱいね。
飯島 ストレート・ヘアで、茶色に染めて、日焼けしてっていうのは、遊んでる夜のコたちの〝お約束ごと〟ですから。それは昔からで、今までそういうコがテレビに出なかったから、私のイメージになってるのかもしれないけど、私も先輩のお姉さんたちに憧れて、真似したんですよ。テレビに出るって、清潔感があって、色が白くて清楚な感じのコばっかりだったでしょう。
家田 それはそうね。
飯島 本当は私だって怒られてきたんですよ。「日焼けするな、頭も染めるな」って。どうしても芸能界に残りたいっ思っていたら(原文ママ)、そうしたでしょうけど、私は好き勝手にしてました。頭黒くして顔白くしてディスコに行ってもいい男にナンパされないもん、みたいなノリで(笑)」

それまでテレビでは、そして芸能界ではご法度だったという、飯島愛のファッションが、若い女性の間で支持されつつあったのだ。
それはやがて、社会的なムーブメントとなり、飯島愛はその最初のシンボルとして祭り上げられることになっていく。

筆者について

安田理央

やすだ・りお 。1967年埼玉県生まれ。ライター、アダルトメディア研究家。美学校考現学研究室卒。主にアダルト産業をテーマに執筆。特にエロとデジタルメディアの関わりや、アダルトメディアの歴史の研究をライフワークとしている。 AV監督やカメラマン、漫画原作者、イベント司会者などとしても活動。主な著書に『痴女の誕生―アダルトメディアは女性をどう描いてきたのか』『巨乳の誕 生―大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか』、『日本エロ本全史』 (以上、太田出版)、『AV女優、のち』(KADOKAWA)、『ヘアヌードの誕生 芸術と猥褻のはざまで陰毛は揺れる』(イーストプレス)、『日本AV全史』(ケンエレブックス)、『エロメディア大全』(三才ブックス)などがある。

  1. 第0回 : はじめにー90年代に何が起きていたか
  2. 第1回 : “ノスタルジックで清楚な美少女”ー初期の飯島愛
  3. 第2回 : 1992年は飯島愛の年だった
  4. 第3回 : ランキングから消える飯島愛の「変化」
  5. 第4回 : 「AV業界」との複雑な関係
  6. 第5回 : 『ギルガメッシュないと』が生んだスター
  7. 第6回 : 期待される「キャラ」と「役割」
  8. 第7回 : 「ライバル」たち、そして東大五月祭事件
  9. 第8回 : 自衛隊との「共演」、そして「テレビCM」へ
連載「飯島愛のいた時代」
  1. 第0回 : はじめにー90年代に何が起きていたか
  2. 第1回 : “ノスタルジックで清楚な美少女”ー初期の飯島愛
  3. 第2回 : 1992年は飯島愛の年だった
  4. 第3回 : ランキングから消える飯島愛の「変化」
  5. 第4回 : 「AV業界」との複雑な関係
  6. 第5回 : 『ギルガメッシュないと』が生んだスター
  7. 第6回 : 期待される「キャラ」と「役割」
  8. 第7回 : 「ライバル」たち、そして東大五月祭事件
  9. 第8回 : 自衛隊との「共演」、そして「テレビCM」へ
  10. 連載「飯島愛のいた時代」記事一覧
関連商品