フェミニスト批評家の北村紗衣さんが、初めて見た映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載「あなたの感想って最高ですよね! 遊びながらやる映画批評」。聞き手を務めるのは、北村さんの元指導学生である飯島弘規さん(と担当編集)です。
連載の中で紹介されていくポイントを押さえていけば、いままでとは違った視点から映画を楽しんだり、面白い感想を話せたりするようになるかもしれません。なお、北村さんは「思ったことをわりとランダムに、まとまっていない形で発してもよいもの」が感想で、「ある程度まとまった形で作品を見て考えたことを発するもの」が批評だとお考えとのこと。本連載はそのうちの感想を述べていく、というものです。
第八回でご覧いただいたのは、高畑勲監督の『平成狸合戦ぽんぽこ』です。
※あらすじ紹介および聞き手は飯島さん(と担当編集)、その他は北村さんの発言になります。
あらすじ
多摩丘陵でひっそりと暮らしていた狸たちは、ある日、自分たちの住む森がニュータウン建設のために伐採され、通称「のっぺら丘」と化してしまっていたことを知る。このままでは住処を失うと危機感を募らせた彼らは、先祖から伝わる変身術「化学(ばけがく)」を復興させ、また、日本各地の長老たちにも協力を仰ぎ、人間への抵抗運動を開始する。そして、穏健派と過激派の内乱を経ながらも、人間たちを恐怖に震え上がらせるべく「妖怪大作戦」を決行するが、事態は思わぬ方向へと転がっていく……。
エコテロリズム映画『平成狸合戦ぽんぽこ』
――はじめてご覧になった『平成狸合戦ぽんぽこ』(以下、『ぽんぽこ』)はどうでしたか?
北村 けっこうおもしろかったです。子供が見られる家族映画にしては尖った話だと思いました。開発に抵抗するための最初の作戦で人間が死ぬじゃないですか。子供向けの映画だと、ぼかして描いたり、死にそうでも死ななかったりするので、「やるなー!」って思いました。
死者が出たことについて「こういうことを続けて大丈夫なのか」って狸たちが話し合いますよね。過激な実力行使の是非で意見が分かれるのは、マルコムXとキング牧師みたいに公民権運動でも見られたものですし、女性参政権運動でも、成田闘争や学生闘争でも、あらゆる政治運動で起きていた対立だと思います。『ぽんぽこ』はそういった様々な運動を参考にしているんじゃないでしょうか。こういう視点で作品を語る人はけっこういるだろうと思いました。
それから、この映画は全体的に、山を切り崩して開発を進めることに批判的ですよね。でも、狸たちは開発を止められないし手法としては効果が少ないことが多いじゃないですか。最後には自分たちの存在を人間たちに明らかにして取材を受けたりもしているけど、それでどうにかなったわけでもない。狸たちが運動していたことすら歴史に刻まれていなくて……とても悲しい話ですよね。
――狸たちが妖怪などに化けてニュータウンを襲う妖怪大作戦「百鬼夜行」が大失敗に終わった後、意気消沈した長老の太三朗禿狸が一日中踊りながら念仏を唱える踊念仏をはじめ、しまいには一部の狸たちと船に乗って、どんぶらこどんぶらこと空に消えて行っちゃうじゃないですか。子供の頃はよくわからなかったんですけど、あれって集団自決ですよね?
北村 そうですね。子供が怖がらないようにしていますけど、ずいぶん尖っていますよね。学生運動で敗れたあとに、そういった宗教にハマった人がいるんですかね? そういうことがあってもおかしくないだろうなと思います。
――あと強硬手段を主張する権太に対立していた青左衛門さんが、開発を止めることを諦めた狸たちが最後に行った、かつての多摩を変化(へんげ)で再現する作戦に参加していなくて、しかも最終的には不動産屋で人間として働いているシーンで終わるじゃないですか。そんなひどい話があるかって本当に後味が悪かったです。
北村 かつて抵抗していた側になっているんですもんね。
『ぽんぽこ』はある種のエコテロリズムをかなり早い時期に描いた映画なんだろうなと思いました。ジブリはエコロジーにはずっと関心を持っていたと思いますし、ジブリになる前の『風の谷のナウシカ』(1984年)から『ぽんぽこ』の後の『もののけ姫』(1997年)までずっと自然が逆襲してくるみたいな発想はあるんですけど、この映画の狸たちの序盤の戦略はけっこう過激ですよね。開発を止めるための活動をして人が死ぬわけですから。
『アナと雪の女王2』(2019年)も似たようなテーマを扱ってますが、自分探しの話だったアナ雪シリーズと、住処が奪われてエコテロリズムを始める『ぽんぽこ』とは切実さがぜんぜん違いますよね。
一方でこれが狸のしわざだということがあまりきちんと理解されていないふしがあり、その点では恐怖で人を動かして何かをやめさせる、実効性のある厳密な意味でのテロリズムとして機能していないというのもちょっとひねったところですね。
アニメなら睾丸を描ける
――この連載でははじめてアニメ映画を観ていただきましたが、映像表現として面白いところはありましたか?
北村 私のアニメの評価の仕方ってたぶんちょっと変で、人間ができないような動きをおもしろおかしく描いているものが好きなんですよね。
『ぽんぽこ』だと、酷い下ネタシーンではありますけど、睾丸をめちゃくちゃ広げて絨毯みたいにするところとかが面白かったです。どう考えても実写映画でやったらグロくなると思うんですけど、アニメだといやらしい感じもなく楽しく見れるじゃないですか。
――実写版『ライオン・キング』(2019年)だと睾丸が消されていましたね。『ぽんぽこ』も、スパイク・リーが実写にしてくれないかなあと思いました。
北村 いやあ、気持ち悪いと思いますよ……。きっとリー特有のフローティングショットで睾丸を広げながらフワーっと浮いたりするんですよね……。
百鬼夜行の描写も面白かったです。今回の候補作のひとつであった『パプリカ』(2006年)にも、いろんな変化が出てくる悪夢のシーンがあって、ちょっと考えたんですけど、妖怪みたいな変なものがいっぱい出てきて、しかもそれぞれが少しずつ違った動きをしているシーンって、日本のアニメの技術の見せ所なのかなと思いました。海外でもゾンビがどわーっと襲ってくるシーンとかはありますけど、多様なモンスターがごちゃごちゃと出てくる映画ってぱっとは思い浮かばなかったんです。なくはないと思いますけれども。
それから狸たちは百鬼夜行で、浮世絵のような伝統的なもの以外にも、たぶんテレビで見たものを参考にしたのであろう現代的な要素を付け加えていました。百鬼夜行のあとに、テーマパークの社長が「あれはプロモーションとしてやった」と嘘を言い出すわけですが、そのくらい現代化された「化けショー」になっている。そのあたりのバランスも面白いと思いました。ただ、怖くないし、あれを見ても開発をやめようとは思わないですよね。狸たちの発想が人間とは違うということが問題なんですね、きっと。
――正吉が「もっと人間のことを学んだ方が良い」って言うのは、ある意味合っているんですね。
北村 そう思います。
余談ですが、良識のあることを言う正吉の声優を野々村真が務めているのが面白かったです。いま野々村真のイメージってどういうものかわからないですけど、私が小さい頃って、クイズ番組でなんとなくズレたことをずっと言っている人という感じだったんですよ。
最初の話につなげると、狸たちは一生懸命に運動をするんだけど、面白がられるだけで成果にはほとんどつながらないのって、もしかしたらアニメーションを作っている人たちが感じていることなのかも、と思ったんですよ。
つまり長い年月をかけて習得した技術を画面に注ぎ込んでも「子ども向けだ」ってバカにされてしまったり、ヒットしたとしても一過性のものとして扱われて芸術として高い評価が得られなかったりするというようなことがアニメにはあると思うんです。
1990年代はかなりジブリアニメなどが力を得ていましたが、それ以前は軽視されることもあったと思うし、実写映画と別のものとして扱われることも多かったですよね。たとえば『もののけ姫』(1997年)より前は日本アカデミー賞でアニメ映画が作品賞をとったことはなかったんですよ。
一方であまりにもアーティスティックなアニメを作るとお客さんのウケが悪くて届けたいところに届かなかったりするわけで、作りたいものを楽しく作っても成果があがらないこともあるわけですよね。しかも、当時はどうだったかわからないですが、いまってアニメーターの給料が低くて、労働環境もよくないことが問題になっていますよね。アニメーターや芸術家が感じていることが、狸たちの運動に重ねられているんじゃないですかね。
――『ぽんぽこ』をアニメ論として考えたことがなかったです。
北村 もちろん、私もアニメ論が主題の映画だとは思わないんですけどね。なんとなくアニメを作るアーティストの気持ちがにじみ出ている気がするというか……。
いまお話しながら考えたんですけど、百鬼夜行に失敗した後にかつての多摩を再現して終わるのも「誰も楽しんでくれなくてもいい。もう自分のためにアニメを作るんだ!」みたいな態度を示しているのかもしれませんね。
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』(2013年)って「自分のためにアニメを作る」みたいな映画だと私は思ったんです。ものすごいお金がかかっていて、びっくりするくらい技術の高いアニメーションでした。かなり面白かったです。ただ一般受けはしないものだと思うんですよね。
睾丸に頼りすぎて、メス狸が少なくなってる
――ジェンダー描写などはどうでしたか? 狸たちが人間などに変化する「化学」は、睾丸を持っているほうが圧倒的に有利だとされていました。
北村 子育てをしているメスの狸は子育てが終わってから化学を習いにいっていましたけど、調べてみたら狸ってオスも子育てに参加するらしいので、メスもオスも子育てをしながら、空き時間に化学を習う方が正しいんじゃないかなと思いましたね。すべての種類の狸がオスも子育てに参加するのかは知らないんですけど。
睾丸がやたらジョークみたいに描かれているところはクィアっぽいのかなとも思ったんですけど、これ海外の方にはわけがわからないですよね。日本だと多くの人が、狸が睾丸を使って化けることを知っていると思いますが……海外で子どもと一緒に『ぽんぽこ』を見た大人は、どうやって説明するんだろうって考えてちょっと笑いました。
――狸たちの運動にはじゃっかんホモソーシャルを感じました。メス狸が化けるシーンもありましたが、しっかり描写されているメスの狸って、おろく婆さんと、正吉の妻になるおキヨくらいでしたよね。
北村 睾丸を使って化けるという視覚的な面白さに寄りかかっているせいか、オス狸に焦点を置いて描かれるようになっちゃっていて、メス狸の化け方の描写はやや薄くなっている気がします。
各地の長老は全員オスの狸でしたし、メス狸の参加が少ないのも確かに気になりましたね。おろく婆さんとおキヨ以外に、もうひとりくらい積極的に運動に参加する若いメス狸が出てきてもいいと思うんですけど。
おろく婆さんって、昔話とかにモデルがいるんですかね?
――どうなんでしょう。太三朗禿狸、隠神刑部、六代目金長は、それぞれ伝説として各地にお話が残っているみたいですね。権太が「まったく女の腐ったような野郎だぜ」って言ったら、すぐに「女は腐らぬ」っておろく婆さんが言い返すところがすごく好きです。狸たちって、結局おろく婆さんがいないと何もできないですよね。
北村 そうなんですよ! しかも多摩近辺の狸たちはみんな化学を忘れてしまっていて、おろく婆さんだけが保存していたんですよね? 睾丸を持っているオス狸の方が派手な化け方ができるのに、メス狸が一匹だけ化学を保存していた、というところをもっと突っ込んで書いたらもっと面白くなるんじゃないかなと思ったんですよね。
なぜ化学は忘れられてしまったのか
北村 よくわからなかったんですが、『ぽんぽこ』には化けられる狸と化けられない狸がいますよね。化けられない狸も、化ける力? 霊力っていうんですかね? そういう力を持っているんですよね? 『スター・ウォーズ』でいうフォースみたいなものなんですか?
――そうだと思います。霊力はみんな持っていて、それをコントロールできるかどうかなのかなと。化ける話でいうと、狐に失礼な描き方をしていませんでした? 「化けられる狸だけ人間社会で生き延びればいい」みたいな、優性思想を思わせるアドバイスをしていました。
北村 嫌な感じでしたよね。制作陣が狐のことを嫌いだったんですかね。
――「狸は素朴で、狐は狡猾」みたいなイメージがありますよね。
北村 ありますね。実は私は狐が怖くて……子どもの頃に、狐に対する恐怖を植え付けられていたんです。というのも出身の北海道では、私が小さい時に、狐を感染源としたエキノコックス症が大流行していたんです。エキノコックス症に感染すると、最初はほとんど症状がないのに、しばらくしたら具合が悪くなって、その頃にはもう内臓がダメになっているから、里に下りてきた狐には触らないようにって夏休み前に聞かされていたんです。まるでホラーみたいな教育ですよ。
――それはちょっと珍しいケースな気がします。『ぽんぽこ』では、一部の猫も化学を身に着けているって話がありましたよね。
北村 確かにそうですね。『ぽんぽこ』だと飼い猫も化ける設定なのかな。野良猫しか化けないんですかね。
――人間社会になじんでいる猫は化学を忘れてそうだなって思いました。
北村 そういえば、こういう映画だと、狸と人間社会を仲介するような、狸と話せる人間の小さい子が出てきたりしますよね。でも『ぽんぽこ』は狸界と人間界に何のパイプもなくて、人間は狸が化けることを忘れているどころか、狸がいることにもあんまり気づいてない。狸も人間のことを学ぼうとはしているけど、直接交流せずに戦おうとしているところは、この映画の特徴だと思いました。
――人間の言葉を話すことはできますもんね、狸は。人間界と狸界はかつて同じ世界で生きていたが、分離されたことで化学を忘れてしまい、人間とコミュニケーションを取るという発想すら失われた……?
北村 微妙なのは、六代目金長は、神社を通して間接的に人間とコミュニケーションを取っていますよね? 本州に比べて四国の開発が進んでいなくて、四国では狸を怒らせたらどんな災難が振りかかるかを人間たちはわかっているからだ、みたいなことを言うじゃないですか。都市化によって狸が化け方を忘れて、それに伴って人間も狸が霊力を持っていることを忘れているってことなのかもしれないですね。
――あのシーン、ちょっと疑っているんですよね。これは現実の話ですけど、撤回されたみたいですが、金長神社は一時期取り壊しが検討されていましたよね。人間たちが狸を恐れているって言っているけど、六代目金長さんがそう思っているだけなんじゃないかなって。
北村 私もそれはちょっと思いました。どうなんでしょうね。
化ける動物と映画史
――アメリカやヨーロッパに動物が人間に化ける伝承ってあるんでしょうか? 『赤ずきんちゃん』だとオオカミがおばあさんになりますけど、あれはたぶん化けているんじゃなくて変装ですよね?
北村 どうでしょう。メリュジーヌという蛇女みたいな妖精とか、熊男みたいなおとぎ話はヨーロッパにもたくさんあるんですけど……。あとアイルランドにはケット・シーという、人の言葉を話す猫の妖精がいます。ただ、特定の動物が人間に化ける力を持っているみたいなおとぎ話は聞いたことがないような……。
……あ! いた! 化けるのいました! あざらしは化けます。セルキーという鶴女房ならぬあざらし女房みたいな話があるんです。アイルランドの『ソング・オブ・ザ・シー 海のうた』(2014年)というアニメ映画があって、これはあざらしの妖精が人間に化けて、人間の男性と子どもを作る話です。
――化け狸、化け猫、化け狐に、化けあざらし……。この映画はなぜ『平成狐合戦ぽんぽこ』じゃないんでしょうね。多摩地区に狸が多いから狸になった?
北村 それはありそうですね。いまでも世田谷のほうで狸が出たりしますし。
歴史的に「狸映画」ってたくさんありますし、化け猫の映画もそうだと思うんですが、化け狐映画ってあんまり聞いたことがない気がしますね……。あるんですかね?
――いまざっと調べた限りだと少なそうですね。妖狐が出てくる映画はあるみたいです。
北村 ああ、なるほど。九尾の狐みたいなやつですね。そうだ、市川海老蔵(当時。現在は市川團十郎)が狐役だった『義経千本桜』という歌舞伎を見に行ったことはありました。私が知らないだけでいろいろあるのかな。
狸映画だと『狸御殿』っていうオペレッタシリーズみたいなのがあります。最初に作られたのは1939年で、最近だとオダギリジョーが出ている『オペレッタ狸御殿』(2005年)が作られていますね。これ、チャン・ツィイーが出ていて、かなり変な映画です。
――しかも監督は鈴木清順。
北村 すごく豪華ですよね。
おそらくですが、かつて日本では狸の話を楽しく見ていた時代があって、『ぽんぽこ』はそういうものが減少していた頃なのかもしれません。それと並行して、多摩ニュータウンが開発される。人々が狸に対する関心を失うことや開発が進むということを、映画史と関係づけて考えることはできるのかもしれません。
――狸映画というカテゴリや、猫や狐など他の化ける動物に着目したら感想を話せたり、批評を書いたりできそうです。
北村 そのあたりは妖怪研究の方がやられていてもおかしくない気がしますね。たぶん昔の狸映画を観る手段がいまはあまりないと思うので、興味がある方は調べてみてほしいです。
『令和狸合戦ぽんぽこ』を作るとしたら……
北村 ちなみに、多摩ニュータウンに住んでいる子たちもこの映画を観ますよね? 泣き出さないんですかね。心配になったんですけど。
――『ぽんぽこ』の一年後に公開された『耳をすませば』(1995年)も同じ多摩地区がモデルになので、「あの山を切り崩しやがって」って怒りに満ち溢れそうです。架空の町でやらなかったことには意味があるんですかね?
北村 当時放送されていた番組をパロディしたんだろうな、というテレビも流れていましたし、現実とリンクさせているように思いますね。
――水木しげるをモデルにしているであろう「水木先生」もテレビのコメンテーターとして出てきていましたし、時代の産物感がある映画ですよね。いまは山を切り崩すような大規模な都市開発もなかなかないでしょうし、そういう意味では歴史を残した映画になっているんですね。
北村 そうですね。いま『令和狸合戦ぽんぽこ』を作るとしたら、最近問題になってきている限界ニュータウンを舞台にすると面白そうですね。荒れはじめたニュータウンに現れた怪しい人が実は狸で……みたいな。
まとめ
――それでは最後に、北村先生が『平成狸合戦ぽんぽこ』を批評するとしたら、どういったポイントで書かれるかを教えてください。
北村 そうですね。これはなんか、みんないろんなことを言ってるだろうから書きづらいタイプのやつだと思いますね。面白かったんですけど……それこそ、政治運動の話だと多分他の人が書いたほうが面白いでしょうし。私が書くとしてもとくに新しい視点が提供できるとは思えないなあ……。
妖怪大作戦に焦点をあてるというやり方ですかね。昔からある妖怪の図像とかおとぎ話を調べるか……これもけっこう大変だし、新しいことが言いにくいですよね。
あとは、もう諦めて狸映画をひたすら見て狸映画史みたいな方向性にするっていうのはいいかもしれません。ただしソフトの入手が困難になりますよね。化け猫映画も見ないといけなくなるし、これも大変だなぁ。
思い切って芸術論からアプローチしましょうか。すごく努力して何年間も訓練して培ってきた技術を使って作ったアニメが売れませんでした……みたいなことに関する映画であるっていうことは言える気もするので。作った方々は意識してないかもしれないですけど、狸たちが作り出す幻影ってまさに映画、とくにアニメーションが生み出すものに近い気がするので、これって豊かな想像力を使って素晴らしいものを作ったのに報われませんでした、という映画ですよね。ああいうことは、アニメーターとしてはしょっちゅう起こってることなのかもっていう気はします。
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この連載では私が初めて見た映画について、苦労しながら感想を話しつつ、取り上げる作品だけでなく他の作品でも使えるポイントを紹介していきたいと思います。なお、私が見ていなさそうな映画でこれを取り上げてほしいというものがありましたら、#感想最高 をつけてX(旧・Twitter)などでリクエストしてください。
筆者について
きたむら・さえ 武蔵大学人文学部英語英米文化学科教授。専門はシェイクスピア、フェミニスト批評。著書に『批評の教室――チョウのように読み、ハチのように書く』(筑摩書房、2021)など。2024年度はアイルランドのトリニティ・カレッジ・ダブリンにてサバティカル中。