うたた寝は生活を狂わす
第12回

かつ丼か、コロッケそばか、「富士そば」は街の句読点。

暮らし
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なんてことないことがなくなったら、なんてことあることしかなくて大変だ。これは、『ケトル』の副編集長である花井優太が、生活の中で出会ったことをざっくばらんに、いや、ばらっばらに綴り散らかす雑記連載です。第12回。

※初出:雑誌『ケトル』編集部note公式(5月27日)

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緊急事態宣言が発令されるちょっと前、僕はまだ外でマフラーをしていた。コートを着ていたし、朝飲むコーヒーも温かかった。でも、久しぶりに会社に行く姿は半袖。コーヒーも冷たいものを飲んでいる。スプリングコートはハンガーにかかったままで、今年は出番がないだろう。もうすぐ夏がくる。

ここ数ヶ月のほとんどを家で過ごしていたから、街に放り出されると情報量の多さに驚く。ジョン・カーペンターの映画じゃないが、以前は自動的にマスキングされて見えなかった、聞こえてこなかったものが全て入って来る。人が以前よりも少ないから、すべてのメッセージが僕を標的にしているのだろうか? そんなわけはない。しばらくの間の隠棲で、一つの能力を失っただけだ。いや、蘇った? いずれにせよ、街をまっすぐ歩く才能はいまないのだ。猥雑になるほど欲望が集まり、欲望が集まるほど猥雑になるが、それが見えなくするものもある。人混みが干上がって街の底が顔を出した。

駅からオフィスに向かってさらに足を進めると、記憶とは随分と違う木々が道路脇に並んでいる。街が静まろうが関係なく、光合成で太陽の光をエネルギーに変え続け、季節に合わせて葉をつけたのだ。茂った緑と日陰が、もう6月に入ることを思い出させてくれる。家中心の生活を彩るために花や植物を買った友人たちが多くいたが、彼らは時計以外の時間の感じ方を知っていたんだろう。増える体重、新規感染者数、出費、数の変化に支配される毎日。世界とのつながり方、感じ方を考えなければならない。

職場の最寄り駅前で名代富士そばの「かつ丼」の文字に出会ったときは、無性に食べたくなった。一気に毛穴が開く。毎日通り過ぎていただろうに、どうしてこんなにも脳に訴えかけてくるか。4月末に出前サービスを開始していたことは知っていたし、ここまで食べたくなるのなら、一度ぐらい注文していてもおかしくない。しかしながら考えてみれば、食べたくなるのは決まって飲みの〆、徹夜明けだった。まぎれもない街の句読点。そばでもセットものでもなく、かつ丼を単品。ずっしりと胃に座り込み重みとなってくれるおかげで、もう他の店にふらふらと歩いて行くことはない。

コロッケそばを頼むのが上級者? 知ったことではない。そんなドグマに巻き込まないで。でも、池袋西口だとコロッケそばが食べたくなる。それか、手もみラーメン福しんのもやしラーメン+Bセット(半チャーハン)。ところ変われば、趣向も変わる。味と街が重なり合って記憶されるのは自然なことだ。だから街に出なければ、忘れてしまう味がたくさんある。そしていま、忘れたまま思い出せないものがきっとあり、また出会えるまで忘れたままなのだろう。当たり前のことが、当たり前から消えていたことを理解する。手を伸ばせば届く距離で親しい人たちと飲みに行きたい。

それでも夕方、居酒屋で遅れてきた歓迎会や再会を楽しむ人たちを横目に、まっすぐと家に帰った。そして、仕事の続きに取り掛かる。ペンを持ち、校了前のゲラを読みながら思ったのは、やはりこの期間に起きたことをこの先も忘れたくないということだ。気づいている我慢と気づいていない我慢があり、知らぬ間に薄れているものがある。足の筋肉は落ちていき、腹回りに肉がつく。きっと気にせず外に出られるようになれば、筋肉は戻りぜい肉もそれなりに落ちるだろう。キツくなったズボンは難なく履けるようになり、また夜の街を飲み歩くことになる。フィジカルに溢れ、フィジカルを意識しない時がいずれくる。

リモートライフへの最適化によって、家というチャネルが強化されたことは言うまでもない。でもこのチャネルは、アルゴリズムの外側に飛び出すことが非常に難しい。先日、赤坂の書店「双子のライオン堂」の竹田さんと話す機会があり、彼はウェブ上でユーザーが想定していない書籍と出会う手法を模索し、ズラした選書をするサービスを始めたと聞いた。人は頭に浮かんだ言葉でしか検索できない。歩いているだけで、眠っていた欲望に気づいたり、思い出したりすることができるのが、いかに素晴らしいかという事実に向き合わなければならない。本屋とは元来そういった機能を持つ場所だし、それは街も同じだ。偶然が起こる環境に身をおけなければ、人は気づけず忘れて行くばかりの生き物なのだ。悲しいけど。

失ったことと、手に入れたことと、これから取り戻すであろうことに結びつく身の回りに起きた全てを刻んでおきたい。そして、権内と権外を見つめざるを得なくなった日々に考えたことを何かしらのかたちで残し続けたい。などと。

◼️NOTES

1●ジョン・カーペンター
1948年生まれ。アメリカの映画監督。『遊星からの物体X』、ブギーマンで有名な『ハロウィン』『ゼイリブ』などで知られる。子供が観たらトラウマになるようなホラーやSF作品が多いが、実は東宝特撮キッズ。

2●名代富士そば
東京都内を中心に展開する立ち食いそば屋。Twitter投稿によれば5月26日に「紅生姜天焼き蕎麦パン」の試食会を社内で行い好評だったようだが、店舗でのお披露目はないらしい。食べたい!

3●手もみラーメン福しん
チェーン店でありながら、チャーハンを味の染み込んだ炊き込みご飯を炒めるのでなく白米から店舗で料理する。オンラインショップでは5月11日から冷やし中華セットが販売されている。

4●双子のライオン堂
元ネット古書店。「ほんとの出合い」「100年残る本と本屋」をモットーに営業中。年に1回だけ刊行する文芸誌『しししし』を3年前から製作しており、今年の特集テーマはJ.D.サリンジャー。

■筆者プロフィール
花井優太(はない・ゆうた)
プランナー/編集者。太田出版カルチャー誌『ケトル』副編集長。エディトリアル領域だけでなく、企業のキャンペーンやCMも手がける。1988年サバービア生まれサバービア育ち。Twitter : @yutahanai

最近、録音がどうだの、曲づくりがどうだの書いておりました。デモをつくるの専門の音楽ユニット、Demotattvaをはじめました。MTRでデモをつくり続けます。そのうちバンドでやりたいです。

※この記事は、「太田出版ケトルニュース」に当時掲載した内容を当サイトに移設したものです。

筆者について

花井優太

はない・ゆうた。プランナー/編集者。太田出版カルチャー誌『ケトル』副編集長。エディトリアル領域だけでなく、企業のキャンペーンやCMも手がける。1988年サバービア生まれサバービア育ち。昨年一番聴いたアルバムはSnail Mail『LUSH』。タイトルが載った写真は関口佳代さんに撮っていただいたものです

  1. 第1回 : 元号越し蕎麦「へいせいろ」を知った夜
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  4. 第4回 : 酔いが深い夜にして小沢健二と伊丹十三を想う
  5. 第5回 : どうしてこんなにも電話はラブソングをキュンとさせるんだろう
  6. 第6回 : 紡がれるmellow wavesのち、兆楽へ
  7. 第7回 : 「オールド・ラング・サイン」が鳴り響く世界で
  8. 第8回 : 集まりが悪いはずの同期も、全員出席する
  9. 第9回 : 分かりあえやしないってことだけを分かりあうのさ
  10. 第10回 : ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア
  11. 第11回 : よろいかぶとが野暮になるとき
  12. 第12回 : かつ丼か、コロッケそばか、「富士そば」は街の句読点。
連載「うたた寝は生活を狂わす」
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