第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑪/夫が脳で倒れたら

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「献身的」で、なくていい! 突然、働き盛りの夫を襲った脳卒中と半身の後遺症。何の知識もなかった私は、ゼロから手探りで夫の復帰までを「闘う」ことになる――。当事者だけがツラいんじゃない。家族にも個別のツラさがある。ここでは、ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録である『夫が脳で倒れたら』から一部ご紹介。正しいカタチなんてない、誰もがいつか経験するかもしれない、介護のリアルをお伝えしていく。 本書から、第一章を全11回にわたって公開。第11回目。

発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑪

トドロッキーの悪化は、セカンドオピニオンで訪ねた先の神経内科医が言った通り、あの頃がピークでそれ以降はなく、右半身が完全に動かなくなったところで止まった。麻痺が言語にまで及ばなかったことに私は心底ほっとした。片手だけでもキーボードは打てるのだから文章を書くことはできる。文章を書くための機能が体に残っていればトドロッキーはギリギリ大丈夫だって気がしている。

悪化が止まったのかなと感じたのは、発病から1週間と数日が過ぎたあたり。それでもまたいつ再発があるかもしれないわけで、とりあえずほっとはしたものの緊張は続いていた。

ふと、トドロッキーがこんなことを言った。

「『ゼロ・グラビティ』のラスト覚えてる?」

映画『ゼロ・グラビティ』はトドロッキーが発病する1カ月くらい前に観に行った。トドロッキーが息子二人と一緒に3Dの映画館に観に行った後、その感想に私も観たくなってすぐに劇場に走った映画だ。

「覚えてるよ。帰還して陸に上がるトコね」

子どもを亡くし、もはや生きることに執着のない宇宙飛行士の主人公が、任務中にアクシデントに巻き込まれ、チームでたった一人の生き残りとなる。主人公は宇宙空間で生死の際を彷徨いながら帰還を目指し、ついにやり遂げ、湖に着水。陸に辿り着いた主人公がゆっくりと立ち上がり、地を踏みしめ歩き始めるシーンがラストだ。

「俺、あのシーンなんだよ。自分と重なってんだよね」

「えー! サンドラ・ブロックに自分重ねちゃってんの?」

ウケる。主人公はサンドラ・ブロックが演じている。私の大好きな女優さん。

良かった。背中にへばりついていた重いものがはらりと離れた感じがした。それは、私の体から酸素を吸い取っていた得体の知れない地球外生命体みたいなやつだった。

トドロッキーは大丈夫。

トドロッキーの麻痺の悪化がそろそろ止まるとセカンドオピニオンの神経内科医に言われて嬉しかったけれど、トドロッキーの絶望も止まるのかどうかは別問題。心配だった。こればっかりは医師にも予測がつかない。

まだまだ気持ちを上げていくのは難しいだろうけど、でもトドロッキーのこの発言で、とにかく大丈夫だと思えた。

大丈夫。

6人部屋ではほとんどの意識ある患者が一度は泣く。みんな男性、高齢者も仕事現役世代の人も泣く。トドロッキーも嗚咽したし、このサンドラ・ブロックに自分を重ねたって発言の後も何度も泣き、弱音を吐いた。体調が安定しなかったり、感情の浮き沈みがあって遠くの宙をぼんやり見ていたりすることもある。でもその度に私はこの『ゼロ・グラビティ』のことが思い出され、大丈夫と思えた。

一方で、『ゼロ・グラビティ』のシーンを思い起こすことになった私に、『ゼロ・グラビティ』は悪さをし始めた。

映画内のサンドラ・ブロック演じる宇宙飛行士はラストシーン以外、ずっと宇宙空間を彷徨っている。死の世界の中でわずかに残る酸素を頼りに命を繋いでいくが、呼吸音がフィーチャーされていて、映画は観ているこちら側を意図的に息苦しくさせる。呼吸音のリズムの、その乱れや強弱がまんま主人公の心理面を表現していて非常に印象的なのだが、トドロッキーの発病後、息を吸っても吸っても吸い足りない感覚に陥るときにあの呼吸音が耳に蘇ってくるようになった。

息ができなくなったら死ぬっていう当たり前のことを劇場の大画面で『ゼロ・グラビティ』はずっと語っていた。そこはかとない怖さ、死の世界がすぐ隣まで迫っている感じが、息苦しくなるたびに3Dの臨場感で迫ってくるようになったのだった。

私は気に入った映画は数回繰り返し観る。『ゼロ・グラビティ』はそうなるはずの映画だったが、トドロッキーの発病から2年ほどは2回目の鑑賞ができなかった。悪化の1週間が蘇ってくる恐怖があったから。

そんなことで『ゼロ・グラビティ』は図らずも生涯忘れることができない映画のうちの1本となった。

『ゼロ・グラビティ』
(監督:アルフォンソ・キュアロン 出演:サンドラ・ブロック、ジョージ・クルーニー、他)

私にとっては大きな一歩

本作は”純粋活劇”と呼ぶべきものではないか。とにかく捨てカットなし! 宇宙を漂流する登場人物は次々と訪れる危機を回避しようとアクションし続け、観る者はその一挙手一投足から少しも目が離せない。

科学的な精緻さを求める映画ではないと思う。むしろある種のホラ噺を楽しむくらいの余裕の気持ちで挑みたい。ベテラン宇宙飛行士のマット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)の軽口が「映画ならではの大ボラを受け入れよ」とさりげなく諭しつつ、誘導もしているようだ。

が、しかし。それでも描写はことごとく迫真に満ちている。彼を失い、宇宙空間で孤立無縁になる主人公のストーン博士(サンドラ・ブロック)の命運に、大ボラだと分かっていても手に汗握らされる。彼女の目の前の果てしない闇、深い漆黒にもグラデーションがあるみたいで、ヒロインを追おうとする視線はどこまでも画面に吸い込まれていく。

翻ってみて、映画を通して我々は”視聴覚体験の拡張”を感受してきた。そのパイオニアの一人がB級映画の帝王ロジャー・コーマンであろう。コーマンが目指したのは束の間の日常からの脱出であり、精神のしばしの解放だ。自ら実験台となり、研究した目薬を投与し、透視能力を身に付けた科学者の悲(喜)劇を描いた『X線の目を持つ男』(1963)という監督作があるが、これなどまさに変容した視界を観客に体感させんとする映画であった。IMAX3Dの劇場にて、宇宙空間での絶対的な孤独を味わせてくれる『ゼロ・グラビティ』もまた”視聴覚体験の拡張”を進めた作品であり、同時に我々を”精神の旅”へと導くライドショーでもある点が素晴らしい。

ちなみに、コーマン・スクールにいたジェームズ・キャメロンが後に、”視聴覚体験の拡張”を受け継ぐ仕事をしていったのは歴史的必然か。ご存知のとおり『アバター』(2009)で3D映画を飛躍させ、今回、『トゥモロー・ワールド』(2006)でもその萌芽を見せていたアルフォンソ・キュアロンがさらに最上級の”見世物”映画を作った。「コーマン」「キャメロン」「キュアロン」と、何だか語呂がいいから並べてしまおう。どの監督もシンプルな筋立てにもかかわらず、含意あふれるテーマを盛り込むことができるツワモノだ。

本作の場合、音のない世界にあえて饒舌な言葉を用意し、ハンク・ウィリアムスJr.のカントリー&ウエスタン『Angels Are Hard to Find』までかけ(この曲の歌詞はぜひ調べていただきたい)、我々に映画の真意を問いかけてゆく。やがて観る者は、内省する主人公を見つめながら自分自身と対峙するようになっていくだろう。成層圏を抜け、60万メートルの上空から地球に帰還したラスト、サンドラ・ブロックをカメラが捉えた仰角の構図、あの神々しい彼女の姿が忘れられない。人類史上初の月面着陸を果たした宇宙飛行士アームストロングは、「私にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩だ」という名言を残したが、ここでのヒロインは「人類にとっては小さな一歩だが、私にとっては大きな一歩」を踏み出していくのであった。確かな”重力”を感じながら。

雑誌「キネマ旬報」2014年1月下旬号(キネマ旬報社)掲載 発病前のトドロッキー(轟夕起夫)の映画レビューより

* * *

この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの固有名詞は仮名です。

筆者について

三澤慶子 × 轟夕起夫

みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。

轟夕起夫

とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。

  1. プロローグ/夫が脳で倒れたら
  2. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ①/夫が脳で倒れたら
  3. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ②/夫が脳で倒れたら
  4. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ③/夫が脳で倒れたら
  5. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ④/夫が脳で倒れたら
  6. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑤/夫が脳で倒れたら
  7. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑥/夫が脳で倒れたら
  8. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑦/夫が脳で倒れたら
  9. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑧/夫が脳で倒れたら
  10. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑨/夫が脳で倒れたら
  11. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑩/夫が脳で倒れたら
  12. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑪/夫が脳で倒れたら
  13. リハビリの基礎知識~急性期リハビリテーション開始!/夫が脳で倒れたら
  14. リハビリ合宿生活の試行錯誤~トイレくらい一人で行きたい!/夫が脳で倒れたら
  15. もしもリハビリ入院中に新しい病気が発症したら?/夫が脳で倒れたら
  16. 「花火見に行かない?」活動させるリハビリで仕事復帰を目指す!/夫が脳で倒れたら
  17. 麻痺のある人でも扱えるリュックとは⁉~夫の快適が誰かの便利に/夫が脳で倒れたら
『夫が脳で倒れたら』試し読み記事
  1. プロローグ/夫が脳で倒れたら
  2. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ①/夫が脳で倒れたら
  3. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ②/夫が脳で倒れたら
  4. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ③/夫が脳で倒れたら
  5. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ④/夫が脳で倒れたら
  6. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑤/夫が脳で倒れたら
  7. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑥/夫が脳で倒れたら
  8. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑦/夫が脳で倒れたら
  9. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑧/夫が脳で倒れたら
  10. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑨/夫が脳で倒れたら
  11. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑩/夫が脳で倒れたら
  12. 第1章 発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑪/夫が脳で倒れたら
  13. リハビリの基礎知識~急性期リハビリテーション開始!/夫が脳で倒れたら
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  18. 『夫が脳で倒れたら』記事一覧
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