この「書簡」形式は柳田にとって一種の文学実験であったことは、当時、書簡体の作品構想がある旨述べていたことからも明らかなように、彼の「文学」上の形式の模索の一環としてあった。
ここで誤解なきよう記しておけば、明治期の「文学」とは文字通り「文」の「学」、つまり「書き方」のリテラシーであり、投稿型文芸誌は「言文一致」という方法の実践の場であった。柳田はこの時点で歌や詩を放棄していて最初から小説を手がけることもなかったが、「文」という「描き方」の「学」の構想は、柳田だけでなく明治「文学」の基調にある。
柳田が民俗学以前、新体詩詩人であった時に田山花袋との旅で同じ場所に立ちながら花袋が「私」の感慨、柳田が「習」を記述しようとしたことは繰り返し述べてきた。それは「第二の自然」としての歴史や社会を文学やその担い手としての「人」を記述対象として観察するエミール・ゾラ式の「実験小説」へと収斂するもので、柳田が『遠野物語』の序文で彼らのグループの「内語」であった「感じたるまま」という自然主義を暗示する語を用いて、同書が私小説へと向かう花袋の『蒲団』への反論として書かれたことは別稿を参照されたい。(大塚、二〇〇七)
柳田の「民俗学」の最初期の書物である『後狩詞記』『石神問答』『遠野物語』の三作は、『後狩詞記』は椎葉村長のまとめた狩猟伝承記録に柳田が序を付したもの、『石神問答』が今見たように複数名との往復書簡、『遠野物語』が遠野に直接赴かず、佐々木喜善の「話」を筆記したものと、全て「共著」であることは、それらが全て「第二の自然」を記述する文学形式の模索であったことを端的に物語る。
柳田はそれを花袋の死後「自然主義運動」という呼び方をしている。
この文学史上の事実から確認したいのは、本来、「社会」や「歴史」を対象に自然科学的な文学手法として設計された西欧型の「自然主義」をこそ実装する「文学形式」を柳田が模索していた、ということである。即ち柳田の学問=文学もあらかじめ文理融合としてあったのである。
このように柳田國男の学問は、方法論として明治後期、まだ彼がそれを「学」として自覚し得ていない「文学」であった時点で、明瞭な方法意識としてあったことがわかる。それは文理融合や情報知と人文知の対話が問題系となる以前の、分断されない総合知のあり方を明瞭に示している。
その柳田國男が改めて自らの「学問」の方法論の体系化を試みるのは大正後期である。
この時期の柳田が朝日新聞論説委員として普通選挙実現の論陣を張っていたことは既に述べた。詳細は別著に譲るが、その方法論はまず『青年と学問』(一九二八)として上梓された。啓蒙の対象が地方の青年層であることは題名から明確である。柳田は彼らに普通選挙の担い手としての「教養」を与えることではなく、思考の「方法」を広く共有させることを目論んだ。
そのためには彼の未だ名付けられていない学問の「方法論」を彼らに向けて説く必要があった。
柳田國男は大正末から日中戦争開戦前後にかけて、彼の学問の入門書を断続的に刊行している。「彼の学問」というのはその名が定かでないからだ。
一九二六年の講演「青年と学問」に始まり、『民間伝承論』(一九三四年)、『郷土生活の研究法』(一九三五年)と、当初はただ「学問」として、そして「民間伝承論」「郷土研究」という名を経て、ようやく『日本民俗学研究』(一九三五年)に於いて「編著」の書であるが「民俗学」を冠する。
こういった「名」の不確定さの理由は諸説あったが、結局のところ、彼の設計しようとする「学問」が、近代的なアカデミズムに収斂するものではなく、「社会運動」であったからであろうことは想像に難くない。柳田が必要としたのはアカデミズムとして「名」ではなく運動論とでも言うべき方法論だった。
この一連の入門書を受け、柳田は『蝸牛考』を一九三〇年に刊行し、そこで「方言周圏論」を展開したとされる。同書は「方言」というデータベース的資料への、操作の方法を示した書と目され、柳田の方法論の啓蒙書の一つに数えられている。
ちなみに私家版であった『石神問答』はこれら方法論刊行の末尾を飾るかのように、一九四一年に復刊されている。
こういった方法化の過程で浮上したのが「重出立証法」という語である。
それは既に見たデータベースを創作や『石神問答』にプロトタイプとして示された方法に他ならないが、その解釈をめぐっては長く論争があり、そして決着を経ないまま、放置された。
本稿ではそれを概観して柳田の情報論的な方法の可能性について更に検討してみたい。
柳田國男は『民間伝承論』の中でその学問の方法を「重出立証法」と名付けている。
我々の重出立証法は即ち重ね撮り写真の方法にも等しいものである。此方法の強味を知って居る我々は、書物はもとより重要なる資料の提供者と認めるが、決して是を至上最適の資料とは認めないのである。実地に観察し、採集した資料こそ最も尊ぶべきであって、書物は之に比べると小さな傍証にしか役立たぬものである。
(柳田、一九三四)
柳田が「重出立証法」の名を使っているのはこの時のみで、同書はそもそも第三者の手を介した口述筆記である。従って柳田と聞き手の間で成立した文脈の推察が不可欠となる。
このケースでは、聞き書きする側が「重出立証法」という「名」に過敏に反応してしまった可能性がある。柳田自身は自身の学問のアカデミズム化を望んではいないが、周囲が対抗上、柳田の学問の学術性の証しとして、戦前、そして戦後もこの唯一名付けられた方法論を掲げようとして、周辺領域からの批判に曝されてきた歴史事実がある。それはぼくが民俗学の初歩を学んだ一九八〇年代まで継続していた。
今改めて「重出立証法」をめぐる議論を整理してみようと思うのは、彼が目論んだ学問が写真論やメディア論といった「科学」にその都度準拠し、解釈と整理がなされ、結果として文理の接続の具体相が見てとれるからである。柳田の文理融合性は、時代ごとに、心理学と接近したり、生態学的な視点を「人間」の観察に持ち込むなどいくつかの側面があり、もう少し段階的な整理が必要だが、本稿では重出立証法とメディア理論との関係を検証する。
言うまでもなくメディア理論とは情報の伝達や処理をめぐる学ある。
先の引用に戻る。
その中の「重ね撮り写真」の方法という語句に注意したい。
そもそも当時の読者が「重ね撮り写真」の語から何を連想したかが、今の私たちには見えない。しかし、柳田とその聞き手には理解可能な文脈としてあった。 「重ね撮り写真」の語は明治末の坪井正五郎の一文「『重ね撮り写真』の術を観相基他に応用する考察」に見てとれる。その題からわかるようにこれは観相学であり、坪井はこう述べる。
私が此所に観相と申しますのは人の眉や目や鼻や口や面の皺抔の形状とか配置とかを見て其人の性質の遅鈍であるか、鋭利であるか、善良であるか、不良であるか、従順であるか、強情であるか等を推察する事でござりまして、決して彼の面部に三停、五官、四瀆、五岳、六腑等の名目を設け、其部の形状を見て吉凶禍福を知ると云うが如き類を意味するのではござりません。
(坪井、一九〇四)
坪井は言うまでもなくコロボックル論争の一方の当事者である、黎明期の人類学者だ。
そして「観相学」は明治期の民俗学者であるラフカディオ・ハーンも科学だと位置付けている。私たちは観相学というと易者か何かが人相を見て占う類を連想するが、坪井がこの論文を型時点で観相学は「科学」のアイコンであった、ということだ。
その科学的観相学の方法が「重ね撮り写真」である。
この論文で坪井が紹介するのは以下の方法である。
「重ね写真」とは、一度何物かを写した種板の上へ他の物を重ねて写すか、或は一度焼き付けた紙の上へ前のとは異った種板を載せて焼くかして得るところの形の混同した写真を指すので有ります。「コンポジツト、フォトグラフ」或は「コンポジツト、ポートレート」と云うので、「組み立て写真」と訳した人も有りますが、組み立てると云つては彼方からも此方からも寄せ集め或る一つのものを作り出す様に聞えて余りに実際から離れた名と成りますから、私は事実をそのまま「重ね写真」と申す事に致します。かつて「重ね撮り写真」と云う名も用いましたが、撮ると云つては語弊が有ると気付きましたから斯く改めたので有ります。
(坪井、一九〇四)
これは、近代優生学、言い換えればレイシズムの近代化の祖である、フランシス・ゴルドンが一八八八年に考案した方法である。坪井は実際この論文でゴルトンに言及する。
ゴルトンはユダヤ人の少年たちを多重露光で重ね合わせて撮影し、外形的な共通性の抽出からユダヤ人の本質を浮び上がらせようとした。言うまでもなく、それは人種的偏見の可視化の試みだが、この時点では「科学」だった。
坪井は大学院時代にこの技法を知り、「感化院にいる不良少年」の重ね撮りをし「不良の性質に伴う所の容釈」を抽出する実験をしている。
坪井は同時に、この手法を人類学に応用し、「アイヌとか台湾蕃人」の集団を対象に「共種族の代表を得る」といった案を述べる。しかし、それは「同一地方」「同一族」「同一性質」、あるいは「同一犯罪者」と思いつくままの列挙の一つで、「美人」や「犬と猿」の重ね撮り写真までも言い出す。
このうち「美人」については大正期にもう一度、坪井は言及している。