接続する柳田國男

学び
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「写真」が「民俗」に向けられたのは昭和初頭の新興写真運動の時代であったことは指摘されている。

柳田は実際、写真雑誌などで審査員を行いもした。一方では柳田が率いた体系的な民俗調査、山村調査(一九三四─三六)では、写真を付した資料提供が求められていたが、参加した調査員は写真についての明確な方法意識があったわけはないと目される。

柳田が己の写真観を明確に述べているのは柳田國男、土門拳、濱谷浩、田中俊雄、坂本万七との「座談会:民俗と写真」(『写真文化』一九四三年九月)の対談である。

このうち、土門・濱谷は新興写真運動から派生した「報道写真」の担い手であり、『民芸』編集長の田中や同じく柳宗悦の民芸運動に共鳴していた坂本は一見、民俗学寄りに見えるが、必ずしもそうではない。

座談の中で柳田と見解が対立したのは土門拳である。

柳田は、望遠レンズで当人に気付かれず撮影された写真を高く評価する。

それに対し土門はこう反論する。

しかし僕の意見から言ふと、今柳田先生が仰しゃったように、本当のスナップというものは、今までのカメラの機能では駄目だ、写って居たところで非常に貧弱なものしか撮れない。写真から来る迫力が非常に弱くなる、先生と同じように悲観説になるので諦めたわけです。そこで或る瞬間の非常に自然な様子を把握するといふことをやめまして、例えば下駄屋の職人は下駄屋の職人としての典型的なものを持って居る。(中略)そこで下駄屋としての最も典型的な態型と云いますか、生活様式なり労働様式を出すならば宜いじゃないかというやうな所に妥協して行つたわけなんです。それで瞬間的のものよりも、寧ろ最大公約数のものを出して行かうかと思って居るのですが。

(柳田、土門他、一九四三)

坪井は「下駄職人」の多様性をでなく「典型」を抽出しようとする。その点でゴルトンに近い。

それに対して柳田は以下のように戒める。

下駄屋の職人一人を撮って、これで下駄屋の職人を得たということは問題です。そこには自分を慰める態度がありはしませんか。(中略)私の方はいつでもゼネラルなんです。個性を探って居るのではないので、社会文化の研究が対象だから、いつでも伝承といふやうな一般的なものが知りたいのです。

(柳田、土門他 一九四三)

土門は「典型」的な人物で集合を代表せしめるという。これはプロの俳優に演じさせるより農夫ならいかにも農夫らしい素人を連れてくるというエイゼンシュテインのティパージュ論が恐らく下地にある。同時に、一種の「本質論」である。

しかし柳田は「一人」の典型を持って、その全てにはならない、という。

柳田が写真という方法に求めるのは「ゼネラル」なものであり、それは一点の写真から直感的に得るものではなく、幾重ものレイヤーからなる歴史の切断面としての「下駄屋」なら「下駄屋」の諸相であって、一点一点は「伝承」の切断面に他ならない。

だが、柳田の中で写真を比喩としての明確な方法意識が芽生えるのは文化映画に於ける三木茂との出会いである。

「文化映画」とはドイツの国策映画の日本版ともいえる教育啓蒙映画で、その内容が人文科学を含む広義の科学啓蒙映画であることから、プロキノなどの左翼映画人の穏当な転向作としても機能していた。戦時報道としてもニュース映画やら戦争映画、あるいは空襲機に備えた防災映画があったが、非ストーリー様式と呼ばれた記録映画全般が、芸術性に於いて大衆映画的な時代劇などよりも優れているという言説も映画人にあり、映画法では税金面での優遇などで上映が強く推奨されていた。その意味で、文化映画は国策と左派芸術がプロパガンダで統合する領域だったが、そもそもソビエトの視覚表現そのものが国家広告であり、その手法は映画だけでなく写真・ポスターや、印刷物のデザインなどでも汎用性が高かった。

ここでは詳細には立ち入らぬが、早川孝太郎や江馬修ら柳田と縁ある人らが、文化映画への提言を行う姿は、当時存在した文化映画専門誌の誌面などから確認できる。

こういった「接近」の確認の際は、例えば先に「写真」をめぐって柳田と鼎談した土門拳のその時点でのキャリアを、名取洋之助の日本工房の流れを汲む報道写真家としての当時の文脈で見なくてはその関与の主旨が不明なように、早川であれば、農村漁村の経済的自立を求める「更正運動」、江馬なら文字は似ているが「更正」を、娯楽面や大政翼賛会の運動方針である協働主義の実践として村人による村人の演劇「厚生」演劇の推進という、それぞれ「国策」との接合点を持つ人物として、その発言を理解しなくてはいけない。

柳田の周辺が「映画」を介して国策に包摂されている姿が、そこには確認できもする。

その柳田に文化映画は二つのルートから接近が確認されている。

一つが雑誌『文化映画研究』を刊行した藝術映画社のグループで、石本統吉監督『雪国』(一九三九)へのコメントとして柳田は談話原稿「文化映画と民間伝承」を寄せる。

その中で柳田は撮影で「破れ障子」が貼り替えられたり、「一家揃って晴着を着」たりする様に難色を示し、こう嘆く。

さきごろ、偶然の機會から、ドイツの映畫で野鳥の生活を撮つたのを觀たが、あのやうに望遠レンズを利用するといふことも、人間の場合では考へられぬし、こゝにどうしてもひとつの問題が殘されてゐることになる。

(柳田、一九三九)

これは先の土門らとの座談の中で望遠レンズの写真に示した態度と同じである。

柳田の文化映画への違和は、いわゆる「やらせ」問題の文脈として論じられてきた。しかし柳田の発言からわかるように、これらはカメラを向けた側の「演出」ではなく、向けられた側の問題で、日常とは異なるものを「装う」のは被写体の側である。それは土門との座談の中でも述べられている。

対して柳田が提唱するのは、記録映画が動物へと向ける理系的視線であり、カメラマンに対象を「自然」として捉えよと言うに等しい。

この自然科学的観察法は、遡れば、明治期に彼がゾラの実験小説論などから受容したナチュラリズムである。しかし興味深いのは、このカメラマンの視点に対してこの時点で「名付け」があることだ。

西人謂うところのフォクロリズムが、文化の進展してゆく段階の比較と綜合であるとするならば、現存する各地の慣行の異同を解説し、以前あきらかに我々の間に存在した事実が、如何なる経路を辿って改まり動いたかの歴史を明かにし、新たにこの二つの知識を以て、将来の計画の参考とするには、正しく民間伝承の学に據らなくてはならないのであつて、この場合、我々の採集手帖を埋めた伝承事実が、カメラの眼によって正確にその像を再現できたならば、民間伝承の学は正に鬼が金棒を持つこととなるであろう

(柳田、一九三九)

柳田がここで、これまで文字によって収集されてきた「伝承事実」が「カメラの眼」によって捉えられる可能性に期待している。

しかしここでも注意すべきは「カメラの眼」なる語法である。

「重ね撮り写真」と同様に、この語に込められた同時代の文脈を無視するべきではない。「カメラの眼」と、この時代に、しかもプロキノ運動からの転向者である文化映画関係者を前に語る時、それはソビエトの映画監督ジガ・ヴェルトフの「キノ・グラース」を当然意味する。

彼は一九二三年のマニュフェスト「キノキ・大転換」の中でこう述べる。

私はキノグラースだ、私は建設者だ、私はキノグラースだ、私は機械の眼だ、私、機械は私一人が見ることのできる世界を諸君に示す。私の道は世界の生き生きとした知覚に向かっている。見給え、私は諸君らの知らない世界を解読しているのだ!

ヴェルトフはロシア革命の「前線」としての街頭や農村や製鉄所や建築中の塔にカメラを抱えて向かい、時には列車の来る線路に、あるいは身体をクレーンで吊るし、あらゆる角度から「世界」を撮影する。

レニ・リーフェンシュテールが、ナチスの党大会で鉤十字の旗が掲揚されるポールに移動カメラをとり付けたり、ベルリン五輪で陸上トラックの脇に穴を掘ってローアングルを狙ったり、その映像は「作られた」ものであるが、これはヴェルトフのナチス版である。

しかし、これも「キノ・グラース」である。

「キノ・グラース」とはカメラの機能とカメラマンの方法によって「機材が見ることのできる」世界を大衆化する方法だ。

このキノ・グラース、カメラ・アイの考え方は、新興写真運動が「国策」を実装していく中で「報道写真」となっていく際の重要な手法の一つである。

「報道写真」とは「つくられるものだ」という考え方が自明とされ、それは「やらせ」と今は称される再現やフェイクではなく、カメラアングルやライティング、そして写真と写真の組み合わせによって周到な計算と美学によって「つくられる」ものである。

柳田の文化映画や写真への態度を「やらせ」や「演出」の排除として捉える見解があるのは既に触れたが、柳田はむしろ自身の「方法」と齟齬のあるものを否定しているに過ぎない。そこは一般論としての「やらせ」論に流されず、柳田の方法論の問題だからもっと議論はあっていい。

柳田は「カメラの眼」で初めて彼の学問の可視化が可能になると考えている。

その「カメラの眼」がヴェルトフと同一なのか。あるいは、「重ね撮り写真」同様にどう意味を変えていくのか。柳田は彼の「方法」をその時点での文学理念やメディア理論で「科学化」しようとその用語を援用するが、常に両者の間に解離があることに注意が必要だ。

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