ただただぼんやり温泉旅館に滞在する
松山にゆかりのある文豪といってまず思い浮かぶのは漱石と子規だ。ふたりは慶応3年——徳川慶喜が大政を奉還し、王政復古の大号令が発布された日本の大転換となる年に生まれている。大学予備門で出会ったふたりはすぐに打ち解け、親友となる。明治22(1889)年に子規は初めて喀血し、自身をほととぎすになぞらえ「子規」を名乗る。
喀血を知った漱石は、子規に手紙を書いた。医者は簡単に「風邪だ」と言うけれど、肺炎や結核にこじれることもあるのだから、大学の附属病院に行ってみてはどうかと提案する。それだけでなく、子規に付き添って病院にも通っている。
ある日、病院を訪れたふたりは、診察まで2時間も待たされる。診察を待つ子規に向かって、「君はこんなふうになすこともなく過ごす時間を惜しいとは思わないか」と漱石が尋ねた。「二人で話しているあいだは愉快だけれども、一人でいて読む書物もないときは脳病を起こすほどで、どこへ行くにも一冊の書を携えていなければ不安になる」と、子規が答える。漱石はと「同感だ」と頷き、「今年の夏に旅行に出かけたときも、読書のことを思い出し、時間の浪費していることが惜しいと告げたら、連れの者は皆笑っていた」と語った——と子規は綴っている。
この随筆には「當惜分陰」と題がつけられている。子規は幼い頃に、「大禹聖人乃惜寸陰、衆人当惜分陰」(聖人でさえ寸陰を惜しんだのだから、普通の人間は分陰を惜しまなければならない)という言葉を教えられた。その頃はそんなのは法螺(ほら)だと聞き流していたけれど、この年になってようやくその言葉が意味するところを実感したのだと、子規は漱石に語っている。ひとりでどこかに出かけると、「書物を読んで勉強しなければ」と気が急くが、そのくせ書物を開いても一、二枚も読み進めることができないのだ、と。寸暇を惜しんで勉学に励まなければという訓戒は常に心に刻まれているのに、上京して「少し勉強したことは詩作ばかり、最勉強せぬは學課なり」と子規は綴っている。
ふたりが大学予備門へ入学したのは明治17(1884)年のこと。その翌年に文部大臣・森有礼による学制改革がおこなわれ、東京大学は帝国大学に改称された。それは単に名称が変わっただけでなく、帝国大学の目的は国家の枢要な官吏を養成することが目的とされるようになった。明治の立身出世主義と、それとは相反する文学の道とのあいだで揺れながら、ふたりは学生時代を送っていたのだろう。
それから100年以上が経過して、時代はすっかり移り変わったけれど、寸暇を惜しむ速度はむしろ加速しているように思える。「立身出世」という目的こそ消失したものの、わたしたちは空白の時間に耐えられず、間を埋めるようにスマートフォンを触ってしまう。どうすればその外側に出られるのだろう?
温泉はかつて、観光地ではなく湯治の場であった。
7日間を「一廻り」と数えて最小単位とし、少なくとも三廻りは湯治をおこなうべきだとされていたという。霊験あらたかな湯に浸かることによって、体の不調が回復する。そうした信仰に、温泉地は支えられていた。
三廻りということは、21日。
経済的な理由からしても、現代では21日間も温泉地に留まることは難しい。せめて3日間は滞在して、観光の予定を詰め込むのではなく、ただただぼんやり温泉旅館に滞在する、というのが今回の旅の目的である。いつもの旅なら文庫本を数冊携えてくるところだが、今回は一冊も持ってこなかった。「せっかくだから、時間をフルに活用して観光地をめぐる」という考えは捨て去ることに決めた。スマートフォンも、歯を食いしばって見ないようにする。
昨日とは打って変わって、青空が広がっている。畳の上に寝転がっていると、旅館の前を車が通り過ぎるたび、フロントガラスが太陽を反射して、天井にひかりが射し込んでくる。天井の木目を、穴が開くほど見つめる。ふと身体を起こすと、綿毛が飛んでいるのが見えた。
どこかの部屋から、掃除機の音が聴こえてくる。気づけばチェックアウトの時間をまわっていて、清掃の時間になっている。ずっと部屋にいられても邪魔かもしれないなと思い、散歩に出ることにする。道後ハイカラ通りをぶらついていると、昨日お酒を買った土産物屋から、ラジオの声が聴こえてくる。そのイントネーションと、「キャンプ・コートニー」という言葉から、ひょっとしてと尋ねてみる。
「そうそう、これ、沖縄のラジオなんですよ」と、お店の方が教えてくれた。「昼間のラジオが面白くて、平日の昼間だけは沖縄のラジオを聴いてるんです」
僕が道後温泉に3泊するつもりだと伝えると、「どこ行きます? そんなに行くとこないですよ」と、地図を繰りながら観光スポットを説明してくれる。
「コロナになって、いっときは全然人がいなかったですけど、今は結構多いですよ。ただ、昔は団体のお客さんが多かったでしょう。僕らも高校生の頃なんか、旅館で皿洗いのアルバイトしよりましたからね。あの頃はやっぱり、観光地いうても、光と影がありますから。ガイドブックに載っているようなとこだけじゃなしに、風俗みたいな影の部分もあるでしょう。道後はもともと遊ぶとこやし、遊郭もあった町ですからね」
その時代の「観光客」は、ここに何を見ていたのだろう?
道後にはかつて松ヶ枝遊廓があった。江戸時代から、道後温泉には「十軒茶屋」という株仲間がおり、「湯女(ゆな)」や「飯盛女(めしもりおんな)」などと呼ばれる私娼がここに抱えられ、客や遍路相手に売春をさせられていた。松山藩は天保11(1840)年に十軒長屋の売春営業を公認し、公娼制度を敷が敷かれる。時代が下り、明治となると「道後は不夜城の有様」と書かれるほど賑わいを見せたが、それにともなって性病が急速に蔓延する。明治7(1874)年に県内最初の徴兵検査がおこなわれたが、徴兵適令者のうち6割が不合格となってしまう。国の富国強兵策に沿えるようにと、性病防止を主たる目的として、遊郭設置が認可されている。
昭和4(1929)年に発行された松川二郎『全国花街めぐり』には、松ヶ枝藝妓は松山藝妓や道後の町藝妓に比べると「下品」だが、松ヶ枝遊郭は「底抜け騒ぎを演じ、そして泊まり込むところ」であり、「轍宵(てっしょう)、太鼓をたゝいて大ぴらで騒げる」全国的に見ても稀有な場所として紹介されている。
「僕らが生まれたときにはもう売春禁止法ができてましたけど、道後温泉の向こう側に遊郭の名残りがあって、こっちにはトルコ街があったんです。僕らより上の年代の人たちは、今でもあのあたりのことをトルコ街言いますけど、昔は電柱にも『トルコ街こちら』と書かれてましたからね。夜になるとポン引きのおばちゃんもおったし、ストリップのちんどん屋さんも出てましたよ」
松ヶ枝遊郭があったのは、道後温泉の東——常磐荘のさらに向こう側だという。常磐荘を過ぎると、街の雰囲気ががらりと変わる。遊郭の名残りを感じさせるといったことではなく、道の両側が駐車場や空き地になっているのだ。さらに進めば、コンクリート造の旅館やホテルが数軒あって、窓から布団が干されてある。あんなふうに陽を浴びたら心地いいだろう。その先に「道後七郡総鎮守」と看板を掲げる伊佐爾波(いさにわ)神社があって、長い石段が続いている。この入り口近くに、「まんま」という鍋焼きうどん屋があった。松山のソウルフードだという鍋焼きうどんを平らげて、石段を登る。頂上まで登ってみると、道後温泉駅からまっすぐ参道が延びているのが見渡せた。
「私らのときはね、親が考えたんじゃなくて、神主さんがお祓いで決めたんが名前になりよったんです」。そう話してくれたのは、伊佐爾波神社の近くにある酒屋「山澤商店」の女将さんだ。この酒屋の近くに丁字路があり、緩やかな坂が続いている。そこがかつて遊郭だった場所だという。
「遊郭ができたときに、『これから商売になるかもしれんから』と言われて、明治19年にこっちへ上がってきて酒屋を始めたそうです。うちの建物は、今も当時のまま。それで、昔は角のところにつぼやさんがあって、そこが『坊っちゃん』に出てくる団子屋さんだったんです」
女将さんはふたつの地図を見せてくれた。ひとつは戦前の松ヶ枝町を描いた地図で、そこには朝日楼、名月楼、月見楼、千歳楼、大岩楼と、「楼」とつく店がずらりと並んでおり、入り口には石柱があり、検番も置かれてある。もうひとつの地図は、売春防止法により赤線が廃止されて四半世紀が経過した1972年の地図だ。こちらの地図だと、大岩楼が「旅館大岩」として名前を留めているものの、「楼」はすっかり消え去っている。ただ、スタンドやトリスバー、スナックにヌードスタジオが入り混じっていて、どこか時代の名残りは感じさせる。遊郭があった通りは、この時代には「ネオン坂」と呼ばれていたそうだ。
このネオン坂と交差する道路――常磐荘から山澤商店に至る道路も、ずいぶん趣きが違っている。戦前の地図だと、ずらりと旅館が並んでいる。そのあいだに、天ぷら屋に仕出し屋、履物屋に小間物屋、雑貨にあんまに髪結処、たまご屋にうどん屋に米屋に薪炭屋と、生活を支える商店街が広がっている。
「昔はここから下って道後温泉本館の前に出るまで、ずっと旅館が続いとったんです。昔はね、遍路宿。戦前はお遍路さんのための貸し布団屋までありましたよ。お遍路さんにも時期があって、農閑期になると遍路宿が一杯になる。あとは石鎚山の山開きのまえのひも、このあたりに皆さん泊まられるんですよ。でも、終戦後に車がたくさん行き交うようになると、ここの道路は細いからいうんで、一方通行にしたんです。ほしたらパタリとお客さんがこなくなった。下のほうにきれいな旅館がいっぱいできて——こっちにあった旅館は皆古いでしょう。車できたお客さんは、立派な旅館を見たあとでこっちの宿を見ることになるから、お客さんが入らなくなって遍路宿はなくなったの」
ネオン坂の入り口には、ここが遊郭だった時代を忍ばせる建物が一軒だけ残っている。でも、ネオン坂も、遍路宿が建ち並んでいた通りも、半分くらいは駐車場になっている。坂をのぼった先には法厳寺というお寺があった。ここは踊り念仏で知られる一遍上人生誕の地とされており、斉明天皇の勅願により創建されたお寺だ。2013年に火災で全焼したものの、全国から寄付が寄せられ、現在では再建されている。ひっそり姿を消していくものもあれば、復元されるものもある。境内には子規の句碑があった。
色里や十歩はなれて秋の風
明治28(1895)年に詠まれた句だ。この年の春、従軍記者として遼東半島に渡った子規だったが、到着の2日後に下関条約が締結され、帰国の途に着く。その船中でも喀血し、神戸で療養したのち、松山に帰郷している。秋晴れの日曜日、ちょうど松山中学校に赴任していた漱石は子規と連れ立って道後で吟行している。この句には「宝厳寺の山門に腰うちかけて」と前置きがなされている。
2013年の火災のとき、山門は延焼を免れた。つまり山門は当時のまま残されてあるけれど、ここにはもう漱石の姿もなければ子規の姿もなく、山門から見下ろす風景もまるで変わっている。ここで「底抜け騒ぎを演じ」ていた人たちもいなくなった。
「旅へ出ては、あゝしたところで一番馬鹿騒ぎをして遊ぶのもおもしろいね」と、『全国花街めぐり』に記されている。旅へ出て「馬鹿騒ぎをして遊ぶ」ということで言うならば、遊郭があった時代にも、戦後の団体バス旅行の時代にもどこか共通するものがあるように感じる。その時代の「観光客」は、ここに何を見ていたのだろう?
「ストリップ、どうですか」
宿に戻り、湯につかる。16時を過ぎたあたりから、ごろごろとスーツケースを引く音が響き始める。日が暮れて、夕食の時刻になると、若女将が料理を運んできてくれる。
◯お刺身(ぶりと甘エビ)
◯たこときゅうりの酢の物
◯鰆の内臓の
◯甘鯛の開き
◯ひらめの唐揚げ
◯トマトの和風サラダ
◯いかの煮付け
◯お吸い物
◯宇和島風鯛めし
この日は無理を言って、通常提供されているのとは別の酒を仕入れてもらってあった。普段宿で提供されている日本酒も、土産物屋で並んでいる日本酒も、どれも冷やして飲むのにふさわしい上等な酒だ。今夜はそういったお酒ではなく、地元の人たちが普段使いに呑んでいたようなお酒が飲んでみたいとお願いしたところ、「雪雀(ゆきすずめ)」という酒蔵の二級酒を仕入れてくれていた。しっかりと燗をつけてもらって、きゅっと飲み干す。辛口だけど日本酒らしい甘みが残る。
瀬戸内の味わいは、どこか甘みが残るものが多いように感じる。お昼に食べた鍋焼きうどんも、甘いお出汁が絶品だった。宇和島風鯛めしのタレも甘みがある。若女将によると、愛媛の醤油は甘く、旅行客から「九州寄りですね」と言われることもあるという。
今日もお櫃の中まで完食して、お腹がはちきれそうだ。しかも、今日は近所を少し散策した程度でほとんど動いていないから、余計に満腹に感じるのかもしれない。布団を敷いてもらっているあいだ、ちょっと腹ごなしのつもりで、浴衣姿のまま散歩に出る。昼に土産物屋で聞いた話を思い出し、道後ハイカラ通りから外れるように直進する。アーケード街を出てすぐのところに、道後温泉椿の湯と、道後温泉飛鳥乃湯泉がある。さらにまっすぐ進んでいくと、水色のあざやかな看板が見えてくる。「ニュー道後ミュージック」である。
かつて日本の温泉地には、必ずと言ってよいほどストリップ小屋があり、最盛期には300館にも及んだ。だが、時代の流れとともにその数は減り、現在(2023年1月)では全国に18軒だけになった。中四国地方では、ここが唯一のストリップ劇場なのだという。
これがニュー道後ミュージックか——劇場の前に佇んでいると、「ストリップ、どうですか」と声をかけられる。1ステージ3500円で、1日4公演行われているのだという。友人に連れられて浅草ロック座に足を運んだことは一度だけあるけれど、ひとりでストリップを観に行ったことは一度もなかった。そういったことには関心がないのだという顔をして生きてきたせいか、気づけば関心が向かなくなっていた。
扉越しに音楽が漏れてくる。入り口のポスターを確認すると、今はちょうど上演中のようだ。「ちょうど始まったところなんで、今からでもお入りいただけますよ」と、帳場のお兄さんが背中を押す言葉をかけてくる。心の準備が追いつかず、「次の回を観にきます」と告げる。どこか動揺しながらも、上演時間は何分あるのか、開演の何分前から入場できるのかと、あれこれ尋ねて、いちど宿に引き返す。内湯につかり、心を落ち着かせてふたたび劇場まで足を運んだ。