観光地ぶらり
第4回

結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖

暮らし
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磐越西線に揺られて会津・猪苗代湖へ向かう。「東京から最も近いみちのく」で、見て聞いて感じた「観光」の今昔。アメリカへのあこがれを抱いて成長してきた戦後の日本のひとつの曲がり角。

野口英世の生家がある猪苗代へ

車窓の向こうに田んぼが広がっている。郡山駅を出発した磐越西線は、のどかな風景のなかをゆっくり走ってゆく。磐越熱海を過ぎて、いくつかトンネルを越えると、一気に雪景色になる。雪国らしい勾配のついた屋根があり、洗濯物がサンルームに干されている。川桁(かわげた)駅を出発して、電車が大きくカーブすると、磐梯山が見えてくる。

新年最初の金曜日、青春18きっぷで遠出をした。青春18きっぷとは、JRの普通列車の普通車自由席が5回(ひとりで利用する場合には5日ぶん)乗り放題となる格安きっぷだ。学生時代にはよく青春18きっぷで旅に出て、実家のある広島に里帰りするときにもよく利用していたけれど、最近は新幹線や飛行機で移動することがめっきり増えた。今季は取材のために久しぶりで青春18きっぷを購入していたものの、まだ2回ぶん残っていた。せっかくだから、どこかに出かけようか。ただ、移動に一日かかるような距離だと、目的地に到着するころにはへとへとになってしまう。朝早くに出て、お昼頃に到着できるぐらいの距離ならくたびれずに済むだろうと、都内から半日で移動できる場所を探し、猪苗代を目指すことにしたのだ。

磐越西線に揺られていた乗客のほとんどは、終点の会津若松まで乗っていくようで、猪苗代で降りたのはスキーを抱えた数組だけだった。駅前のロータリーには、スキー場行きのバスと、リゾートホテルのシャトルバスがとまっている。タクシーに乗って、雪景色のなかクルマを走らせてもらう。

「この雪はね、12月のなかばに降った雪が残ってるだけなんですよ」。タクシーの運転手さんが教えてくれた。今年の12月は記録的な大雪に見舞われたが、ここ猪苗代でもかなりの積雪があったのだという。

「このあたりは、普段だと1月と2月が雪本番なんです。磐越西線で来ると、磐梯熱海からこっち側は真っ白になりますよ。自分が小さい頃なんて、この道路脇に立っているポールが見えなくなるぐらい積もってましたね」

真っ白な田園風景の中を10分ほど走ると、突如として建物の群れが見えてくる。その真んなかに、野口英世記念館があった。入場料を支払って入館すると、「順路」として表示されているのは管内の展示ではなく、記念館の外へと続く扉だ。一体何があるのかと外に出てみると、そこには野口英世の生家が保存されていた。説明書きによれば、野口家の2代目・野口清太郎(のぐち・せいたろう)が文政6(1823)年に建てたもので、野口英世記念会が設立された昭和4(1929)年に保存・公開されたものだという。

こうして見ると、きれいでこざっぱりとした建物に見える。ただ、記念館で販売されている『野口博士とその母』を読むと、野口英世の母・シカが生まれた頃には「壁は破れ屋根に穴があき、見るかげもなく荒れはてていた」とある。夏はともかく、雪の積もる季節に壁に穴があいていると、寒くて凍えるような思いをしたのだろう。それどころか、家が倒壊しかけたこともあると、本のなかに記されている。

村の人々は雪が小やみになると総出で、家々の雪おろしにいそがしかった。あまり積もると雪の重みにたえかねて、古い家などは倒れてしまうおそれがあるからである。

しかし男手のないおしかの家は、雪おろしなどをすることはできない。それでなくてさえ倒れかけた破れ家である。夜中などは壁のつぶれたところから吹きこんでくる風のために、目覚めがちの耳に、ミシリ、ミシリと気味のわるい音が聞えて、今にも一家は圧しつぶされるのではないかと思うことさえあった。

貧乏のため手入れもせぬ荒れはてた家である。昔のままの百姓家、棟はかなり大きいだけに、屋根一ぱいに積もった雪の重さは、ばかにできないものである。

パリッ、ミシリ、異様なものすすさまじい音がする。おしかは今日も一人でしょんぼりと戸口にもたれて、灰色の空から降ってくる雪をあかずにながめていた。その時である、急に体を、ふり飛ばすようなはげしい振動がおこった。

びっくりしておもわず飛出して見ると、今は空しく物置きになっている棟つづきの馬小屋が、降り積む雪のために圧しつぶされてしまったのだ。そして母家さえ今にも倒れようとしているのであった。

野口シカは、数え年で7歳のとき子守奉公に出ている。15歳で年季があけると、今度は隣家に奉公に出たそうだ。隣の家からは、自分が暮らしている家が丸見えになっていて、荒れ果てた様子が見えた。寝起きしているときには気にならなくても、隣から我が家を目にしたときに「せめて壁だけでも修繕したい」と、2年かけて自力で修繕したのだという。その家が、保存されて現在まで残っているのだ。

「志を得ざれば 再び 此地を踏まず」

生家の向かいには救世観音堂があった。これは昭和14(1939)年に野口英世記念館がオープンしたときに建立されたものだ。野口シカとともに暮らしていた祖母は「大の観音信者」で、「正直に働いてさえいれば、神様や仏様が助けて下さる」のだと、幼いシカに語っていたのだという。その祖母は亡くなる間際にも「どんなことがあっても力を落とすなよ、観音様にわしがお頼みしてあるから」と言っていたそうだ。

そんな祖母に育てられたシカもまた、強い観音信仰に支えられていた。数え年で二十歳を迎えるころに結婚したものの、夫は「少々度を過ぎた好人物」で「酒には目のない人」だったため、暮らしは余計に苦しくなった。田畑を借りて野菜を育てては街まで売りに行き、野川や湖水で小エビや小魚を獲っては10キロ離れた山間の家まで売りに行き、夜は遅くまでわら仕事をして、どうにかこどもたちを育てていたという。観音堂のそばには小さな水路があり、「母シカが洗いものをしていた川」と書かれている。そのとき、母はこの小川で洗い物をしていたのだ、と。

日も暮れ方、つかれた体を引きずって帰ると、おしかは夕食のこしらえをせねばならなかった、いろりの自在かぎに汁ものの鍋をかけて、僅かの間も惜しく、裏の畑で明日町へ売りに行く野菜の仕分けをしていた。

突如――、

わッ―、と耳をつんざく用事の叫びただならぬもの音―。

その瞬間、彼女ははじかれたようにわが家へとびこんだ。

もうもうとあがる灰かぐら、その中から今年三つのかわいい盛りの清作が泣き叫ぶ。

火事― おしかはとっさにそう思った。

「清作、おばあさん、清作―」

夢中で炉端へかけよった彼女は、そこに転げ落ちていた愛児をす早く抱きあげた。異様な臭気、お……、

仏さま、神さま、どうぞこの子をお助け下さい―。

小さい頃から、野口英世の伝記でこのエピソードには何度となく触れてきた。初めて訪れる野口英世の生家には、「英世の運命を決めた囲炉裏」と案内が書かれてある。野口英世記念館には、ここでやけどを負った野口清作が勉学に励み、その才能を見出されて郷里を離れ、世界的な研究者になるまでの道のりが記されている。ただ、こうして生家を見学しているだけでも、胸がいっぱいになる。

志を得ざれば

再び 此地を踏まず

そんな文字が、生家の柱に刻まれている。明治29(1896)年、医師の資格をとるべく上京した際に、野口英世が床柱に刻んだ文字だ。

野口英世は、数えで8歳のときに小学校に入学している。その時代には、日本の小学校就学率はようやく50パーセントを超えたところだった。貧しい農家に生まれた野口英世は、近隣のひとびとの支援を受けながら小学校に通い始め、成績の優秀さを見そめられ、高等小学校に進学する。やがて医師を志し、19歳でどうにか上京を果たすことができたときに、文字を柱に刻んだのだ。その決心の重さに、打ちひしがれる。100年後の世界では、東京に出るのもずいぶん楽になったし、地方に暮らしていてもいくらでも情報に触れることはできるし、「上京」にそれほど大きな決心は必要なくなった。

旅先でふれる光景がどれだけまぶしく映ったか

野口英世記念館には、上京を果たし、身を立ててゆく足跡が記されている。横浜開港検疫所での活躍。黄熱病との最初の闘い。中南米での賞賛。そうした業績に並んで、「1度きりの帰国」と書かれたパネルがあった。

世界的な研究者となった野口英世は、慌ただしい日々を過ごしていた。明治44(1911)年、息子が医学博士の学位を授与されたことを知らされたシカは、アメリカにいる野口英世に手紙を書く。「おまイの。しせにわ。みなたまけました」(お前の出世には皆たまげました)――普段文字を書く機会のないシカは、ひらがなで手紙を書いている。手紙の途中から、シカはひとりで暮らす心細い胸の内を書き綴る。展示されている手紙には、何度となく「はやくきてくたされ」という文字が繰り返される。「はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。はやくきてくたされ。いしよのたのみて。ありまする。」。繰り返し書き綴ることで思いが増幅されるかのように、文字は少しずつ大きくなっている。ただ、野口英世は、この手紙を受け取ってもすぐに帰国することがかなわなかった。記念館に「帰国を促したもの」として展示されているのは、野口英世の友人・石塚三郎が撮影した写真だ。

野口英世とともに医学を修めた石塚三郎は、アマチュア写真家としても知られており、猪苗代で開催された「日本写交会」と「北越写友会」の春期聨合撮影会で幹事役を務めていた。新しいレジャーとして登山やハイキングが日本にもたらされたことで、大正時代になると全国各地に同好会が結成されたように、新しい娯楽である写真に関する同好会もまた、各地で結成されたのだろう。この聯合撮影会の際に、石塚三郎は野口英世の郷里の姿や、母・シカの姿を写真におさめ、アメリカに住む野口英世に送っている。野口シカの写真は、三脚を立て、台所の吊りランプを外して照明がわりにして、30秒かけてシャッターを切り、ようやく撮影したものだ。この時代は、写真を1枚撮るだけでも今とは比べ物にならない手間がかかる。それでも石塚三郎は、その姿をぜひとも写真に写し、届けたいと思ったのだろう。今のように、遠く離れた誰かの姿を目にすることは叶わない時代だ。だからこそ、写真を通じて年老いた母の姿を見た野口英世は、強い郷愁の念に駆られたのだろう。この写真が届いた数か月後に、野口英世は15年ぶりの帰郷を果たしている。

世界的な研究者となって帰国した野口英世には、講演の依頼や宴席が数多く設けられていた。野口英世は、母を連れ立って講演旅行に出て、各地の名所旧跡を見物させた。

彼女は極楽へ行ったような気持だった。

これもわが子と観音様のおかげだ。彼女はしみじみとありがたく思った。

東京に滞留すること数日、やがて京阪地方への旅に上った。(…)

この旅の間の彼女は、誠に幸福の絶頂にいたといってもよかった。

めずらしい風俗、美しい景色、面白いことや、楽しいことも、見るもの聞くもの一つ一つが彼女の生まれてからこの方、初めての経験でないものはなかった。

彼女は涙さえうかべて小林先生にいった。

「六十何年の間、貧乏の中で暮らし、難儀になれてきましたわたしが、今度のような楽しみにあえるとは夢にも思っていませんでした。本当にもったいない気が致します。こんなうれしいことはありません。もう今日ただ今死んでも心残りはありません。」と。

旅先でふれる光景が、彼女の目にはどれだけまぶしく映ったのか、伝わってくるようだ。そのまぶしさは、彼女が生まれてからずっと郷里を離れることなく、この土地で暮らし続けてきたことと地続きであるように思える。

では、彼女はこの土地で、どんな光景を眺めて暮らしていたのだろう。そんなことを思いながら、野口英世記念館をあとにする。

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
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