観光地ぶらり
第4回

結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖

暮らし
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「余暇」をいかに過ごすか

日本列島がリゾート開発の波に晒されるのは、1980年代のバブルの時代だ。ただ、そこに至るまでには長い前史がある。

戦後の開発政策は、昭和25(1950)年に制定された国土総合開発法によって大きく前進した。この法律は、「国土の自然的条件を考慮して、経済、社会、文化等に関する施策の総合的見地から、国土を総合的に利用し、開発し、及び保全し、並びに産業立地の適正化を図り、あわせて社会福祉の向上に資すること」を目的とし、“後進地域”を開発することで国土保全・電源開発・食糧増産・工業立地の整備を目指すものだった。

干支がひと巡りした昭和37(1962)年、「第一次全国総合開発計画」が閣議決定された。岩戸景気により工業が発展したものの、工業の盛んな都市部と農村との地域格差が問題となっていた。この格差を是正するために地方の開発を目指そう、というものだ。ただ、1960年代を通じて都市の過密が加速したことで、昭和44(1969)年に「新全国総合開発計画」が閣議決定される。「豊かな環境の創造」を基本理念に、過密/過疎を解消し、「人間と社会の調和」を目指す開発計画である。この計画では、日本列島をひとつの単位として開発し、工業などの産業開発はできるだけ地方に分散させ、交通ネットワークを日本列島全体に張り巡らせることを目的としていた。この延長線上に、田中角栄の「日本列島改造論」がある。

地方都市の開発が進められた時代において、自治体同士の誘致競争は熾烈を極めた。また、工業化をベースとした開発は、地価の上昇と公害の拡散を招いた。さらに時代が下ると、工場のフリーオートメーション化が進んだことで、工場誘致は必ずしも雇用増進に寄与しなくなってしまう。行き詰まった地方経済の活性化の切り札として浮上したのが「リゾート開発」だった。

内閣府が編集する刊行物『時の動き』(1981年1月号)に、「白鳥と磐梯観光の町 福島県・猪苗代町」と題した記事が掲載されている。記事の前半で、白鳥に給餌を続ける大森常三郎さんが紹介されたあと、教育委員会の川上輝省さんが観光の展望について語っている。

「現在、町では観光立町としてさらに強化をはかるため今まで遅れていた猪苗代湖の湖面利用を考えています。山と湖の国・スイスのリゾートゾーンに習い、ヨットハーバーを造ろうという計画もあります。それと並行して、農業面でも稲作一辺倒から、トマト、いんげんなどの野菜栽培導入を奨励し、観光と都市近郊型農業の町づくりを進めていきます」

猪苗代をリゾート地として開発していくにあたり、具体的なモデルとしてスイスが挙げられていることは興味深い。

「昔の時代は、農家の人たちは冬になると東京へ出稼ぎに行ったんですよ」。渡部さんが言う。「でも、スキー場ができてからは出稼ぎに行かずに、冬になると農家の人が民宿をやったり、インストラクターになってスキーを教えたりしてたんです。ただ、冬のスキーにだけ頼るのではなくて、夏の猪苗代湖でマリンスポーツを盛り上げようという話になった。その当時、私は青年会議所にいたんですけど、当時のトップが『猪苗代を国際観光文化都市にしよう』と言ったんですね。その当時のわれわれの感覚からしたら、『あの人、どうしちゃったんだろう?』と思うぐらい、意表をつく発想だったんです。その人が言うには、『インターナショナルなものといえば、やはりスポーツだ』と。猪苗代の自然を考えると、冬はスキー、夏はヨットがいいだろうと、世界選手権の誘致に動き出したんです」

こうした誘致が実を結び、昭和62(1987)年にはヨットの世界選手権が開催されている。アジアでヨットの世界選手権が開催されるのは、これがはじめてのことだった。こうして猪苗代は、スキーとヨット競技が楽しめる土地として、世界にアピールし始める。そこでモデルとなったのがスイスだったのだろう。

ところで、猪苗代湖でヨットの世界選手権が開催された昭和62(1987)年は、大きな節目を迎えた年でもある。この年の国会では、総合保養地域整備法、通称「リゾート法」が可決されている。各都道府県が基本構想を策定し、国が承認した場合は「リゾート」として開発することができるようになったのだ。国の承認を得ると、税制や金融面の優遇措置を受けることができたのだ。ますます東京一極集中が進むバブルの時代に、地方経済を活性化する切り札として、多くの自治体がリゾート計画の策定に乗り出した。日本経済のサービス化が進む時代に対応するには、従来のように工業を誘致するのではなく、リゾートを創出(、、)することが有望だと見做されたのである。

1980年代に猪苗代町長を務めた佐藤光信は、「県では技術立県を唱え、工業振興策が盛ん」だが、「忘れてならないのは観光産業の振興」だと語り、日本人観光客だけでなく、外国人観光客もターゲットにした「国際観光の場」を目指して、猪苗代に観光の拠点を作るべきだと政策を掲げている。

しかし、なぜリゾートだったのか。その背景には、「余暇」をいかに過ごすかという問題が横たわっていた。

余暇、すなわち「レジャー」が流行語となったのは昭和33(1958)年のこと。戦後の混乱期を過ぎ、復興へと向かう時代にあって、余暇をいかに過ごすかということに国民の関心が向きはじめた。だが、余暇を上手に取り入れることはできなかったのだろう。高度成長期には「企業戦士」や「モーレツ社員」という言葉が流行したが、“働き方改革”が進むことはなく、昭和63(1988)年には栄養ドリンク剤のリゲインが「24時間戦えますか」のキャッチフレーズで宣伝され、サラリーマンが身を粉にして働く構図は一向に変わりがなかった。経済的な発展を遂げ、成熟した社会においては、物質的な豊かさだけを追い求めるのではなく、精神的な豊かさに目を向けるべきだという議論も巻き起こりはじめる。そうした背景も手伝って、各地で「リゾート」計画の策定が進められてゆく。

時代のひとつの曲がり角

昭和63(1988)年7月9日、リゾート法適用第1号として承認されたのは、「宮崎・日南海岸リゾート構想」と、「三重サンベルトゾーン構想」、そして「会津フレッシュリゾート構想」だった。

日南海岸リゾート構想はシーガイアが、三重サンベルトゾーンには志摩スペイン(、、、、)村が含まれている。あるいは、少し遅れて承認された「ナガサキ・エキゾティック・リゾート構想」のなかには、オランダの街並みを再現したテーマパーク・ハウステンボスが含まれている。1980年代後半から90年代にかけてオープンしたレジャー施設で言えば、デンマークをイメージしてつくられた倉敷チボリ公園や、スペインのリゾート地コスタ・デル・ソルをモチーフとした広島の呉ポートピアランド。中世ヨーロッパ調の建物が並ぶ大分ハーモニーランドに、地中海の港町をモチーフにした和歌山ポルトヨーロッパ。コロンブスが乗ったサンタ・マリア号を復元し、フラメンコを眺めながらクルージングが楽しめる天保山ハーバービレッジ。あるいは、瀬戸内海の牛窓という小さな港町には、西日本最大級のヨットハーバーが誕生し、ヨットでチェックインできるリゾートホテル「リマーニ」が開業し、「日本のエーゲ海」として売り出された。

どういうわけだか、この時代のレジャーやリゾートには、ヨーロッパというモチーフが散見される。戦後の日本がアメリカへのあこがれを抱いて成長してきたことを考えると、ひとつの曲がり角であるようにも思える。成熟した社会におけるリゾートとして連想されるのは、アメリカよりヨーロッパだったのだろうか。猪苗代でも、スイスのリゾートゾーンがお手本とされている。

猪苗代はもともと、夏の湖水浴で賑わっていた土地だ。渡部さんは中学生の頃から、旅館でアルバイトをする若者たちと一緒になって、家業の手伝いを終えたあとは水上スキーで遊んでいたという。湖水に親しんで育ったこともあり、大人になって海外旅行で出かける土地も、マリンスポーツを楽しめる場所ばかりだったと振り返る。

「それがあるとき、『一緒に同行してくれ』と頼まれて、スイスに行くことになったんです。雪国育ちだから、最初は『冬に行くのは嫌だな』と(笑)。そんなことを言いながらツェルマットに行ったら、見事にハマりまして、こんな素晴らしいところはない、と。今まで3、4回行きました。スイスの素晴らしさは、もちろんマッターホルンを含めて自然も美しいんですけど、環境に対する配慮に関心したんです。それに、あの当時にもう、3000メーターの山の上まで下水道が通ってたんですよ。そこはまだまだ敵わないにしても、ポテンシャルとしては猪苗代も、スイスに負けるとも劣らないものがあるんじゃないかと思ったんですよね。スイスは冬のスキーが盛んですけど、猪苗代は夏のマリンスポーツもあるから、オールシーズンに対応できる。自然も歴史も文化もポテンシャルが高いのに、まだまだ磨いていないだけで、世界中探しても猪苗代ほどいいところはないんじゃないかと思ったんですよね」

全国的にもいち早くリゾート法が適用された「会津フレッシュリゾート構想」は、どんな内容だったのか。この構想は、磐梯山の「ハイランドスキーリゾート」、猪苗代湖周辺の「レイクサイドファミリーリゾート」、そして南会津の高原地帯の「ハイランドナチュラルプレイリゾート」の3つの基本ゾーンで構成されている。『とうほく財界』(1988年7-8月号)によると、計画が策定された時点では民間施設でおよそ2000億円の投資が、公共施設で160億円の投資が見込まれていた。開発地域には国立公園の区域が含まれており、民間業者だけでは用意に手がつけられなかった「聖域」が、政府あるいは地方自治体と、民間企業とが共同出資する「第三セクター」が事業者となることで開発が許可される――という計画だ。磐梯山と猪苗代湖の周辺には、昭和62(1987)年には500万人の観光客が訪れ、「東京から最も近いみちのく」として人気があるのだと、『とうほく財界』の記事に書かれている。

この時期、会津へのアクセスは飛躍的に向上しつつあった。昭和46(1971)年に着工した東北新幹線は、昭和57(1982)年に大宮―盛岡間が開通し、その3年後に上野駅まで乗り入れている。東北新幹線を利用すれば、会津まで75分となり、「東京近郊リゾート」となった。そのほかにも、昭和61(1986)年には浅草―会津高原間に会津鬼怒川線鉄道が開通し、郡山―会津坂下を結ぶ磐越自動車道も整備が進められ、福島空港の開港も控えていた。こうしたアクセスの向上を受け、福島県はフレッシュリゾート地域への入り込み数を年間1千万人と予測していた。

「インフラ整備が進むにつれて、お客さんが増えてきたという実感は、私たちにもありますね」。渡部さんはそう教えてくれた。「昔で言うと、私が小学生のころに磐梯吾妻スカイラインという有料道路が開通して、大きな弾みになったんですね。団体客のバスツアーがはじまって、うちの旅館が昼食場所になったりして、それで忙しくなったんです。1980年代になると、さらに交通網が整備されて、お客さんの発地が変わってくるんですね。今までは県内や隣接県からの観光客だったところが、だんだん首都圏からお客様がくるようになったのはおぼえてますね」

「東京からハイヒールのままリゾートへ」

リゾート法が制定される以前から、1980年代には日本各地でリゾート開発が進められつつあった。会津フレッシュリゾート構想も、計画自体はリゾート法以前が進められていたものだという。

会津フレッシュリゾート構想が承認された昭和63(1988)年は、磐梯山が噴火して100年を迎える節目の年でもあった。『財界ふくしま』(1988年8月号)には、「磐梯山噴火百年記念」と銘打ち、福島県の企画調整部長と周辺自治体の首長による座談会が収録されており、「噴火百年」は「全国に会津をPRする絶好の年」と、企画調整部長は息巻く。この年には猪苗代町・磐梯町・北塩原村の共同主催により、噴火で命を落とした477名の供養祭が予定されていることが語られており、会津フレッシュリゾート構想でも自治体の垣根を超えた取り組みについて意見が交わされている。リゾート地としての会津の魅力は、「全国的に有数な、非常に優れた自然景観」があり、「ウインター・スポーツだけでなく、夏の高原性の機構を活用した避暑などにも適している」上に、「歴史的にも文化的にも優れた財産」があり、「文化活動の場としても適した地域」だと、企画調整部長は語る。さらに、交通のアクセスが向上したことで、「首都圏からの半日行動圏になりつつある」ことにも言及されている。そういえば、ぼくがこうして会津を訪れる決め手となったのも、「首都圏から半日で行ける」ことだった。

リゾート開発において鍵を握るのが、アクセスの良さだ。たとえば、北海道の南富良野町に隣接する占冠(しむかっぷ)村は、林業と農業の村だったが、政府の減反政策の煽りを受けて離農者が相次ぎ、1960年代後半から急速に過疎化が進んでいた。そこで村は、観光に村の存亡を賭け、リゾート開発誘致の道を選んだ。こうして昭和58(1983)年にスキー場やリゾートホテルからなる「アルファリゾート・トマム」が開業する。当時の謳い文句は「東京からハイヒールのままリゾートへ」だ。

観光に未来を託した自治体は、数えきれないほどあった。新潟県湯沢町もそのひとつだ。

街のほとんどを山林が占める湯沢町は、農地も少なかった。川端康成の『雪国』で知られる温泉と、降り積もる雪はあるけれど、スキー場を開発する資金とノウハウはなかった。この湯沢町の観光開発に乗り出したのが西武グループの総帥・堤義明である。堤が山を買い取って一大リゾート地とする構想を立ち上げると、地元も積極的に協力し、昭和36(1961)年に苗場国際スキー場がオープンする。最初のうちはスキー愛好家が集うリゾートだった場所が、昭和57(1982)年に上越新幹線が開通し、昭和60(1985)年に関越自動車道が全線開通したことで、アクセスが飛躍的に向上した。ここもまた首都圏から1時間15分という好立地であり、温泉街もある上に、全国有数のスキー場エリアだ。スキーがブームとなったバブルの時代にあって、湯沢町ではリゾートマンションの建設ラッシュが始まり、「東京都湯沢町」と呼ばれるようにもなった。平成2(1990)年には既成のリゾートマンションに協議中のものを加えると、戸数は実に1万6353戸に及んだ。人口9000人の湯沢町に、住民の数をはるかに上まわるリゾートマンションが建設されてゆく。こうした乱開発は混乱を招き、町の水道給水能力は追いつかなくなり、ゴミ収集車はパンク状態となった。

リゾート開発の弊害が生じたのは、湯沢町に限った話ではなかった。

会津フレッシュリゾート構想にともない、会津では県によるマリーナやレクリエーション公園の建設がはじまり、ゴルフ場やスキー場、リゾートホテルの建設計画がいくつも立ち上がった。リゾートバブルにより、ペンションや別荘の建設計画が相次いだ裏磐梯の北塩原村では、深刻な水不足により、平成2(1990)年の夏には「給水凍結宣言」が出されている。自治体の言い分としては、「あくまでも給水対象は定住者であり、リゾート客は想定外」というものだったが、基本計画なしに開発を受け入れた結果として、水不足に陥ったのだ。全国各地でリゾート開発が計画されると、自然破壊や環境汚染が懸念されるようになった。

昭和60(1985)年に猪苗代町長に初当選を果たした西村寅輔は、「観光開発の充実」を政策に掲げながらも、「あまり自然を破壊しないことを町民に訴えてきました」と選挙戦を振り返っている。そしてもうひとつ、「クリーンな町政、清潔な町づくり、町政の信頼回復」も目標として挙げている。1980年代の猪苗代では、スキー場のリフト増設をめぐる汚職事件が発生したり、リゾート開発に向けた土地売買に絡んで公文書偽造事件が発生したりと、開発に絡んだトラブルも多発していた。また、表磐梯山麓に12階建のリゾートマンションが建設されると、磐梯山の景観が遮られてしまった。これに地元からは批判の声が高まり、その経験から「猪苗代町まちづくり指導要綱」が制定され、景観を壊さないようにと高さ制限が設けられるようになった。

「バブルの時代のリゾート開発で、猪苗代町にスキー場が3つできたんですよ」。レイクサイドホテルみなとやの渡部さんは語る。「それも全部、第三セクターの会社が運営してたんです。このあたりは国立公園に指定されてますから、第三セクターの会社でなければ開発許可がおりないということで、行政を入れた第三セクターの会社を立てたんですね。磐梯山にスキー場ができたというのは、磐梯山に傷をつけられたというイメージがありますから、バブルの影響があったといえばあったんですけど、今考えるとあのぐらいで済んでよかったなと思いますね。結局のところ、グランドデザインがなかったんですよ。裏磐梯のほうだと、ペンションができては潰れ、あるいは経営者が交代してを繰り返したんですけど、猪苗代湖畔のエリアに関して言うと、ヨットハーバーは整備されましたけど、そんなに開発が進まなかった。というのも、ほとんどが官地で、民地がなかったことが功を奏したのか、うちのあたりはあまり開発が進まなかったですね」

磐梯山のスキー場やホテルに関しては、高さ制限を超えるものが建設されたり、国立公園の線引きを変更したりと、強引に開発が進められた例もあるそうだが、猪苗代湖畔ではそこまで荒っぽい開発はおこなわれなかったということだろう。裏を返すと、バブルの時代にはスキー熱が高まったことで、磐梯山周辺では強引な開発が進められたということなのかもしれない。

「うちの建物も、国立公園のなかにあるもんですから、建物が古くなってきても改築が難しいんです。木が生い茂ってきても切れないし、なにも手をつけられなかった。逆に言うと、そんな縛りがあったから、乱開発されなかったところもあるんですよね。ただ、規制が厳しすぎるせいで廃墟になる建物が出てきたことで、最近になってようやく方針が変わってきたところがあるんです。廃墟になるよりは綺麗に継承してもらえるように、『環境に配慮した建物だったら改築も許可しますよ』と」

船宿として出発した「みなとや旅館」は、明治10(1877)年に創業している。その敷地が国立公園に指定されたのは、ずっと時代が下ったあと、昭和25(1950)年のこと。現在の本館は昭和49(1974)年に建て替えられたものだが、その時代にも規制が厳しく、苦労したそうだ。モータリゼーションが進みつつある時代にあって、建物は洋風のホテルに、客室は畳部屋とベッドを組み合わせた和洋室にリニューアルした。さらに時代がくだった平成6(1994)年、「湖畔の宿みなとや」から「レイクサイドホテルみなとや」に名前も変更している。

アーバンライフとカントリーライフ

気づけばチェックイン時刻の16時を迎えていた。渡部さんにお礼を言って、チェックインを済ませて部屋に向かうと、そこは猪苗代湖が一望できる部屋だった。夕暮れを前にして、気温はすでに氷点下まで下がっているけれど、思わず窓をあける。外からはきゅるきゅるきゅると不思議な音が無数に聴こえてくる。それは湖畔に集まる水鳥の鳴き声だった。

今日は平日とあって、浜辺に観光客の姿は見当たらなかった。数えきれないほどのカモと、そして白鳥が10羽ほど水辺に佇んでいる。今年(2023年)は12月に大雪が降ったせいか飛来数が少ないのだと、鬼多見さんが教えてくれたことを思い出す。日が暮れる時間まで、じっと猪苗代湖を眺めていた。ここにはただ猪苗代湖があるばかりだ。コンビニはおろか商店もなく、最寄りの飲食店は3キロ離れた「ドライブイン湖柳」のあたりまで行かなければならない。Googleマップは徒歩38分と表示しているが、雪道を歩けばもっとかかるだろう。一泊二食付のプランにしておいてよかった。

夕食はホテルの一階にある「中国料理 西湖」に用意されていた。ホテルが今の建物になった当初は洋風レストランだったが、猪苗代にも洋食店が増えはじめたことで、90年代半ばに中華に切り替えることにしたのだという。前菜、大正海老の辛子ソース煮込み、牛肉とニンニクの芽の細切り炒め、イカの黒胡椒炒め、春巻き、海老フライ、中華風野菜サラダ、薬膳しゃぶしゃぶ、白身魚の薬味ソース、フカヒレスープ、西湖特製炒飯、手作り杏仁豆腐。たっぷり12品の豪華なコースだ。ビールを一杯飲んだあとは、料理に合わせて紹興酒を注文する。レストランはガラス張りになっていて、ここからも猪苗代湖が見える。夕食を食べているあいだも、部屋に戻ったあとも、日が暮れて真っ暗になった猪苗代湖を眺めていた。レストランには売店が併設されていて、土産物が販売されていた。「つるしたくあん」、「そばの実なめこ」といった渋い特産品に、会津の地酒、赤べこが並んでいる。野口英世が描かれたカップ酒を3本買って部屋に戻り、ただ湖を眺める。水鳥たちの姿はもう暗くて見えないけれど、鳴き声はもう聴こえなくなっている。

「猪苗代で越冬する白鳥が増えてくると、うちの庭先を飛びまわる声で目が覚めるようになってきたんだ」と、鬼多見さんは語っていた。朝日が昇る頃と、夕陽が沈む頃に鳴き声が聴こえてくるのだ、と。

「レイクサイドホテルみなとや」がある長浜でも、日の出の時刻が近づいてくるとまた鳴き声が響きはじめる。窓を開けてると、空は少しずつ白くなり、稜線の際が橙(だいだい)色に輝きはじめているところだ。

昨日からずっと、湖を眺めてばかりいる。雄大な自然を前にして、ただ無心に過ごす場所が「リゾート」なのだろう。

日本観光協会が発行する雑誌『観光』(1989年1月号)には、「成熟化社会の中の観光とは何か」と題した特集が組まれていた。その巻頭に掲載された中山裕登「社会の成熟化と観光・レジャー活動」によれば、この時代には「成熟化」という言葉が盛んに使われていたのだという。物質的な豊かさがある程度の水準に達したことで、質の高い生活を楽しむためにはお金で買えない部分がますます増えてきているのだとした上で、著者はこう続ける。

要するに成熟化社会の観光・レジャー活動は、他の生活活動と完全に切り離された非日常的な活動として存在するものではない。それは文化活動とも、住生活とも、さらには「仕事」とも、密接なつながりをもって展開されようとしている。この意味でアーバンライフとカントリーライフは、それぞれの側に住む人にとって別個のライフスタイルとして存在しているのではなく、どちらの側のひとにとっても密接につながったものになりつつある。成熟社会の観光地とは、これらさまざまなライフスタイルを持つ人々の交流の拠点と考えられる。

観光地のサイドからいえば、1日だけやってくる「見物客」や、1泊かせいぜい2〜3泊の「宿泊客」だけを相手にしていれば良い時代ではない。年に数回やってくる「リピート客」、1週間あるいは1ヵ月という「長期滞在客」、週末にやってきたりあるいはこちらが本拠で大都市に週2、3回通う「マルチハビテーター」、さらにはこちらに住居を移した「定住者」、このような多様な層を視座においた新たな空間づくりが課題となる。

バブルの時代に人々が思い描いたリゾートの姿は、どれだけ現実のものになったのだろう。1980年代頃から週休二日制が普及し、2000年前後にはハッピーマンデー制度が導入されたことで祝日が移動し、三連休も生まれた。ただ、ヨーロッパのように1か月近くバカンスをとるのは難しく、長い休みといえばゴールデンウィークとお盆、年末年始の休暇くらいで、ラッシュに巻き込まれながらせわしない移動を余儀なくされる。かくいう僕も、ここ猪苗代には一泊滞在するだけだ。リゾート法の制定から35年が経った今も、のんびりリゾートで過ごす生活習慣というのは、あまり浸透した感じは見られない。

山の稜線のきわは、どんどん明るく輝きはじめている。せっかくだからと、目いっぱい暖かい格好をして外に出てみる。波打ち際にカモがひしめき合っている。これぐらい大きな湖になると波があるのだ。湖を泳いでいるカモもいる。空が明るく輝きはじめているせいか、湖上のカモたちは逆光になり、シルエットだけが見える。湖面は朝日の橙色と、まだ夜の気配を残した群青色が混じり合い、とても美しかった。その風景に見惚れていると、湖畔を埋め尽くしていたカモたちが一斉に飛び上がった。ひとつのかたまりのようになって、上空を大きく3周すると、また一斉に湖の上に着陸し、何事もなかったかのように泳ぎ出す。

こうして目の前に広がる自然の美しさは、ただ天然の恵みとして存続しているわけではなく、誰かの営みによって維持されている。その営みを、こうして眺めている。

「結局のところ、最後は人なんですよ」。昨日の夕方に話を聞かせてもらった渡部さんの言葉を思い出す。「観光庁が掲げるキャッチフレーズで、私も好きなのは、『住んでよし、訪れてよしの地域づくり』というものなんですね。観光に出かける場所には、施設もあれば自然もありますけど、最後はその土地の人と触れ合って、『あそこに出かけたときに、あんなに親切にしてもらったな』ということが思い出に残ると思うんです。観光はね、やっぱり最後は人なんです。だから、観光でやってくる方たちに楽しんで帰ってもらうためにも、住んでいる人たちが『こんな良いとこないよ』って自慢したくなる――そういう誇りを持つことが大事だと思うんです」

やがて日が昇り、朝を迎える。今日は土曜日とあって、9時頃になると湖畔の駐車場には次々と自動車がやってくる。そのほとんどが県内ナンバーだ。小さなこどもを連れた家族連れの姿もある。なかには食パンを手にした人もいて、水鳥に餌付けをしている。明け方には姿を見かけなかった白鳥も、今日は休日で行楽客が多いことを把握しているのか、いつの間にか湖畔にやってきている。

行楽客で賑わう浜辺の向こうには桟橋がある。そこには亀の姿をした船と、白鳥の姿をした船が停泊している。猪苗代観光船が運営する「かめ丸」と「はくちょう丸」だ。

これらの船は、磐梯観光船が運航していたものだ。会津バスの子会社として昭和34(1959)年に設立され、最盛期には年間10万人の旅客を乗せて航行していた。ただ、2011年に東日本震災が起こると旅行客が減っていたところに、新型コロナウイルス感染症の流行が拡大し、2020年6月に倒産してしまう。

「うちのホテルも、震災があったあとは『旅館業は厳しいだろうな』と思っていたんです」と渡部さん。「震災前は修学旅行を中心に営業してましたので、しばらくは戻ってこないだろうな、と。われわれの商売は待ちの商売なんですけど、待ってて来ないなら、逆転の発想で『こっちから行こう』と、料理のデリバリーをはじめたんですよ。そうしたらば、葬祭場さんから引き合いがって、お通夜の料理を提供したりしながら、なんとか10年やってきたんです。それがコロナ禍になって、葬儀のときに集まって食事をすることもなくなって――これには参りましたね」

コロナ禍は観光業に大きな打撃を与えた。猪苗代にも大きく影を落とし、遊覧船を運航する会社が破産し、「かめ丸」と「はくちょう丸」は桟橋に停泊したまま動かなくなった。この出来事は全国でも報じられ、運航停止を惜しむ声が寄せられた。

「全国放送のニュースで取り上げられたことで、全国から『船をなくさないで』という声が寄せられたんです。ただ、うちのホテルもコロナ禍で経営が大変なことになってましたし、私ももう70過ぎてますから、『誰か引き継いでくれる人はいないか』と奔走したんですよ。なかには『うちで引き取りたい』と言ってくれる県外の業者さんもいたんですけど、それは解体して引き取るという話だったんですね。かめ丸とはくちょう丸は60年以上にわたって猪苗代湖で泳ぎ続けてきた船ですから、どうにかして地元に残したいと思ったんです。でも、一年経っても手を挙げる人がいなかったから、じゃあ私がやりますということになったんです」

こうして渡部さんは、2021年7月にクラウドファンディングを立ち上げた。1500万円を目標額に掲げ、船のリニューアルにかかる費用や広告宣伝費、それに運航会社を立ち上げるための資金を募った。およそ2か月間のあいだに、1000人近い方から支援があり、1638万円もの金額が集まった。こうして2021年10月29日、はくちょう丸がひと足先に運航を再開した。もう一艘のかめ丸は、内装リニューアル工事を施し、レストラン仕様に改装され、猪苗代湖に戻ってきた。

「支援をしてくださった方たちというのは、北海道から沖縄まで――まさに全国各地にお住まいの方だったんです。それにびっくりしましてね。ああ、こんなにもいろんな方に愛されている船だったんだなと、あらためて実感しましたね。その意味ではもう、これは全国の皆様の船だから、期待に応えられるように頑張らなきゃいけないなと、少しプレッシャーもありました。だから、運行が再開できた日というのはもう、感無量でしたね」

あの人たちが暮らしている場所

せっかく猪苗代までやってきたのだから、はくちょう丸に乗船していくことにする。冬季は土日祝日のみの運航で、お昼時のランチクルーズと、翁島という小さな島のまわりをめぐる「翁島めぐり」が一日3便動いている。僕はこの翁島めぐりの最初の便に乗船することにした。運賃は1500円(小学生以下は半額)、およそ35分間の船旅だ。桟橋には雪が積もっていて、係員が除雪した道を進んで、はくちょう丸に乗り込んだ。

「それでは出航します」と船内アナウンスが流れ、はくちょう丸は動き出す。係員が手を振って船を見送る桟橋が少しずつ遠のいてゆく。

「豊かな自然と美しい眺めの猪苗代湖。磐梯朝日国立公園を代表する観光基地として、また、海から遠い会津の人々にとっては湖水浴やヨット、サーフィンなどのレジャー基地として、大変賑わっています」。録音された音声が、猪苗代湖の説明をする。猪苗代湖の水は、これまで様々な目的に利用されてきた。

湖の西側には、江戸時代の初めごろに開削された「戸ノ口堰」があり、ここから会津に流れる水はコメを実らせ、阿賀川となって日本海に注ぐ。湖の東側には安積疏水(あさかそすい)がある。これは明治時代、日本で初めての国直轄による農業水利事業として開削がはじまったもので、85万人もの人手を投じた突貫工事を経て明治15(1882)年に完成し、収穫高を5倍にまで増やしたという。

また、明治32(1899)年には安積疏水を利用して「沼上水力発電所」が建設され、郡山が工業都市として発展してゆく原動力となった。猪苗代湖周辺には次々と発電所が建設され、大正3(1914)年には田端変電所まで225キロにも及ぶ送電線が開通し、東京まで電力を供給するようになった。「安積疏水には15か所もの発電所が建設され、猪苗代水系発電所群と呼び、文字通り文明のひかりを灯して、日本経済の一翼を担ってきました」と、アナウンスは続く。

遊覧船に乗船しているのは、地元の人が多いのだろう。こうして船内アナウンスに聞き入っているのは僕くらいで、他の人たちは湖上から見える景色を指さしながら、あのあたりが××だ、こっちは××のあたりだと、しきりに語り合っている。ぐるりと猪苗代湖を周遊すると、はくちょう丸はもとの桟橋に引き返してゆく。

今からずっと昔、まだ磐越西線が開通していなかった時代には、貨物を積んだ船が行き交っていた。渡部さんによれば、貨物を運んだ帰り道、空になった船に旅客を乗せることもあったそうで、それが猪苗代湖における遊覧船のはしりではないかと教えてくれた。やがて磐越西線が開通し、湖上交通の需要が減った時代に、「みなとや旅館」の2代目は遊覧船事業に乗り出している。貨物船の船長だった人たちを雇い入れ、遊覧船を走らせていたのだそうだ。

貨物を積んだ船は、此岸と彼岸を結ぶ。一方の遊覧船は、乗客をどこか別の岸に運ぶこともなく、円を描いて同じ場所にたどり着く。ただ、桟橋に到着した乗客は、乗船前の状態に引き戻されるわけではなくて、その目には船上で目にした光景が宿っている。

湖上から白鳥の姿が見えた。白鳥を目にすると、鬼多見さんのことが思い出される。桟橋が近づいてくると、その向こうに「みなとや」が見えてきて、渡部さんのことが思い出される。そろそろお昼どきだけど、何を食べようかと考えていると、昨日立ち寄った「ドライブイン湖柳」のご夫婦の姿が思い出される。これから東京に戻り、日常生活を過ごしているなかで「猪苗代」という地名を聞けば、ああ、あの人たちが暮らしている場所だと思い出すのだろう。

旅先で目にした光景も、時間が経てば記憶が薄らぎ、少しずつ忘れてゆくのだろう。ここで目にした光景を忘れまいと、カメラを構えて、何度となくシャッターを切った。

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橋本倫史『観光地ぶらり』次回第5回「羅臼」は2023年4月19日(水)17時配信予定です。

筆者について

橋本倫史

はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
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