観光地ぶらり
第8回

世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島

暮らし
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海外旅行に出かけると、その街の教会に足を運ぶようになった。祈りを捧げる人の姿に出くわすと、その土地の精神に少しだけ触れられたような気がするからだ。日本でもっとも教会が多いのは長崎県、特に集中しているのが五島列島だ。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録申請されたころから、いつか五島の教会を訪ねてみたいと思っていた。

祈りを捧げる人の姿に出くわす

窓から射し込むひかりが、祭壇を明るく照らしていた。こぢんまりとした教会には、女性がひとり座っていて、扉の音にこちらを振り返った。祈りを邪魔してしまったのではないかと頭を下げ、いちばん後ろの椅子に腰を下ろす。街は喧騒で溢れていたのに、外の音はほとんど聞こえてこなかった。こうして教会に佇んでいると、なぜだか自然と敬虔な気持ちになる。そんなことを考えながら、しばらく天井を見上げていた。あれはたしか、オーストリアのザルツブルクにある小さな教会を訪ねたときのことだ。

10年くらい前から、海外旅行に出かけると、その街の教会に足を運ぶようになった。普段は信仰と無縁に暮らしているのに、旅に出かけたときだけ教会や神社仏閣を訪ねるというのもおかしな話ではあるのだけれど、祈りを捧げる人の姿に出くわすと、その土地の精神に少しだけ触れられたような気がする。そんな気がするというだけで、たった数日の滞在で土地の精神に触れられるはずなんてないとわかっているのだけれど、少しは何かに触れられるんじゃないかと期待して、足を運んでしまう。

日本でもっとも教会が多いのは長崎県だそうだ。カトリック信者の数がもっとも多いのは東京大司教区だが、長崎大司教区はそれに次ぐ第2位だという。そして、信者の比率で言うと、全国平均が0.34パーセント、東京が0.48パーセントであるのに対し、長崎は実に4.37パーセントにも及んでいる。長崎にはこぢんまりとした教会が多いのが特徴らしく、小さな教会が特に集中しているのが五島列島だ。

五島列島は、長崎港から西に100キロメートルほどの距離にあり、大小合わせて152もの島々から成る。「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産に登録申請されたころから、いつか五島の教会を訪ねてみたいと思っていた。

せっかくなら、ひとつの島だけじゃなくて、あちこちの島を訪ねてみたい。ただ、問題は移動手段だ。快適なのはレンタカーだが、五島列島を結ぶ航路には、自動車を積めないものもあるらしかった。前回しまなみ海道を自転車で旅したのが思いのほか楽しかったこともあり、長崎駅の近くで1週間ほどレンタサイクルを借りて、五島をめぐることにした。最初に目指すのは、五島列島の西に位置する福江島だ。

かつて唯一の開港地だった出島の近くに、長崎港ターミナルはあった。ここから五島列島への定期船や軍艦島の観光船が出ている。九州商船の窓口で手続きをして、渡された地図を手に自転車を走らせてゆくと、カーフェリーの乗船口にトラックが何台も停まっているのが見えた。自転車で高速道路に侵入してしまったら、こんな心地がするんじゃないか。

気おくれしながらトラックの合間をすり抜け、どうにか自転車を駐輪し、客室に上がる。雑魚寝ができる2等船室には、僕の他に10名ほど乗客が寝転んでいた。そのなかに、ケンタッキーフライドチキンのバーレルを携えた人の姿があった。五島にはケンタッキーがなく、お土産に買って帰るのだろう。僕が生まれた町にも、ケンタッキーやマクドナルドは存在せず、ちょっとあこがれの存在だったなと、懐かしくなる。ふたつ上の兄は、土曜の夜に隣町の塾に通っていた。隣町にはマクドナルドもケンタッキーもあった。だから、兄を迎えにいく母の車にいつも同乗して、シェイクやフライドポテトをねだって買ってもらっていた。あの頃はどうしてマクドナルドやケンタッキーが輝いて見えたのだろう。上の世代のように、「そこにアメリカを感じていた」なんてことではない気がする。ただ、自分が暮らす田舎町にも、遠く離れた都会と同じ商品が並んでいるということが嬉しかったのではないか。

長崎港を出港すると、少しずつ船の揺れは大きくなった。台風が近づいているとはいえ、波が高くなる予報は出ていなかったのに、まっすぐ立っているのが難しいくらいの揺れが続き、外洋を進んでいるのだと実感する。3時間ほどで福江港に到着する頃には、とっぷり日が暮れていた。港のあたりは静まり返っていたけれど、商店街に出てみると赤提灯がともっていた。少し夜も更け、二軒目のスナックに流れていく人たちとすれ違う。どこか静かに飲めそうなお店はないかとぶらついていると、ビルの2階、ちょっと奥まった場所に縄暖簾が見えた。

「盛」という酒場に入り、とりあえずビールを注文してメニューを眺めていると、お店の大将が「刺身の盛り合わせ、1人前でつくりましょうか」と声をかけてくれた。カツオとイサキ、みずいかにキハダマグロ、それにウニ。カツオと聞くとたたきで食べる印象しかなかったけれど、このあたりで獲れるマガツオは血合が少なく、刺身で食べても臭みがなくて美味かった。そのあとも、「ちゃんこすり身」や、五島牛のにぎりなど、五島ならではの料理をおすすめしてくれて、おすすめされるままに注文した。どれも美味かったし、量もちょうど良い按配だった。

せっかくだから、明日の旅程も大将のおすすめに従ってみよう。そんな気持ちが湧いてきて、おすすめの場所を尋ねてみると、「ちょっと遠いんですけど、大瀬崎灯台あたりの景色は良いですよ」と大将が教えてくれた。さっそくGoogleマップで検索すると、大瀬崎灯台まで37キロと表示される。さすがに自転車で出かけるには遠いけれど、せっかくおすすめしてもらったのだからとレンタカーを半日だけ手配することにした。

大瀬崎灯台を目指して、朝から車を走らせる。山道を抜けると、ところどころに集落があり、田んぼが広がっている。台風の多い土地だからか、平屋が多いように感じる。屋根には、いぶし瓦。釉薬を使わずに焼き上げる瓦で、年月を経ると色にムラが出るのが特徴とされている。年季の入ったいぶし瓦は、ひとつずつ微妙に色が異なり、屋根がモザイクのようになっていて美しく感じる。

小一時間ほど車を走らせ、大瀬崎灯台に辿り着く。灯台は切り立った断崖の上に立っており、近くの展望台からその姿を見下ろせる。明治12(1879)年に竣工した灯台は、全国でも最大級の200万カンデラの明るさを誇り、そのひかりは50キロ先まで届くという。駐車場には観光バスが停まっていて、団体客が「きれいだねえ」と口々に言い合っている。ここ大瀬崎灯台だけではなく、そのあと訪れた井持浦教会でも、そのほかの場所でも観光バスと出くわした。それぞれ違うバスだったから、五島を訪れる観光客はたくさんいるのだろう。

井持浦教会は、明治30(1897)年、五島で最初のレンガ建築による教会堂として建てられた教会だ。この教会は、五島で初めて「ルルド」がもうけられた教会としても知られている。ルルドとは、ピレネー山脈の麓にある南フランスの町の名前だ。1858年、ルルドに暮らす少女が、薪拾いに出かけたところ、洞窟で聖母マリアと出会い、聖なる泉を示された。その泉の水を飲むと、病が癒やされるという奇跡があらわれたのだという。ルルドには聖母マリアの像が置かれ、紫陽花の花が飾られていた。

井持浦教会の近くには、立谷教会の跡地もあった。明治6(1873)年、この地に教会が建設されたが、老朽化によって昭和62(1897)年に自然倒壊し、現在では聖母マリア像とベンチだけが教会跡地に置かれていた。ステンドグラスが美しい貝津教会。丘の上に立つ水之浦教会。公民館のようにこぢんまりとした宮原教会。海岸線に沿って島をめぐりながら、教会を見学する。ほとんどの教会は海にほど近い場所に建っていた。五島列島の教会は、「浦」や「泊」や「浜」や「津」といった名前が含まれているものが多くある。そんなところにも、五島のキリシタンの歴史が刻まれている。

ひかりがやってくるほう

日本にキリスト教が伝来したのは、1549年。種子島にたどり着いたフランシスコ・ザビエルによって伝えられたのだと、社会の授業で教わった。その翌年、ザビエルは平戸に上陸し、本格的な布教を始めている。全国初のキリシタン大名となった大村純忠が長崎を開港し、教会を建設させたことで、長崎はキリシタンの街として繁栄してゆく。キリスト教に傾倒し、仏教や神道を弾圧する領主を快く思わない勢力が謀反を起こしたときには、純忠は一心にデウスに念じて奮戦し、どうにか苦境を切り抜けることができたのだとされている。そんな話を聞きつけた五島の領主・宇久純定は、キリスト教の宗旨を学びたいと、宣教師の派遣を求めた。その願いが叶って、1566年にふたりの修士が福江島に派遣された。まずは純定の家臣25名が洗礼を受け、キリシタンとなった。福江城から北に数キロ離れた奥浦という村に暮らす人たちは、「信仰に入る決心をしているからご来村ありたし」と宣教師を招き、120名ほどの村民が入信し、お寺の仏像を移動させて教会堂を立ち上げている。その熱意は、一体どこからやってきたのだろう。

ルイス・フロイスの『日本史』には、当時の五島について、こう記されている。

【引用】島は他の重要拠点より懸離れて居り、その幅員の狭小さゆえに、一般に貧困で、塩、魚油、魚類を売って、米、麦、衣服、その他の資糧を求めて居る(略)島民の迷信とも云うべきはクシャミを凶兆として、ひどく忌むことで、殿の屋形に参館するか、殿に召されるかした時でも、万一その朝クシャミをしたならば登城の義務を除かれる。そればかりか、登城の途中クシャミをする様なことでもあったら、自宅へ引返して謹慎し、その日は殿の面前にまかり出ることも出来ない(略)

一般島民はいたく禍福吉凶を気にし、あらゆるものをその兆と見るので、迷信的習慣が多く、不吉な日や時間や或る一定の季節には事を為さないことにして居る。土地は狭く小さく、生活必需品にすら事欠きながら、生産する米の大部分を迷信的行為に消費して顧みない……塩焼きに使用する薪を切りだすにも、最も適当な山林には手を触れないで、之を神仏に奉納する。塩焼竈に故障が起ってはと恐れるからである。

宇久純定の家臣たちは、宣教師アルメイダの談義を14日間にわたって聞いた上に、一ヶ月近くも熱心にオラショを学んだのち、洗礼を受けている。素養のある武士はともかくとして、アルメイダを熱烈に歓迎した村の人たちは、ひとつひとつの教理を理解した上で理解できていたのだろうか。村人たちがこぞってアルメイダを歓迎したという熱意には、そういった理屈を超えたなにかを感じる。

フロイスの『日本史』に記されているように、「一般島民がいたく禍福吉凶を気にし」ていたのは、「生活必需品にすら事欠」く暮らしぶりだったからだろう。厳しい生活におかれているからこそ、宣教師からすると「迷信」としか思えないようなことを頼りにして、生活が少しでも楽になるようにと願っていたのだろう。そこに神の教えを説く異国の人間がやってきたと聞いたとき、その教えの内容よりも、遥か遠くの国からやってきた教えというものがまず、輝いたものに感じられたのではないだろうか。昭和の時代においてさえ、「舶来」というのは特別な輝きを放っていた。飛行機もなければテレビも新聞もない時代に、遥か遠い異国からやってきたものは、どれだけ輝かしく感じられたのだろう。

ザビエルによって日本にキリスト教が伝えられ、信徒の数は右肩上がりに伸びてゆく。だが、1587年に豊臣秀吉がバテレン追放令を発布。やがて江戸時代に入ると、1613年にあらためてバテレン追放令が出され、翌年には宣教師や高山右近らを国外に追放されている。宣教師の処刑も相次ぎ、1637年には島原の乱が起こっている。キリシタンに対する弾圧が激しくなり、五島のキリシタンの歴史もいちど途絶えることになった。再び信仰の火がともるのは、江戸の後期、寛政年間(1789-1801年)のこと。きっかけは、大村藩と五島藩のあいだで協定が交わされ、西彼杵半島に暮らす大村藩の領民を五島に移住させたことだった。西彼杵半島にはひそかに信仰を守り続ける「潜伏キリシタン」が多く暮らしており、108名が官約移民のようにして五島に移り住んだのだ。

「五島へ五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも」。最初の移住者には耕作地も用意されていて、暮らしぶりは良好だったことから、そんな俗謡が歌われるようになった。そして五島に移住するひとびとが相次ぎ、およそ3000名が移り住んだという。ただし、禁教の時代はしばらく続き、信仰の自由が保障されたのは明治6(1873)年のことだ。

この明治6年に、フランス人宣教師・フレノが五島を訪れ、堂崎地区の浜辺でクリスマス・ミサが執り行われている。これが五島で初めてのクリスマス・ミサだった。明治12(1879)年、この浜辺の近くに最初の小聖堂が建設され、用地を拡張したのち、明治41(1908)年に現在の堂崎天主堂が完成。かつてはここが五島の中枢教会だったが、昭和49(1974)年には長崎県指定有形文化財に登録され、現在は資料館となっている。

煉瓦造りの堂崎天主堂には、潜伏を余儀なくされた時代の品々がたくさん収蔵されていた。目を引いたのは「マリア観音」だった。近況の時代に、仏教徒を装いながら信仰を守るために、観音菩薩像を聖母マリアに見立て、祈りを捧げたものである。マリア観音は白磁のものが多く、東洋ふうの顔立ちをしていて、こどもを抱えている。サイズは様々で、手のひらサイズのものもあれば、青銅のプレートに刻まれたものもあって、全部で40以上のマリア観音があった。

資料館には古い写真も飾られていて、名取洋之助が昭和初期に撮影した写真も展示されていた。海のそばに建てられた堂崎天主堂には、近くの島から小さな船に乗って信徒たちがミサに集っていたそうだ。写真のなかには、浜辺で正装に着替えるひとびとの姿が記録されている。濡れた格好でミサに参列しなくて済むように、船を降りてから着替えていたのだろう。木の枝にはパナマ帽が鈴なりだ。男性たちはパナマ帽をかぶって教会を訪れ、中に入る前に帽子を脱ぎ、木の枝にかけておいたらしかった。信仰を公にすることができる晴れやかさが、写真から伝わってくる。堂崎教会のシスターたちは、ミサの30分前になると岬に立ち、寄せ鐘の代わりに法螺貝を吹いていたのだという。この音が響き渡ると、近くの島に暮らす信徒たちは競い合うように船を漕いだのだと、説明書きにある。

堂崎天主堂は、海に向かって建てられている。これは信徒たちが暮らす近くの島々に向かって建てられたのだと、ガイドブックには書かれていた。あるいは、近くでカフェを営む方は、これは東に向かって建てられているのだと教えてくれた。東は太陽がのぼる方角であり、キリスト教においてひかりがやってくる東は重要な意味を持っているのだ、と。

福江島の東隣に、久賀島がある。長崎からのフェリーが着いた福江港からも久賀島行きの航路が出ているが、堂崎天主堂の近くに位置する奥浦港からも定期船が出ているらしかった。奥浦港に向かってみると、ピンク色のド派手な船が停泊している。フェリー「ひさか」だ。この船もカーフェリーなのだが、乗客は僕しかおらず、悠々とした気持ちで自転車を積み込んでデッキに上がる。奥浦港を出航すると、10分ほどで白く輝く教会が見えてくる。久鹿島の玄関口に建つ浜脇教会だ。久鹿島で最初の教会として明治14(1881年)に建立されたのが、この浜脇教会である。潮風に晒されて老朽化が進んだ上に、増え続ける信徒の数に対応できなくなったために、半世紀後の昭和6(1931)年にコンクリート造の教会に建て替えられた。白い外壁と、すらりと伸びる鐘塔は、海上からもひときわ目を引いた。

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
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