観光地ぶらり
第8回

世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島

暮らし
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五島に移り住めば……

馬の蹄のような形をした久賀島は、五島列島のなかで3番目に大きな島だ。そして、12の項目から成る「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のひとつが、「久賀島の集落」である。

島の玄関口である田ノ浦港から、集落を目指す。浜脇教会を過ぎたあたりから急坂となり、自転車を押しながら山を越えると、集落が見えてくる。隣り合う島でも、福江と久賀ではどことなく住居の佇まいが違っている。島の中央に位置する久賀の集落を抜け、東に進んでゆくと、ひと山越えた先に蕨の集落がある。ここを過ぎるとまた山道だ。電動アシスト付きでもなかなか堪える坂が続くが、登りきったところで視界が開け、海が見えた途端に心が軽やかになる。そんなことを繰り返しているうちに、道路から車線が消え、車が行き違えない幅の道路になる。港から1時間ほど走ったあたりで、「車両進入禁止」の看板があった。駐車場に自転車を停めて、舗装されていない道を下ってゆくと、正面に十字架の掲げられた建物が見えてくる。五輪教会堂だ。

ここ五輪地区に教会が置かれたのは、100年近く前のことだった。浜脇教会が建て替えられることになったとき、教会を持たない五輪地区の信徒たちが申し出て、譲り受けることになったのだ。教会を一度解体して資材を運び、元通りに建て直す労力を思うと、途方に暮れてしまう。ただ、自分たちの集落に教会を建てるということは、どんなに苦労したとしても叶えたい悲願だったのだろう。

こうして初代・浜脇教会は五輪地区に移築され、五輪教会堂となった。老朽化が進んだことで、昭和60(1985)年には新しい教会堂が建設されたが、久賀島の信仰を支えてきた建物を保存しようという声が上がり、もとの教会は「旧・五輪教会堂」として保存されている。

旧・五輪教会堂に入ってみると、清掃な空気が堂内に満ちていて、ちょっとびっくりした。いちど移築されているとはいえ、明治14(1881)年に建てられた教会堂とは思えないほど、澄んだ空気が流れていて、古い建物が帯びがちな淀んだ感じがまるでしなかった。その理由はすぐにわかった。僕が旧・五輪教会堂に到着するのとほぼ時を同じくして、ひと組の夫婦が教会堂を訪れ、まずは床にモップがけをして、教会の隅々まで掃除を始めた。ここからほど近い早崎地区に暮らす、小島満さん・イツ代さん夫婦だ。ふたりとも小さい頃から五輪教会に通う信徒で、ずっと久賀島の風景を見て暮らしてきた。

「ここに来る途中に、蕨という集落があったでしょう。小学校はあそこに通っていたんです。その道路は今みたいに整備されてなくて、獣道みたいな感じだったんですよね。今の時期になれば、草が伸びるでしょう。そこに夜露がいっぱいついてるから、そのまま歩くと靴がじゅくじゅくになるんですよ。だから木の棒を持って、夜露をはたきながら歩くんですけど、それでもやっぱり、学校に着く頃には靴が濡れている。当時はね、このあたりは歩いてくるよりも、船で来たほうが早かったんですよね。親が漁師をしてたんで、ちっちゃい船を持っていたのもあるんですけど、当時は今みたいに車が通れる道路はなかったですからね。新しい教会が昭和60年にできたんですけど、そのときもまだ道路が舗装されてなくて、工事中だったんですよ」

教会堂の窓は開け放たれている。窓の向こうには湾になっていて、漁船が何艘か繋がれている。そこに派手な色をした船がやってきて、10人余りが上陸してくるのが見えた。西隣の福江島や、東隣の奈留島の港には海上タクシーが待機していて、こうして旅客を運んでいるのだそうだ。五島の潜伏キリシタン遺産をめぐる旅行客は、久賀島では旧・五輪教会堂だけを観ていく人がほとんどで、こんなふうに海上タクシーで乗りつける人が多いらしかった。ただ、こんなふうに久賀島に観光客がやってくるようになったのも、ここ最近のことだという。

「日本全体が経済成長していた頃だと、働け、働けの時代だったでしょう。働くことが美徳とされていて、観光に出かける人は道楽者だと言われるような時代だったから、わざわざ旅行にくる人というのはほとんどいなかったですね。そこから1999年に旧・五輪教会堂が国の重要文化財になった時点で、ぱらぱら旅行客がくるようになったんですけど、急激に増えたのは世界遺産に申請するって話が出てきて、この教会がクローズアップされてからですね。ただ、観光客は増えたんですけど、観光にきてこの島に泊まっていく人はほとんどいないんですよ。民宿は一軒あるんですけど、そこに泊まっていくのは工事や仕事関係の人が多くて、ゆっくり一泊しながらこの島を観光する人はほとんどいなくて。でも、この島には非常に長いキリシタンの歴史があるんですよ」

ここ久賀島にも、戦国時代にキリスト教が伝来している。禁教の時代に入ると信徒が途絶えたものの、大村藩から五島藩に潜伏キリシタンが移住した時期に、久賀島にも潜伏キリシタンが移り住んでいる。

五島藩と大村藩のあいだで移民協定が結ばれたのには理由があった。起伏の激しい五島では、耕作可能な平地が限られており、新たな田畑を耕作する必要があった。対する大村藩は人口増加に悩まされており、領民に対して産児制限が設けられていた。男児の出産はひとりまでしか認められず、そのほかは殺すようにと命じられていたのだ。殺さずに育てたとしても、分家を立てることは認められず、大村藩に留まっている限り次男や三男は隠れて生きていかざるを得なかった。

「その当時の人たちの気持ちというのは、想像することしかできないんですけど」。小島さんはそう前置きして、話を続ける。「私はカトリック教徒で、こどもの頃から『キリスト教の教えはこういうもんだよ』と教わってきたんですけど、そのなかのひとつに、人の命を大事にするというのがあるんです。神様から与えられた命だから、これを大事にするという基本的な教えがある。この教えと産児制限というのは相容れないんですよ。神様から恵まれて生まれてくるこどもなのに、長男以外は『殺せ』と言われる。そんな社会のなかでは、とても生きていけないと思うんですよね。これは記録にも残されていますけど、五島に移ってきた人たちは『キリスト教の信仰を守るためにきたんだ』と。五島にくれば、生活はもっと苦しくなるんですよ。いちから山を耕して、畑を作らなければならないわけですからね。どんなに生活が苦しくても、ここに移り住めばこどもを殺す必要もないし、信仰を守ることができるということで、たくさんの人が移ってきたんです」

五島での生活は決して楽なものではなかった。耕作に適した土地にはすでに人が暮らしており、不便な場所に居を構えるほかなかった。「五島へ五島へと皆行きたがる」という俗謡もやがて変容し、「五島は極楽 来てみて地獄、二度と行くまい五島のしま」とうたわれるようになってゆく。

「最初のうちは、家を建てるといっても、そのへんの雑木を伐って、木の枝に棒を通して蚊帳で囲うぐらいのものだったんじゃないかと思うんです。久賀島に住み着いた潜伏キリシタンは、ほとんどが農業をやっていたんですね。生活しやすいところにはもう寺家者(じけもん)が住んでいるから、海の近くだとか、山の奥だとか、不便なところをどうにか開拓して――最初のうちは野草や植物の根を食糧にして食い繋いでいたって、古い記録に残っているんです。作物の主流はサツマイモで、時代が進むにつれて麦を作るようになるんですけど、不便なところだからそんなに収穫もないし、非常に苦しい生活だったんですね。信仰を守り続けたっていうのは、やっぱり苦しさがあったんだろうと思うんです。厳しい生活のなかで、何かに頼らないと生きていけないような精神状態だった。神様にお祈りを捧げて、良いことがあれば神様のおかげだ、恵まれたと考える。私がこどもの頃もですね、『恵まれた』って言葉は頻繁に聞いてましたよ。漁師同士でも、『今朝はどうやった?』と声をかけられたら、『おお、今朝は恵まれたよ』と答える。自分の腕で獲ったんじゃなくて、神様から与えられたものだと考える。この『恵まれた』という言葉はよく聞いてましたね」

五島崩れ――キリシタン弾圧

信仰を心の拠り所にして、新天地での厳しい生活に耐えていた潜伏キリシタンのひとびとに、「悲劇」が降りかかる。時代が江戸から明治に切り替わるころに、「五島崩れ」が発生したのだ。「崩れ」とは、潜伏を余儀なくされた組織が大規模に摘発されることを指す言葉である。

その萌芽が生まれたのは、安政5(1858)年のこと。江戸幕府が米・英・蘭・露・仏と就航通商条約を結んだことで、外国人居留地に教会を建設することが可能となった。これを受けて、フランスからパリ外国宣教会の神父たちが日本を訪れ、長崎の高台に大浦天主堂を建立した。大浦天主堂は「フランス寺」あるいは「南蛮寺」と呼ばれて評判を呼び、多くの見物客で賑わうようになった。この教会はあくまで長崎に居留するフランス人のために建立されたものだったが、物見遊山の見物客も教会に招き入れた。その背景には、「250年ものあいだ禁教の時代が続いた日本に、ひょっとしたら信仰を守り続けているクリスチャンがいるのではないか?」との思いがあった。

献堂式からひと月が経とうとした春の日にプティジャン神父が庭の手入れをしていると、15名ほどの参観者が大浦天主堂を訪れ、扉の前に集まっていた。どうやら扉の開け方がわからず、困っているようだった。神父が一行を招き入れ、祭壇に祈りを捧げていると、ひとりの女性が神父に近づき、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と囁いた。この一行は、浦上に暮らす潜伏キリシタンだったのだ。こうして浦上の信徒が信仰を告白したことで、禁教下の日本で信徒が「発見」されたのである。

これを皮切りに、各地の潜伏キリシタンが続々と大浦天主堂を訪ねてゆく。そのなかには久賀島の信徒たちもいた。明治への改元を目前に控えた慶応4(1868)年、久賀島の信徒たちは大浦天主堂に出かけ、神父からあらためて洗礼を授かった。久賀島に戻った信徒たちは、守札をとりまとめて畑で焼き払い、代官所に「今から神社、仏閣、山伏の為には一文たりとも出し得ません」と申し出て、キリシタンであることが公となった。ほどなくして元号が明治に改められたが、まだ信仰の自由は認められておらず、久賀島の信徒たちは捕縛されてしまう。

わずか12畳ほどの牢屋に200名もの信徒が押し込まれ、酷い拷問を受けた。三角に削った材木の上に正座させ、膝の上に大石をのせる算木責。真っ赤に燃える石炭を手のひらの上にのせる火責。手足を縛って水を飲ませ続ける水責。裸のまま寒風に晒す裸体寒晒。青竹で打ちたたく青竹責。拷問だけでなく、立錐の余地もない牢屋に押し込まれているだけでも信徒たちは疲弊し、身動きできない状態のまま死んでいく者もいた。捕えられた信徒のうち、42名が命を落としている。牢屋の跡地には現在、牢屋の窄(さこ)殉教記念教会が建てられている。

自分とは異なる信仰を持っているというだけで、そこまで苛烈な弾圧を加えられるのか。弾圧の詳細を知るにつれ、そんな思いに駆られる。その一方で、ひとつの疑問が浮かんでくる。自分が信徒だったら、代官所に「私はキリシタンだ」と申し出ることができただろうか――?

キリスト教徒ではない僕が想像してみたところで、信徒の心情を理解できるはずもない。それに、自分と他人は異なる存在なのだから、「もしも自分だったら」と考えるなんて詮ないことではある。ただ、それでもやっぱり、自分が信徒だったら――と想像してしまう。自分だったら、捕まることを恐れて、信仰を内に秘めたまま過ごすのではないか。それが自分で選び取った信仰ではなく、先祖から代々受け継がれたものだとすれば、なおさら名乗り出ずに済ませてしまいそうな気がする。

「私にとっても、ちょっと考えつかないんです」と、小島さんは語る。「宣教師は殺されたり追放されたりして、神父様もいなくなってしまったんです。そこから250年ものあいだ、親から子へ。信仰がずっと伝えられてきたわけですよね。そこで語られていたのは、『七代待てば、助かりのために神父がくるんだ』と。頼るすべもない状況のなかで、七代待てば神父様がくるという言い伝えを信じる――その心の強さはあったんだと思います。だから、黒い船が沖を通りかかると、あれがそうじゃないかって手を合わせていたそうです。そこから長崎に外国人居留地ができて、大浦に天主堂が建って、信徒発見に至る。その情報が久賀島にも流れてきて、代表者が長崎まで船を漕ぎ出すんですよね。神父様に歓迎されて、『今まで守ってきた教えを守り続けなさい』と言ってもらえて、勇気百倍になって帰ってきたんです。それはやっぱり、ずうっと待っていた――待って待って、待ち焦がれていた神父様がついにきてくれたんだって喜びは、相当大きなものだっただろうなと思うんですよね」

250年越しの思いがあったから、久賀島の信徒たちは自ら信仰を名乗り出て、拷問を受けても信仰を手放さなかったのだろう。ただ、牢屋から解放されても、地獄のような日々が続く。家に帰ってみると、家屋や田畑は荒らされ、食料や家財道具は姿を消していた。禁教の時代にはキリシタンに対する偏見が強く、信徒であることを理由に迫害を受けたのだ。

「ただ、記録を見てみると、一部の仏教徒とキリシタンは互助関係にあったと書かれているんです」。小島さんはそんな話も聞かせてくれた。「久賀島に大開(おおびらき)という集落があるんですけど、そこは仏教徒のなかでも次男、三男の人たちが住み着いたところなんです。昔は親の財産を長男が受け継いでましたから、次男、三男は自分の土地を持てないんですよ。どうにか生活していくために、大開のあたりを開拓して――ちょうどその時代に、潜伏キリシタンの人たちが、大開の隣にある赤仁田というところに住み着いた。仏教徒の人たちからすると、キリシタンとはわからないまでも、『この人たちはきっと、何か事情があって移り住んできたんだ』ってことはわかりますよね。でも、大開の仏教徒の人たちは、潜伏キリシタンの人たちを蔑ろにするんじゃなくて、お互いに支え合いながら農業を営んでいたそうです。久賀島にはそういう歴史もあるんです」

仏教徒と潜伏キリシタンが互助関係にあったのは、大開に限った話ではない。田ノ浦港の近くには、ロクロ場という史跡が残っている。かつて田ノ浦港はキビナゴ漁で栄えており、湾内には地引網を巻き上げるためのロクロ場が設けられ、漁の際にはもともとの島民と潜伏キリシタンとして移り住んだ人たちが共同し、網を引いていたそうだ。「仏教徒が潜伏キリシタンの住居を荒らした」というエピソードに触れると、大きな主語で判断してしまいそうになる。でも、「仏教徒」や「潜伏キリシタン」という人格があるわけではなく、そこにはひとりひとりの人間がいるだけだ。

小島さんの生まれ育った早崎地区

小島さんのご先祖は、もともと外海に暮らしていた。潜伏キリシタンとして信仰を守るために、西彼杵半島の沖合にある池島に移り住んだのち、五島に渡ってきた。最初のうちは農業に従事していたが、お金を貯めて船を買い、半農半漁の生活を営むようになったそうだ。

「親父とおふくろは、ちっちゃな船で漁をしながら、麦とか芋を作っていたんです。でも、芋を作っても大した収入にならなくなって、だんだん漁業一本に絞っていったんです。釣った魚はね、福江の魚市に持っていくんです。あるいは正月やお盆の前には、畑で育てた麦を船に積んで、福栄で製粉してもらったり。久賀島にも商店はありましたけど、そうやって船で出かけたついでに買い物してくることが多かったですね。五輪教会にはね、昔から神父がいなかったんですよ。浜脇協会の神父が巡回してきてくれていたんですけど、毎週はきてくれないから、そういうときは対岸にある奈留島の教会に行っていたんですよね。五輪の信者も、蕨小島の信者もやっぱり漁師で、自分の船を持っていたから、皆が奈留島で顔を合わせていた。ミサが終わったあとに、奈留島で買い物して帰ってくるんですけど、久賀島と違って都会だなと思ってましたね」

小島さんは昭和27(1952)年に生まれている。五島の人口は昭和30(1955)年にピークを迎えているから、久賀島がいちばん賑わっていたのもおそらくこの時代なのだろう。現在は農協の売店が1軒あるだけの久賀島にも、当時はお酒やタバコを扱う商店が何軒かあった。五輪教会に通う信徒も、多いときには500人ほどいたそうだ。ただ、高度成長期を迎えると、若い世代を中心に島を離れる人が増えてゆく。

「私の同級生なんかだと、高校進学で島を出る人もいましたけど、それは島のなかでも裕福な家庭に生まれた何人かだけでしたね。あとはもう、集団就職です。“金の卵”ともてはやされる、そういう時代ですよ。もっと言うと、島に残っても仕事がなかった。その時代にはもう、農業をやっても食っていけないという話になっていたから、残ったのはほとんど漁師の家の子だけでしたね。私なんかも、漁師ならどうにか食っていけるんじゃないかということで、親の跡を継ぐことにしたんです」

小島さんは7人きょうだいの次男として生まれた。兄は幼くして亡くなってしまったから、小島さんが長男のような存在だった。小島さんが漁師として働き始めたのは、昭和43(1968)年のこと。1968年といえば、カウンターカルチャーが大きな盛り上がりを見せ、新宿にはヒッピーやフーテン族の若者が集い、カーニヴァルのような騒乱が続いていた。都会の喧騒は、五島にも伝わってきただろう。大勢の若者が都会を目指した時代に、自分も都会に出てみたいと思うこともあったんですかと尋ねてみると、「それはもう、若い頃は思いましたよ」と小島さんは笑った。

「特に親父と喧嘩した日なんてね、くそう、俺もこの島を出てやろうかと思いましたよ」と小島さん。「でも、俺が出たら、親父とおふくろだけでは漁を続けられないだろうなと思うと、出るに出られないですよね。それに、自分は中学卒業と同時に働き始めたけど、弟や妹には高校ぐらい出させてやんなきゃと、そういう思いもありました。あと、島に残った人たちとのつながりもあるし、教会の青年会を立ち上げていろんな活動をしていたのもあるし――そうやって考えていくと、親をほったらかして出ていくわけにはいかん、と。それはもう、長男坊の宿命みたいなもんですかね」

この半世紀のあいだに、久賀島の人口はずいぶん少なくなった。五輪教会に通う信徒も、現在では4世帯だけだという。信徒のほとんどが小島さんと同世代で、こどもたちは島の外に働きに出ている。もしも自分が掃除を続けられなくなったら、誰が教会の管理をするのか。それが小島さんの悩みの種だ。

「重要文化財に指定されているから、建物としては残ると思うんです。ただ、これを管理する人がいないと大変なんですよ。この窓枠もね、こんなちっちゃな桟で止めてるんですけど、釘が劣化して、ポッと外れたりするんです。一箇所外れるだけならいいんですけど、二箇所外れたら、窓ガラスが落ちてしまう。この窓ガラスも、明治10年当時のガラスが結構残っているから、こまめに確認してるんです。ただ、文化財だから、釘一本でも勝手には打てないから、全部写真を撮って届け出をして、『どういう修理をしましょうか』と連絡しなきゃいけなくて。ただ――私はずっと、こどもの頃からこの教会に通ってきたんです。昭和60年に新しい教会ができて、こっちは旧・五輪教会と呼ばれるようになりましたけど、私にとっては今でも教会なんです。それだけこの教会に馴染んでいるし、心の中にいつもある。もしも私が、ここを離れて都会に行ったとしても、生まれ育った久賀島の風景は忘れないだろうし、この教会のことも忘れることはないんですよ。小さい頃から時を過ごしてきて、心の中に染みついている。自分は人より信仰が強いんだと言いたいわけじゃなくて、それだけ時間の厚みがあるんですよね」

時間というのは不思議なもので、意識しなければいたずらに流れていくばかりだ。時間の幅を意識することで、初めて厚みが生まれてくる。懐かしのヒットソングを特集した番組を見かけて、その曲が2003年リリースと表記されているのを目にしたときに、「あれからもう20年経ったのか」と、時間の幅が意識にのぼる。こうして時間の幅を意識することが、歴史に対する感覚につながっていくのだろうか。

久賀島には潜伏キリシタンの長い歴史があるのだと、小島さんは教えてくれた。ただ、潜伏キリシタンの子孫として生まれ、自身もカトリックとして教会に通ってきた小島さんにとって、潜伏キリシタンの歴史というのはなかば当たり前のことだったから、若い頃は意識にのぼることも少なかったという。歴史を意識するようになったのは、久賀島を訪れる観光客が増えてからだった。

「若い頃はね、この教会の歴史も知らんやったですよ。でも、教会が注目を浴びて、旅行でやってきた人に質問されたとき、答えられないというのが悔しくて。もちろんね、親やばあちゃんたちから、かいつまんで聞いてはおったんですよ。ただ、ひとつのストーリー、、、、、としてつながった話がわからなくて、いろんな資料を集めて勉強するうちに、ようやく人に説明できるようになったんです」

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
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  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
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