観光地ぶらり
第8回

世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島

暮らし
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700年前のことがこんなにわからないものなのか

こうして話を聞かせてもらっているあいだに、2台目の海上タクシーが桟橋に到着し、観光客はガイドに先導されながら旧・五輪教会堂に入ってゆく。最初の海上タクシーでやってきた観光客と同じように、15分ほど教会堂を見学すると船に戻り、島から引き上げていった。あとになって五島をめぐる団体ツアーを調べてみたところ、久賀島では旧・五輪教会堂だけを訪ねて、次は隣の奈留島に移動し、ここでは江上天主堂だけを見学するというプランが多いらしかった。

「観光でやってくる人のなかには、ここの風景だけを見て『ここが久賀島か』と言う方もいるんです。でも、ここの風景しか見なかったら、旅行から帰ったあとに、久賀島のことをほとんど話せないと思うんですよね。こちらとしても、浜脇教会や牢屋の窄を見学したあとでここに来られたんだとしたら、ひとつのストーリー、、、、、としてつながりのある話ができるんですけど、『浜脇教会ってなんですか?』という方に久賀島のキリシタンの歴史を聞かせてくれと言われても、とてもじゃないけど難しいんですよね。この島にはキリシタンの信仰を守り継いだ歴史があって、それが評価されて世界遺産に登録されたわけですから、その歴史が伝わるような観光になったらいいのにな、と。それに、久賀島には教会だけがあるわけじゃなくて、古いお寺や神社もあるんです。ここの教会だけが注目を浴びるんじゃなくて、いろんな方面からこの島の歴史を知ってもらえるようになるといいなと思ってますね」

小島さんに聞かせてもらった話を反芻しながら、もとの道を引き返してゆく。久賀島には、集落の名前を記した立て看板がある。隣の福江島では見かけなかったものなので、不思議に思って小島さんに尋ねてみたところ、「あれは公民館活動の一環で、私が作ったんです」と、小島さんは照れくさそうに聞かせてくれた。何気なく眺めていた風景も、誰かに話を聞いたあとで目にすると、また違った印象がやってくる。蕨の集落を通り過ぎて、ひと山越えるあたりに内幸泊という集落があって、「美しい棚田の風景」が広がっているのだと、観光案内図に記されていた。どうして往路に見逃していたのだろうかと不思議に思っていたのだが、そこはもう野山に帰りつつあって、かつては棚田だった名残がうっすら見てとれるだけになっていた。

「昔と今とで、そんなに変わったところはないんですけど、強いてあげるとするなら段々畑がなくなったことですかね」。棚田が広がっていたのであろう風景を眺めながら、小島さんの言葉を思い出す。このまま棚田が野山に戻っていくと、「外海から移り住んだ潜伏キリシタンの方たちは、傾斜地を切り開いて住み着いた」というストーリー、、、、、が感じ取れる風景に触れられなくなっていくのだろう。

小島さんは「ストーリー」という言葉を二度口にした。アップダウンを繰り返す道を走りながら、そのことを思い返していた。

長崎県を訪れる観光客数は、昭和51(1976)年に年間2000万人を突破し、順調に伸び続けてきた。ただ、1996年に初めて3000万人を突破してから伸び悩み、2000年以降は減少に転じている。こうした観光の低迷の原因のひとつに、修学旅行の長崎離れが挙げられている。言われてみれば、昭和55(1980)年生まれの兄の時代には、地元の公立中学校の修学旅行の目的地は長崎だった。それが昭和57(1982)年生まれの僕の代には鹿児島となり、さらに下の代には目的地が沖縄へと変わってゆく。共通するのは、平和学習ができる土地だということ。長崎は被爆地であり、鹿児島には特攻隊が飛び立った知覧があり、沖縄は唯一地上戦がおこなわれた土地だ。修学旅行で海外に出かける学校も増え――実際、僕の高校時代の修学旅行は中国・上海だった――目的地が多様化したことで、長崎を訪れる修学旅行生は2007年まで減少を続け、その後は横ばいの状態が続いている。

こうした状況を踏まえて、長崎県は2005年、「ながさき歴史発見・発信プロジェクト」を立ち上げる。地域の活力を創出するべく、長崎県の歴史と文化を活かした観光振興を進めるプロジェクトだ。有識者や財界関係者、観光業界やマスコミ関係者などによって組織される「推進会議」がテーマを選定し、このテーマごとに「ストーリーづくり専門部会」が組織され、「歴史的背景や社会的影響等における本県の価値を浮き立たせるような発見・驚き・感動のあるストーリーを創出」する。このストーリーをもとに、「観光専門部会」で観光ルートづくりや環境整備をおこない、長崎県の歴史ブランドづくりを目指すというプロジェクトである。ここで最初に取り上げられたテーマが「キリシタン文化」だった。また、2006年には世界遺産登録の候補地が初めて公募されると、実に24件もの応募があったが、「長崎の教会軍とキリスト教関連遺産」も含まれている。世界遺産への登録を、地域活性化につなげたいと感じる自治体がそれだけ多かったのだろう。長崎の教会群は2007年に暫定登録リスト入りを果たしたが、ここで問われたのは「顕著な普遍的価値」だった。当初は西洋と東洋の建築文化が融合した教会建築そのものの価値が強調されていたのだが、ユネスコの諮問機関「国際記念物遺跡会議」(イコモス)から「禁教期に焦点を当てるべき」と推薦書の練り直しを提案され、潜伏キリシタンのストーリーが強調されることになった。

こうしてストーリーが紡がれなければ、僕が久賀島の歴史に触れる機会は訪れなかっただろう。キリシタンに対する弾圧というと、安土桃山時代から江戸初期にかけておこなわれたものだと思い込んでいて、明治の初めに拷問を受けた人たちがいたということさえ知らなかった。ストーリーだけで理解した気になってしまうと、見落としてしまうものがたくさん出てくる。今回の旅で、僕が旅程に組み込んでいたのはキリシタン文化に関連するところばかりだ。久賀島のことも、潜伏キリシタンの歴史が刻まれた島だとばかり思っていた。ただ、小島さんが教えてくれたように、久賀島は潜伏キリシタンだけが暮らしてきたというわけではなくて、仏教徒も大勢暮らしてきたのだ。島で唯一の民宿まで自転車を走らせていると、いくつもお寺や神社を見かけた。そこにだって一つひとつ歴史があるはずなのに、ほとんど立ち止まることもなく、通り過ぎてしまっている。

久賀島唯一の民宿「深浦荘」にたどり着き、シャワーで汗を流したところで、ビールを注文した。宿の目の前には入江が広がっている。久賀島は馬の蹄のような価値でもあるし、見方を変えるとクワガタのあごみたいでもある。このクワガタのあごの部分は結構長くて、そこが入江になっているのだ。海と言っても波はなく、湖のように凪いでいるが、今は引き潮らしく、静かに水が流れていくのが見えた。

テレビをつけると、ローカルニュースが流れていた。韓国から3年半ぶりにクルーズ船「コスタ・セレーナ」が長崎にやってきたというニュースに続けて、43名もの犠牲者を出した雲仙普賢岳の大火砕流から明日で32年を迎えます、とアナウンサーが語り出した。雲仙岳災害記念館では明日、島原のこどもたちがメッセージを書いたキャンドルが「いのりの灯」として並べられるのだという。噴火災害の記憶を風化させることなく、次世代に継承していくために、17年前から「いのりの灯」を並べ始めたのだそうだ。

6月4日付の長崎新聞は、一面トップにはいのりの灯の写真が掲載されて、「火砕流から32年」の記事が3面にわたって掲載されており、「何年たとうが、気持ちは同じ」という遺族の言葉が記されていた。東京ではここまで大々的に報じられていないだろうから、長崎を訪れていなければ6月3日という日付を意識することもなく、火砕流のことを思い出すこともなかっただろう。

32年前、僕は8歳だった。火砕流のことはテレビ画面越しに眺めていたけれど、日付は記憶に残っていなかった。ウィキペディアで「6月3日」と検索してみると、雲仙普賢岳の火砕流以降にも、さまざまな自然災害や事故、事件が6月3日に起こっていた。その中にはあまり記憶に残っていないものもあった。世界はいろんな出来事であふれているのに、時間が経つにつれて記憶からこぼれ落ちてしまう。自分が生まれる前の出来事ともなると、そもそも存在を知らなかった出来事ばかりだ。

土井の浦港から坂を上がっていくと、土井の浦教会がある。その先で道路は丁字路になり、島の東に続く道と、島の西に続く道に分かれている。ここから西に進んで、長い坂道を抜けると、海が見えてくる。青く澄んでいて、美しい海だ。海岸に沿って道路が続き、ところどころに集落があって、海辺に船が係留されている。田畑はあまり見かけないから、漁業が中心なのだろうか。若松島は東西それぞれに橋が架けられており、西側にある橋を渡ると漁生浦島だ。その先の島々には、橋ではなく防潮堤でつながっており、有福島を経由した先に日島があった。

日島の入り口に、無数の石塔が立ち並んでいた。お墓のような形をしたものもあれば、大きな石を切り出しただけのものもある。石塔は整然と並んでいるわけではなく、倒れてしまった石も膨大に転がっている。これらの石塔群は中世から近世にかけて建てられた古いお墓なのだそうだ。石材の分析によって、1300年前後に第1グループの石塔が建てられ、1400年前後に第2グループの石塔が建てられたことが判明している。いずれも五島列島の石ではなく、別の土地の石が使われており、その一部は関西の御影石や若狭で製作された日引石なのだという。

なぜこの場所に墓を建てたのか、そこに誰が眠っているのか――はっきりしたことはわかっていないらしかった。五島列島は大陸と九州、あるいは本州を結ぶ交通の要衝地で、狼煙を使って異国戦の来島を知らせる監視所が置かれていたという説もあり、「火ノ島」が転じて「日島」になったと考えられている。ここに眠っているひとびとは、大海原を舞台に交易で栄えたグループではないかと推測されているが、詳しいことはわかっていないのだそうだ。

たった700年前のことが、こんなにわからないものなのか。海に向かって建てられた石塔の群れを眺めていると、そんなことを考えてしまう。今は一つひとつの輪郭がはっきりしている一人ひとりの生と死も、何百年と経つにつれて、ぼやけたものになってしまうのだろうか。

日本の風景は目まぐるしく移り変わってきた

若松島の東側には、若松大橋という立派な橋がかけられてある。この若松大橋を渡れば、五島列島で二番目に大きな中通島だ。浦々には小さな集落が続き、どこの集落にも漁船が並んでいる。海はすっかり凪いでいて、鏡のように風景を写している。古里(ふるさと)という集落を過ぎたあたりに、立派な教会が建っていた。瀬戸を見下ろすように立つ桐(きり)教会のふもとが、今日の待ち合わせ場所だ。今日はこれから、観光クルーズでキリシタン洞窟に案内してもらうのだ。

キリシタン洞窟とは、明治の初めに五島崩れが起きたとき、潜伏キリシタンの人たちが身を隠していた洞窟である。若松島の土井の浦教会にほど近い、里ノ浦という集落に暮らしていたひとびとは、迫害から逃れようと、船でしか辿り着くことのできない洞窟に身を隠した。だが、朝食のために火を炊いていたところ、沖合を通りかかった漁船が煙を見つけ、役人の知るところとなって拷問にかけられた。それ以来、若松島の南端にある洞窟は「キリシタン洞窟」と呼ばれるようになった。

キリシタン洞窟に向かう観光クルーズは、他に乗客はいないらしく、僕が乗り込むとすぐに出港となった。穏やかな海を10分ほど進むと、白い十字架とキリストの像が見えてくる。ここがキリシタン洞窟の入り口だ。今も陸路では辿り着けないから、こうして船で乗りつけるしかないそうだ。

岩場に船をつけてもらって、ひとりで上陸する。巨大な岩の上をよろよろと歩き、キリシタン洞窟に足を踏み入れる。思ったよりもずっと大きな空間が広がっている。薄暗い洞窟の中には、波の音が絶え間なく鳴り響いていた。空間が広いだけに、音も反響しやすく、洞窟の外にいるときよりずっと大きな音になるのだろう。その音に包まれていると、海の底に佇んでいるような心地がする。

これだけ広い空間なら、身を隠すには十分だ。このキリシタン洞窟以外にも、身を隠せそうな岩場をいくつか見かけた。このあたりなら、魚を獲って食糧にすることもできるかもしれない。ただ、こうして身を伏せているあいだは、ただ生き延びているというだけだ。暮らしを安定させることも、誰かと会って話すことも、世の中で何が起きているのか知ることもできずに、ただ生き延びていくことしかできない。洞窟の中にいると、外から射し込んでくるひかりがやけに眩しく感じられる。

洞窟から出ると、祥福丸が沖に佇んでいるのが見えた。船長の坂井良弘さんは、こちらの姿に気づくと、岩場まで迎えにきてくれた。リクエストがあれば、近くの教会をめぐるクルーズも引き受けているそうだ。キリシタン洞窟では、若松島の土井の浦教会の方たちによって、毎年11月頃にミサが開催されている。そのときにも坂井さんは船を出し、信徒の方たちをキリシタン洞窟まで運んでいる。ただ、坂井さん自身はミサに参加していない。坂井さんはカトリック教徒ではなく、かくれキリシタンなのだ。

江戸時代に入り、禁教令によって信仰を隠して生きていかなければならなくなった人たちは、「潜伏キリシタン」と呼ばれる。この潜伏キリシタンの人たちは、明治6(1873)年に信仰の自由が保障されたことでカトリックに「復帰」し、五島の各地に教会が建設されてゆく。ただ、すべての潜伏キリシタンがカトリックに「復帰」したわけではなかった。潜伏の時代には、キリシタンは皆、仏教徒や神道を信仰しているふりをしなければならなかった。洗礼は「お授け」、復活祭は「上がり様」、クリスマスは「ご誕生」と言い換えられ、土着の民間信仰とも結びつきながら、カトリックとはまた別個の信仰に発展してゆく。信仰の自由が保障されても、先祖代々受け継がれてきた信仰を守り続ける道を選んだひとびともいた。それが「かくれキリシタン」である。坂井さんは、ここ桐古里郷近辺に残るかくれキリシタンの「帳方(ちょうかた)」を務めている。帳方というのは、カトリックで言うところの神父の役割を担う役職だ。

坂井さんの祥福丸

「このあたりに最初に移り住んできたのは、うちの家内の先祖なんです」と、坂井さん。「大村藩からここに移り住んで、最初は山を開拓して、段々畑で農業をしていたそうなんです。ただ、ここは生活するぶんしか水がない土地だから、自分たちで食べるぶんの麦と芋しか作れなかったんですね。そうして暮らしているうちに、外海から移り住んでくる人たちが出てきて、家内の先祖が帳方になったんです。築地(ちじ)、深浦、横瀬、桐――このあたりに300軒近いキリシタンが暮らしていたんですけど、帳方というのは世襲ですから、家内のうちがずっとこの地区を守ってきたんです」

良弘さんの妻・鈴子さんの旧姓は深浦。宮崎賢太郎『カクレキリシタン』のなかにも、この地域の帳方は初代・深浦勘次郎さんから、代々深浦家によって継承されてきたと記されている。一方の良弘さんはというと、桐古里郷ではなく、中通島の北に位置する小値賀(おぢか)島の出身なのだという。

「私は昭和31年生まれなんですけど、当時の小値賀は活気があったですね。小値賀は漁師村で、私も漁師の息子ですし、親戚もほとんど漁師です。小値賀にはキリスト教徒はほとんどいなくて、うちの家も仏教徒でしたね。私が中学生になる頃に、仲知(ちゅうち)(中通島北部に位置する集落)から小値賀に引っ越してくる漁師さんたちがいたんですよ。その人たちはカトリック教徒で、カトリック幼稚園の教会に祈りに行ってましたね」

坂井さんの父は底引網漁の船に乗っていて、福岡にアパートを借りて暮らしていた。当時は太古丸という船が五島と博多を結んでいて、学校が休みの時期になるたびに、母に連れられて父のアパートを訪ねていたという。坂井さんによれば、小値賀を出港したあと、宇久島、生月、平戸とあちこち寄港しながら博多に向かう航路で、ずいぶん時間がかかっていたのだそうだ。博多と言えば五大都市圏の一角をなす都会だが、当時の小値賀は活況を呈していたこともあり、「大都会に出てきたんだなっていう気持ちは、そがんまでなかったです」と坂井さんは笑う。

5人きょうだいの4番目として生まれた坂井さんは、中学を卒業すると親と一緒に漁に出るようになった。2年ほど経ったところで、漁労長を務めていた叔父に誘われ、中通島の奈良尾から出港する船に乗り、大型巻き網漁に出た。こうして奈良尾から遠洋漁業に出ている時期に出会ったのが鈴子さんだった。

「うちの家内は一人娘なもんですから、親が決めた人がいたんです」と、坂井さん。「だから、家内の両親からは猛反対されました。そこで私が、家内を連れて駆け落ちして、一ヶ月ぐらい姿を消したんです。一旦福岡に行って、そこから小値賀に戻って――何度も連絡がくるんだけど、『うちにはおりません』と言ってもらって。やっぱり、親と本人同士は違うじゃないですか。本人同士が愛し合っておれば、どんなにまわりが離そうとしても、離れないんです。パッと離れるぐらいだったら、それまでの関係だと思うんですけど、何があっても離れられないのが恋であって、愛であって、ね」

お見合い結婚よりも恋愛結婚が多くなったのは1960年代のことで、坂井さんが21歳で結婚する頃には恋愛結婚の比率が6割を占めていたから、親の反対を押し切って結婚する例も少なくなかったのだろう。ただ、坂井さんのまっすぐな言葉に、少し圧倒される。そこに信仰の萌芽を見出してしまうけれど、当時の坂井さんは仏教徒で、鈴子さんからもかくれキリシタンの信仰の話は特に聞かされていなかったという。

「結婚したあと、家内の親と一緒に1年ぐらい住んでたんです。そうすると、日曜日の朝になると、朝早くから来客があるんですよ。朝の5時前、まだ暗いうちにやってきて、部屋に入って何か言っているのが聞こえてくる。それだけは知っとったですけど、絶対に中は覗かれないから、何をやっているのかは知らなかった。それから、“祝い日”のときには、皆さんが祈りにくるから、家内のおふくろが外で炊き出しをするんです。そうしよったら、『うちはかくれキリシタンで、じいちゃんが帳方ばしよるけん、皆が祈りにきよっと』と家内が言うんです。それからまたしばらく経って、家内の親父から『うちはかくれキリシタンやけん、洗礼ば受けて欲しい』と言われて、ただ自然に、何も逆らうことなく、ああ、いいですよーって洗礼を受けたんですね」

かくれキリシタンの場合、生まれたときに「お授け」を受けることがほとんどで、坂井さんのように大人になってから「お授け」を受けるのは珍しい例なのだという。ただ、かくれキリシタンになったとはいえ、祝い日にお手伝いをするくらいで、それ以外は以前と変わらず過ごしていた。そんな坂井さんが帳方を務めることになったのは、2007年に先代の帳方が体調を崩したことがきっかけだった。

「姓は坂井ですけど、深浦家の跡取りだということで、『帳方になってくれ』と頼まれたんです。うちの家内は、こどものときからずうっと親父さんの手伝いをしてきてるから、祈りをするときの構えとか、バスチャン暦(ごよみ)の書き方とか、家内は全部わかってるわけです。『自分が何もかも教えるから、帳方になってほしい』と頼まれたんですけど、3回断ったんです。私にはできない、と。神様に頼む? イエス様、マリア様に?――そがんこと、荷が重くて、とても私にはできないと思ったんです」

ただ、「深浦家」のなかで帳方を務められるのは坂井さんしかいなかった。それに、坂井さんは自身の長男に深浦家の跡を継がせるつもりで、長男は深浦家の養子となっていた。その子が大きくなって帳方を継げるようになるまでの「代理」として、自分が帳方を務めることに決めた。

「私が帳方になったばかりの頃は、信者の方からよく言われてました。『あなたの祈りは浅いから、神様には届かない』って。でも、引き受けた以上、せんと仕方がないでしょう。軽い気持ちで祈ったんじゃ、神様には絶対通じないから、一所懸命祈る。祈りをしたら、一日フルで働いたほどに疲れがくるんです。いい加減な気持ちじゃ聞いてもらえないから、それだけ心ば込めて、神様に祈る。魂を込めて祈らんと、神様には通じない。祈りというのは、自分のために祈るんじゃないんですよ。帳方というのは、信者の皆さんのために祈る。そうやって10年ぐらい続けてきたときに、『あなたの祈りは神様に届いている』と皆さんに言ってもらえるようになったんです」

お坊さんを自宅に呼んで、お経をあげてもらう場合、お礼としてお布施を渡す。ただ、かくれキリシタンの場合には、帳方はすべて無償で祈りを捧げるのだという。坂井さんは祥福丸の船長として、観光客をキリシタン洞窟に案内したり、釣り客を乗せたりして生計を立てながら、帳方を続けてきた。鈴子さんのお父さんが帳方をしていた時代には、界隈に100軒近いかくれキリシタンが暮らしていたけれど、今では13軒ほど。これは桐古里郷に限ったことではなく、長崎の各地に残るかくれキリシタンもずいぶん少なくなっているのだという。後継者不足から「元帳」(地域ごとの信仰組織)を解散するところも多く、自分が亡くなったあとのお葬式のことを考えて、高齢になってからカトリックや仏教に改宗する人もいるそうだ。

「昭和56年にヨハネ・パウロ2世――現在のローマ法王が長崎にきたことがあったんです。そのとき、家内の親父のところに『ぜひお会いしたい』と連絡があって、会いに行ったんですね。それまで、かくれキリシタンというのは『未信者』だと、カトリックから言われていたんです。でも、ヨハネ・パウロ2世とお会いして話をしたら、『あなたたちもキリスト教徒だ』と言われたそうなんです。私たちはカトリックではないけれども、長いあいだ受け継がれた信仰があるんです。家内の先祖がずうっと守り続けてきたものがあるのに、私の代で絶やしてはいかんと。それだけです。ただ、もしもこの先、消滅してしまうんだとしたら、それは仕方がないことだと思うんです。禁教が解かれたあとに、かくれキリシタンは新しい信者を増やすということをせんやったですよね。だから私たちも、自分たちが続けられるだけは続けていこう、と」

現在、「祝い日」として執り行っている行事は年に3回。祝い日がやってくると、信者はお重におにぎりやぼた餅を詰めて、帳方の家に集まる。帳方の家でも、信者と同じものを拵えて、祈りを捧げる。カトリックでは儀礼の際にパンとワインが用いられるが、ここでは日本酒とお刺身が使われるそうだ。やっぱり、お酒は地元の銘柄を使うんですかと尋ねると、「いやいや、銘柄は関係ないです」と坂井さんは笑っていた。

五島を巡っているうちに、日本の風景というのは想像していたよりずっと、目まぐるしく移り変わってきたのではないかという気がしてくる。漁師であれ、農家であれ、先祖代々ひとつの土地に暮らしてきた――そんなイメージが、僕の頭の中にある。明治になって居住・移転の自由が認められ、近代化のために労働力が大きく移動するようになって以降はともかく、江戸時代まではひとつの土地に暮らし続けてきたという静かなイメージを抱いていた。でも、それ以前にも、ひとびとはめまぐるしく移動してきたのだろう。

丘の上に立つ桐教会
  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
連載「観光地ぶらり」
  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
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