観光地ぶらり
第1回

いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉

暮らし
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裸が何よりの衣装に見える

開演まで20分、入場料を払ってホールに入る。真ん中に花道があって、それを囲むように座席が配置されている。床と座席は青く、蛍光灯に妖しく照らされている。思ったよりこぢんまりとして、ゆったり座れば20人ほどで一杯になりそうだ。先客に女性の3人組の姿がある。僕は後列の端っこに座り、会場を待つ。どうにも緊張する。座っているだけだと間が持たず、いちど立ち上がって自動販売機にいく。アルコールはどれも500円で販売されている。100円玉を入れていくと、何度入れても5枚目が弾かれてしまう。初めて来場したのを見透かされたような気がして、気が急く。10回近く繰り返して、「百円玉は4枚までしか入りません」と書かれてあることにようやく気づき、千円札を投入してビールを2本買った。

昼間のニュー道後ミュージック。ライトがともると、煌びやかな表情に変わる

劇場内に、音楽が響き出す。流れてきたのは浅草ジンタの「君がこの街にやってきて」だ。男性のひとり客がひとり、またひとりと入ってくる。のどかな曲調から一転して、同じバンドの「ドンガラガン」が流れると、やがてムーディーな音楽に切り替わり、館内は暗くなる。

「本日は四国・道後温泉、ニュー道後ミュージックにご来館いただき、誠にありがとうございます」。テープに録音されているのであろう、アナウンスが流れる。「道後の旅はいかがでしたか? 道後温泉で、日頃の疲れを癒やされたお客様もいらっしゃるかと思いますが、今晩は歴史ある文化の街で、また違った癒しと明日への活力として、ストリップという芸術をお楽しみください。さて、本日ご来場のお客様を見渡しても、スケベそうな顔がお揃いのようで大変恐縮でございます」

いたって真面目なトーンで語られるアナウンスに、少し吹き出しそうになる。その文面にも、ここが観光客を相手に商売をしてきた場所だということが滲んでいる。続けて、注意事項のアナウンスがある。踊り子の衣装や肌には手を触れぬこと。携帯電話は使わぬこと。飲食物は持ち込まないこと。興奮しても、しっかりと心のブレーキは忘れぬこと。注意事項の伝達が終わると、今度は投光室にいるスタッフがマイクを持ち、アナウンスをする。するすると流れるような独特の発声だが、「ステージ登場の際は拍手でお迎えください」というフレーズはしっかり聞き取れた。

暗闇の中、踊り子が板につく。音楽が流れ、照明がついたところで拍手が起こる。最初は衣装をまとったところから、二曲目になると少しずつ脱いでゆく。3曲目で全裸になって、花道を先端まで進んでくると、そこで回転台が小さく唸り、回り始める。驚いたのは――踊り子なのだから当たり前なのかもしれないけれど――裸で佇んでいる姿がとても似合っているということだった。どんな衣装より、裸がいちばんふさわしい衣装に見える。「人間は裸で生まれてきたのだから、裸が自然な姿だ」と言いたいわけではない。人間の裸というのは、俯瞰した視点から眺めればどこか滑稽なものだ。裸で立っているだけで様になるというのは、稀有なことだ。その佇まいに圧倒されているうちに、舞台は終わった。

舞台がいちど暗転して、ふたたび踊り子が登場する。「この時間はですね、チェキを1枚1000円で販売してます。ツーショットも撮れますので、一枚いかがでしょうか?」と客席に声をかける。最初に手を挙げたのは女性の3人組で、「よかったらステージで一緒に」と、舞台上に招かれている。

「初ストリップ、どうでした?」

「いや、堪能しました」

「楽しかったです」

「肌が、すごい――」

「ね、すごいきれい」

撮影係としてチェキを渡された男性客が、「なんか、カフェみたいな会話やね」と笑う。身体を見せる仕事である以上、ステージに立つ前には必ずシャワーを浴びるのだと踊り子が言う。しかも、他の踊り子が滑って転んでしまわないように、ボディクリームなどは塗れないのだという。

ポラロイド撮影ショーが終わると、オープンショーがあって、二人目の踊り子のステージとなる。こちらの踊り子のほうがキャリアは上のようだ。一人目とはまた違ったタイプではあるけれど、やはり裸が何よりの衣装に見える。そして、スローモーションの動きに目を見張る。人がスローモーションで動く姿というのも、日常生活の中で見かけたら滑稽で無様なものにしかならないだろう。スローモーションの魅せる動きに、ここでも圧倒される。ステージが終わるとポラロイド撮影ショーになった。

「お兄さん、ストリップは初めて?」

「いや、何十年か前に、高校生のときに行きよった」。ひとりで来場していた男性客が答える。

「そうなんだ。今は場内でタバコも吸えないし、高校生かなと思ったらチェックされるけど、お年寄りだと『中学生のときに初めてストリップを観た』ってお客さんもいますね」

「あの頃は学生服着て入りよった。途中でおしっこ行きたくなったんやけど、『この人、ステージを見て催したんか』と思われるのが嫌やけん、トイレに行かずに我慢しとった」

そう語っていた男性客は、ポラロイド撮影ショーが終わると御手洗いに駆け込んだ。そのあいだに最後のオープンショーが始まる。「早く出てこないと、終わっちゃうよ」と笑いながら、踊り子はポーズを取り続ける。オープンショーは短く、男性客が出てくるまえに終わってしまった。終演後、踊り子に送り出されて、劇場の外に出る。もう道後温泉も営業を終了している時間とあって、街を行き交う人は誰もいなかった。初めて観たショーのことを反芻しつつ、宿へと引き返した。

一番風呂のよさはどこにあるのだろう

朝5時、道後温泉本館にはすでに行列が出来始めている。先頭に並んでいるのは地元の女性客で、一番風呂に入りたくて、毎日早朝から並んでいるのだという。毎日並んでまで入りたくなるだなんて、一番風呂のよさはどこにあるのだろう。

朝5時、道後温泉本館には早くも行列が

「よさはなんかって、一番風呂がよかろうがね」とお母さんは笑う。「私はもうおばあさんになったけ、お風呂が楽しみなんよ。おうちはすぐ近所やけ、毎朝4時頃からこうやって並んでます。お兄さんも、せっかくお出でたんやけ、入ったらええよ」

今回の滞在では、道後温泉に出かけるつもりはなかった。わざわざ料金を払って混み合うところへ行かなくたって、泊まっている旅館には道後温泉と同じ湯が引かれている。でも、お母さんの言葉で心変わりをした。何事も扉を開けてみなければわからない。昨晩そう思ったばかりだ。

ただ、道後温泉本館にはすでに数名の行列が出来ている。これからさらに長くなり、結構混雑するだろう。それならばと、まずは道後温泉別館の飛鳥乃湯泉へ出かけることにする。

飛鳥乃湯泉は、道後温泉本館が長期間の工事入るのに先駆け、2017年に開業している。斉明天皇の行幸や聖徳太子来浴の伝説が残る飛鳥時代の湯屋をイメージし、当時の建築様式を取り入れた建物になっているのだと、パンフレットに書かれてある。『伊予国風土記』には、この地を訪れた聖徳太子は「寿国のようだ」と感銘を受け、石碑を建てさせたことが記されてあったという。『伊予国風土記』の原典は失われており、聖徳太子の石碑も散逸しているけれど、敷地内には飛鳥乃湯泉の開業に合わせて再現された石碑が飾られてある。また、聖徳太子の石碑には、当時は椿が折り重なるように茂っていた様が記されていたことから、敷地内には160本もの椿が植えられている。さながらテーマパークのようだ。でも、今の時代に観光客が求めているものも、日常からは切り離されたテーマパークなのだろう。

そもそも道後温泉自体が、「テーマパーク」という言葉が普及する遥か昔に、近代の観光地に求められるホスピタリティを的確に予見して発展してきたものだ。

明治22(1889)年、道後湯之町の初代町長となった伊佐庭如矢は、難題に直面していた。当時、道後温泉の建物は老朽化が進んでおり、改築が必要な状態だった。そこで伊佐庭は、3階建ての近代和風建築への改築を計画する。これには莫大な費用が必要になる上に、湯釜を取り壊すと湯が出なくなるのではないか、神罰が当たるのではないかといった不安の声も上がり、大掛かりな反対運動が巻き起こる。伊佐庭は「100年後までも他所が真似できないものを作ってこそ、初めて物をいう」のだと住民を説得し、現在の道後温泉本館を完成させている。そこに「神の湯」や「霊の湯」といった名前をつけて売り出したことも、時代を先取りしている。それにとどまらず、松山市街地や県外から入浴客を呼び込むためには鉄道敷設が必要不可欠だと見抜き、道後と松山市街地、それに当時港があった三津口との間に道後鉄道を運行させている。

飛鳥乃湯泉も、コンセプトが明確に打ち出された温泉だ。「愛媛・松山にしかない唯一無二の歴史や伝統をトータルに演出」するとして、伊予絣や砥部焼、伊予水引や西条だんじり彫刻といった伝統工芸が館内各所にあしらわれているのも、令和の時代の観光地だという感じがする。

道後温泉別館・飛鳥乃湯泉

5時50分に飛鳥乃湯泉に到着してみると、先客は二組だけだった。6時ちょうどに温泉はオープンする。先に並んでいた人を抜かさないように、のんびりと浴衣を脱ぎ、ゆっくりとかけ湯を浴びる。そうして様子を伺っていると、先客はふたりとも露天風呂に進んでいったので、屋内にある大浴場は一番風呂に入ることができた。なるほど、これは気分がいいものだ。そして、新しくてきれいな温泉につかるのは幸せなことだ。

夏目漱石の『坊っちゃん』で、松山は散々に書かれている。「かの所は何を見ても東京の足元にも及ばない」とまで書かれているが、「温泉だけは立派なもの」であり、「せっかく来た者だから毎日はいってやろうという気で、晩飯前に運動かたがた出掛ける」とある。漱石自身もまた、毎日のように温泉に通っていた。

彼は閑を見出せば此道後温泉に来た。別に石鹸を塗り立てたり、手拭いでごし〳〵と洗つたりするでも無く、唯心の赴くまゝに湯の中に浸つたり又出たりしてぼんやりと時間を過ごした。石段に腰を掛けて足の下部を湯に浸したまゝで、手を膝の邊に置いたり、時に手拭で背中に湯をかけたりして體の冷えるのも忘れてゐた。漸く體の冷えるのに氣がつくと叉湯の中に浸つた。

高浜虚子『伊予の湯』

漱石が松山中学校に赴任したのは、明治28(1895)年のこと。道後温泉本館が落成したのはその翌年である。夏目漱石も、完成したばかりの真新しい浴室で湯につかっていたのだ。寸暇を惜しんでいた漱石が無心でお湯につかるようになったのは、どういった心変わりがあったのか。考えを巡らせてみようとしたものの、湯につかっていると、細かいことはええじゃないかという気持ちになってくる。外の世界はゆるやかに溶けてゆき、浴室の壁画に描かれてある切り立った山をぼんやり眺める。壁画の手前のところに、ずいぶん大きくスズメが描かれている。浴室に備え付けられたシャンプーは資生堂の椿だった。

いずれ旅は終わる

風呂から上がり、2階にある休憩室に上がる。飛鳥乃湯泉は、入浴だけだと610円だが、1280円払えば2階の大広間でくつろぐことができる。この時間に入浴する人はほとんど入浴だけの利用とあって、大広間は貸し切りだ。縁側に出てみると、ちょうど朝日がのぼるところだ。縁側でお茶とお茶菓子をいただき、道後温泉本館で入場整理券をもらって、宿に引き返す。

布団を上げてもらって、朝食をいただく。10時を過ぎると、掃除機の音が聴こえてくる。この常磐荘は、ご家族で切り盛りされている。コロナ禍になって4部屋しか稼働させていないという話だったけれど、6部屋をフルに稼働させていた時代はかなり忙しかっただろう。

「昔は家族だけで切り盛りしていたわけではなくて、住み込みで働いていた方がいらっしゃったというのは聞いたことがあります」。若女将が教えてくれる。「昔は今みたいにおひとり一室というわけでもなくて、混み合う時期には相部屋ということもあったらしいんです。瀬戸大橋が開通したときも観光でいらっしゃるお客様がすごく多くて、『廊下でもいいから泊まらせてくれ』と言われることもあったみたいですね」

ゲストハウスであれば、ひとつの部屋に二段ベッドがいくつか並んでいて、知らない誰かと同室で寝ることもある。でも、それに比べても、旅館で相部屋というのは距離が近い感じがする。

お昼近くになって椿の湯に出かける。ここも道後温泉のひとつで、昭和28(1953)年に開設されている。入り口にシニアカーが停まっている。ここで入浴しているのはほとんどが地元の方のようだ。

道後温泉・椿の湯

「おはようございます」

「ああ、今から?」

「今から、今から」

顔見知りなのだろう、体を洗っていた先客に声をかけて、そんなふうに言葉を交わしている。取り組み前の相撲取りのような格好で、股関節の可動域を確かめるように身体をひねる人。湯につかりながらうつ伏せになり、肩甲骨を伸ばす人。湯釜に近づき、滝行のように湯を浴びる人。それぞれ自分なりの健康法があるのだろう。こうして大浴場につかっていると、わたしの境界線がほどけていくようだ。

湯から上がり、近くにあるニュー道後ミュージックまで歩いてみると、「うどん」と書かれた暖簾が出ている。どういうわけだか、昼はうどん屋として営業しているらしかった。せっかくだから、かけうどんと生ビールを注文する。添えられたしょうがの香りが爽やかなうどんだ。

昨日に続いて、お昼はうどん。やっぱりビールも注文してしまう

「ここは昔、木賃宿だったそうなんです」。店番をするお姉さんが教えてくれる。「その時代には種田山頭火が泊まったこともあるらしくて。そのあとブルーシアターが始まって、ストリップ劇場になったそうです」

種田山頭火は防府生まれの俳人だ。9歳のとき父の芸者遊びを苦にして母が自殺し、実家の酒造場の経営も傾く。やがて実家は破産に追い込まれ、自身の結婚生活も破綻し、放浪の旅を重ねながら句作を続けた。昭和14(1939)年の秋には四国遍路の旅に出て、11月21日に松山にたどり着く。しばらく友人宅で世話になったあと、方々の宿に断られ、ようやく落ち着いたのは「ちくぜんや」という遍路宿だった。その日の日記には「洗濯、裁縫、執筆、読書、いそがしいいそがしい」とあるが、翌日から一週間ほど日記は途絶える。その間のことは、「酔生夢死とはこんなにしていることだろうと思った、何も記す事がない」と綴られている。

ここから20日あまり、山頭火は「ちくぜんや」に滞在している。その間の日記を読んでも、道後温泉で何をしていたのか、ほとんど伺い知ることはできない。「終日終夜黙々不動」「今夜も不眠、いたずらに後悔しつづける」「無能無力、無銭無悩。……」「おなじような日がまた一日過ぎていった」。沈鬱な記述が続く。数少ない明るい記述は12月3日で、この日は「気分ややかろし、第五十七回の誕生日」と書き出される。山頭火と同じ日に生まれた僕も、誕生日にこだわってしまうから、57歳にもなって日記をそんなふうに書き出す山頭火に共感してしまう。だが、この日も結局「酒がこころよくまわら」ず、「いろいろさまざまのことが考えられるので、いつまでもねつかれなかった」と結ばれている。そんな松山滞在に明るい兆しが舞い込むのは、12月15日のことだった。

とうとうその日――今日が来た、私はまさに転一歩するのである、そして新一歩しなければならないのである。

一洵君に連れられて新居へ移って来た、御幸山麓御幸寺境内の隠宅である、高台で閑静で、家屋も土地も清らかである、山の景観も市街や山野の遠望も佳い。

京間の六畳一室四畳半一室、厨房も便所もほどよくしてある、水は前の方十間ばかりのところに汲揚ポンプがある、水質は悪くない、焚物は裏山から勝手に採るがよろしい、東々北向だから、まともに太陽が昇る(この頃は右に偏っているが)、月見には申分なかろう。

東隣は新築の護国神社、西隣は古刹龍泰寺、松山銀座へ七丁位、道後温泉へは数町。

知人としては真摯と温和とで心からいたわって下さる一洵君、物事を苦にしないで何かと庇護して下さる藤君、等々、そして君らの夫人。

すべての点に於て、私の分には過ぎたる栖家である、私は感泣して、すなおにつつましく私の寝床をここにこしらえた。

放浪を重ねてきたからこそ、新居に対する喜びもひとしおだったのだろう。

旅はやがて終わりを迎える。たとえ住居を迎えなくとも、いずれ旅は終わる。山頭火は新居を構えた翌年の秋に亡くなっている。

「皆楽しそうな顔をしてないですよね」

宿で内湯につかり、夕食を平らげたあと、21時半から道後温泉本館に入浴する。道後温泉湯めぐりの記念品として、タオルと石鹸を渡される。浴衣姿のまま、今日もまたニュー道後ミュージックへと足を運んだ。開演までまだ少し時間があるので、入り口近くで缶ビールを飲んだ。この日は支配人の姿もあった。支配人がここの経営を引き継いだのは17年前だ。

深い時間帯になると、人通りもまばらになる

「自分がここをやり出したときにはもう、下火やったですね」と支配人。「それ以前にも、ここに遊びにくることはあったんですよ。当時は色街やったんで、まあすごかったですよ。まだ会社の慰安旅行があった時代で、こういうとこでも会社がお金を出すから、『まあ入っとけ!』という感じで、団体客が入るんですよね。10人、20人の団体さんもよく入ってましたよ」

昔の団体客は、人数だけ数えて、誰かがまとめて支払うことが多かったという。今でも4、5名のグループ客が訪れることはあるけれど、会計はひとりずつ別に払うのがほとんどだ。

「自分らの頃だと、たとえばストリップを観にいくにしても、先輩が連れてって行ってくれてたんです。そうすると、『お金も出さなくていいし、勉強もできる』って感じがあったんですけど、今の子は先輩に連れていかれるのは嫌がるんでしょう。それはもう、時代の流れですよね」

時代とともに変わったところは、他にもある。景気が悪くなったということ以上に、お金の使い方が根本的に変わったんじゃないかと支配人は語る。

「自分らの若い時だと、風俗でも写真指名なんてもってのほかだったんです。でも、今は何歳ぐらいの子がいるのか、どんな子が出てくるのか、細かく聞かないとお金を使わない。うちは顔出しとかしないで、信用だけで商売やってますけど、食べ物屋にしても最近はどこも写真を出すでしょう。あんなの昔はなかったですよね。皆さんが保守的になっちゃって、どんなものが出てくるかわからないとお金を出さなくなった。それが観光地には大打撃じゃないかと思うんですよ。昔はね、頑張って仕事をして、こういうとこでバーッと発散する。やっぱり、お金を遣うと気持ちいいじゃないですか。それに、旅なんて経験じゃないですか。それなのに、今は全部インターネットで調べて、どういう料理が出てくるのか、どういう部屋なのか、全部調べて旅行にくる。全部わかった上で旅行にきてるから、皆楽しそうな顔をしてないですよね。ここを歩く人も、昔はもっと笑ってましたよ。この20年で変わったのはそこかなと思います」

支配人がニュー道後ミュージックを引き継いだ頃だと、今よりもっと浴衣姿の人が夜の街をそぞろ歩いていたという。それは土産物屋の店主も話していたことだ。昔は旅館に泊まっている観光客で遅くまで賑わっていたけれど、今は人が出歩かなくなった――と。

「うちに限らず、街中が浴衣姿の人でしたよ」と支配人は言う。「それと昔はね、野次が飛びよったですね。団体で入っているもんだから、『はよ脱げ!』と言ったり、それに応じて踊り子さんも踊ったりね。そういうことも含めて、温泉地らしい感じがして面白かったですけど、今は団体客は入りませんからね。団体だったら強気に野次が飛ばせても、人間ってひとりになると小心者じゃないですか、だから皆さん、大人しく観られてますね」

話を聞かせてもらっているうちに、開演時刻が近づいていた。お礼を言って劇場に入り、自動販売機でチューハイを2本買って席に座る。今日も後列の端っこを選んだ。遅い時間帯とあって、客席にいるのは僕も含めて3人だけだった。1日4公演のうち、回によって踊り子は演目を変えるそうだけれども、昨日と同じ最終回を選んだせいか一人目は昨日と同じ演目だ。そのおかげで、昨日のことを反芻するように、じっくり見つめることができた。

ストリップはうたとともにある。

一人目の踊り子は、うたの世界に入り込んでいくようにして舞台に佇んでいる。うたに描かれる情景や感情に潜っていくように、身を委ねるようにして踊っている。二人目の踊り子はブーツの踵を鳴らし、自分でリズムを刻みながら踊る。うたに身を委ねるのではなく、自分の足で立っているという感じがする。裸になって盆が回転するところで使われたのは、昨日も今日もインストゥメンタルの楽曲だ。その言葉のなさは、裸で踊っていても不可侵な領域があるのだと物語っているようだ。舞台上の佇まいに、生き様が凝縮されているように感じられる。

客席に座るお客さんは、ひとりは初めてストリップを観にきたそうで、背中を椅子にもたれながら舞台を眺めている。初めてのお客さんでも、以前来たことがあるというお客さんでも、身を乗り出して食い入るように見つめるというより、背中を椅子にもたれながら眺めているお客さんが多いように感じる。僕自身もそのひとりだ。どんなふうに客席に座っていればいいのか、裸の踊り子を前にするとたじろいでしまう。特に困惑するのがオープンショーだ。見せつけるようにしてそれがあらわになったときに、どういう態度でいればいいのか戸惑ってしまう。

「続いては、オープンショーでございます」。流れるようなアナウンスに、少し身構える。アップテンポな曲とともに舞台に登場した踊り子が、ポーズを決めてゆく。僕の斜め前には、同世代ぐらいの男性がひとり、少し背中を丸めるようにして座っていた。その男性は、自分に向けて踊り子がポーズを決めると、恐縮ですといった感じで会釈をして、小さく手を合わせた。ああ、あれが正しい反応だったのだと感銘を受ける。ストリップの踊りは、神々しさを感じるというより、どこまでも人間くささがある。人間が人間を見つめる場所がストリップ劇場なのだろう。

劇場を出て、静まり返った街を歩く。今夜が滞在最終日だから、もうすぐ旅が終わって日常が戻ってくる。あたらしい朝が来て、ここで目にした人間の姿を抱えて帰路につく。

*   *   *

橋本倫史『観光地ぶらり』次回第2回は2023年2月8日(水)17時配信予定です。

筆者について

橋本倫史

はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
  11. 番外編第1回 : 「そんな生き方もあるのか」と思った誰かが新しい何かを始めるかもしれない 井上理津子『絶滅危惧個人商店』×橋本倫史『観光地ぶらり』発売記念対談
  12. 番外編第2回 : 「観光地とは土地の演技である」 蟲文庫・田中美穂×『観光地ぶらり』橋本倫史
  13. 番外編第3回 : たまたまここにおってここで生きていくなかでどう機嫌良く生きていくか 平民金子・橋本倫史・慈憲一 鼎談
  14. 番外編第4回 : これからの時代にノンフィクションは成立するのか 橋本倫史・森山裕之 対談
連載「観光地ぶらり」
  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
  11. 番外編第1回 : 「そんな生き方もあるのか」と思った誰かが新しい何かを始めるかもしれない 井上理津子『絶滅危惧個人商店』×橋本倫史『観光地ぶらり』発売記念対談
  12. 番外編第2回 : 「観光地とは土地の演技である」 蟲文庫・田中美穂×『観光地ぶらり』橋本倫史
  13. 番外編第3回 : たまたまここにおってここで生きていくなかでどう機嫌良く生きていくか 平民金子・橋本倫史・慈憲一 鼎談
  14. 番外編第4回 : これからの時代にノンフィクションは成立するのか 橋本倫史・森山裕之 対談
  15. 連載「観光地ぶらり」記事一覧
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