終戦の年に生まれ、学生運動が激化していく1960年代に二十歳(はたち)の時代を過ごした元日本赤軍闘士・重信房子。6月16日に発売された重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、22年ぶりに出所した著者が、「女性らしさ」から自分らしさへ、自ら綴った決定版・青春記となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書より厳選したエピソードを一部抜粋し、全7回にわたって紹介します。
第2回目は、「第一章 はたちの時代の前史」より。高卒で就職した重信が見た「世間」、そして現実とは──。
就職するということ 1964年──18歳
高校3年生になると、就職にむけて、学校の体制や指導も重視されていきました。大学進学組はH組一クラスで、A~G組までの400人位が自営業の子弟か就職試験を受けて職場を選び、巣立っていくことになります。昔、私たちの高校は男子校だったのですが、私の時代には共学で男女半分くらいずつだったと思います。そのうち4分の1くらいが自営業の家庭だったかも知れません。
都立一商は昔の東京府の時代の旧い商業高校で、進学する者は一橋や早大、明治などの商学部に多く、また自営業者の息子娘たちは算盤簿記を学んで、家業を継ぐ人も多くいます。算盤と簿記は三級の資格をとらないと卒業できません。就職は引く手あまたです。歴代の卒業生が職場で実績を残していて、真面目・勤勉と企業から求人が多いのです。当時は、一時期の証券・銀行ブームが引いて、製造業が一番人気でした。生産会社が高度成長の中で、増産増収で企業規模を拡大していく時期でした。高卒と大卒を、それぞれに企業現場では必要としていたようです。
3年生の二学期くらいから、求人票がボードに貼り出されます。会社名・規模・業種・求人数・給料・条件(算盤や簿記何級など資格技術や、容姿端麗とか背の高さ等まで)、試験の内容(筆記・知能テスト・面接等)などが書かれています。そのボードの中から、クラスの担任に希望を申し出て、成績と照らし合わせて、他のクラスの希望者と調整しながら、まず第一希望を確定していきます。そして、高校の推薦状とともに就職志願書を提出するのです。
私は、求人票の中で一番給料の良かったキッコーマン(当時の社名は野田醤油)か東洋レーヨンを、まず考えました。当時は銀行や証券会社が、その年の平均の給料を示すのですが、1万3,500円くらいだったと思います。キッコーマンと東レは1万7,500円で交通費なども支給・ボーナス3・5か月、など書かれていたと記憶しています。
当時はどこの会社でも学校からの推薦資格がとれる、と担任からも言われていたので、深く考えず、一年目の給料額がよいという理由で、キッコーマンへ願書を出すことにしました。条件には、今ならセクハラで告発されますが、「身長155cm以上、容姿端麗」とありましたが、担当の先生が構うことないと無視していました。本社は千葉の野田にあり、日本橋小網町に東京出張所があって、仕事場はその日本橋ということでした。
就職試験は、もう忘れてしまいましたが、やはり商業簿記や算盤関連や基礎的な学科もあったと思います。その後、書類と学科審査で合格した者たちが、第二次の面接試験に再び行きます。私の高校では3人受けて一人が不合格となって、私ともう一人が面接試験に行きました。一人の不合格の人は、勉強もよく出来る人でしたが、多分、両親が健在でなく片親だった為に落とされたのだろうと、担任の先生が言っていました。当時は、両親がそろっているかどうかなど家庭環境のことも、うるさかったのです。
私たち高校生は、規則でストレートヘアでなければならないところ、前髪の先をふわっと高くする”さか毛”が流行っていて、昼休みや学校の帰りにはトイレの鏡の前で逆毛をたてて、お洒落したものです。就職試験の為の写真には、そんなことはしません。皆、髪をわざと、野暮ったく撫でつけた真面目な写真を貼って、提出します。それでも試験会場に行くと、就職の為にわざと野暮ったくしていても、あか抜けたお洒落を隠している人は、すぐにわかります。
大体そういう人同士は、目敏く、友人になるものです。でも、キッコーマンの合格者は、総じて真面目な人が多かったように思います。面接は数人ずつ、趣味とか我が社を選んだ理由を聞かれたと思います。
私の家はもと食料品店をやっていて、キッコーマン醤油も売っていたので親しみがあり、給料が一番高かったからと、答えました。そんなことで、スムーズにキッコーマンに合格して入社しました。同期入社は約20人くらいの高卒に、10人ほどの大卒の男たちでした。そして64年、高校の卒業式を終えると、キッコーマンの会社はまず、数日の研修を千葉の野田で行いました。
研修では野田醤油の社史、工場の見学、新入社員の心構え、業界の現状などが教えられます。「修養団」から講師が来て、女性は男をたてて生きるとか、はじらいをもって振る舞い、笑顔もしとやかに、などという講義もありました。老男性講師の、婦女道みたいな話です。夜は研修所の和室に広々と、修学旅行のように布団を敷いて泊まったように思います。仲良くなった新入社員の他の高校から来た同年の仲間たちと、「婦女道にはまいったね」「あの話、古いわね」「今時、あんな話きく人いるのぉ?!」などと笑い合いました。また、私たちの背丈の2倍以上もあるもろみの大桶に落ちて死んだ人もいるとか、野田の地元の高校出身の人が語りだすと、ネズミの死骸があったとか、キヤー(→キャー)ワーと楽しく大騒ぎの話です。
最後の日に、この研修についての感想文を書かされました。数日して、確か入社式があったように思います。S人事課長から一人だけ呼ばれました。
「あの研修会なあ、『結構なお話でした』と、書かなかったのは君だけだよ」と言われてびっくり。え! みんな「古いわねえ、私たちにそんな話をしても意味がない」など言っていたのに……。と心の中で思いました。「君にとって本当のことでも、それを言って角を立てるのは、どうかな」とS人事課長は笑っていました。彼は訛りのつよい高卒のたたき上げで、停年間近の実直そうな人です。S課長はそのあと声をひそめるように、「テストによれば、君は創造的か社交的な仕事が合う。『受付』か『企画』を考えているが、受付や接客は好きかね?」と訊かれました。「いいえ、受付や接客よりも、何か業務をやってみたいです」とこたえました。呼び出されたのは私一人でした。
戻ると、「どうだった?」「何?」と、みんな興味津々で訊くのです。感想文の話をすると、「えー?!『古い』なんて書いたの」と、みんなどっと笑いました。そうか……思ったことを、そのまま言ってはいけないのか、遅ればせながら「世間」という現実に触れた思いでした。そして、すこし幻滅しました。
私だって、対立的に意見を批判として書いたわけではない。我が家でも和を大切にする方だし、そうして育ってきた。でも、自分の率直な考えをなぜ言ってはいけないのだろう。みんなも、なぜ言わないのだろう。この戸惑いが入社の第一歩になりました。
新入社員、大学をめざす
こうして、高卒の女性が、受付や庶務、電話交換手、売上業務管理、データ計算の業務課、キーパンチャーなどの、男性の補助的な役割の多い中で、出来たばかりの食品課に配属されました。ここも男性の補佐的な仕事でしたが、責任のある業務でした。
キッコーマンはアメリカに進出するための輸出課を持っていましたが、カリフォルニアを目指した輸出課を通して業務提携の出来たデルモンテ社と三井物産、それに博報堂が組んで、デルモンテ商品の日本上陸計画を始めました。このデルモンテの日本での販売の為につくられたのが、食品課でした。
デルモンテケチャップをどう売るか、デルモンテのトマトジュースをどう日本人に飲ませるか、それを企画宣伝・販売実績を上げて、フォローアップしていく為の新しい課として出来ていました。ようは、米企業の先兵です、今から考えると。そのため他の課と違って市場調査や宣伝企画、試食会のマーケット見学など博報堂などと協力して、やりがいのある仕事です。
課長はとっつきにくそうな、本当はやさしい慶応ボーイ。主任は企画力も能力もある早大卒、それに営業のエリートの大学卒の数人と高卒の人が営業、他に高卒の頭のよさそうな真面目な人が業務計算を仕切っていました。女性は、課全体を円滑にすすめる役処で、主任の秘書的な庶務役を、仕事の出来る女性が一人で取り仕切っていました。総勢10人の課です。私はそこに配属されて主任や女性の指示に従って、業務を行いはじめました。
デルモンテを売る為に、「ケチャップのラベルを送ってきてくれた人には、先着1万名様にシームレスストッキングを一足贈ります」などとキャンペーンを張り、売り上げを伸ばしていました。当時はまだうしろに縫い線が入ったものがほとんどで、シームレスストッキングは貴重品でした。販売環境を視察し、スーパーのディスプレイをチェックしたり、博報堂の持ってくるポスターやデザインに課の意見をまとめたりと、かなり楽しく仕事をしていました。
また、キッコーマンは「女性のたしなみ」を大切にする会社で、お茶とお花は五時の就業終了後、週1回、半ば義務的に講習を行っていました。もちろん無料です。「野田争議」として有名な労働争議が起きたことがあったとかで、以降はがっちりと会社の役に立つ組合がつくられ、そのもとに組合活動が行われていました。当時はそうした由来も知らず、労働者の権利、婦人の権利のための組合というので誘われて、顔を出していましたが、「茂木社長の配慮によってこんないい環境になった」というような話で、がっかりしました。それでも、野田本社にあった文芸サークルと交流して、『野田文学』に詩を書いたりしていました。
そんな時、食品課の高卒の男性が、中大の夜間大学に通っていることを知りました。業務課の女性が一人、法政大学の夜間に通っていることも知りました。この二人の話は、吃驚するほど嬉しいものでした。「夜間大学」! 世界への伝手のない我が家には、そんなことを教えてくれる人はいなかったし、知りませんでした。父は自分が大学に学んだ経験から、学問は社会で学ぶ方が良いと考える人だったので、大学入学の興味や知識もなかったのでしょう。絶対に大学に行こう! 二人の話を聞きながら、熱く決意しました。
そんな64年の秋、突然、私は病気になってしまいました。通勤の途中で、お腹の激痛に襲われてしまって気を失いそうになり、小田急線の向ヶ丘遊園駅に途中下車して、駅の和室に連れ込まれました。町田の自宅からバスで小田急線の駅へ、そして町田から新宿へ。新宿から東京駅へ、東京駅の八重洲口からバスに乗って日本橋小網町へ、というのが私の通勤経路です。急いでも自宅から1時間40分ほどかかるのです。
その途中の向ケ丘遊園で降りざるを得なかったのでした。会社に電話を入れて、駅長室で休んでいるうちに痛みも治まったので、町田の自宅に戻って、自宅に近い町田中央病院に行きました。そのまま検査入院になりました。数日の検査の結果、どこも悪くないし、痛みもケロリととれてしまいました。
そこで退院の支度をして、お金の払い込みを母がやりながら「最後に何もないと思うが、産婦人科でちょっと診てもらいなさい」と医師に言われて、産婦人科で診察すると、ここで初めて、卵巣嚢腫(のうしゅ)だと診断されたのです。こぶしくらいの大きさの嚢腫があるので直ぐ手術しないと、いつ激痛に襲われるかわからないとのことでまた病室に戻って、今度は手術の体制となりました。この当時、日本中は東京オリンピックが始まる騒ぎの最中でした。
私はちょうど良いチャンスだと、問題集などを持ち込んで集中して受験勉強することにしました。手術して受験勉強に熱中していると、同部屋の患者のラジオからオリンピック中継が流れてきます。アベベがマラソン1着になった中継やバレーボールの金メダルの応援など聞きながら、勉強を楽しんでいました。
私はオリンピックよりも、先生になれるという人生の、目標に向かって、自分のオリンピックを実現する! と、気持ちは晴れ晴れしていました。9月生まれの私は10月10日からのオリンピックの時には、19歳になっていました。自分の力で生きていくこと、19歳の私は一歩踏み出す希望と喜びにあふれていました。
* * *
※第3回は、7月18日(火)配信予定です。
重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、全国の書店・各通販サイトにて好評発売中です。
筆者について
しげのぶ・ふさこ 1945年9月東京・世田谷生まれ。65年明治大学Ⅱ部文学部入学、卒業後政経学部に学士入学。社会主義学生同盟に加盟し、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際部として活動し、71年2月に日本を出国。日本赤軍を結成してパレスチナ解放闘争に参加。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所。近著に『戦士たちの記録』(幻冬舎)、『歌集 暁の星』(晧星社)など。