広島に生まれ育ったこともあり、夏の記憶は原爆と結びついている。小学生の頃は、8月6日がやってくると、被爆者である祖母と一緒に広島市内に出かけ、平和記念公園の慰霊碑に手を合わせた。帰省のついでに、久しぶりで平和記念公園に出かけてみることにした。
78年前の夏、ここで被爆したのはわたしではなかった
8月初めに郷里を訪れると、酒屋の軒先に盆灯籠が並んでいた。夏らしさを感じるのと同時に、懐かしくなる。赤、青、黄、緑と色とりどりの紙が貼られた盆灯籠と、真っ白な盆灯籠と――これらが商店に並んでいるのが夏の風物詩だった。お墓に盆灯籠を飾るのは全国共通の習俗ではなく、広島の安芸地方で見られるものだと知ったのは、大人になってからだった。親に連れられて墓参りに出かけるたび、真っ白な灯籠のほうがシンプルで美しいのに、どうしてうちの墓に飾るのはカラフルな灯籠なんだろうかと不思議に思っていた。真っ白な灯籠は初盆を迎えるお墓に飾るものだと知ったのは、ずっとあとになってからだった。
盆灯籠を見かけた酒屋は、たしか小学校の同級生の親が営んでいたはずだ。キリンレモンを買って、飲みながらあたりをぶらついていると、神社の近くに幟がはためいているのが見えた。それは小学校のグラウンドで4年ぶりに盆踊り大会が開催されることを知らせるのぼりだった。ただし、のぼりに「盆踊り」の文字はなく、サマーフェスティバル、夏祭り大会と書かれてあって、「みんなが主役」というキャッチフレーズが掲げられていた。自分が小さかった頃の記憶を辿ってみても、たしかに盆踊り大会というのはほとんど夏祭りでしかなく、「お盆」の意味を理解していなかった。のぼりに書かれた「みんなが主役」には、死んでしまった人たちも含まれているのだろうか。
広島に生まれ育ったこともあり、夏の記憶は原爆と結びついている。小学生の頃は、8月6日がやってくると、被爆者である祖母と一緒に広島市内に出かけ、平和記念公園の慰霊碑に手を合わせた。郊外の農村に生まれ育った僕にとって、小さい頃は広島市内に出かける機会は少なかったから、余計に記憶に残っているのかもしれない。帰省のついでに、久しぶりで平和記念公園に出かけてみることにした。
朝7時に実家を出て、山陽本線の八本松駅に向かっていると、サイクルウェアを身に纏ったサイクリストの一団が国道2号線を東に疾走していくのが見えた。この町に暮らしている頃は、旅人の姿なんてほとんど見かけなかったから、新鮮な感じがする。昔は駅のホームに「名所案内」という看板があったけれど、松茸狩りができる「まつたけ山」と、お寺までのハイキングコース、あとは八本松ゴルフ場くらいしか書かれていなかった。そんな郷里にも、昨年(2022年)の夏に道の駅がオープンした。全国のいたるところに、観光的なまなざしが注がれつつある。いや、正確には、全国のいたるところが、観光的なまなざしを意識するようになってきたのだろう。
八本松駅を出た山陽本線は、山のなかを進んでゆく。八本松駅は山陽本線のなかでもいちばん標高が高く、255メートル地点に駅がある。隣の瀬野駅から八本松駅までの区間は急勾配が続き、「セノハチ」の愛称で知られている。母がこどもだった頃は、急勾配をのぼるために補機を連結し、うしろから車両をあと押ししていたのだという。当時はまだ蒸気機関車の時代で、窓を開けていると白煙が入り込んできて、服が黒く汚れていたのだと母は語っていた。そうだとわかっていても、当時はエアコンなんてついていないから、乗客は窓を開けて乗っていたのだ、と。僕が生まれた頃にはもう、蒸気機関車は引退していたから、そんな光景は見たことがなかった。
山を抜けたあたりで、クリーニング屋の色褪せた看板が見えてくる。小熊のマークが印象的な看板は、昔と変わらずそこにある。しばらくすると、森永チョコボールの看板もまた、昔と変わらず見えてくる。ただ、それらの向こうに見えている山の中腹に、新しいバイパス道路が開通している。そういう大きな変化は把握できるけれど、気づかない変化がいくつも生じているのだろう。何より変わったのは広島駅だ。10年ほど前に大掛かりな改良工事が始まって、あまりの変化に戸惑ってしまう。
改良工事が始まる前まで、ここには「ASSE」という駅ビルがあった。その駅ビルは、僕が高校生だったときに――つまり通学でよく利用していた頃に――リニューアルオープンしたものだ。あの当時は、リニューアルされることに戸惑いをおぼえることなんてなくて、明るくぴかぴかした駅ビルがオープンしたことが嬉しかったはずだ。それなのに、どうして今は戸惑ったりするのだろう。今はこの街を離れて暮らしていて、街のイメージがあの頃のまま止まっているから、それが変わってしまうことに戸惑っているのだろうか。それとも、年齢を重ねるにつれて、何かが変わってしまうこと、消えていってしまうことに対する感覚が変わったのだろうか。あるいは、単なる改装工事ではなく、改札の位置を含めて構造がまるで変わってしまって、昔とはまるで別の空間が広がっていることに戸惑っているのだろうか。
今はまだ昔の面影を留めている停留所から、路面電車に乗る。この路面電車も、新しい駅舎が完成した暁には、駅ビル2階から発着することになるのだそうだ。銀座線の渋谷駅に近いのかもしれないけれど、路面電車が駅ビルの2階に進入していく姿を、うまくイメージできずにいる。広島駅を出発した路面電車は、すぐに猿猴橋町(えんこうばしちょう)という停留所にとまる。そこから大きな弧を描き、川を渡ると的場町だ。稲荷町を過ぎるとまた川があって、銀山町(かなやまちょう)、胡町(えびすちょう)、八丁堀と、電車は繁華街を進んでゆく。そごうがある紙屋町の次が、原爆ドーム前停留所だ。
この日は8月5日で、原爆投下の日の前日ということもあってか、原爆ドームのあたりには観光客の姿がたくさんあった。団扇を叩きながら読経するお坊さんたちの姿もある。元安川沿いを進み、平和記念資料館に出てみると、入り口には長蛇の列ができていた。20分ほど並んで、ようやくチケットを買い求める。エスカレーターを上がると、「被爆前の広島」という文字があり、戦前の街並みを撮影した写真が大きく貼り出されてある。すずらんのような電灯が並ぶ商店街には、銀行や書店、小間物屋が軒を連ねている。自転車や大八車も行き交い、向こうが見渡せないほど賑わっている。そうした写真をひとしきり見たあとに、次の部屋に移動すると、原爆によって焦土と化した広島を撮影したパノラマ写真が、壁一面に展示されている。昭和20(1945)年8月6日、8時15分。広島に投下された原子爆弾が何をもたらしたのかを、追体験しているかのような心地になってくる。
原爆が投下されたとき、ここに暮らしていたひとびとの身に何が起こったのか――それは、資料館の入り口にあたる東館ではなく、隣に建つ本館に展示されている。
東館と本館をむすぶ廊下を進んでいくと、正面に少女の写真が見えてくる。そこには何の説明書きもなく、右手と左頬に包帯をあてている女の子が、じっとこちらを見返している。そのまなざしを感じながら進んでゆくと、ある記者の手記が壁に貼られている。
大火傷を負って逃れてきた負傷者が群がっていた。カメラを構えたが、シャッターが切れない。
二十分ほどためらい、
やっとの思いで、一枚目のシャッターを切った。
この文字の隣に、「一枚目」の写真が展示されている。橋のたもとにある派出所前に、臨時の診療所が設けられ、被爆した人たちが欄干の前に座り込んでいる。8月6日の午前11時頃に爆心地から2270メートル地点で撮影された写真だ。原爆による人への被害を示す資料として、全身に火傷を負った男性や、目を治療中の負傷者、背中に火傷を負った女性、傷を負った子どもの写真が並んでいる。思わず顔をそむけたくなる。
小さい頃の記憶がよみがえってくる。あの頃の自分は、平和記念資料館の展示を見るのがおそろしかった。資料館に入っても、すぐに「早く出よう」と言い出して、足早に出口に向かっていた。そこに展示されている誰かは、わたしだったかもしれない。そう思うと、原爆が投下された世界に連れて行かれるようで、おそろしかった。
あの頃と違って、今はひとつひとつの展示をじっくり見つめている。大人になった今では、写真に記録されている人たちに対して、わたしを重ね合わせることはなくなった。
小学生だった頃の僕には、自分が生まれる前の出来事に思いを巡らせるには、わたしを重ね合わせることしかできなかった。被爆したひとりひとりが、わたしと変わらない日常を過ごしていて、それが原爆によって奪われたのだ――と。そうやって想像することで、戦争のおそろしさを感覚的に学習できたのだと思うけれど、どこかの誰かにわたしを重ね合わせることで、何かが損なわれてしまう気がする。
被爆したのは、昭和20(1945)年の8月6日の広島に暮らしていた人たちだ。今とは生活様式も違えば、感覚だって違っている。それに、昭和20年の広島を生きている人たちだって、年齢も違えば性格も生活環境もひとりひとり異なっていたはずだ。そこにわたしを重ね合わせることは、どこかの誰かの人生を、現在を生きるわたしの感覚で塗りつぶすことになりかねない。それに、「どこかの誰かは、わたしと変わらない日常を過ごしている」と考えるとき、わたしという存在は、たった一度きりのかけがえのない人生を送っているというよりも、どこかの誰かと替えがきくものになりかねない。そして何より、誰かにわたしを重ね合わせるというやり方だと、わたしとはまるで異なる存在は、すっぽり抜け落ちてしまう。ひとたび戦争が起こると、敵国の誰かは「わたし」の範囲から外れてしまって、だから相手を殺すことができてしまうし、原子爆弾を投下することだってできてしまう。
本館の入り口に飾られていた、少女の姿を思い出す。78年前の夏、ここで被爆したのはわたしではなかった。被爆し、カメラを向けられていたのは、わたしではなく、あなただった。人は、わたしと異なる境遇を生きる誰かのことを、想像することができる。だからここに展示されている一つひとつのことを、凝視しなければ。
「ひどい物語を、ひどがっている」
被爆した人々が身に纏っていた遺品や、原爆投下時に腰掛けていた誰かの跡が残る「人影の石」、黒い雨の跡が残る白壁、高熱で溶けた仏像。ひとつひとつの展示物のあいだに、石や金属片がいくつも置かれてあった。特に説明書きがないものが多く、何気なく見過ごしてしまいそうになるけれど、それが平和記念資料館の原点とも言える資料なのだと、最近になって知った。
広島平和記念資料館の初代館長を務めたのは、地質学者の長岡省吾だ。広島文理科大学(現在の広島大学)嘱託として、山口県上関町で地質調査にあたっていた長岡は、「広島市壊滅」の噂を聞き、調査を中断して広島に引き返した。8月7日は早朝から広島市内に出かけ、いたるところで凄惨な様子を目の当たりにしている。街を歩いているうちに、すっかり破壊された護国神社にたどり着いた長岡は、石灯籠の台座に腰を下ろした。その瞬間に痛みをおぼえ、立ち上がって確かめてみると、つるつるなはずの石灯籠の表面に小さな棘が無数にできていた。これは特殊な爆弾が投下されたに違いないと推測した長岡は、この未知の現象を解明するべく、自宅から広島市内に通っては、熱線を浴びたであろう物を収集してまわった。最初のうちは石や瓦だけを収集していたものの、焼け跡から見つかった懐中時計や被爆者が着ていた衣類など、被爆の痕跡が残るものならなんでも集めるようになってゆく。次第に長岡を支援するひとびとが現れ、原爆の痕跡を示す資料が数多く収集されていった。
1947年、初の民選市長に選ばれた浜井信三は、長岡の存在を知り、「原子爆弾に関する臨時調査事務」を担当する広島市の嘱託職員に任命した。当初は秘書課に机が置かれていたものの、あっという間に石や瓦で足の踏み場もない状態となり、昭和24(1949)年に広島市中央公民館がオープンした際に、その一室に「原爆参考資料陳列室」が開設された。この部屋もすぐにいっぱいとなり、昭和25(1950)年、公民館の北隣に「原爆記念館」が建設されている。小さな資料館ながら、観光バスも乗りつけるようになったものの、職員は長岡ひとりだけで切り盛りしていたそうだ。現在の平和記念資料館がオープンしたのは、1955年のことだった。
広島平和記念資料館は、2019年に展示内容が大幅にリニューアルされた。戦後70年以上が経過し、「被爆の実相」を知る世代が少なくなりつつある時代にあって、被爆者の視点から原爆の悲惨さを表現するために、実物資料の展示にこだわったのだという。だから、説明書きもなくさりげなく配置されている石もまた、長岡か、あるいは長岡を支援するひとびとが拾い集めたものなのだろう。
広島出身だというのに、平和記念資料館がどのようにして立ち上げられたのか、つい最近まで知らなかった。小学校の頃から年に何度も平和学習の授業があったし、自分が生まれ育った土地のことだから、すっかり知ったつもりになっていて、自分から何かを知ろうとしてこなかった。長岡省吾という人物を知るまで、そこに置かれている石は、ただの石でしかなかった。でも、長岡の伝記を読んだことで、ひとつひとつの石に目が留まるようになった。石はずっとそこに置かれていたわけだから、変わったのはこちらの目だ。
8月6日の様子を伝える展示を抜けると、「被爆者」と題した部屋に出る。そこには被爆者の遺品と遺影が並べられている。革靴。財布と死亡証書。印鑑と眼鏡。皮ベルト。三輪車と鉄かぶと。銀色の弁当箱には、真っ黒に焦げた中身が、今も詰まったままだ。遺品にはそれぞれ短い説明文があり、弁当箱にはこんな言葉が書き添えられている。
県立広島第二中学校1年生の折免滋さん(当時13歳)は、建物疎開の作業現場で被爆し、亡くなりました。
この弁当箱と水筒は、骨になった滋さんの遺体を母親が見つけ出した時、遺体の下にあったものです。お弁当の中身は、米・麦・大豆の混合ごはんと千切りにしたジャガイモの油炒め。
滋さんはお弁当を楽しみに出かけましたが、それを食べることはできませんでした。
真っ黒な弁当箱の近くには、また別の遺品が展示されている。弁当箱の持ち主だった折面滋さんと同じく、13歳で被爆した女の子の日記だ。
今日美智子を私が風呂に入れたので、よろこんでゐた。お母さんだとゆをとばせばしかられて、私だと、一しょにゆをとばすので、おもちゃを浮かせたりしてよく入った。夕飯は、うどんだった。私が、おしるに味をつけて、こしらへたので、お父さんも、お母さんも、おいしいおいしいと言はれた。
この日記の日付は8月5日だ。曜日を記入する欄には「日」と、天候欄には「晴」と書かれている。また、この日の日記には、「晝過ぎに泳ぎに行った。行っても、あさいので頭にかぶってゐた手ぬぐい一ぱいに貝を取って歸った」という文もある。日記を書いていたのは、県立広島第一高等女学校1年生の梅北トミ子さん。彼女は絵を描くのが好きで、毎日つけていた日記とイラストは、家族が形見として大切にしていたものだと、説明書きにある。彼女が泳ぎに行ったのは、どのあたりだったのだろう。
日記帳は右綴じで、8月5日の日記は右側のページに書かれてある。左側のページは空白のままだ。日記を書いた次の日の朝、彼女もまた建物疎開に動員され、爆心地から800メートルの地点で被爆した。大火傷を負って、郊外に運ばれていたものの、8日になって父親が見つけ出したときにはもう亡くなっていた。
こうして展示を眺めていると、頭の中で自然と、物語を拵えていることに気づく。いつもと変わらぬ日常を過ごしていたのに、原爆投下によって被爆し、命を落とした少年や少女――短い説明書きを読んでいると、頭の中にそんな物語をつくり出している。
「物語は、なまやさしい相手ではない。なにかをおもいかえし、記録しようとすると、もう物語がはじまってしまう」。そう書き綴っていたのは、広島県呉市で少年時代を過ごした田中小実昌だ。
田中小実昌は、「大尾のこと」という小説のなかで、タイトル通り大尾のことを書いている。大尾というのは、同じ分隊に所属する、田中小実昌と同じ初年兵だ。貧弱な体格で、背も低かったが、「ワリをくっていることは知っていて、ワリをくってることを」引き受けるような男だった。長い行軍に出るとき、分隊には2挺だけ三八式歩兵銃が支給された。この2挺は、本来なら兵士が交替で持つべきところを、1挺は大尾がずっと持っていた。その姿を見て、「大尾はこんな大きな男だったのか」と、田中小実昌はおもう。大尾はやがて病気にかかり、バラック小屋のような施設に収容されると、大尾の姿は「いつからか、ちいさく見え出した」。このバラック小屋で、大尾は死んだ。
ともかく、ぼくは、上海のあのバラック小屋で大尾が死んだことなど、大尾のことは、いろいろしゃべってきた。だけど、くりかえすが、ぼくがしゃべったことは、みんな大尾の物語で、大尾を物語の人物にしてしまっていた。
(…)ぼくは、大尾を物語にした。また、くりかえすが、大尾は大尾だ。その大尾を物語にすると、大尾は消えてしまう。あるいは、似て非なるものになる。
ほんとの大尾が消える、などとも言うまい。ほんと、なんて言葉もまぎらわしい。戦争の悲劇とか、戦争の被害者だとか、そんな言葉は、ぼくはつかったことはないが、そういう言葉をつかうのとおなじことを、ぼくはしゃべってきた。
あの大尾が、あんなふうに死んだ、ひどいもんだ……ぼくは、自分でかってにつくった、それこそひどい物語を、ひどがっている。
田中小実昌が「自分でかってにつくった、それこそひどい物語を、ひどがっている」と書いていたのと同じように、僕もまた、亡くなった人たちのことを「物語」にして理解して、「ひどがっている」んじゃないかと自問自答する。初年兵として中国戦線で病に倒れた大尾も、原爆で亡くなった人たちも、ひどい目にあったのは確かだ。でも、それを「物語」にしてしまうと、そこにいたはずの誰かを「物語の人物」に変えてしまう。同じ分隊に所属していた同士でもそうなってしまうのだから、被爆した人たちと顔を合わせることもなかった僕なら、なおさらだろう。
「ぼくたちのありように、区切りなんかはあるまい。物語には区切りがあったり、そこでおわったりするけれども……」と、同じ小説のなかで田中小実昌は書いている。被爆した人たちのことを「物語」にするとき、被爆した8月6日が「区切り」となる。この「区切り」、あるいは「おわり」に向かっていく「物語」を、頭のなかで思い描く。でも、78年前にここで被爆した一人ひとりは、その「区切り」に向かって生きていたわけではなかった。それなのに、僕が頭の中で勝手に拵える物語は、最期の瞬間にばかりクローズアップしている。真っ黒に焦げた弁当箱の持ち主は、「弁当を食べられなかった無念を抱えて死んだ少年」ではないのに、最期の瞬間だけを「物語」として思い浮かべて、ひどがっている。