原爆ドームが一直線に並んだ風景を目にすると、どこか不安になる
平和記念資料館には、被爆者の遺品が膨大に収蔵されている。資料館に展示できるのは、そのごく一部に限られる。2019年のリニューアル以降は、劣化を防ぐためにも、実物資料については1年ごとに展示を入れ替えているのだという。空間には限りがあるのだから、ひとつの資料に対して膨大な記述をしてしまうと、展示をする数が少なくなってしまう。なるべくたくさんの資料を来館者に見てもらうには、ひとつひとつの資料に添えられる説明書きには、どうしたって限りがある。だから、資料館を見学するときには、そこに書かれているのはほんの一部なのだということを頭に入れておく必要がある。
弁当箱の持ち主・折免滋さんのことは、『まっ黒なおべんとう』と題し、平成元(1989)年に児童書として出版されている(1995年には絵本にもなった)。著者の児玉辰春は、中学校の教員だった人だ。教員生活最後の年に、著者が勤務する中学校の生徒たちが、シゲコさんのお母さんに話を聞いて感動し、文化祭で「原爆としげる」という劇を披露した。教員を退職したあと、滋さんの話を聞かせてもらおうと、著者は滋さんの母・シゲコさんのもとを訪ねるようになったのだそうだ。最初のうちは「話しとうないです。思い出しますけえ」と断られていたが、何度か通ったある日、シゲコさんは家族の話を聞かせてくれたのだという。夫は歯科医だったこと。滋さんと、その兄・利昭さんが、父と一緒に投網を投げ、鮎をたくさん獲ったこと。兵役が免除となる50歳を目前にして、夫に赤紙が届き、召集されたこと。長男の利昭さんは海軍兵学校に行くことになり、「この弁当箱を形見と思って、大事に使ってくれ」と、滋さんに弁当箱を手渡したこと。シゲコさんは愛国婦人会の班長になったものの、竹槍訓練が上手にできず、滋さんが一緒に練習してくれたこと。様々なエピソードが綴られている。
これだって、もちろん「物語」だ。あとがきにも、「作品は、ほぼ折免シゲコさんの話のとおりですが、部分的には創作したところもあります」と書かれている。この本が書かれた頃には元号も昭和から平成に変わり、戦争の記憶が遠のき始めていた。そんな時代に、「なにかをおもいかえし、記録しようとすると、もう物語がはじまってしまう」。ただ、「物語」が書かれていなかったら、僕は遠い昔の出来事を知ることはできなかった。だからせめて、「物語」を通してなにかに触れたとき、その「物語」の向こう側には、わたしが知りようもない膨大な時間が――「物語」には含めることのできなかった無数の瞬間が――存在しているのだと、常に意識しておく必要がある。そうでなければ、ひどい物語に触れて、ひどがっているだけで終わってしまう。
『まっ黒なおべんとう』の著者は、滋さんの母・シゲコさんに話を聞く前から、平和記念資料館で何度も真っ黒に焦げた弁当箱を目にしていたという。その当時、弁当箱は木箱に収められ、資料館の出口のあたりに展示されていたのだそうだ。中学生たちが劇で描いた「物語」が入り口となって、著者はシゲコさんのもとを訪ね、それまで語られることのなかったエピソードを聞き書きすることになった。平和記念資料館を訪れて、そこで起こった悲劇を確認し、出口からもとの生活に戻ってゆくのではなく、ここをなにかの入り口にしないと、「物語」は「物語」のままになってしまう。
平和記念資料館は、資料を劣化させないために、そしてじっくり資料と向き合えるように、照明は絞られている。本館の見学を終えて、東館に続く廊下に出ると、大きなガラスからひかりが射し込んでくる。そのまぶしさと、外に広がる平和記念公園ののどかな景色に、いつも目を奪われる。いつもは芝生が広がっているエリアは、明日の平和記念式典に向けて、テントが設営されている。
広島で最初に「平和祭」が開催されたのは、昭和21(1946)年のこと。この年の春に、広島市町会連盟から広島市に対して「平和復興祭」を開催したいと打診があり、8月5日から3日間にわたって護国神社前広場で「平和復興祭」が開催さている。花電車が街に繰り出し、パーマネント実習会が開催されるなどお祭りムードが強く、死者の追悼行事は大通りを挟んだ向かい側、現在は平和記念公園となった慈仙寺鼻広場にて、仏式・神式・キリスト教式の順で追弔会がおこなわれている。
昭和21年の「平和復興祭」は「広島市町会連盟」が主催する行事だったが、その翌年、市長に当選した浜井信三は、広島市の行事として「平和祭」の開催を計画し、昭和22(1947)年8月5日から7日にかけて「第一回平和祭」が開催されることになった。会場となったのは、前年に追弔会が開催された慈仙寺鼻広場で、ここを「平和広場」と名づけ、高さ10メートルの平和塔と野外音楽堂が建設されている。平和祭にあわせて、平和音楽祭や平和美術展も開催され、町内会主催の山車や、市内を練り歩く仮装行列も見られた。「お祭り騒ぎが過ぎる」との批判もあり、昭和23(1948)年の「第二回平和祭」は企画を統一し、「ノーモア・ヒロシマズ」のスローガンを掲げて開催された。これ以降、平和祭は慈仙寺鼻広場、旧護国神社前の「市民広場」、原爆供養等前広場と会場を転々としながら回を重ねていたが、昭和27(1952)年に平和記念公園の建設が進み、原爆死没者慰霊碑が完成したことで、現在のように慰霊碑前広場で開催されるようになったのだった。
現在平和記念公園になっているあたりは、平和記念資料館にも展示されていたように、戦前には繁華街として賑わっていた。原爆投下によって街は灰燼に帰したが、この焼け野原をどうするべきか、終戦後に議論を呼んだ。東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ号上で、外務大臣の重光葵がポツダム宣言に調印し、太平洋戦争が終結した昭和20(1945)年9月2日、中国新聞に「原子爆彈の記念施設 廣島で爆心部に計画」と題した記事が掲載されている。そこでは「原子爆彈が大東亞戰終結の十代契機となつたものでこれを記念するために何らかの施設を講ずべきであるとの意見が強く、具体方法について考究してゐるが、大体において焦土と化し果てた同市の姿をそのまゝ永く保存する計畫」を進めるという広島県の構想が報じられている。これを受け、中国新聞は9月5日に「戰争記念物の運命」と題した社説を掲載した。そこでは「焼野原を永久に保存せよ」と述べるのは「無責任極まる論」とされ、「戰争記念物の運命は、そこに住居する市民の総意によつて決せられる」べきだとする意見が表明されている。
廃墟と化した広島市には、原爆ドームを含めていくつか焼け残った建物があり、占領軍兵士が「観光」に訪れていた。昭和21(1946)年2月に復興審議会が発足し、爆心地を公園とし、記念施設を置くという提案がなされた。同年5月、広島市復興顧問として着任したジョン・D・モンゴメリーは、広島市の復興審議会に出席し、爆心地を記念として残すために商品陳列館(原爆ドーム)附近に来訪者を迎える施設を設ける提言をおこなっている。復興審議会は戦災記念公園の計画を決定し、のちに中島地区が「大公園」の場所に指定された。
昭和24(1949)年、平和記念公園と「記念館」の設計コンペが開催された。応募要項には、のちに「原爆ドーム」と呼ばれることになる廃墟が大きく描かれており、この廃墟は「爆心地の祈念として現状のまま残すこと」が前提だったという。コンペには実に145点もの応募があり、最終的に8点に絞られたのち、審査員の投票がおこなわれた。一等に選ばれたのは、丹下健三らのグループだった。他のプランも、「原爆ドーム」を平和記念公園内に取り入れてはいたけれど、「原爆ドーム」に積極的な意味を持たせていたのは丹下らのグループだけだったという。
平和記念資料館のガラス張りの廊下を歩いていると、丹下らのグループが原爆ドームに持たせた意味が、はっきりわかる。ここに立つと、正面にまず、慰霊碑が見える。「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という言葉が刻まれた慰霊碑だ。その直線上に、平和の灯が見える。平和記念公園の入り口から、慰霊碑とアーチ、そして原爆ドームへと続く軸線が引かれたことによって、「原爆ドーム」は慰霊と平和祈念を象徴する存在となった。
この「原爆ドーム」という言葉が使われるようになったのは、昭和25(1950)年頃だとされている。この建物は、開館当初は「広島県物産陳列館」という名前だった。
物産陳列館は、日本が近代化を推し進めていた時期に生まれた施設だ。産業振興を担う存在として、各県にひとつに近い割合で設置され、明治から大正にかけて全国に普及してゆく。これは、現代に置き換えると、博物館と商工会議所、それに百貨店の役割を兼ね備えた施設だった。
近代における広島は、「軍都」として発展した。明治4(1871)年、広島城内に鎮西鎮台第一分営が設置され、明治21(1888)年には第五師団に改組される。明治27(1894)年に日清戦争が始まると、広島に臨時の大本営や帝国議会が設営され、軍都として躍進する。さらに、日露戦争前夜には、呉鎮守府が海軍工廠となり、呉は東洋随一の軍港となった。
街が発展するにつれて、地域の特産品を宣伝し、販路を開拓する拠点が求められるようになる。明治43(1910)年、広島県議会は物産陳列館の建設を議決したが、一大事業とあって建設工事はなかなか捗らなかった。そうするうちに県知事は宗像政(むねかた・ただす)から中村純九郎に代わり、この中村知事もわずか1年で広島を離れることになる。次にやってきたのは、宮城県知事として観光開発に力を注いできた寺田祐之(てらだ・すけゆき)だった。寺田は宮城県知事時代に、日本三景のひとつ・松島に、外国人観光客の招致を念頭に「松島パークホテル」を建設している。チェコの建築家ヤン・レツルが手がけた松島パークホテルのデザインに関心を抱いた寺田知事は、広島県物産陳列館の設計をヤン・レツルに依頼する。この依頼を快諾したレツルは、数か月で設計図を完成させ、大正4(1915)年には物産陳列館の落成式を迎えた。周囲には木造平屋建てが多く、鉄筋コンクリート造3階建て、ドームの頂部までは25メートルの高さを誇る物産陳列館はひときわ目立つ存在で、夜間にライトアップされるときもあり、広島の絵葉書にもたびたび描かれている。
当初は政府が推し進める殖産興業の舞台となった物産陳列館は、時代のうつりかわりとともに、その名称と役割を変えてゆく。昭和6(1931)年に満州事変が勃発し、翌年に満洲国が建国されると、広島県からの貿易輸出高は飛躍的に伸びた。1931年から1940年までの10年間のあいだに、輸出量は実に17倍にまで伸びている。原爆投下時には、「広島県産業奨励館」という名前の建物となっていた。
こうして歴史を遡ってみると、原爆ドームは広島の近代を象徴する建物だとわかる。それが原爆投下によって廃墟となり、戦後は慰霊と平和祈念の象徴となっている。
慰霊碑と平和の灯、そして原爆ドームが一直線に並んだ風景を目にすると、どこか不安になる。その構図が、あまりにも完璧に思えるからだ。ここから眺める平和記念公園は、あらかじめ用意された視点を覗き込んでいるような心地がする。視点がひとつの中心に向かって集中するように設計された空間に身を置くと、なにか見落としているものがあるんじゃないかと不安になる。
原爆ドームのまわりのバラックは立ち退きを命じられた
平和記念資料館をあとにして、平和記念公園を歩く。テントの下には、ずらりと椅子が並べられている。黒い服を身に纏ったスタッフが、椅子をひとつひとつ雑巾で拭いている。被爆者・遺族席、認定被爆者席、外国人・自治体席。ブロックの区分けごとに、プラカードが立っている。最前列には「市長」と札が貼られた席があり、通路を挟んで反対側のテントの最前列には「内閣総理大臣」と書かれた紙が貼られている。まだ10時過ぎだというのに、陽射しが厳しく、木陰を選んで進んでゆくと、また別のテントが見えてくる。そこには韓国人原爆犠牲者慰霊碑があり、毎年8月5日に慰霊祭が執り行われている。慰霊碑のそばの説明書きには、こう記されている。
第二次世界大戦の終り頃 広島には約十万人の韓国人が軍人、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として在住していた。1945年8月6日原爆投下により、2万余名の韓国人が一瞬にしてその尊い人命を奪われた。
広島市民20万犠牲者の1割に及ぶ韓国人死没者は決して黙過できる数字ではない。
爆死したこれらの犠牲者は誰からも供養を受けることなく、その魂は永くさまよい続けていたが、1970年4月10日 在日本大韓民国居留民団広島県本部によって悲惨を強いられた同胞の霊を安らげ原爆の惨事を二度とくり返さないことを希求しつつ平和の地、広島の一隅にこの碑が建立された。望郷の念にかられつつ異国の地で爆死した霊を慰さめることはもとより今もなお理解されていない韓国人被爆者の現状に対しての関心を喚起し一日も早い良識ある支援が実現されることを念じる。
一隅に、という言葉に目が留まる。この文章だけ読むと、「一隅」とは現在石碑が建つこの場所を指しているかのように思ってしまうけれど、最初に韓国人原爆犠牲者慰霊碑が建てられたのはここではなかった。
原爆投下から20年を迎えた昭和40(1965)年、広島市の諮問機関である広島市平和記念施設運営協議会は、「彫像・記念碑等の設置基準要綱」を定めた。これにより、公園や緑地に彫像や記念碑などを設置する場合、「公園または緑地の利用目的を妨げない」ことと、「美観風致を害しないもの」であることが求められるようになった。その2年後には、山田節男市長に対して、「平和公園内に記念碑、慰霊碑等が多くなったため、この時計塔(平和の時計塔*引用者註)を最後として公園内には一切工作物を許可しない」ように答申がなされている(ただし、実際にはこれ以降に公園内に設置された工作物もある)。当選したばかりの山田市長自身も、平和記念公園を「聖地」とし、広島が「世界の平和のシンボル」であるためには、平和記念公園内に「ごたごたしたもの」を置くべきではない、市議会で発言している。この時期に建立が計画されていた韓国人原爆犠牲者慰霊碑は、新しい方針により平和記念公園内に建てることができず、本川を挟んだ対岸――本川橋西詰に建立されることになった。
公園の外側という周縁的な立地に、「差別の象徴ではないか」という批判が巻き起こった。これに対し、広島市側は、「公園内には一切工作物を許可しない」というルールを遵守しなければならないこと、平和記念公園内に移築すると政治的論争が巻き起こる懸念があること、平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑は国籍や人種を問わず原爆で命を落としたすべての魂を祈念しており、韓国人の原爆犠牲者だけに捧げる別個の慰霊碑は必要ないことを理由に、慰霊碑の平和記念公園内への移転に反対していた。だが、1990年に広島市は態度を一変させ、この慰霊碑を「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」ではなく、北朝鮮側と韓国側の統一慰霊碑とすることを条件に、公園内への移設を認める方針を打ち出した。その際には、慰霊碑の正面に刻まれる碑文には国名を入れず、ただ「原爆犠牲者慰霊碑」とするべきだという提案がなされた。植民地化によって本来の国籍を剥奪され、日本人にさせられた人たちが、終戦後に独立を回復してなお、名前を削除するようにと告げられたのだ。結局、強い抗議によって統一慰霊碑は実現せず、1999年に韓国人原爆犠牲者慰霊碑が現在の場所に移転された。
テントの下に、ひとり、またひとりと参列者が集まってくる。笑顔で握手を交わす人や、一緒に写真を撮る人の姿があちこちで見られる。この場所は、被爆2世や被爆3世の方たちが年に一度の再会を果たす場所でもあるのだろう。10時半になる頃には席が埋まり、「只今より、第54回韓国人原爆犠牲者慰霊祭を行います」という司会者の言葉で、慰霊祭が始まった。まずは国歌の斉唱があり、この1年で亡くなった8名の名前が読み上げられた。それに続けて、参列者による挨拶があった。挨拶のほとんどは韓国語によるものだったが、ふたり目の方の挨拶は日本語の訳文もあわせて読み上げられた。
「今より78年前、閃光が光った瞬間、すべてがこの世の地獄になりました」。そんな一文から、その挨拶は始まった。原爆の犠牲になりましたわが同胞の無念の死を、この世でたとえようのない無念の死を、心の底より哀悼いたします。酷使された挙句、戦火の中で命を落としたわが同胞を哀悼いたします。懐かしい祖国へ帰れなかった同胞たちを追悼いたします。二度とこのような無念の犠牲になる同胞がないようにすることを、祭壇に誓います――こうして韓国人被爆者を追悼する言葉が尽くされたあと、「もう、恨みと憎悪は手放してください」という言葉が読み上げられた。
広島で被爆した朝鮮半島出身者は、終戦と同時に「日本人」には含まれなくなった。終戦直後に祖国に還る人たちも多かったが、祖国には原爆症に対する知見を有する医師も少なく、十分な医療を受けられずにいた。昭和40(1965)年に日韓基本条約が締結され、日本と韓国の国交が回復されると、これによって両国間の戦後処理は解決済みとされ、韓国人被爆者に対する被爆者手帳の発給を拒否した。韓国人原爆犠牲者慰霊碑の建立が計画されたのは、この時代だ。長年にわたる草の根運動により、海外に暮らす被爆者にも被爆者援護法が適用されるようになったのは、つい最近の話だ。慰霊祭の挨拶に耳を傾けていると、「わたしたち」に含まれずにいた誰かがいたのだということを、改めて知る。木陰に立っていると、頭上で蝉が鳴きしきっている。78年前の夏には、蝉の声も途絶えたのだろうか。
慰霊祭を見届けたあと、本川を渡る。かつて慰霊碑が建っていた本川橋西詰を通り過ぎ、どこかでお昼ごはんでもと街をぶらついていると、昔ながらのお好み焼き屋を見かけた。扉を開けると、鉄板の前には5脚だけ椅子が並んでいた。肉玉そばを注文し、焼き上がりを待つ。
お好み焼きといえば、広島のソウルフードだ。小さい頃から当たり前のように食べてきたけれど、お好み焼きはどのようにして生まれたのかということは、近代食文化研究会による『お好み焼きの物語』に出会うまで、考えてもみなかった。
お好み焼きのルーツは、江戸時代に誕生した。好景気にわいた文化文政期に、「子どもの小遣いだけで生計を立てる、大道芸的な食べもの屋台」が登場する。それは「食物で花鳥草木の形態模写」をしてみせる屋台で、飴細工やしんこ細工、文字焼などがあった。この文字焼は、江戸時代には「小麦粉に砂糖あるいは蜜を混ぜて焼いた薄く甘いクッキー状の菓子」で、「魚、亀、宝船などの形態模写」をしていたそうだ。こうした文字焼は、駄菓子屋の登場と、鋳鉄の焼き型を使った焼き菓子(このひとつが「鯛焼き」だった)の台頭により衰退し、文字焼の屋台は新しい商売を考案しなければならなくなった。そこで誕生したのが「お好み焼き」の屋台だった。文字焼屋台で培った水溶き小麦粉焼きの技術を使い、明治時代にはまだ目新しかった「洋食」のパロディ料理を作り、ウスターソースで味付けして提供するようになったのだ。
東京で誕生した「お好み焼き」は、広島にも伝わり、「一銭洋食」の名で親しまれていた。広島県呉市育ちの田中小実昌も、この「一銭洋食」の思い出を綴っている。『ふらふら日記』という本のなかで、田中小実昌は岡山で当時工事中だった瀬戸大橋を見て、下津井でタコ料理を堪能したのち、広島を訪れている。「ぼくが子供のときからある福屋デパートのよこの商店街を抜けると、ちいさな公園」があり、その向こうに「お好み村」を見つける。
お好み焼と広島とは、まえはなんの縁もなかったはずだ。それがとつぜん、広島のお好み焼が有名になり、「お好み村」がガイドブックにものるようになった。ふしぎなこともあるものだ、とぼくはおもっていた。
そのわけが、この日、「お好み村」のなかの「ちいちゃん」という店にいってわかった。「お好み村」の村長の古田正三郎さんとはなしていて、「ほら、ずっとまえに一銭洋食というのがあって……」と言われ「ああ、あの一銭洋食が……」と顔がほころびナゾがとけた。
ぼくが子供のころは一銭洋食をよくたべた。ぼくは甘いものがきらいで、一銭洋食が好きだった。ぼくたちのころは、もう五厘玉はなく、一銭が最小貨幣だったが、子供の小遣いは一銭、二銭がふつうだった。
それも一日の小遣いはいくら、ときまっているわけではなく、なにかほしくなると、「一銭ちょうだい」母親にせがんだ。その一銭玉をもって、一銭洋食をたべにいくのだ。たった一銭で洋食とは大げさだが、この名前はおかしく、おもしろい。
戦後の食糧難の時代に、アメリカは余剰小麦を日本に輸出し、大量の小麦粉が流通するようになった。戦前はこどものおやつだった「一銭洋食」が「お好み焼き」となり、広島のソウルフードになってゆく。昭和20(1945)年生まれの父によると、昔は土間に七輪と鉄板を置き、お好み焼きを提供する家もあったのだそうだ(横手の焼きそばの話とよく似ている)。お好み焼きだけでなく、家から炊いたごはんを持参し、鉄板で焼きめしにしてもらうこともあったという。
鉄板に丸く生地を描き、キャベツともやし、それにてんかすをのせ、最後に豚肉をのっける。その隣で、そばが焼かれている。しばらく経ったところでひっくり返し、そばの上に生地をのせる。じっくり焼いて、またひっくり返し、卵を鉄板に落とし、ヘラで丸く形を整えて、その上にお好み焼きをスライドさせる。もういちどひっくり返し、ソースと青のりを振ると、お好み焼きの完成だ。
80代だという店主は、「こんな年になってまで何で店を続けよるんかと言われるんですけどね、リハビリに出てきよるだけなんです」と笑う。店主は大阪出身で、結婚相手の仕事の都合で広島に移り住んだのだという。「10年と経たんうちに主人は亡くなって、仕事せえへんかったらこどもを育てられやしませんからね、働かんかったのはお産のときだけで、あとはずっと働いてます」。そんな話を聞きながらお好み焼きを頬張っていると、胸が一杯になる。
シャオヘイ著『熱狂のお好み焼 お好み焼ラバーのための新教科書』によれば、現在のそば入り、重ね焼きスタイルの広島風お好み焼きが誕生したのは、昭和30(1955)年頃だという。この時代には、広島の繁華街・新天地公園のあたりに、お好み焼きを提供する屋台がたくさん並んでいた。こうした屋台で商売をしていた人のなかにも、県外出身の人が少なくなかったそうだ。
広島市民は焼け野原から立ち上がり、市民球団として設立された広島カープを応援し、お好み焼きで腹を満たし、戦後の復興を成し遂げてゆく――。「広島の復興」という言葉からは、そんなストーリーが浮かんでくる。その「広島市民」のなかには、広島市に生まれ育った人だけでなく、外からやってきた人たちも大勢いたのだろう。
先に触れたように、昭和21(1946)年2月に、広島で復興審議会が発足している。この復興審議会により、「広島復興都市計画」が立案され、平和公園のほかに、河川緑地の設置や、新生広島の大動脈として100メートル道路の建設も打ち立てられた。ただ、復興計画を実現しようにも、原爆投下により焦土と化した広島市では財源が不足していた。そこで浜井信三市長は、広島復興のための「広島平和都市建設法」の成立を目指した。復興15か年計画を立て、法案の草稿を完成させた浜井市長は、GHQの国会担当官を訪ねた。草案に目を通した担当官は「これは素晴らしい!」と絶賛し、「国会へ行って、速やかに議決してもらうがいい」と言ったと、市長の回顧録に記されている。広島が「平和都市」として再建されてゆくことは、原爆を投下した側であるアメリカにとって好ましいことだったのだろう。
こうして昭和24(1949)年5月、広島平和都市建設法は衆参両院の満場一致で可決された。この法律が「打ちでの小槌」となって予算がつき、復興計画を推し進めることができたのだと、浜井市長は振り返っている。ただ、広島平和都市建設法が成立する少し前に、デトロイト銀行頭取のジョセフ・ドッジ公使が来日し、インフレ対策のために緊縮財政方針を打ち出したことにより、公共事業は大幅に縮小されつつあった。広島市にもその影響は当然及び、予算が大幅に縮小された上に、当初の復興計画に組み込まれていた河川・港湾・文教・住宅・観光・厚生といった事業は対象外となり、土地区画整理などの戦災復興事業・平和記念施設・排水施設・幹線道路・都市公共施設建設だけが進められることになった。
生活の再建が後回しにされ、「平和記念施設」が公共事業として進められてゆくことに対して、厳しい目が向けられた。「原爆被害者の会」を立ち上げた吉川清は、著書『「原爆一号」と呼ばれて』にこう綴っている。
平和が来て六年もたつというのに、被爆者は、病苦と貧困にさいなまれ、立ち直ることもできずに、瓦礫と雑草の中に取り残されていた。一九四九年に〈広島平和都市建設法〉が成立して、復興が軌道にのりはじめていた。市の中心部には、ビルも建ちはじめ、夜の目にも明るく電灯がともり、ネオンサインもまたたきはじめていた。それにひきくらべ、被爆者の生活は、復興から完全に取り残されていた。私は、市役所に浜井市長を訪ねた。市として、原爆被害者に何らかの救援対策を考えているかをたしかめるためであった。市長の答は、ようやく復興の途についたばかりであって、被爆者の救済にまでは、財政上も手がまわりかねるということであった。私が被爆者訪問によって知った実情をいかに説明しても、市長の口からは、被爆者対策について何ひとつ聞くことができなかった。
〈広島平和都市建設法〉によって、公園ができ、広い道路がつき、ビルは建った。これが復興だった。人間は置き去りにされていた。病苦と貧困に追いうちをかけるように、住む家はボロボロのままに放置されていた。(…)
吉川清は、爆心地から1・5キロ離れた自宅の前で被爆し、背中と両腕が焼けただれた状態となった。広島赤十字病院に入院し、1950年度から広島平和都市法が100メートル道路は公募によって「平和大通り」と名づけられ、生活保護を受けながら16回もの手術を受けた。ただ、昭和26(1951)年の春、病院内の環境改善を求めて声を挙げた途端、生活保護を打ち切られたうえ、退院を命じられてしまう。住む家もなく、最初の夜は「今は平和公園となっている爆心地近くの焼け跡で野宿」せざるを得なかったと、著書のなかで回想している。原爆投下から6年近く経っても、まだ「焼け跡」だったのかと驚く。生活保護を打ち切られた吉川清は、「原爆ドームを訪れる観光客に、絵はがきなどのみやげ物を売ってはどうか」と提案され、「戸板の上に並べて妻と二人で商売にかかった」。そんなふうに露店で土産物を売っていたのは吉川だけでなく、近くの寺の住職は「原爆の高温の熱線で瓦の表面が変化した」原爆瓦を売っていたとある。
この時代には、原爆ドームのまわりにはバラックが建ち並んでいた。昭和27(1952)年、慰霊碑が完成した年に開催された平和祭の写真を確認すると、慰霊碑と原爆ドームのあいだに、バラックがたくさん写っている。平和祭に参列したひとびとの視界からバラックを遮るように、大きな幕が張られている。広島の「復興」が進み、ビルが建ち並ぶようになると、バラックは「平和都市」にふさわしくない存在と見做されるようになり、立ち退きを命じられた。
幼い日に祖母と原爆ドームを訪ねたときには、平和記念公園にかき氷の屋台が出ていたような気がする。ただ、現在の平和記念公園には屋台はひとつも見かけないから、もしかしたら別の記憶が混ざっているのかもしれない。今はもう、整然とした公園が広がっていて、原爆ドームだけが昔の姿を留めている。