絶景を見慣れてしまった今の時代、私たちは何にひかりを見出しているのか
井上 じゃあ、後半に。さあ、聞くぞ聞くぞ。
パッと見たら、猪苗代湖が表紙で、観光地っぽいし、それで『観光地ぶらり』といったのかなと思ったんですけど、あれだけドライブインを探訪して、沖縄の市場を根掘り葉掘りやっている人だから、これはきっと何かあるなと思ったんですね。本の定価が本体2500円と高かったから、ちょっと躊躇して(笑)、買おうか買うまいか懐と相談というところがあったんですけど、読んでほんとに良かった本です。まずはちょっと、執筆動機からお聞かせいただけますか。
橋本 本を書くきっかけになったことはいくつもあるんですけど、今言ってくださったように、ここ数年は沖縄・那覇の牧志公設市場界隈のことを取材しているんです。そこは戦後の闇市を起源に持つ場所で、「県民の台所」と呼ばれる、生活を支える場所なんですよね。この20年は、観光客で賑わう場所になっていたんですけど、僕が取材を重ねている時期にコロナ禍になって、観光客が途絶えて。その時期に、「これまでは観光に頼りすぎていたけど、地元と観光のバランスを考え直さなきゃいけないタイミングなのかもしれない」という言葉を、いろんなところで耳にしたんです。これは那覇の市場に限らず、いろんな土地で「観光のありかたを見つめ直す」という話になったと思うんですよね。でも、時間が経つにつれて、結局のところ元通りというか、元通り以上の状況になっている。それはきっと、観光客が求めるものが変わらないことには、状況は変わらないだろうな、と。だから今この時期に、観光客は何を求めてきたのかということを、いろんな観光地をめぐって考えたいと思ったんです。それも単に観光客の視点から土地を眺めるだけじゃなくて、それぞれの土地で観光客を相手に商売をされてきた方たちに話を伺いながら、今とは違う観光のかたちを探りたいと思ったのが、大きな動機のひとつですね。
井上 なるほど。まさに今までの概念とは違う観光を今回この旅でなさっていると思うんですね。今、コロナ禍っていう話も出ましたけど、取材はいつからだったんですか?
橋本 最初の道後温泉の回は、2022年の11月ですね。
井上 これ、順番ですね。
橋本 はい。連載順のまま、本になっています。
井上 それで、2023年の1月からの掲載で。これ、一個がずいぶん長いですけど、1回何枚だったんですか?
橋本 あの、(文字数の指定は)まったくなかったです。
井上 ウェブだから、いくらでも大丈夫って?
橋本 編集担当の方が「いくらでも大丈夫」と思ってくださっていたかはわからないけど、「すみません、どんどん長くなって、このボリュームになりました」という感じで、枚数は気にせず書いてました。
井上 なんだろう、縦横無尽なんですよ。読者は橋本さんの背中にくっついた感じで、読んでいくじゃないですか。そうしたら、あるとき急に万葉集に入ったかと思うと、明治時代にも入るし――うまいんですよね。その土地の風土と、学習したことを違和感なく書いて、やられたなと思いましたよ。それで、まえがきのところに、旅人はなんらかの光を見出すものだという言葉が出てきますけど、それをちょっとご説明いただけますか?
橋本 観光っていう言葉自体が、「光を観る」と書くわけですよね。それを最初に意識したのは、全国各地のドライブインの取材をやってるときなんです。ドライブインが今も残っている場所って、トラックが行き交うロードサイドか、「観光地」の近くなんです。ただ、観光地と言っても、テレビやネットで世界中の絶景を見慣れてしまった今の感覚からすると、ごくささやかな景勝地だったりするんですよね。でも、その時代の目からしたら、そのささやかな景勝地にひかりを見出せていたんだろうなと。そのひかりは何だったのか、翻って今の時代は何にひかりを見出しているのか、これから先にどんなひかりがあるのかってことを考えたいな、と。
井上 なるほど、ちょっとわかったような気になってきました。今、私たちはスマホに頼り切って生きていて、旅行に行っても「このへん何があるかな?」って調べる習性がついてるじゃないですか。どこのお話だったか、スマホどころかテレビもラジオもない時代の旅人は、どうやって宿で過ごしていたのかと想いを馳せるところが出てくるんですよね。無為徒食に過ごすのはすごく力のいることだって書いてらっしゃいましたけど、旅というのは光を観るとともに、内省というか、自分を振り返るというか、そういうのが同時にないですか?
橋本 僕自身の内側に何があるかっていうと、「美味しいビールが飲みたい」とか、それぐらいしかない気もするんですけど、旅はそういうものだということは感じてました。『観光地ぶらり』という本を書くために、いろんな土地に足を運んでいるんですけど、行ってみたけど書かなかったという土地はいくつかあるんです。そのひとつに天橋立があるんです。僕はもう、取材に出かける前に、いろんなことを調べてしまうところがあって。その土地について書かれたものは、ひとしきり目を通してから旅に出るようにしていたんですけど、天橋立の場合だと、明治時代に天橋立を訪れた人が書いた紀行文が出てきたんです。それを読むと、時間の過ごし方が全然違っていて。今の時代だと、どんな絶景を訪ねたとしても、せいぜい10分も眺めていたら、「そろそろ美味しいものでも食べに行こうか」ってなりますよね。でも、明治時代の紀行文を読むと、到着した日に天橋立を眺めて、次の日も天橋立を眺めて、ずっと眺めてるんですよね。そんなふうに時間を使うと何を感じるんだろうかってことは、道後温泉でテレビもなにもない部屋に泊まりながら考えてました。
それはでも、普段の生活のなかでも考えていることなんですよね。今住んでいる家の近くに、すごく好きなバーがあるんです。そこに歩いて通いたいからってこともあって、今の家に住んでるんですけど、いつも同じお酒しか飲まないから、お店に入って何も言わなければ、そのお酒を出してもらえる。お代わりを頼むときも、目配せと会釈で済むんです。そこのマスターは、自分からお客さんに話しかけるようなタイプでもないから、何も言葉を発することなく帰ることもあるんですよね。そのバーで、本を読んだりケータイを触ったりして過ごしているお客さんもいるんですけど、せっかくバーにいるんだからと思って、歯を食いしばるような気持ちでケータイも何も触らずに、ただお酒を飲んでるんです。
「人間らしさを訪ねる旅」という言葉にすべてが詰まっている
井上 今のお話にもあったように、たくさん文献が出てくるんですけど、それはどの時点で調べたことなんですか? 行く前なのか、行っている最中なのか、帰ってきてからなのか――。
橋本 半々ぐらいな気がします。道後温泉の回であれば、事前に調べていたわけじゃなかったけど、旅先で過ごしていた時間の中から「そういえば、あの本の中に道後の話が出てきた気がする」って本棚を探したり、旅先で出会った話から自分が知らなかった時代が浮かび上がってきて、地元の図書館に行って調べたり――やっぱり半々ぐらいですね。でも、結構事前に調べてから出かけるほうだと思います。
井上 調べるにしても、たくさんありますよね。そのなかで鼻が動くのはどういうところですか? だって、万葉集から出てくるんですよ?
橋本 万葉集に関しては、自分で探り当てたわけじゃなくて、旅先で出会ったというのが大きいですけど――たとえば最後の登別・洞爺の回だと、ひとしきり紀行文を読んでから出かけたんです。その上で、実際に登別や洞爺湖をぶらついているときに、頭に浮かんできた文章を引いている気はします(登別・洞爺の回だと、加能作次郎の文章を引用しています。これに関して言うと、「おお、加能作次郎も能登を訪れて原稿に書いていたんだ」と、最初から強く記憶に残っていたのもありますし、作家がその土地を旅して感じたことだけではなく、その当時の「観光地」の情景が言葉としてありありと伝わってくるというところで、「鼻が動いた」ところはある気がします――後日追記)。
井上 昭和30年ごろって、作家のアルバイトみたいな感じで、紀行文がたくさん出てるんですよね。なんでかと言ったら、テレビが普及する直前なんです。ラジオはありましたけど、耳だけじゃないですか。情景がなかった時代には、活字を欲求する人も多かった。だからもう、とにかく紀行文が売れるから、「ここへ行ってきてください」と依頼されて、粗いものも含めて相当な数が出てるんです。それも面白いですね。
この本の竹富島の章に、岡部伊都子が出てくるんですよね。それはもう、最初からでした?
橋本 あの文章に関しては、最初は岡部伊都子さんのものだと知らなかったんです。竹富島が観光地として賑わい始めて、島に開発の波が押し寄せたときに、島の景観を守ろうという運動が立ち上がって。その時期に島に掲げられた、「竹富島のこころ」という檄文があって、それは今でも石碑として飾られてあるんです。その石碑は見たことがあったんですけど、いざ原稿を書く段になって郷土資料に目を通していくと、それが岡部伊都子さんによるものだったと書かれていて。
井上 岡部伊都子さんっていう存在はご存知でした?
橋本 ちゃんと読んだことはなかったです。
井上 私、生前にロング・インタビューしてるんですよ。あの方、すごいんですよね。反戦平和・反差別の人であると同時に、『賀茂川のほとりで』など素晴らしい随筆をたくさんお書きになりました。今生きてらっしゃったら100歳超えてる方なんだけれども、戦時中に婚約なさって、その婚約者の方が戦死されたんです。その方と最後に会った日に、「この戦争は間違っていると思う。死ぬのはいやだ」と彼が言った、と。それに対して、軍国少女だった当時の岡部伊都子さんは、「私なら、喜んで死ぬけれども」と、お国の肩を持った。それを“加害者“としてずうっと反省の一生だったんですよね。それもベースになって、いろんな風物をお書きになった方なんですけど、京都や奈良のお寺をめぐって紀行文を書く、『観光バスの行かない……』という連載を1960年前後になさっていたんです。あるとき、どこかのお寺に取材に行ったときに、ちょうど安保反対のシュプレヒコールが聞こえてきたんですって。そこで岡部伊都子さんは、こんなときに風光明媚を紹介する仕事をしていていいのかと、筆を折ろうとなさったんですって。でも、そのときご担当されていた編集の方が、両方あって自然だし、両方必要なことなんですよとおっしゃった。それによって、政治的なことと風物と、両方書くようになって、骨のある本をずいぶんお書きになったんです。それで、確か婚約者の方の戦死地が沖縄だったこともあって、竹富島には移住しようとなさってたんですけど、ドクターストップがかかって行けなくなって。私がロングインタビューしたのは晩年でしたけど、「ドクターストップがかかっても行ったほうがよかったかも」とまでおっしゃっていて。それほど竹富島の風土に思い入れがおありだったんですよね。
長い前置きでしたけど、その「竹富島のこころ」という文章に、「人間らしさを訪ねる旅」という言葉が唐突に出てくるんですよね。それをご覧になったときのお気持ちを教えてください。
橋本 これは竹富島を取材することにした理由とも繋がってくるんですけど、竹富島はどうして観光地になったのかという歴史を辿っていくと、昔ながらの文化が残っているからというのがあったそうなんですね。伝統的な赤瓦の建物も残っているし、島の習俗や文化が克明に記録されている、と。それで研究者の人たちが訪ねたりするようになって、最初のころは「うちに泊まっていきなさい」という話になっていたけど、行き来する人が増えるにつれて民宿が生まれて、大学生が旅行に訪れるようになって、観光地化していく。だから、最初は島の方たちの暮らしにひかりが当たっていたはずなんですけど、今の状況を眺めていると、人の暮らしなんて誰も見ていないんじゃないかという気がしてくる。集落エリアも、レンタサイクルが結構なスピードで行き交ったりしていて、「ここをテーマパークかなにかだと思ってるんでしょうね」と島の方が苦笑していたこともあるんです。現在の旅というものは、ただ絶景と癒しとグルメだけが求められていて、その土地の暮らしなんてほとんど視線が注がれていない。そんなことを感じていたところに、「人間らしさを訪ねる旅」という言葉に出会って、ああ、この一文にすべて詰まっていると思ったんです。
井上 竹富島の光と影、両方の部分がありますよね。外から人が流入してくれることによって、お金は“落ちる”――“落ちる”というのは潤うということですけど、光と影の両方がある。この本ではすべてにわたってそれをお尋ねになってますけど、かといってダークツーリズムのように暴くわけじゃないから、読みやすい。それは意識なさいましたか?
橋本 そうですね。これはもう、最終的には自分がどういう文章を読みたいと思うかになってしまう気もするんですけど、「この土地の闇を暴く!」みたいな文章を書きたいわけではないんですね。読んだ人を心地よくさせるために書いているわけでもないんですけど、それは違うんじゃないかな、と。
井上 今回書くものとしては、ですよね。竹富島で言うと、水道が敷かれるのが遅いんですよね。竹富島では水は貴重なものなのに、民宿に泊まりにきた人が、自分が入ったらお風呂のお湯を抜いちゃって、それに唖然としたって話がでてきますよね。ここで「自然を大切にしなさい」と言うんじゃなくて――いや、言っているんだけど――そういう言葉で書くよりもずっと心に沁みる。その言葉を聞き出したよねえあなたは、と思ったんです。
橋本 竹富島で印象的だったのは、「島はゆっくり時間が流れていていいですね」と言われることが多い、という話なんです。住んでいる方たちからしたら、ゆっくりどころか慌ただしい日々を過ごしているんだけど、そんなことを言うと観光客が抱いているイメージを壊してしまうから、言わないようにしてる、と。あるいは、「島に来たら、軒先で三線を弾いてるおじいさんがいて、『ちょっと、あなたも一緒に飲んでいきなさい』と誘われて、一緒に泡盛を飲んだりするのかと思ってました」と言われることもあるらしいんですね。「だけど、普通に考えてみればわかるでしょう」と。「もしもあなたの家の近くを、見知らぬ人が通りかかったとして、わざわざ呼び止めて『酒飲んでけ』なんて言いますか」と。そういう言葉に出会ったときに、目から鱗が落ちるような心地がするのと同時に、どういうニュアンスでそれを手渡せば、読者にスッと届くかってことを考えるんです。「そんなふうに自分の幻想を押し付ける観光客は間違っている!」というニュアンスで書いてしまうと、読んだ人は説教されているような気分になってしまって、届く範囲が限られてしまうだろうな、と。
井上 ああ、説教が入ってないんですよね。竹富島で民宿をされている方は、高校から島を出て、千葉で働いて帰ってきた、と。たぶんそのあたり、話はいっぱいあったんだと思いますけど、おそらくかなり省略されていて、それが気持ちよかったんですよね。内地の悪口を書いてもさ、という。
私、卒業旅行で竹富島に行っているんです。当時はプカシェルの首飾りをつくるのが流行ってたから、民宿に1週間泊まって、ずっと首飾りをつくってたんですけど、私、お風呂の栓を抜いてた嫌な旅行客だったと思います。あの頃の竹富島は、関西と首都圏から旅行に来てる大学生が多くて、ヒッピーになりきれない――でも南に旅行に行きたいという人たちが固まっていたんです。旅行から帰っても連絡を取り合って、「あいだをとって名古屋で同窓会をしましょう」とか、「皆でもう一回竹富島で過ごしましょう」とか、そんな会を2、3年はやってました。あの頃、思ってましたもん。「皆、ゆったりしてるね」って。あの頃そんなふうに思ってたことを思い出す一方で、今はさすがにちょっと賢くなったかなっていうことを、この本から確認させていただくような描写がいくつも出てまいりました。