書きたくて書けなかったことはなかった。あえて書かなかったことはある。
井上 次、「羅臼」に行っていいですか。羅臼でこの人、いい言葉をまた引き出しちゃって。あまりにもいいから、読んでいいですか。これもたぶん、実際には2ページぶんぐらいのお話があったところを、6行にまとめてらっしゃるんだと思うんですけど――お店の方のお話です。
私が来たころはね、街に魚の匂いがしました。1月から3月はスケソの匂い。トラックから魚が落ちても、カラスも見向きもしないぐらい、魚が獲れたんです。4月を過ぎて5月になると、昆布の匂いがしてくる。昔は夜中の3時や4時まで、煌々と船のひかりが海にびっしり並んでました。海の上に街があるのかと思うぐらい、すごいひかりでしたよ。今の魚の獲れかたと全然違います。羅臼にも、こういうスナックが100軒ぐらいありました。だって、お会計が3000円だって言ったら、1万円札を出して「釣りはいらない」って世界でしたから。今では考えられないでしょう?
橋本倫史『観光地ぶらり』(2024年/太田出版)
井上 この言葉をお聞きになったとき、いだたき、もうこれで書ける、と思いませんでした?
橋本 そうですね、これで書けるなと思いました。ただ、そこに関しては、いつも悩ましく思ってるんです。誰かの言葉を届けたくて、こうやって取材して原稿を書いているところがあるんですけど、誰かの言葉に頼り過ぎてるんじゃないかって自問自答がひとつにはあるんですね。もうひとつには、僕も現場で粘るほうではあるんですけど、使う文字数は限られてくるのに、長々と聞いてしまうのも相手に申し訳ないような気がするんです。もちろん個人的に「これは」という言葉に出会うまでお話を聞かせてもらってはいるんですけど、今読んでいただいた言葉に関しては、何時間も話を聞かせてもらって出会った言葉じゃなくて、お店に入ってわりと早いタイミングで出会った言葉で。羅臼の回に関しては、クルーズ船の船長さんには事前に約束を取りつけてあったんですけど、それ以外の皆さんに関しては、パッとお店にお邪魔したところから、様子を伺いながら、お話を聞かせていただけませんかと切り出して、取材させてもらったんですよね。
井上 アポはほぼほぼ取らずに行かれるんですか?
橋本 羅臼の回ではアポをとっていなかった方がたくさん出てきますけど、どうですかね、わりと取ってから行くことのほうが多い気もします。
井上 どこに泊まるとか、そういう予約はしていくほうなんですよね?
橋本 予約はもう、全部手配してから行きます。
井上 今の人ですね。駅に着くと、観光案内所みたいなのがあるじゃないですか。これはオフシーズンしか駄目だけど、あそこで「今日、私に似合う宿ありますか」って聞くのが――嫌なオバハンと思われそうだけど――好きなんです。ところで、橋本さん、写真がうまいの。これ、すごいカメラで撮ってるんですか?
橋本 そうですね、かなり高性能のカメラは使ってます。どこかで学んだわけでもないので、性能に助けられてるだけだと思います。
井上 取材先で聞くには聞いたんだけど、これはまあ書けないという話もたくさんあったと思いますけど、ギリギリ落としたっていうネタがあれば教えてください。
橋本 いや、でも、落としたネタっていうのはほぼない気がします。聞いたうえで書かなかった話は山のようにあると思うんですけど、「書きたいけど、NGが出たから書けなかった」ということは何もなかったです。ただ、あえて書かなかった、ということはいくつかあって。たとえば、最初の道後温泉の回だと、「ニュー道後ミュージック」というストリップ小屋に出かけているんですね。
井上 これ、行ったのは初めてだったんですか?
橋本 ストリップ自体、ひとりで行くのは初めてでした。ただ、原稿のなかではふらっと入ったように書いているんですけど、「ニュー道後ミュージック」のことは知っていたんです。前野健太さんという方が2022年にリリースされた『ワイチャイ』(ロマンスレコード)というアルバムがあって、そこにニュー道後ミュージックのことを歌った曲が入っているんです。だから、道後に行けばそのストリップ小屋があるってことは知っていたんですね。ただ、そこを目的地として道後温泉に出かけたわけでもなくて、行くかどうかも自分の中で決まっていなかった。それに、もし足を運んだとしても、「観光地」というテーマに絡めて、何か書くことができるかどうか。そこを決めかねたまま道後温泉を訪れたときに、土産物屋さんで話を聞いていたら、「昔はすごい賑わっていて、ストリップの案内をするチンドン屋も出てたぐらいだよ」って話が出てきて。そういう話を聞いたら、やっぱり言ってみたほうがいいのかなあって思っていたところに、「ニュー道後ミュージック」の看板が見えてきたから、入ってみることにしたんです。ただ、そのときパッと看板が見えてきたときの感覚を説明しようとするときに、「前野健太さんというシンガーソングライターがいて」というところから書き始めると、パッと看板が見えたときの感覚というものが、かえって伝わりづらい気がして。だからそこは書かなかった、というところはいくつもありますけど、書きたかったけど書けなかったということはない気がします。
正論をかざしてこないから、気持ちよく読める。
井上 ストリップの話で、「裸という衣装を着ているように見えた」みたいなことを書いてませんでしたっけ。
橋本 「裸が衣装」というと、ちょっとシンプルな気もするんですけど、裸がいちばん似合うと思った、ということですかね。これはでも、温泉地だから思ったことでもあるんです。温泉に入るときって、当然皆、裸ですよね。自分はメガネを外しているからよく見えないんですけど、湯に浸かっていると、いろんな年代の裸が歩いていて、裸ってちょっと滑稽に見えるよなあと思ったんです。だからこそ、同じ温泉地で見たストリップが印象的だった。最初は衣装を着て出てくるわけですけど、それを脱いで裸になったときのほうが堂々とそこに立っているように見えたんです。こんなにも裸が不自然に見えない身体ってすごいなと思ったんですよね。
井上 私、ストリップに通っていた時代があったんです。10年くらい前。そこで思ったのは、「この人たちは裸という衣装を着て踊っている」、「いちばん似合う衣装が裸なんだ」と。だから、私とおんなじことを感じてるんだこの人はと思っていたんですけど、すり替えちゃってましたね。道後温泉だからこそ、ということがあったわけですね?
橋本 そうですね。あと、同じ舞台表現でも、ダンスにはどこか崇高さを感じさせる場合もあるのに対して、すごく人間くささがある表現だなと思ったんです。その人間くささって、誰でもパッと舞台に上がればまとえるものかというと、そうじゃないと思ったんですよね。そういう「発見」が自分の中に見出せなかったら、ストリップを見に出かけたってこと自体、書かずに済ませていた気がします。それはストリップに限らず、自分がそこに何かを見出せなければ、ただ出かけたってことだけで終わってしまうので、書くってことに至れないんですけど。
井上 冒頭の話にあった、観光のひかりと、内省と――「内省」というのは私の言葉ですけど、自分を見る、というところにつながりますよね。この本では地元の広島も取材されてますけど、被爆された在日朝鮮人の方たちの慰霊碑があるというのは、まったく初めて知りました。
橋本 僕は広島出身で、あのあたりには何度も足を運んでいたんですけど、数年前まで知らなかったんです。あの石碑の存在を知ったとき、被爆地として「広島」が語られるとき、その「広島」に含まれるものが実はすごく狭い範囲に限られてしまっているんじゃないかってことを考えるようになったんです。原爆ドームのあたりを取材して書くのであれば、広い範囲には届いていない小さな声に耳に傾けないとなと思ったんですよね。
井上 いわゆる「8月ジャーナリズム」へのアンチを出してるなと思いました。そこに碑文があってお花があるってことは、献花に訪れる人が常に一定数いるってことなんですよね?
橋本 そうですね。その石碑の前では、毎年8月5日に追悼式が開催されているんです。その追悼式はきっと、皆が久しぶりに集う場所になっているのと同時に、この1年で亡くなった被爆者の方の名前が読み上げられて、スピーチもある。そういう光景があるということを、田舎のほうとはいえ広島出身でありながら、僕は何も知らずに育ったんです。でも、それを知ったからには、原稿に書いておかなければ、と。
井上 さっきの話にもありましたけど、押し付けてこないんですよね。正論をかざしてこないから、気持ちよく読める。まだ読んでない方はぜひ読んでみてください。
「そんな生き方もあるのか」と思った誰かが新しい何かを始めるかもしれない
司会 それでは、質疑応答に移りたいと思います。ご質問がある方は、手を挙げていただけますか。
観客A 聞きたいことはたくさんあるんですけど、ひとつに絞ります。「人間に関心のない観光」という話がありましたけど、おふたりはどうして人間に関心がなくなったんだと思われますか?
橋本 これはずっと沖縄に通って取材してるから思うんですけど、そんな余裕がなくなってきたってことに尽きるような気もします。僕は普段からふらふら過ごしてるから、どこか知らない土地に出かけて行ったら、その土地の暮らしに触れてみたいと思うし、その土地に暮らしている誰かの言葉に触れたいと思うんですよね。でも、普通に会社勤めをしていて、遠出する余裕なんてほとんどない日々を過ごしていたとして――たまに取れた連休で、家族なり友人なりと竹富島に旅行に出かけたとしたら、青い海と白い砂にただただ癒されたいと思うんじゃないかって気がするんですよね。「この土地にはこんな歴史もあるんだから、そこにも目を向けませんか」と言われても、たまの休みにまでそんなふうな過ごし方をしたくないって人が多いんじゃないか。これは本を読むってことにも共通することですけど、まったく余裕のない状態だと、自分以外の誰かに関心を向けるってことには至らないんじゃないかって気はします。
井上 どうしようかな。この10年ぐらいでよく聞くようになった言葉に、「私って××な人だから」って言葉がある気がするんです。「私って黄色が似合う人だから」とか、なんでもいいんですけど、そういう言葉をいろんな人からいろんなシーンで聞くようになったと思うんですね。それってたぶん、バリアを作ろうとしている言葉じゃないかなと思うんですよね。「私ってこういう人だから、あなたにとっては気高過ぎてわからないかもしれないわ」ってニュアンスもあれば、「私は所詮こんな人間だから、あなたにはわかんないでしょ」って場合もあって。「私はこの本棚が好きだから」って言えばいいのに、「こういう本棚が好きな人だから」と言うわけです。そういう自己の表現のしかたって、バリアを作って自分と他人を分けるわけだから、他人の興味がなくなっていくところもあるのかなと私は思いました。ちっちゃい答えですみません。でも、聞きませんか。「私って××な人だから」って。
橋本 それ、若い世代から聞くことが多いですか?
井上 私と同世代で使う人もいますよ。
橋本 僕と同世代か、それより下であれば、ネット文化の影響もあるのかなとは思ったんですよね。2000年ごろにケータイサイトが流行って、その後にはmixiが流行って――そこではまず、自分のプロフィールをつくるわけですよね。それ以降のSNS文化もそうだけど、誰もがプロフィールをつくって、それをベースに誰かとやりとりする。その影響もあるのかなとは思いました。
観客B 個人商店の絶滅が危惧される時代状況と、観光地がテーマパーク化している時代状況というのは、同じ要因があるような気がしたんです。だから、おふたりは違った角度から今の時代を書かれていらっしゃるんだと思うんですけど、それがますます進行していくのを、わたしたちは座して見守るしかないのか。あるいは、そういう時代の流れに抗って、もういちど観光地の姿が変わったり、個人商店が増えていくことはありえるのか――。たとえば、今は個人経営の書店がどんどん減っていく一方で、ひとり書店とか、このトークショーの会場である「本の長屋」のように棚を皆で分け合う書店が増えているというのは、書店が減っていく時代の流れに疑問を持つ――あるいは不足を感じている人たちがいて、その流れに抗うひとつの行為だと思うんです。そういったものが、個人商店や観光地に生まれる可能性があるのか、あるいは消え去るのを待つのみなのか。おふたりがどう考えていらっしゃるのか、伺いたいです。
井上 私は全然絶望してないんです。連綿と続いてきた小売の個人商店は、やはり絶滅期を迎えています。しかし、今のお話にあったように、駅前書店は減りましたけども、独立系の本屋さんが増え、シェア型の本屋さんが増えている。本屋業界はわかりやすいんですけども、たとえば八百屋さんにしても何にしても、それぞれにウェーブは起こりつつと思うんですよね。レースに乗って、会社に就職して――そういう生き方じゃなくて、もっと違うところに価値を見出そうとする人たちって、3・11以降、圧倒的に増えているなと肌感覚で思います。産直の八百屋さんをやったり、生協系の仕事をやったり――デジタルのシステムを使いながら、新しい形の個人商店はちょこちょこ増えているので、なんとなくのところでは大丈夫だと思おうとしてます。
橋本 僕は井上さんとは対照的に、だいぶ悲観的ではあるんです。以前取材したドライブインも、現在営業しているところの多くは個人商店でしたけど、この10年でも減っていってるんですね。もちろんこれからも残り続けるお店はあると思うんですけど、それはきっと、わざわざ訪ねて行きたいお店が残っていくってことだと思うんです。でも、多くのドライブインって、わざわざ訪ねていく場所というよりも、移動の途中にふらっと立ち寄る、ごくふつうの店だったと思うんです。それは個人商店にも共通するところで、「素晴らしい見識と技術を持った名店だ」という個人商店ももちろんあると思うんですけど、ごくふつうの個人商店もあると思うんですよ。わざわざ出かけるお店じゃなくて、近所にあるから利用する、という。たとえばラーメンを出す店にしても、なんてことないラーメンを出すお店ってたくさんあったはずで。もちろん今もそういう食堂は残っていて、「ああ、こういうラーメンを食べると落ち着くな」なんて考えたりするわけですけど、それを「落ち着く」と捉えている時点で、視点が変わってしまっている。
ドライブインを取材して驚いたのは、特に飲食の世界で働いたこともないんだけど、うちの前を車が行き交うようになったから、「ドライブインでもやってみるか!」と始めたお店がかなりの数あったということなんですよね。そんなふうにお店を始めたっていいんだってことを書き残しておきたくて、『ドライブイン探訪』って本を書いたような気もしているんです。もしかしたら今のドライブインは消えていってしまうかもしれないけど、その精神みたいなものを書いておくことで、「ああ、そんな生き方もあるのか」と思った誰かが、新しい何かを始めるかもしれない。そんな何かに期待しながら、文章を書いているところがあるかもしれないですね。
筆者について
はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)