コンドームをつけた上でセックスをすれば、妊娠の可能性は下げられる。ただ、射精する以上、その可能性はゼロとはならない。体内に精子が存在し続ければ、「予期せぬこと」が起こる可能性があり、それにより時に、他人の身体や人生までを大きく変えてしまうこともある。そのことを私は、決して望んでいない――そう考えて、パイプカット(精管結紮術)に臨むことになった評論家の荻上チキさん。しかしそこに至るの道のりは決して平坦ではなかったようで……?
男らしさ、孤独、性愛、セルフケア……中年男性として新たな親密圏とアイデンティティの構築に七転八倒する、新感覚の社会評論エッセイ連載がスタートです!
第2回は、なぜか「パイプカット」と晒されながら通りを歩くチキさんです。
まじかよ。
某年某月、某日某所。
この日、私は、予約した病院に向かっていた。
精液に精子が含まれないようにするため、精管結紮術(せいかんけっさつじゅつ)を行うためである。
自分の生き方にフィットした身体に作り替える。人によっては、心踊るような一日になるかもしれない。あるいは緊張の一日となるかもしれない。
だが、私の頭の中で繰り返される言葉は、上述の通り。まじかよ、である。
精管結紮術。精子を運ぶ管である精管を断ち、避妊するための手術。
その内容は、次のようなものだ。
まず局所麻酔を行った後、陰嚢を小さく切開し、穴から精管を取り出す。
次に、取り出した精管を一部切断し、切断した両端を縛る、あるいは焼くことで封じる。
その後、精管を元の位置に戻し、切開した部分を縫合して閉じる。
この手術においては、麻酔方法と、切開方法がポイントとなる。どの手段を採用するかは、病院によって異なっている。
部分麻酔なのか、全身麻酔なのか。通常のメスによる切開なのか、より侵襲性の低い切開技術を使うのか。
精管結紮術が可能な病院のウェブサイトには、それぞれの手術手段などが記載されている。それらを見比べ、体験談を読み、吟味をする。
部分麻酔で痛みなく手術できたという人もいれば、玉を蹴り上げられたような鈍い痛みが手術中ずっと続いたという人もいた。
通常の切開でもすぐ治りましたという声もあれば、侵襲性の低い手術でよかったという声もあった。
どれがいいのか、判断材料がどうも乏しく感じられる。
一度、知り合いの産婦人科医に、精管結紮術について尋ねてみたことがあるが、多くの産科医にとって、男性器の手術などは専門外とのことであった。
言われてみればそうだ。扱う臓器も異なるのだから。
手術方法だけでなく、費用も病院によってまちまちである。
精管結紮術は、主に泌尿器科か、美容整形外科で行われる。どちらで受けても精管結紮術は自由診療であり、医療保険は適応されない。
安いところではトータル5万円程度で、高いところでは30万円以上のところもある。安いからダメなのか、高いから良いのか、素人にはその辺りがわからない。
なので、病院のウェブサイトを開き、条件などを見比べ続けることとなった。
泌尿器科のサイトには、性感染症や尿路結石、前立癌や膀胱炎などの説明が載っていることが多く、ED(勃起不全)についての説明が載っていることもある。
対して美容整形外科のサイトには、美容整形やアンチエイジングの案内の他、男性向けには包茎手術や「パワーアップ手術」などが並ぶことも多い。調べたところパワーアップ手術とは、陰茎を長くしたり太くしたり、亀頭を大きくしたり、真珠やリングやシリコンを埋め込んだりするようだ。
余談だが、男性向け雑誌などに掲載されている広告には、包茎手術の案内のほか、「いつまでも現役」「男の自信復活」「男の自信を取り戻す」「昔はよかった…とお嘆きの貴男」といったコピーを掲げたサプリメント商品などが見かけられる。
これらの広告表現には、ムキムキの筋肉とか、露出の多い若い女性の写真と共に、肩上がりの矢印(⤴)などが掲載されていることが多い。消費者庁に怒られないための、ギリギリのせめぎ合いが行われているなあと感じる。
「勃起が持続すること」
「皮が剥けていること」
「ペニスが大きいこと」
「射精までの時間が<適正>であること」
男性の身体よ。他人を満足させ、自信を得られるものであれ。広告からは、このようなメッセージが感じられる。
そんな中にあって精管結紮術は、「パイプカット」という和製英語とともに、からかいや噂話、ジョークの対象にもなってきた。男性への悪口のバリエーションにも、「弱虫」という意味で「玉無し」と言う言葉が用いられたり、否定的な意味で「種無し」という言葉が用いられてきたりした。
そもそも精管結紮術について、丁寧に説明した広告をみた記憶がない。「セルフケアや家族計画のためにご一考を」。そんな情報提供が少なかったように思える。
試しに「パイプカット 広告」でGoogle検索をしたら、「セックスライフを楽しみたい方へ」というコピーとともに、ムキムキの筋肉に若い女性が寄りかかるイメージが表示された。回春サプリやパワーアップ手術と同じようなノリで、こちらもなんだかなと思う。
閑話休題。
とにかく情報が乏しいなか多くの病院のウェブサイトをみて、これかなという組み合わせを選ぶこととなった。
普通の切開だが全身麻酔で、値段が極端に高くも安くもなく、日帰りが可能で、ネット予約できるところ。そんな条件で、ある病院を選んだ。
迎えた手術当日。
いざゆかんパイプカットと思い、地図アプリでルートを検索したところ、道案内とともに病院の口コミが表示された。
あ、そういえば、病院のウェブサイトはみたけれど、口コミはみてなかったな。古参のネット住民としてあるまじき行為であった、これではggrks(ググれカス)って言われちゃうなと思い、評価を見る。
レビュー点数の平均がスマホに映し出される。その数、1.8。
1.8……?!
まじかよ。目が飛び出る。
こんなに低いレビュー、初めてみた。
もう一度見る。1.8。まじかよ
何度見返しても、リロードしても、紛れもない、平均1.8である。
まあ落ち着こう。まだ慌てるような時間じゃない。
だってさ。病院のレビューって、「受付の態度が悪い」とかも多いじゃん?
結局こういうのって、医師との相性じゃん?
こういう口コミって、不満を持つ人ほど投稿する動機が高いとかで、結果的に低くなるかもじゃん?
かように私は、持ちうる正常性バイアスをフル発揮し、呼吸を整えてレビューを熟読する。そこには大体、次のような意味のことが書いてあった。
「医者の態度がひどい」「受付の態度がひどい」「スタッフに怒鳴られた」「来るたびに誰かが揉めている」「待合室が不衛生」「手術室が不衛生」「予約したのに何時間も待たされた」「明らかに手術に失敗したのに対応されなかった」「抗議したら警察を呼ばれた」「訴訟沙汰になった」「プライバシーへの配慮がない」「星一つでももったい無い」「星0にしたい」「二度といかない」「行く前に口コミ見るべきだった」「口コミは正しかった」「今予約してる人は絶対やめたほうがいい」
引き返せ、引き返すのだ、と呼びかけるレビューの数々。
まじかよ。もう最寄駅に着いちゃったよ。
もちろん、1.8というのは平均なので、褒めているレビューも無くはない。例えば、「不衛生さを気にしなければ問題なし」とか、「待たされることを覚悟して行けばよい」とか、「自分は満足した」とか、「安さ以外気にしない人にはいい」とか。
うん。満足している人もいるようだ。
見たいものだけを見て、萎えに萎えた正常性バイアスをなんとか取り戻した私は、とりあえずカウンセリングだけでも受けてみるかと、病院に向かった。
それにしても、病院の口コミを比べるという基本的なことを、なぜ忘れてしまったのだろう。今でも不思議である。
病院につき、目に飛び込んできたのは、紛れもなく、口コミ通りの風景であった。
ぶっきらぼうな受付スタッフ。汚れたソファ。プライバシーのない待ち受け。
口コミになかった光景としては、入り口の傘立てに溢れんばかりの量の傘がささっていたくらいだろうか。
「予約した荻上です」
受付にそう伝えると、スタッフは気だるそうにスケジュールを確認している。
「荻上様ですね。内容はパイプカットでよろしかったでしょうか」
「あ、はい、精管の結紮です」
「はい?」
「あ、えーと、パイプカットで合ってます、はい」
受付スタッフは、終始大きめの声で話している。結果、待合室全体に、私の来訪理由がオープンとなる。
「荻上さん、剃毛はお済みですか」
さらにでかい声で、スタッフが尋ねる。
「済んでます」
陰毛事情までフルオープンとなってしまう。
手術の内容について、必要事項を確認したスタッフから、会計内容を提示される。
え、前払いなの?
医師の診察を受け、相談した上で決めようと思っていた自分、出鼻を挫かれる格好に。ここまできて引き返すこともできないと思い、会計を済ませた。
支払い手続きが終わると、医師が呼ぶまでしばらく待てと言われた。
椅子に腰掛け、本を読む。新しく患者が来るたびに、病院スタッフが大声で対応する。そのため、次の人も、その次の人も、診察内容が丸わかりであった。
口コミは本当だったんだ……。
「ラピュタは本当にあるんだ」、みたいな言い回しで、寂しく呟く。
医師の診察は、とても簡便かつスピーディ。
麻酔の内容と、縫合糸の確認など、最小限のものであった。
拍子抜けするほどあっさりと、手術内容の確認だけが行われた。
それからまた、待合室での待機時間となった。
それから、10分が経ち、30分が経ち、1時間が経った。
「予約制とはなにか」という思索を、ひとり、頭の中で行いながら待った。
なお、この間、ネット上で調べてわかったことが一つあった。
この病院には同じ住所だが別の名義でのGoogle口コミがあり、そちらの評価は1.0であったということだ。もう笑うしかない。
もちろん、他の病院の口コミだって、評価はまばらである。だが、3.0以上の評価の病院も多く、肯定的な投稿も目に入る。
「看護師さんが親切に対応してくれた」「院内がきれいだった」「無駄な待ち時間などはスムーズでした」「支払った額以上の価値があった」「部屋の雰囲気はおしゃれだった」「先生の説明がわかりやすかった」
1.8の病院と比べると、ポジティブな投稿も少なくない。
「荻上さん、こちらにどうぞ」
ようやく受付スタッフに呼ばれ、手術室に向かう。その病院の手術室は、受付などがある物件とは離れた場所にあるらしい。
「パイプカット」と、大きく書かれた紙を持ちスタスタと進んでいく病院スタッフを追い、別の建物まで移動する。私の手術内容は、通行人にさえもオープンであった。
たどり着いた建物には、さらに別の待合室があった。私と同じく、精管結紮術を済ませたであろう男性が、朦朧とした状態で説明を受けてる。
「30回射精してからあ! この容器にぃ!精液を入れてぇ! 持ってきてくださいねぇ!」
耳が遠い高齢者に話しかける時の声量で、病院スタッフが説明している。
男性は、こく、こくと力なく頷き、容器を受け取り、千鳥足で建物から出て行った。
それから、10分が経ち、30分が経ち、1時間が経った。
「予約制とはなにか」という思索を再開し、時間とは相対的なものであるという結論をユリイカした頃、精管結紮術を済ませたであろう男性がもう一人、手術室から出てきた。
先ほどの、ロメロゾンビのような足取りの患者と違い、意識ははっきりしていそうだった。例によって、病院スタッフから「射精30回後の精液提出」についての説明を受けたあと、男性は『バタリアン』『ワールドウォーZ』に出てくる走るゾンビのようなスピード感で、そそくさと病院を後にした。
管を断つ。その選択に迷いはなかった。
しかし、この病院でよかったのだろうか。
そんな私の内心を知ることもなく、病院スタッフは私の名前を呼ぶ。
術後の私は、どのような足取りで、この病院を後にするのだろうか。
立ち上がり、一歩、また一歩と、手術室へ向かう。ロメロゾンビの速度で。
次回の更新は、2024年8月6日(火)を予定しています。
筆者について
おぎうえ・ちき 1981年、兵庫県生まれ。評論家。「荻上チキ・Session」(TBSラジオ)メインパーソナリティ。著書に『災害支援手帖』(木楽舎)、『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書)、『宗教2世』(編著、太田出版)、『もう一人、誰かを好きになったとき:ポリアモリーのリアル』(新潮社)など多数。