自分にとって大切な酒場がなくなってしまう。中央線沿線で仕事があった帰りには、しばしばそのお店がある駅を経由し、一杯飲んでからバスで帰宅していた。酒場でうまい酒とつまみを堪能し、店主と何気ない会話をする時間は、他に代えがたいものだった。
「をかしや」は、西荻窪に今年の6月30日まであった、カウンターのみ全7席の小さな居酒屋だ。過去形で書いているのはつまり、すでに閉店してしまったということ。連載3回目にしてさっそく、もう行くことができない店のことを書いてしまい、興味を持たれた読者の方には大変申し訳ないと思う。けれども、僕にとってとても大切な店で、どうしても記録しておきたかった。
初めて訪れたのは、2019年。きっかけは某グルメ情報サイトの編集者さんから、レポート記事を書いてほしいと依頼をもらったことだった。なんでも、店主が和菓子職人でもあり、バーでありながら、目の前で「練り切り」を作ってくれる店らしい。もの珍しくはあるが、しかし僕は酒飲みだから、甘いもの、特に和菓子にはほとんど興味がなかった。けれども、お仕事をいただけるのはありがたい。さっそく編集さんとふたり、取材も兼ねてをかしやに飲みに行った。その結果、一発でものすごく好きな店になってしまったのだった。
お店を切り盛りする戸辺麻理子(とべ・まりこ)さんは、職人と聞いて勝手に想像していた人物像とはまったく違い、若い女性だった。粋な和装でカウンターのなかに立っている。をかしやの魅力はつまるところ、この戸辺さんの自由でポジティブな人柄の魅力で、それを慕って多くの常連客が集まる店だった。
そもそも、和菓子とバーを合わせるという発想からしてぶっ飛んでいるし、入り口横のスペースには小型のフクロウ、“看板ヨーロッパコノハズク”の「ちょびちゃん」がいる。
酒はビールやサワー系もあるけれど、日本酒がメイン。冷と燗に合うものをそれぞれにセレクトして仕入れている。
料理も種類こそ多くないものの、どれも気が利いたものばかりで、珍しい「さくらんぼしば漬け」(600円)は僕の1品目の定番。本当に、さくらんぼをそのまましば漬けにしたもので、甘酸っぱさにしょっぱさが加わって不思議にうまい。先日訪れた時のラインナップを例にとれば、「ホタテ貝ひもワサビ」(500円)「ハスの芽梅酢漬け」(500円)「マグロの生姜唐揚げ」(600円)「カツオのハラモ焼き」(600円)。さらには自ら本場滋賀県まで作りにいったという「店主が仕込んだふなずし」(900円)などなど、どう考えたって酒に合いそうな品々が並び、どれを頼むか悩むところから幸せな時間が始まる。
僕の家は西荻窪からバスのアクセスがいいので、中央線沿線で仕事があった帰りなどは西荻窪を経由し、をかしやで一杯飲んで帰るということがよくあった。をかしやでうまい酒とつまみを堪能しつつ、戸辺さんと何気ない話をさせてもらうことは、心身の鋭気を養う時間。をかしやは僕にとって、まさに「パワースポット」であり、そんなふうに思える数少ない店のひとつがなくなってしまったことが、あらためて本当に寂しい。
閉店の知らせを聞き、6月末に最後の訪問を果たすことができた。まずはその日のお通し「水茄子の生ハム巻き」をつまみに「レモンサワー」(600円)で始め、最近のおすすめメニューだという「3種の海鮮酒盗和え」(600円)を頼んで日本酒に移行する。酒はおまかせで「上川大雪 十勝 純米」から「天明 さらさら 純米」。どちらも清らかな旨味と香りで、甘海老、イタヤガイ、アオリイカの3種を、酒盗、うに醤油、ナンプラーであえたという酒盗和えと、信じられないくらいに合う。
シメはもちろん「練切実演」(1000円)。練り切りとは、白あんを主原料とした和菓子で、食用色素でつけたカラフルな色合いと、専用の道具を使って整形する細かい細工が特徴の、和菓子界の芸術品。をかしやでは中身も選べて、僕はほのかな塩気のある「白味噌」入りが大好きだ。
にこやかにお客さんたちと会話をしながらも、鮮やかな手つきで練り切りを完成させてしまう様子は、何度見ても感動してしまう。この日は6月ということで、デザインは「紫陽花」だった。食べるのがもったいないほどに美しいそれをしばし眺めた後、ゆっくりと木製の菓子楊枝で切り分け、味わう。できたての練り切りの、柔らかい甘さとほのかな塩気。そこにゆっくりと流し込む日本酒。この味わいを知ることができたのは、酒飲みとしての宝と言えるだろう。
残念ながらをかしやは閉店してしまったけれど、戸辺さんのことだからきっと、今後も自由な発想で、なにか新しいことをされてゆくに違いない。個人的にそれを楽しみにできることが、店がなくなってしまった寂しい気持ちの何分の一かを紛らわせてくれる。
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『酒場と生活』第4回は2024年7月18日公開予定です。
筆者について
1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。酒好きが高じ、2000年代より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。ライター、スズキナオとのユニット「酒の穴」名義をはじめ、共著も多数。