コンドームをつけた上でセックスをすれば、妊娠の可能性は下げられる。ただ、射精する以上、その可能性はゼロとはならない。体内に精子が存在し続ければ、「予期せぬこと」が起こる可能性があり、それにより時に、他人の身体や人生までを大きく変えてしまうこともある。そのことを私は、決して望んでいない――そう考えて、パイプカット(精管結紮術)に臨むことになった評論家の荻上チキさん。しかしそこに至るの道のりは決して平坦ではなかったようで……?
男らしさ、孤独、性愛、セルフケア……中年男性として新たな親密圏とアイデンティティの構築に七転八倒する、新感覚の社会評論エッセイ連載がスタートです!
第4回は、玉袋に穴が開いてしまったチキさんのその後の経過です。
穴に気づいたのは、夜であった。
精管結紮手術から一週間が経ち、縫合に使っていた「溶ける糸」が消えた。
あとは、精管に残っているかもしれない精子を押し出すべく30回の射精を行った後、精液検査で無精子状態を確認する段取りに進む。そのはずであった。
しかし、おかしい。私から見て右側の陰嚢(玉袋)に、小さな穴が空いている。
滲む血液を拭き取り、じっくりと観察する。
穴は、直径一センチには届かない程度。一般的なルーズリーフに空いている、穴あけパンチで開けるものと同じくらいのサイズである。
穴からは、何やら白っぽいものが見えている。これはなんなのだろう。
傷フェチである友人のKちゃんに、LINEで報告してみる。
「溶ける糸がほどけて、中身が見えちゃった」
「えっ」
Kちゃんの驚く様子がテキスト越しに伝わる。
「それなんとしても」「中が見えるようにですね」「撮影をですね」
証拠保存(?)を提案するKちゃん。さすがは医療トラブルの経験が豊富である。
「そこは抜かりないです」
そう伝えると、Kちゃんからは「(ガッツポーズ)」と送られてきた。
ともあれ、既に夜である。病院も開いていないため、患部を清潔にしたうえで、就寝することとする。
【Day 8】
袋に穴が空いている。昨夜と大きさは変わらない。どうやら、自然と塞がったりはしなさそうだ。
病院に問い合わせをし、早期の診察と縫合希望の旨を伝える。受付スタッフからは、「まずご覧いただいてからの判断になりますね」との返事。
ご覧いただいてから? 医師が診察してからの判断ということか。どうも些細な言葉遣いに引っかかるが、兎に角いまから診察可能とのこと。直ちに病院に向かう。
受付に到着し、「予約した荻上です」と伝える。
「昨夜、施術箇所が出血しまして、中身が目視できる状態になっています」
受付スタッフも待ち受け客も女性しかおらず、プライバシーもない状態であるため、かなりぼやかした言い方で伝える。
「では再縫合しますね。麻酔と糸、合わせて一万円です」
スタッフが無表情で応じる。あれ、医師が診察してからの判断ではなかったのか。しかし背に腹は変えられぬ。一万円を払う。今回もやはり、前払いであった。
そういえば、麻酔が全身麻酔なのか部分麻酔なのかは聞かされていない。前回の全身麻酔のときは、あらかじめの絶食を求められたが、今回は飛び込みであるため、おそらく部分麻酔なのだろう。
部分麻酔ということは、縫合の様子を詳しく見ることができるのだろうか。
支払いを終えてしばらく待つ。予約したのだが、今回もだいぶ待つ。
予約制度は、歴史的にどのタイミングから始まったのだろうか。郵便制度、電話の流通、電報制度、ケータイやスマホの普及ごとに、「予約してから行く」という行為は相当に変化したであろう。
人類にとって、予約の進歩とは何か。そんなメディア史的な思索をしていると、スタッフに呼び出される。
「それでは手術室にいきますね」
あ、今回は診察そのものがないんだ。斬新〜。
手術室に辿り着くと、服を脱ぎ、ベッドの上で待つようにと言われる。言われるがままにベッドに登ると、看護師が私の手足をベッドに拘束し、目にテープを貼って目を隠し、下半身にシートがかける。
医師がやってきて、「じゃあ縫っていきましょうね」という。股間の部分だけハサミでジョキジョキ切り取り、陰嚢を露出させる。
「これは縫うだけでよさそうだね。もし治りが悪かったら、そこを切って血を出して、それからつけたりしなくちゃいけないんだけど」
患部に消毒液が塗られ、周囲の洗浄が行われる。
さて、ここで問題です。
この文章の書き手は、玉袋に穴が空き、病院にやってきました。
そこで患部に消毒液を塗られ、洗浄されることになりました。
このときの作者の気持ちを答えなさい。
※ヒント:考えるのが難しい人は、「自分の生殖器の一部に穴が空き、そこに消毒液をかけられたらどう思うか」を想像してみるといいよ。
答えは、「めっちゃ痛い」です。
当社比でいえば、股間にムヒを塗って以来である。
部分麻酔が打たれ、縫合が始まる。二人の看護師が、私の両腕を強く抑える。
縫うこと自体に痛みはないが、体の中で虫が這うかのようである。ミギー(『寄生獣』)が這い回る時って、こういう感覚なのだろうか。
カチャカチャと、ただステンレスがぶつかり合うような音が手術室に響く。
手術が終わり、看護師が拘束を解き、着替えを促す。
病院の説明によれば、私の傷の治りが遅かったので、糸が解けるほうが早くなったとのこと。再縫合したので、また溶けるのは一週間後になるとのこと。
「では、射精の開始は一週間後からですか?」と聞いたら、「その日数はリセットしなくても良いです」とのこと。「では、入浴やセックスは?」と聞くと、「一週間は控えて」とのこと。
特に痛み止めを出されることもなく、帰宅する。部分麻酔が切れ、ジンジンとした痛みが股に広がる。
今後は、怪我をした人にはもっと優しくなろうと誓う。
【Day 9】
袋が痛い。ジンジンとした内側からの痛みは治ってきたが、ズキズキとした外の切り傷による痛みがある。なぜか頭痛もあるので、昨夜から自宅にあった痛み止めを飲んでいる。
縫った痕を見てみる。前は切開した傷の両端をつなげるような縫合だったが、今は餅巾着のように束ねるような縫合である。つなげるぞというやる気を感じる一方、あまりに縛り上げるような縫合であるため、回復後にはあらたなシワが増えていそうである。
【Day 10】
袋が痛い。以前縫った場所は黒くなっており、新しく縫ったところからは、糸がぴょんぴょんと飛び出ている。
破れてはいない左側の袋からもにも、糸が何本か飛びてている。古くなったら指で取ったほうがいいのだろうか。それともやめたほうがいいのだろうか。病院からは何も説明がなかった。プリントのようなものも何もなく、手ぶらで帰ってきたのだ。
通院や入院の経験豊富なKちゃんにLINEで聞いてみると、これまで全部、自力で抜糸してきたという。うむ、参考にならない。とりあえず、糸には触れないでおこう。
性欲は普段通りだが、射精ノルマは残ったままである。平穏な1日を過ごす。
【Day 10.9】
夜。袋が破けた。
正確には、縫い付けてきた糸がほつれ、袋の内側が見える状態になった。穴のサイズは変わらない。
シャワーを浴びる前に気づいたのだが、案の定、お湯が沁みた。さて、どうしたものか。私には以下のような選択肢がある。
①しばらく様子を見る。
②異なる病院に連絡してみる。
③再度、同じ病院に行く。
直感だが、①の選択はよくなさそうだ。だって、この痛みだけはリアル。
検索すると、同じ病院でパイプカット手術をし、傷口が開いてしまったという人の書き込みを見つけた。これは流石に、この病院じゃない方がいいんじゃないかと考える。しかし、今はもう深夜。明日、他の病院に連絡してみよう。まずは②を模索すべきだ。
【Day 11】
袋が痛い。穴に朝のシャワーが沁みると、特に痛い。
気づけば、穴のすぐ隣に、小さな膿がある。どうもはじめまして。お前、誰やねん。
口コミ1.8の病院が不安になったため、口コミがよい他の病院に電話。院長は診察中なので、休憩時間になったら折り返すという。受付の対応は、1.8のところよりはるかに丁寧だった。さて、私の穴はどうなるのだろう。
連絡がくるまでの間、仕事をしたりしながら、別の病院のFAQを読む。精管結紮術では、ごく稀に、慢性的な痛みが陰嚢に残ることもあると書かれている。えー、病院ではそんな説明、されなかったなあ。他にはどんなリスクが? 合併症、射精感覚の変化など、嫌な情報ばかり目に止まる。
「Never Google Your Symptoms(絶対症状でググるな)」 という曲がある。自分の症状でググってもろくなことにならないからやめろと医師が歌うものなのだが、メロディラインがポップにできているため、時々口ずさんだりしている。そうだ、こういうときこそ検索をやめよう。自分を落ち着かせるため、ホットカルピスを作って飲む。カルピスの原液をお湯で割るのだが、これが最高に美味しい。
午後となり、病院から電話がかかってきた。他の病院でパイプカット手術をしたが、縫合が2回連続でほどけた、患部をみて縫合をしてもらえないかと伝えると、なぜか院長はドン引きしている。
「いやあ、そういうの、対応してないです……」
えええ、なんでよ。
これで、②の選択肢も消えた。観念して、同じ病院を予約する。
KちゃんにLINEで愚痴る。Kちゃんは心配して、いざとなったら縫合と抜糸をしてあげると言ってくれた。優しい。でも、その手段は最後まで使わずとっておきたい。
【Days 12】
袋が痛い。ずっと穴が空いている状態なのだからそりゃそうだろうけれど。
病院に着く。受付に、「今日はどうされましたか?」と尋ねられる。
縫合が解けたこと、可能なら診察を先にしてもらえないかと伝える。
「糸の周りが裂けたということですか?」
「いえ、糸がほどけてます」
「糸が。自転車などに長時間乗りましたか?」
「いえ」
「お仕事は?」
「デスクワークです」
スタッフは体調の心配をするでもなく、縫合がほどけた原因のみを尋ねてくる。
「前回と同じ施術ですと、前回と同じ料金になるんですが」
同じ手術をするのは良いが、また穴が開くのでは困る。そのためにも、ひとまず患部をみて欲しいと伝えるも、「会計の後に診察します」との回答。困る。
患部の状態を見て、施術内容などの説明をしてもらってから、手術の前に支払いたい。重ねて伝えると、受付スタッフが医師に伝えに行く。診察室から、なにやら怒鳴り声のような音が聞こえる。
少し経ち。スタッフから、「では、診察室にどうぞ」と案内される。
失礼します、と診察室に入る。
医師が、目を血走らせ、こちらを睨んでいる。
次回の更新は、2024年10月1日(火)17時を予定しています。
筆者について
おぎうえ・ちき 1981年、兵庫県生まれ。評論家。「荻上チキ・Session」(TBSラジオ)メインパーソナリティ。著書に『災害支援手帖』(木楽舎)、『いじめを生む教室 子どもを守るために知っておきたいデータと知識』(PHP新書)、『宗教2世』(編著、太田出版)、『もう一人、誰かを好きになったとき:ポリアモリーのリアル』(新潮社)など多数。