若い頃の自分には縁のなかった街、三軒茶屋。よって、知っている酒場もなかった。ここしばらく、仕事の関係で何度か三軒茶屋を訪れる機会があった。そうしたらそこには感動的なほどに素敵な店との出会いが待っていた。気に入った銭湯へ向かう途中、商店街のなかに気になる店を見つけた。持ち帰り専門の惣菜店とった雰囲気の外観で、青いひさしに白文字で「天政」と書いてあった。
きっと良い飲み屋がたくさんあるんだろうなと思いつつ、個人的に東京のなかでも縁の薄い街に、三軒茶屋がある。
若いころは中央線や西武線沿線にいることが圧倒的に多かったので、地名の時点でおしゃれさを隠しきれていないその存在感に、「けっ」という態度をとりつつ、内心はびびっていたのだ。
仕事がら、あちこちの酒場情報に精通していると勘違いされることも多く、以前に一度「三軒茶屋で昼から飲めるお店を10軒紹介してください」という新規の仕事依頼メールをいただき、大変申し訳なくも「い、1軒も知りません〜!」とお断りしたなんてこともあった。
ところで、ここしばらく、仕事の関係で何度か三軒茶屋を訪れる機会があった。現在の僕は、街に対する偏見など、酒場めぐりを楽しむにおいて無駄でしかないことを知っているので、合わせて三茶の街で飲んでやろうとわくわくしながら向かった。そうしたらそこにはやっぱり、感動的なほどに素敵な店との出会いが待っていたのだった。
なじみのない街を訪れる際、酒場の情報を事前にネットでリサーチすることはないけれど、銭湯は別だ。酒場と同じく大好きな銭湯が、その街にはあるかな? と調べ、寄れそうならば寄りたい。そんな経緯で先日訪れたのが、駅から徒歩10分ほどの場所にある「富士見湯」。ここがものすごく味わい深い銭湯でとても気に入ったんだけど、今回の本題ではないので先を急ぐ。
その富士見湯へ向かう途中、太子堂中央街という商店街に気になる店を見つけた。昔ながらの、持ち帰り専門の惣菜店とった雰囲気の外観で、青いひさしに白文字で「天政」と書いてある。ただひとつだけ珍しいのが、店内の一部に真新しい立ち飲みカウンターがあり、そこで昼間から酒を飲んでいる人たちがいるのだ。これは興味深いと、風呂あがりに寄ってみた。
店内中央には大きなフライヤーがあり、そこで次々とフライものが揚げられている。店頭のガラスケースには、「メンチ」「コロッケ」「レバカツ」「ハムカツ」「からあげ」などなど、魅力的な品が並び、どれも安い。やはりそれらをつまみに飲める店のようだ。さっそく「生ビール」(税込600円)を注文すると、見るからになめらかな泡をフタにした、午後の陽光を背に輝くビールがことり。
湯あがりの余韻の残る頭と体に、キンキンのそれを流し込む。扉などない店だから、秋の風が心地いい。つまみに「メンチ」(150円)と「レバカツ(中)」(100円)を頼んでみる。どちらも素材の味を生かした、あっさりと軽い揚げあがりで、しみじみとうまい。なんという状況なんだろうか。
そしてまた、お店にいる人々の雰囲気が最高で、店員さんもお客さんも、まるで友達どうしのように楽しそうに会話をしている。三軒茶屋にはこんな顔もあるんじゃないかと感激してしまい、「紅茶割り」(600円)をおかわりして、しばらくその空間に浸っていた。
その後、三茶に行くたび必ず寄るようになり、少しだけお店のことがわかってきた。まず店名は、天政ではなくて「ebian」というらしく、その誕生の経緯がとてもいい。
店主は、長く渋谷で同名のダイニングバーを経営していた海老原さん。2年前、事情により移転先を探していた際、お店の常連でご友人でもあった女性から、「お父さんが長年やっていたお店が閉店することになって、その場所でなにかやってくれる人を探している」と聞く。それが、55年もの歴史ある揚げもの専門の惣菜店、天政だった。
海老原さんは移転先をそこに決めるが、地元で愛され続けたお店の雰囲気や味を、自分がなくしてしまいたくないと考える。そこで、かつてのお店を彷彿とさせるレイアウトを意識しつつ、ご自身もお酒が好きだから、店頭で飲めるカウンターを加えて改装。結果、この天国のような場所が誕生したというわけだ。
もうひとつ運命的なのが、ebianの料理人、髙木さんの話。これまたご友人で、もとは中華料理店で働いていたが、ちょうど同時期にお店が閉店してしまうことになり、海老原さんが声をかけてこの店で働くようになったのだそう。高木さんは、お店のご夫婦から秘伝のレシピを受け継ぎ、許可が出たものからebianの店頭に並べ、その品数を増やしていった。
昼の12時から夜まで通しで飲める店だ。僕が飲んでいる横で、老若男女幅広い客が、ひっきりなしに持ち帰りの注文をしている。学校帰りにコロッケをひとつずつおやつに買う小学生たち。「今日は楽しちゃおうと思ってよ」と、3つほどのおかずを選んで買っている老人。親子連れは、「からあげ食べたい!」「からあげと、他には?」と子どものリクエストを聞いてあげている。その顔は一様に幸せそうだ。
きっと天政が閉店すると知り、悲しみにくれた地元の方は大勢いたことだろう。そんな人たちにとって、海老原さんは、大げさでなく救世主だ。こんなに奇跡的なお店の残りかた、意思の受け継がれかたがあるだろうか。
僕がいちばん最近訪れたときが、ものすごく幸運なタイミングだった。なんと厨房に髙木さんと並んで立っていたのは、天政のご主人! 今後はフライものに加え、天ぷらもメニューに加えていこうということで、高木さんにレクチャーしつつ、その揚げたての天ぷらは、スペシャルメニューとして提供されていたのだ。
熟練の技によって揚げられてゆく、まだじゅわじゅわと音のする天ぷらをつまみに生ビールが飲める。こんな贅沢があるだろうか。しかも、「えび天」が150円、「まいたけ天」「れんこん天」「さつま芋天」がそれぞれ50円など、大サービスにもほどがある価格設定。
天政のご主人は、「こんなこといつまでやれるか。これからは若い人の時代だからさぁ」と笑っていたが、ものすごくパワフルだ。なにより、ご自身の城だった場所で、スタッフやお客さんに囲まれながら、次々と天ぷらを揚げてゆく姿が、僕にはとても幸せそうに見えた。
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『酒場と生活』毎月第1・3木曜更新。次回第14回は2024年12月19日(木)17時公開予定です。
筆者について
1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。酒好きが高じ、2000年代より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。ライター、スズキナオとのユニット「酒の穴」名義をはじめ、共著も多数。