こんな生き方は私の予定にはなかった。
だけど、仲間と共に在る。
終戦の年に生まれ、学生運動が激化していく1960年代に二十歳(はたち)の時代を過ごした元日本赤軍闘士・重信房子。6月16日に発売された重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、22年ぶりに出所した著者が、「女性らしさ」から自分らしさへ、自ら綴った決定版・青春記となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書より厳選したエピソードを一部抜粋し、全7回にわたって紹介します。
はたちの時代の前史
二十歳(はたち)というと、私たちの世代では、ポール・ニザン『アデンアラビア』冒頭の一節が浮かびます。「ぼくは二十歳だった。それが人生で最も美しいときだなんて誰にも言わせない」と。
二十歳が人生で最も美しい時かどうかはわからないけど、人生のわかれ目や転機の時であったように思います。少なくとも私にとって。
だから「二十歳の時代」を自ら描いてみることは、意味のあることだと思っています。当時、ほとんどの人がそうであったように私は父母の育んできた家族の中で育ち、またその延長のような学校や近所の小さな社会に棲みついていました。
その私は、高校を卒業して就職し社会の一員になった時、はじめて異質な価値観に直面しました。それが「世間」というものだと知った時、幻滅し、また、希望のよりどころとして、夜間大学の道をみつけました。
そのとき、私は18歳でした。この時から、1965年に大学に入学し、新しい自分を信じ、夢をひらいていく、輝く時代は19歳から二十歳に始まります。
働きながら学ぶという決断。そして、大学での新しい人生。そこには、二十歳の夢も正義もその可能性も掌の中にありました。サークル活動から、自治会活動、愛情や、学費闘争へ。誰にでもあった二十歳の時代を語るところから、あの時の自分を捉え返してみたいと思います。
私のうまれてきた時代
私はちょうど「第二次大戦」の敗北のあとに生まれました。1945年9月28日です。姉が私の誕生日の日の古い新聞を、コピーして送ってくれたことがありました。新聞の一面には、「天皇陛下 マッカーサー元帥と御会談」というもので、前日に天皇とマッカーサーの会談があり、その後の新しい日本のアメリカ支配を象徴するような記事が載っていました。
戦後の食料不足で、人々は配給制では足りず近郊農家に食料の買出しをして、命をつないでいました。父は退役軍人で、もとは教師のちょっとした知識を活かして、素人ながらパン屋を始め、戦後の我が家はスタートしたようです。食糧難の時代、イースト菌を手に入れ、パンを毎日作って売ると、飛ぶように売れたようです。世田谷の馬事公苑のすぐそばの家と、少し離れたボロ市通りにあった店をひとつに統合しようと、父の決断で、家族は世田谷の玉電上町駅近くに引っ越しました。私が2歳~3歳のころです。そこは大きな角地で、広い庭の一角に「日の出屋」という屋号の食料品店がスタートしました。
庭には、大きな白桃を毎年実らせる桃の木、数えきれない実をつける無花果があり、ブランコや木のぼりの毎日です。それに父が植えた葡萄棚や、柿、栗の木がありました。隣の家の少し高い石垣の境界にむかって広がるユキノシタの中には、大きな蝦蟇(がま)が住んでいました。子供心にも大きくて、じっとみつめる蝦蟇は家族の一員のように見えたものです。昆虫や蝦蟇や蛙、鼠(ねずみ)に蚯蚓(みみず)やおけら、蜘蛛(くも)や蟻地獄。それらは子供時代の楽しい遊び仲間でした。
日本は敗戦から復興へと、速い速度で進みはじめていました。近所の一段低い地の一角には、ひしめくように、黒いコールタールを塗った家が密集していて、そこは「朝鮮人部落」と呼ばれていました。その土地の話をする時に、大人たちは、声を潜めるのが不思議でしたが、私の父はそうではありませんでした。私は朝鮮部落の徳山さんや金さんの家に行っては、どぶろくを貰ったり、近所にたのまれて米を買ったり、おつかいもしました。
また、そこに我が家の商品を届けに行っては、めずらしくて、家の中をのぞき不思議な杏子(アンズ)の味の飴を貰ったりしたものです。大きくなって知ることですが、当時は朝鮮戦争が始まり、日本共産党が武装闘争を路線として、社会革命を求めていた時だったのでしょう。朝鮮人たちが鮮やかなチマチョゴリを着て行進すると、どの家も、「あぶない!」「こわいこわい!」と家の中に入る、そんな時代です。だから「日の出屋」が彼らと、地域の日本人とのやりとりの、つなぎの場だったようです。私の父が、ご近所からいろいろな相談事をうける、そのような役回りをしていたようです。
昔から我が家は、考えたことを家族で語り合います(父は1903年の生まれです)。父方の祖父は元士族の漢学者で臨済宗の基礎となった「碧巌録」を訳した人だそうです。
しかし父にとっては厳しい人で、咳払いひとつ許さず、笑わないうちとけない人だったようです。友人が父親とねそべって話をしていたのは驚きで、うらやましかった、自分が親になったら、子供とうちとけて話すことの出来る家庭をつくろうと考えていたようです。父は大声をあげて叱ることは一度もありませんでした。静かに諄々(じゅんじゅん)と子供たちに諭す人です。
小さい頃から、何故、月は落ちないのか? なぜ星は動くのか? なぜ花は咲くときを知っているのか。あらゆることを子供たちは質問し、答えてくれる父を誇りにしていました。
私たち子供たちは、店番をしている父のまわりで、古事記や日本書紀、今昔物語や中国の様々な警句をきくのが楽しみでした。父は小さい時から、社会のあり方を子供と語り合うところがありました。父が民族運動にかかわっていたことを話してくれたのは、67年一〇・八闘争の日です。それまでは詳しくは知りませんでしたが、静かで威厳のある人で、子供心に父を尊敬する気持ちがつよかったものです。
父はいつも、人間の価値はカネの多寡によって決まるものではないと語り人間の正義、世の中に尽くすことを教える人でした。そんな家族です。わたしは家族のこうした対話の中で育ちました。当時の私は、よく交番に花を届ける子供だったようです。おまわりさんが人々に尽くしていると子供心に感じたのでしょう。
朝鮮戦争後、特需で経済復興の足がかりを得た日本に、アメリカ文化生活のひとつ、スーパーマーケットが各地に出来はじめました。小さな規模のものでしたが、この大量仕入れによる安売りは、我が家のような小さな食料品店を直撃し、だんだん経営が成り立たなくなっていきました。ちょうど、父が癌の疑いで胃の摘出をおこない、結局店を閉めて借金を清算して、町田へと引越しました。私が中学の時代です。
その為に、大学を出て、小学校の先生になりたかった私は、商業高校に行って簿記や算盤のスキルを身につけて就職することが、その頃には当然のことと考えていました。
こうして、子供時代の夢の「小学校の先生になる」ことを捨てて、商業高校に行きました。中学時代までは、たくさんの夢を描いていました。父の影響で、理科が大好きだった私は、小学校では生物・気象部、中学では化学部のクラブ活動にかかわっていました。
ふたつ違いの姉が、中学時代に生徒会長をしていて人気もあり、彼女が弁論大会や、スペリングコンテストなどで朝礼で表彰されるのを、恥ずかしく思いつつ影響もまた、受けてきました。詩や短編小説を書いたり、ほかには演劇部活動などです。私は弁論大会などは苦手で、避けていたのですが、「お姉さんも出来たのだから」とまわってくる役廻りを逃げまわったり、しぶしぶ引き受ける感じでした。
商業高校は何だか先がみえているようで、勉強もしなくなりました。中学のように夢を描いても実現するだけの財政的裏づけがないし……と。小説を書き、高校があった渋谷の街で遊び”不良”にもなりきれずに、その遊んだ時間の分、勉強してみたりという生活です。司書の先生から感想文を書くようにと言われて『橋のない川』を渡されて、読んだ時、不当な「宿命」ということに人間は尊厳をかけて闘うべきなのだ、と強く思い、そんな感想文を認(したた)めました。そして、その思いは常々の父の教えと強く結びつきました。それでも自分の今と、生き方がどう結びついているのか、わからない……。そんな思いの中にいました。
そして夏休み(63年)には、茅誠司東京大学総長の提唱した「小さな親切運動」に共感し手伝わせてほしいと参加したり、「青年の主張(63年秋)」の弁論大会に参加したり、何かをしたいけれど、何をしていいのかわからない、そんな高校時代を過ごしていました。
* * *
※第2回は、明日7月11日(火)配信予定です。
重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、全国の書店・各通販サイトにて好評発売中です。
筆者について
しげのぶ・ふさこ 1945年9月東京・世田谷生まれ。65年明治大学Ⅱ部文学部入学、卒業後政経学部に学士入学。社会主義学生同盟に加盟し、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際部として活動し、71年2月に日本を出国。日本赤軍を結成してパレスチナ解放闘争に参加。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所。近著に『戦士たちの記録』(幻冬舎)、『歌集 暁の星』(晧星社)など。