ニュー・サバービア
第二話

びしょびしょの町とかわいい闇

文芸
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史上2番目の若さで松本清張賞を受賞した新鋭・波木銅による待望の長編連載がスタート! 原発、カルト宗教、未確認生命体……次々と奇妙な事件に巻き込まれていく高校生たち。不穏な田舎町での青春を振り返る、ディストピア私小説。

アポカリプス・ボーイズとおいしいコーヒーのいれ方

 天気予報をちゃんと確認したためしがない。傘を持ってこなかったせいで、全身がずぶ濡れになっていた。家を出るときは小雨だったから、どうせすぐ止むだろうと高をくくっていた。大ハズレだ。

 リュックサックの中身もびしょびしょだ。身体が冷える。

 私は屋根の下にとどまって、待ち合わせをしているハスミンを待つ。

「あ」

 びしょ濡れになっている私を見つけたハスミンはこちらに駆け寄ってくる。彼はちゃんと傘を差していた。

「傘、持ってきてないの?」

 そういって彼は私をその中に入れてくれる。

「傘なんて差したことない」

「嘘すぎるでしょ」

「どうせすぐ止むよ」

 ちょうど、あの歴史的豪雨を記録したのがこの日だった。道路が浸水し、電車が止まったり局地的に停電が起こったりしたことを覚えている。

 その後、川が氾濫して洪水になった。それ以降、町の景観は様変わりした。

「手、すごく冷たいじゃん。大丈夫?」

 彼は傘を握っていないほうの手で私の手を握ってくる。

「……もともと平熱低いからさ……だいじょうぶ……」

 今のでちょっと上がってきたよ。ハスミンの傘に入れてもらいながら、目的地へと歩きはじめる。

 私たちはアーケードの格闘ゲームで対戦をするために、駅から二十分(!)歩いたところにあるゲームセンターに向かったが、その日はちょうど臨時休業していた。途方に暮れた私たちは、雨をやりすごすことも兼ねて近くにある喫茶店に入った。この町ではチェーンでない飲食店自体が少ないが、こういう小ぢんまりした喫茶店はさらに珍しかった。いい感じ。ここを文明的な町にしたければ、もっとこういうものが必要だ。

 客は私たち以外にはいない。休日でも空いている喫茶店ほどいいものはないが、休日でも空いている喫茶店はどうせすぐに廃業してしまう。ここもきっと時間の問題だ。

 店のカウンターには『おいしいコーヒーのいれ方』が全巻置いてあった。ふーん……。そのうちの一巻を手に取って、テーブル席に戻ってくる。

「ハタリの学校は明日休校になるんだって」

「雨降ってるだけで?」

「そのレベルの雨ってことなんじゃないかなぁ」

 私たちのなかで、馬車道はもっとも偏差値に優れた高校に通っていた。さすが、ちゃんとした学校は生徒のことを考えているな……。

 ちなみに今日、彼女は不在だ。

「ところでさ」

 私は話を切り出す。以前、例の「カルト映画」を観に行って感想を言う、という部活の先輩との約束をバックれた私は、常に何者かに追われるようになった……わけではない。しかし、先輩は学校や部活に来なくなった。たぶん部活での立場を失っていたたまれなくなったか、怪我が悪化して家から出られなくなったかだろう。

 カルトの布教というミッションに失敗したことによって組織から報復を受けた、とかじゃないと思う。

 あくまで世間話の一環として、その話題を持ち出す。

「ハスミンの親戚が入ってるっていうカルトだけどさ」

 彼の反応はあまり芳しくない。私が今も例の組織の話題に夢中になっていることを、よく思ってはいないらしい。面目なさを感じつつも、私は言葉を続ける。

「どんな団体なのかな」

「さぁ。ぼくもよく知らないよ」

「名前とかさ」

「どうだろうね。知らない。少なくとも、なになにの会、とか、なになに教団、とか、いかにもカルトですよ〜って名前はしてない」

 この地域で勃興している宗教組織なんて多くない。「あの宗教」とか、「例の団体」とでも言えば、暗黙の了解としてじゅうぶん通じるだろう。

 私がひとりで思案していると、ハスミンは話題を変えようとしてくる。私はそれに従うことにする。

「じゃーさ、もし教祖になったとしたらさぁ、自分の宗教になんて名前つける?」

 ハスミンはけっこう不謹慎なところがある。そういうとこも好き。

 うーん……。私は思考するそぶりを見せるが、実はすでに考えたことがあった。カルト教団と戦う小説を書いたことがある。

 主人公が打倒すべき敵役を設定するとして、「悪の組織」じゃいくらなんでも説得力に欠ける。もう少しだけ大人向けに言い換えて「カルト教団」だ。

 時間を置いてから、赤面しないように意識してから私は言う。

「あ、アポカリプス・ボーイズ……」

 ハスミンはアイスコーヒーのストローをくわえながら、本気で面食らったように目を見開いた。そして、共感性羞恥によって耳を赤くする。

「わかってる。言いたいことはわかるよ」

 私は手のひらを彼に向けた。黙示録をテーマにした話だ。角川のラノベの新人賞に送ってみて、一次選考を突破できなかった。はじめて真剣に書いた長編でいきなり現代ニューヨークを舞台にした心意気は評価してもいい。

「かっこいいじゃん。アポカリプス・ボーイズ」

 ハスミンはにっこり笑う。彼は馬車道ほどではないが、意外と皮肉を使いこなす。

「信仰を持つことで、いずれ来たる終末を生き延びられるっていう……キリスト教系でさ」

「どういう教理?」

「終末思想から身を守るっている理念で活動してて、実際にその世界では黙示録的な自然災害が起こったりしてるんだ。でも実際はそれが教団の自作自演で……」

「その世界ってどういうこと?」

 つい口を滑らせてしまったので、その名前は昔書いた小説からの引用だったことを明かす。とくにハスミンはなにも言わなかった。

「自作自演ねぇ。どういうことするの?」

「なんか飛行機とか落としたり……」

「それじゃただのテロ組織でしょ」

「それはまぁ、カルトだからさ……。ドゥームズデイ・カルト」

 とくに題材について調べず適当に書いたから、ロクなものが書きあがらなかった。

「カルトのこと、『動かしやすい悪役』くらいに思ってない?」

「それは……」

 実際そうだった。悪役に悪いことをさせるための、説得力のある動機を考えるのはけっこう難しい。そこでカルトの信奉者ということにすれば、合理的な理由づけを省略できる。

 この人物はなんでこんなことをしたの? なぜならカルトを信仰しているから!

 すべての疑問や矛盾点を「カルトだから」で押し切るつもりだった。

 ハスミンは言う。

「カルトは『魅力的』じゃなきゃいけないと思うな……。実際そうでしょ? みんな、魅力的だから同調してお金を払うんだよ」

「なるほどね……」

「君たち、そろそろ帰ったほうがいいんじゃないですか」

 店主がカウンターから、ハスミンのほうを見て声をかける。ガキはさっさと帰れ、と追い出されそうになったのではなく、これから嵐になるだろうから、そろそろ電車が止まってしまうかもしれないぞ、と警告を入れてくれたらしい。

 実のところハスミンとのデートをもっと続けていたかったが、店主の言い分はもっともだった。私が家に帰れないぶんにはどうでもいいが、ハスミンはそうではないはずだ。

 窓から外を見ると、さらに雨が強くなってきていた。突風なのか、雷の音なのかはわからないが、なにか鳴っている。

「アポカリプスだ。ウィー・アー・アポカリプス・ボーイズ……」

「むう……」

「あーあ。電車止まってるっぽい!」

 ハスミンはスマホでJRのサイトにアクセスした。私もそうしようとしたが、例によってバッテリーがすでに切れていた。今日はここに来る前に音楽を聴いてしまっていた。そういう気分だったのだ。今思えば、私はなんのためにスマホを持ち歩いていたのだろうか。通信端末として適切に活用できていたためしがない。なんの役にも立たない板切れがカバンに入ってるだけだ。

 店主は窓を眺めて尻込みしている私たちのことを見ていたらしい。

「お嬢さんたち、やっぱり、もう少しとどまってますか」

「でもぼく、もうお金ないや」

 店主は気を利かせて、二杯目のコーヒーをサービスしてくれた……ということはなく、私が二人分の代金を出して追加注文した。

「ありがとう。あとで返すね」

 そういえば、この六百円をまだ返してもらってない!

「というかさ、さっきお嬢さんって言われなかった?」

 ハスミンはにやつきながら小声でつぶやく。私は口を閉じて吹き出すのを堪えたせいで喉から滑稽な音を漏らした。フィクションに出てくる紳士しか使っちゃいけない二人称だ。

 その埃を被った代名詞は、おそらくハスミンに向けて使われた。外見でジェンダーを見分けようとすることの無意味さは前提として、店主はハスミンのそれを取り違えたことにも気づいていないようだ。

 私服のとき彼はほかの誰よりも自由で、解放されているように見えた。この地域の十代として可能な限界ギリギリまで、規範から逸脱していた。ばさばさに伸ばした色の薄い髪に、メンズサイズだけどフリルのついたパステルカラーのジャケット(どこで売ってるんだろう?)左右で色の違うスニーカー……。そして私よりはるかに背が高い。

 彼のいでたちには惚れ惚れする。本当は私も彼のような、飛び抜けて自由で規範から逸脱した装飾を身にまといたかった。

 ハスミンは自意識に縛られていない。それが羨ましかった。

 閉店までずっとここにいるわけにはいかない。ほんの少し雨が弱まったタイミングを見計らって、私たちは店をあとにした。屋内で乾いた服もすぐにふたたび濡れる。ハスミンは傘をさそうとしたが、激しい横向きの風によって開いた瞬間にひっくり返る。

「あっ」

 そして、雨と風で指先を狂わされた彼は、手元から持ち手を滑り落とした。傘は風に乗って、濡れた地面を滑ってどっかに転がっていってしまう。

「探しに行く?」

「別にいいかな……」

 彼もすでにびしょびしょに濡れ切っていて、いまさら傘をさしたところでどうにもならなそうだ。

 これ以上どこかで時間を潰しても、より天候は悪化する一方だろう。電車が動いていないなら、家まで歩いて帰るしかないか。自分はいいが……徒歩で帰るとなると、遠くに住んでいる彼はかなり時間がかかる。雨を浴びまくってぐったりしているハスミンを見て、私は言う。

「あのさ!」

「なに?」

 雨音がうるさくて、お互いに普段より声が大きくなる。

「ハスミン、家遠いでしょ。うち来ない?」

 彼は一瞬なにかを考え込むようなそぶりになって、どうしようかな……と思案にくれた。

「でも、いきなり行っていいの? 家族とか」

「今日は家にいないから。だいじょうぶ」

 私の両親については詳しく記述しない。意図的にあえて伏せるわけではなくて、特筆すべき点がほとんどないからだ。なんてことない、ただの労働者だ。

「うーん。じゃあ、お邪魔しちゃおっかなぁ」

 この日の荒天は町に多大な被害をおよぼしたが、私にとっては悪いことばかりでもないらしい。

 しばらく雨に打たれながら道を進んでいたとき、ふいにハスミンがあっと声をあげて私の肩を引っ張ってきた。

「なんか踏んだよ」

「マジ?」

 ハスミンが言うところによると、ネズミか大きな虫かなにかの死体がアスファルトにへばりついていて、私はそれを踏みつけてしまったらしい。

 雨に濡れていてわかりづらいが、なにかを踏んだのを確かに感じた。私は不快な感触を靴底ごしに感じて、背中を曲げて足の裏を覗いてみる。

 靴裏に張り付いていたそれに目を向ける。

 私はそれを剥がして、彼に見えないようにとっさに拳に握った。

「どうしたの?」

 私が思わず顔をしかめたのを見て、ハスミンが声をかけてくる。

「いや、なんか、丸まった湿布。濡れて剥がれちゃったんだろうね。汚いな」

「そっか」

 いつもならその場に投げ捨てるかもしれないが、彼の手前、そうはしない。よりにもよって、着ていた上着にもズボンにもポケットがなかった。私はそれをとっさに袖口に入れて隠した。今思えば、もっとやりようはあった。

 私たちは歩みを再開する。

 本当はそうするべきじゃなかった。私が「信頼できない語り手」に値することを前提として書くが、ここで踏んだのは湿布じゃなかった。

 その正体はなんと! 第一関節から切断された指だ。人間の、大人の、右手の指! 爪もそのまま、切断面からかすかに血が流れているが、腐敗はしていない。刃物で切り落としたというより、無理矢理食いちぎった、みたいな断面だった。たぶん、親指と小指以外のどれかだ。

 私は犯罪に関与したことはない。そのちぎれた指と因果関係はない。ただ、ハスミンとの時間に水を差されたくなかったという思いだけで……それなりに事件性をはらんだそれを隠蔽してしまった。

 しかも最悪だったのが、私はそのとき指を袖口に隠したことを完全に忘れた。家についてハスミンと楽しく遊んでいるときにはすでに、袖口からそれは消えていた。たぶん、どこかで落としたんだと思う。それに気づいたのはずいぶん経ってからだった。雨風に晒されて私の指紋が消えていればいいのだが……。

 この日が、ハスミンと過ごした最後の充実した一日だったはずだった。それなのに記憶はおぼろげだ。彼のことを思い出そうとすると、どうしてもその指の切断面ばかりがチラついてしまう。

 幼少期に、電車に置き忘れられていた財布をしかるべきところに届けずに中身を使い込んだことがバレて、周囲の大人に激怒されたことを思い出す。十歳か十一歳のころだ。

 当時、自分は年齢にしては弁が立つと思い込んでいた私は、私の不正義を追求する大人に向かってこう反論する。

「そもそも落とすのが悪いんじゃん」

 誰からも拾われないまま十年経つことだってありえる。たかが数千円を使ったくらいで子どもにブチ切れるなんて大人げなさすぎる。

 落として困ってる人の気持ちを考えられないのか! 予想される反論を先読みし、私はまくし立てた。

「もし自分が財布を落として、返ってこなかったとしても、すっぱり諦める。落とした自分が悪いから」

 もちろん、今はそう思わない。

 私はとくに不注意な人間なので、ものを落としたり紛失したりすることが多々ある。仕事用のノートパソコンと通帳とキャッシュカードとスマホを同時に置き忘れたことが数回ある。そういうピンチは一度を除いてすべて無事に片付いた。誰かが届けてくれたのだ。

 基本的に社会はそういう、利己的でない善意で成り立っている。それを否定するのはただの露悪だ。

 ところで仮に、一食分も払うことが難しいような、一文なしの誰かがいたとする。その誰かは、餓死寸前でフラフラになりながら町を歩いていると、たまたま財布が落ちているのを見つけた。やむを得ずその誰かはそこから金を抜き取り、食事を購入して少なくともその日は生き延びることができた……。

 そういうものを私は罪とも悪ともみなさない。だって、しょうがないじゃん。

 でも、しょうもない理由で指を届けなかった(あまつさえどっかになくした)私の行為は明らかに罪だし、悪だ。指を落として困ってる人のことを考えられないのか!

「お前がやったことは泥棒と同じなんだぞ!」

 財布を持ち逃げした私を、大人はそう叱責する。「泥棒」という響きは反権威っぽくありつつどこか牧歌的な雰囲気があり、あまり嫌な気分はしなかった。

 なるほど、泥棒ね……。手先の器用さを鍛えて、将来はプロの泥棒を目指してみるのも悪くない。

「お前は犯罪者なんだ!」

 泥棒というフレーズに私があまり食らっていないことに勘づいた大人は、そのあとにより強烈な言葉を付け加えた。そのときはさすがに悲しくなって、泣きべそをかきながらとうとうと頭を下げた。

 わざわざ明記することでもないが、当時の私は幼稚だった。財布に入っていたのは数千円で、つまるところ、私は金持ちでない者から盗んだのだ。そればかりは明確に悪であり、罪であり、犯罪だ。

 もし完璧な犯罪計画を思いついたとしても、実行するより、それを題材にして小説を書いたほうがいいと思う。もしかしたら完璧な犯罪小説ができるかもしれない。

 一億円を盗むことと、小説を書いて一億を稼ぐことのどっちが難しいと思う? 

 あとで馬車道とハスミンにそう聞いてみたことがある。馬車道は「盗むほうが簡単」と即答した。文章、ないし小説で稼ぐことの難しさを知っている。

 ハスミンの答えは彼女の逆だった。小説を書くのに失敗しても酷い目に遭ったり人生が終わったりはしないが、大金を盗むのに失敗したら酷い目に遭うし、人生も終わる。

 つまり答えは人それぞれってことだ。

 作家に泥棒が務まるとは思わないが、刺激とスリルを毎日のように経験している泥棒はきっと面白い小説を書けると思う。

 私も指泥棒の経験を生かして……。

 これ以上調子に乗るのはやめておこうと思う。よく考えたら、落ちてた指をとくに理由なく持ち去る行為は窃盗以外の罪状に当たるかもしれない。

 まぁ、最後のページにしっかりこう記述しておけば問題ないだろう。

 この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。

びしょびしょの町とかわいい闇

 その日は、私と馬車道とハスミンが三人揃った最後の一日だった。

 この前の豪雨と嵐で川が氾濫し、洪水が起こった。規模はかなり深刻で、町は様変わりすることになった。

 そのあとすぐにハスミンはこの町からいなくなってしまった。

 さらに、そろそろ大学受験に真剣に打ち込まなきゃ危うい時期になったのもある。

 私たちの交流はしだいに途絶えていった。

 私たちは寺の前を通りがかった。まだこの町は洪水の後処理に手こずっていて、道路が封鎖されていることも少なくない。敷地を横断すれば少し近道になるので、寺の門をくぐる。私がそこにあった掲示板になんとなく目をやると、馬車道もそれを覗き込んだようだった。

 怒りは炎に似ている。

 不始末で事故を起こしてしまうのは、たいてい、自分のせい。

 掲示板に貼られた半紙には達筆な筆文字でそう書いてあった。私はその文を読んでから、馬車道のほうにそっと目を向ける。

「うるせぇぞクソ坊主!」

 彼女はそれなりの声量で叫んだ。掲示板に殴りかかる。表面にガラス戸があるので力を緩めたらしい。ジャアアアアンと振動したガラスが鳴る。

「手を出すことはないのに」

 私も正直この説教にはイラついたし、それを馬車道が唾棄することに期待もしたが、なにもそこまでしなくても。

「てめぇの寺燃やすぞ」

 彼女は怒りに満ちた表情を作る。

「実際に燃えたら、皮肉でいいんじゃない?」

 比喩としての炎もろとも、実物で焼き尽くす! いいと思う。

 ハスミンの言葉に、馬車道は膝を打つ。

「いいねそれ。やろう!」

 どれくらいの油が必要なんだろう。木造建築といっても、たやすく燃えるとは限らないとも聞いたことがある。

 寺を燃やす奴と燃やさない奴がいたとしたら、小説の主人公としてふさわしいのは圧倒的に前者だと思う。馬車道のことは非常に作家気質な人間だと思っていたが、それ以上に、小説の登場人物っぽいともいえる。

 衝動的に拳を握ったあとに、馬車道は指を広げてブラブラさせた。たいした力を込めてはいないように見えたが、痛みを感じているようだ。

「あれ、それ、どうしたの?」

 その様子を見ていたハスミンが、彼女の手元を見る。馬車道の右手の指に絆創膏が巻かれていたのが私にも見えた。薬指だ。

「ん? 自転車いじってたら部品で切った」

「あ、そっか。なら良かった」

 この前見た切断された指がどうしても想起されて、私は思わず汗ばみながら口にした。

「なにも良くないが?」

 そりゃそうだ。

「おっ」

 寺の敷地から出たとき、私たちは道路沿いの空き地になにかが打ち捨てられているのを見つけた。50センチほどの箱状のなにか……家電かなにかだろうか、と思いつつ、近づく。やはり、それはだいぶ型落ちした電子レンジだった。

「拾ってかなくていいのか?」

 嫌味ったらしく馬車道が言う。それを無視し、私はあえて電子レンジの前にかがみ込む。砂が挟まってなかなか開かない扉に力を込めてみる。やっとこさ開いても、案の定、中になにかがあるわけでもない。

「まだガラクタ集めやってるの?」

「いや、もうやってないよ……」

 私はハスミンにかぶりを振る。たしかに私は、一時期それに熱狂していた。

 洪水災害は破壊と雇用機会以外に、この町にもうひとつのものをもたらした。いたるところからいろんなものが流れ着いて、打ち捨てられている。ほとんどはゴミだが、たまに貴重な品が泥に塗れて転がっていることがあった。行政に回収される前に手に入れることができれば自分のものにできる。クラスメイトにも、数十枚のレコードが入ったままのキャビネットやそれなりに骨董品的価値のあるカメラ、紐で縛られた『AKIRA』の全巻(乾かして泥をとったらちゃんと読める!)などを見つけ出した連中がいる。綺麗に洗浄したり修理したりして売却してもいいし、気に入ったなら自分で使ってもいい。ごくまれに現金が見つかることもあった。物の落とし主が現れることはほとんどなかったらしい。忙しすぎてそれどころじゃない、と警察は市民を軽視する。

 しばらくこの行為は、行政にも見て見ぬフリをされていたと思う。ほっとけばガキや貧乏人が勝手にゴミを片付けてくれるんだから。この町の人口のうちの60パーセントが老人で、残りはガキと貧乏人だ。もちろん貧乏人の老人もいる。町の外に住む人の中には、この町の泥は放射線に汚染されている、とひどいことを嘯く連中もいた。

 その頃、みんながちょっと後ろめたい思いをしながらも、ゴミ拾いスカベンジに夢中だった。私も受験シーズンと重なってさえいなければもっと宝探しに打ち込んでいたと思う。スカベンジャーになってそれで食っていきたかった。

 町や県の外からやってくるボランティア団体や収集人もいた。いいものはすぐになくなってしまう。夜中机に向き合って赤本に載っている過去問に挑んでいる最中も、家を抜け出してスカベンジに行きたくて仕方がなかった。

 私の部屋にはそれで手に入れたお気に入りのものがいくつかある。

 雨と風が止んで、道路から水が引いた。そのとき私が最初に路地から拾い上げたのはボロボロのウクレレだった。汚れを落として弦を張り替えてみると、いちおうちゃんと音を鳴らせた。

 ネックに記載されていたメーカーの名前を検索してみると、とくに価値があるものではなかった。ハワイ製の本場の品らしいが、売って金になるようなものではない。

 ネットで演奏法や有名曲のタブ譜を調べてみて、受験勉強のかたわら、ちょっと練習をはじめてみた。それがけっこうしっくり来て、「普通に弾ける」レベルにまでは上達できたのだった。高校を出て上京するときにも、新居に持って行った。今でも気分転換がわりにたまに弾いて遊ぶ。ギターと違って弦が柔らかいし、しかも二本少ない……。

 そしてバンド・デシネの傑作『かわいい闇』……の中国語版! 重厚かつグロテスクな小人の物語だ。いつか読みたいとぼんやり思っていた。当時からすでに邦訳も出ているのだが、そのときの自分には常識的な値段で入手する手段がなかった。中国語版なのでテキストを読み進めるのにめちゃくちゃ難儀した。スマホの翻訳アプリを片手にどうにか最後のページまで辿り着いたときは、あたかも人生の山場をひとつ乗り越えた気分になった。この経験をきっかけに大学では第二外国語を選択したが、役には立たなかった。フランスの漫画にはちょっとだけ詳しくなれたことは間違いではない。

 

 私はひとりでいろいろなものをゴミの中から探し回っていた。これには馬車道とハスミンはつきあってくれなかった。とくに馬車道は「スラム街の血気盛んな若者気取りか? 中流のガキ」と痛烈に私を揶揄した。実のところ、彼女はこのゴミ漁りムーブメントそのものを軽蔑していた。

「本当に今すぐ金や物が必要な人たちっていうのはこの町には少なからずいて、この機会はそういう人たちに譲るべきだ。お前らみたいな連中が必要でもないのに価値のあるものを持ち去るせいで、彼らはチャンスを失い、震えながら泥に手を突っ込んで餓死する。清掃作業員として雇用された労働者の仕事を奪うことにもなるだろうね。お前の身勝手な自己満足のせいで」

「むう……」

 完全に論破されたと思う。彼女の言ったことは事実で、私は不足してないのにさらに得ようとする強欲な人間に成り下がっていたかもしれない。それでもコソコソしながらゴミを漁ることをやめられなかった。まるで、この閉鎖的な町が、仕切りを取っ払われて一時的に外の世界と繋がったように思えたからだ。

 なんでもかんでも拾えばいいってものでもなく、パソコンのキーボードやヘッドホンなんかの電気製品はさすがに水没してしまって使えなかった。かわいいドラゴンのぬいぐるみを見つけたときはどうしても持って帰りたかったが、それの全身におびただしく虫が湧いていて、さすがに断念した。リトルリーグの優勝トロフィー……さすがにこれを欲しがるほど節操なしなわけじゃない。

 衣服やタオルなどの布製品はさすがに不潔なイメージが強すぎて拾う者は少なかったが、私はそんなこと気にしなかった。勇気を出して異臭を放つ布クズを掻き分けることで、私はラコステのシャツを無料で手にすることができた。二、三回洗濯したらワニちゃんのワッペンが取れてどっかに行ってしまったので着なくなった。ウケ狙いでその話をしたらなぜか馬車道に気に入られたので、彼女にあげた。

「なんかいじらしいよな。見た目がどうであれ、お前はラコステだよ」

 馬車道は私から受け取ったシャツに優しく語りかけた。彼女がそれを着ているところは結局一度も見ていない。いじらしいとはいえ、それを着るかどうかは別問題だ。

 そして、レインボーの六色に色分けされたA4サイズのプライドフラッグ……。泥と靴で踏みにじられた跡でぐちゃぐちゃになって、側溝に挟まっていた。この町においてもこれを掲げていた人がどこかに存在していたという事実は、些細ながらも「希望」とみなして差し支えないんじゃないかと思う。それは持ち帰らずに、汚れを落として乾かしてからそばにあった大きな公園のフェンスにくくりつけておいた。

 ところで、もっとも私を悩ませたのは食品のたぐいだった。瓶詰めの調味料や珍しい缶詰、未開封のワインやウイスキーの瓶なんかが見つかることもあって、密閉されてるなら大丈夫だよね……と手を出しそうになったことがある。さすがにそこまではしなかった。食中毒のリスクはさすがに無視できないし、食料品はもっと必要な人がいる。

 洪水が終わってからしばらく経って、被害の残滓を残しながらも町のシステムが復興しはじめたころ、やっとゴミ漁りは大々的に禁止された。私の高校でも警視庁からのチラシが配布されたし、町は一般人の「ゴミ拾い」は犯罪である旨のポスターだらけになった。一度大々的に禁じてしまえば、田舎のコミュニティは相互監視が働くので抑止力がでかい。

 中学生が漁りに夢中になって死ぬ事故が三件起こったこと、ゴミの中から実銃がたくさん詰まったバッグが見つかったこと、ゴミの所有権をめぐって殴り合いが勃発したこと、マナーの悪いゴミ拾いたちが道路を散らかすことへの苦情が絶えないこと(私はそんなことはしない!)、破傷風のリスクが高すぎること、ゴミを隠すならゴミの中ということで逆に不法投棄が増えていること、そもそも落ちてるからってものを勝手に持ち帰ったり売ったりしてはいけないことなど……行政が見て見ぬふりを続けられない理由は枚挙にいとまがなかった。どうしてもそれを続けたければ、深夜にこっそり行うしかない。

 その日、これで最後にしよう、と私は午前二時に家を抜け出した。まだ行政による回収が済んでいない地区にある閉鎖された公園まで歩いていって、そこにあるガラクタの山をスマホのライトで照らす。点灯しておけるのは長くて10分だ。記念になにか、ひとつだけを持って帰ろうと思っていた。

 今思えば、どうして自分がここまでこの行為に恋焦がれていたのか、よくわからない。

 公園にはひとり先客がいた。

 老人がショッピングカートを押している。近づいてからそれが老婆であるとわかる。とにかくその老人はカートを押しながら、その中に手当たり次第にガラクタを詰め込んでいる。

 コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』で、主人公は幼い息子とともに、災害で滅んだ世界をショッピングカートを押しながら旅をする。句読点のない静謐かつ熱のこもった文体と鮮烈な終末についての描写。老人を見て、その小説を思い出した。

 私は老人にゆっくり近づいていった。驚かせてショック死でもされたらやっかいだから、物音を過度に立てないように気を配った。自分が危害を加えられる可能性はまったく頭になかった。不用心すぎる。

「あの」

 普段は知らない老人に自分から声をかけたりは絶対にしない。

 老人は答えず、黙って私のほうに振り向く。顔つきが険しかった。巡回の警官や警備員だと思われたのだろう。

 私は泥や蜘蛛の巣で汚れた彼女の手に目線を落とす。

「素手でやると危ないですよ。これ……」

 私は持参していた予備のゴム手袋を渡そうとする。彼女はそれを受け取った。

 ふと、老人が携えていたカートの中を覗いてみる。骨董品や破損した電化製品、ひび割れた食器……地球儀や昔のドラマのレンタル落ちVHS、自転車のサドルなんかはなんのために拾っているのだろう。私には価値が見出せないものばかりだった。

「なんか、いいもの見つけましたか?」

 老婆の警戒を解くために、私は声をかけつつ手袋をはめてゴミの山に腕を伸ばす。スマホのバッテリーが切れる直前まで物色したが、物欲をそそるものはなにも見つからなかった。そういうときのほうが多い。

「じゃあ。気をつけて」

 私はそう言って、その場から去ろうとする。

「あんたも探してんのけ」

 はじめて老人が口を開く。ひどくかすれた声で、私は聞き取るのに難儀した。

「なにを?」

「あれだよ」

 彼女は若干苛立ったような態度で言葉を濁した。

「……あれですか」

 知ったかぶることにする。

「ここにあるはずなんだ。絶対に……ここに……」

 老人は山の中にある自動車のタイヤを持ち上げようと苦心していた。私は無言でそれを手伝った。山から下ろしたタイヤは転がって、夜の闇に消えていく。

「ひとりで来てるんですか?」

 老人はうなずく。さすがに危なすぎると思ったが、驚いたり戒めたりはするべきじゃない。よく見ると近くに軽自動車が路上駐車されている。それに乗って来たんだろう。

「あれ……見つけたら、どうするんですか?」

 彼女はすぐに答えた。私の発声は明瞭なほうではなく、高齢者にはよく何度も聞き返されるが、彼女は一発で聞き取ってくれたらしい。

「この町から出て行って、残りの人生、好きに過ごすよ……」

「なるほどねぇ」

 彼女はきっと、この町のガラクタの中に大金があると思い込んでいるのだろう。そういう人たちもけっこういた。行政がゴミ漁りを禁止したのは、それをされると不都合なことがあるからだ……。つまり、莫大な現金の入ったアタッシュケースやそれに準ずる価値のある物品。あるいは、国家機密が記載された文書やデータメモリー。

 血眼になってそれらを探そうとするのはある種陰謀論的でもあって、カルトとそんなに変わりはない。そういった面からも、馬車道はこれを嫌っていたんだろう、と今になって思う。

 その日以降、私は「ゴミ漁り」から足を洗った。もう価値のあるものはすべて取り尽くされてしまったし、そんなことにうつつを抜かしている余裕はなくなった。

 この町にも、わりといろんなものが……なくはないらしい。

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね

 これ以降は特筆できるようなエピソードに乏しいから、時間を大きく飛ばしていこうと思う。馬車道とはお互いに小説の添削をし合ったり、本を貸し借りしたりのやりとりはしていたが、一緒に遊びに行ったりすることはほとんどなくなった。最後に彼女に読ませてもらった小説のことは今も覚えている。詳細は省くが、どの新人賞に送ってもいい結果が返ってくると思う。いつか彼女の名前をどこかで耳にするかもしれない。

 受験を終えて暇になった高校三年の三学期、私は小遣いを稼ぐためにバイトに勤しんでいた。小説を書くことも、本や映画に触れることもそっちのけだった。

 このころの私は非常につまんない人間だったと思う。ハスミンとも馬車道とも会わなくなって、ついに友達の人数はゼロになった。

 今思えば、もっとも悲しいのはそれをそんなに寂しいと感じなかったことだった。自分の生活のことと、これからはじまる新たな人生について考えることで頭がいっぱいだった。

 私は実家で生き物を飼っていた。訳あってそれを実家に置いていくことはできなくて、新居に連れていかなくてはならなかった。

 ペット可でなおかつ家賃安め、都内の駅近くの物件を探すのがなにより大変だった。これからの生活費のために、今のうちに稼いでおかなくちゃいけない。

 八百円にも満たない時給で働いていた。今思うといくらなんでも安すぎやしないだろうか。数カ月だけの短期で、なおかつ高校生を雇ってくれる店なんてそうそうない。やっとのことで見つけたその店で、私はトイレ掃除に取り組んでいた。長期で入れるフリをして面接を突破し、春になったタイミングでバックれるつもりだった。

 高校生がする初バイトにしてはけっこうみじめな仕事な気がするが、接客よりはマシな気がしていた。この町に住んでるような連中に笑顔と尊敬語だと? 信じられない!

 私は入り口に「清掃中」の黄色い立て札を立てた。用具入れからブラシを取り出す。

 洗面台と個室がそれぞれふたつずつある。洗面台の下に長財布が落ちているのを見つけた。緑と赤のラインが走っている。そんなにハイブランドに明るくない私でもわかる、グッチのやつだ。

 小説で登場人物に悪事を働かせたら、必ず報いを受けさせるべきだろうか。悪人が悪人のまま一敗もせずに勝ち逃げしたら、やっぱりあんまり気分が良くないのかな。

 ちなみに、グッチの財布を使うような奴は金持ちなので、それから盗むことは悪には当たらない。

 私は深くため息をつく。それを床から拾い上げて店舗の事務所に持って行った。台帳にそれを拾った旨を記録しなければならない。

 事務所から戻ってきて、用具入れからブラシとクレンザーを取り出して掃除をはじめる。表で流れている音楽がかすかに聴こえる。聴いたことある。これなんだっけ。サビまで聴けば曲名もわかるはずだ……。

「うわっ」

 便器を掃除するために個室に入った束の間、そこの光景が目に入った私は思わず歯を食いしばった。

 スプラッターというか、スラッシャーというか、そんな感じだった。蓋を開けっぱなしの黄ばんだ洋式便器一面に、べったりと血が付着している。中だけじゃなくて、個室の壁の内側いっぱいにも広がっている。赤い塗料によるイタズラなどではないことは私にもわかった。

「ふざけんな」

 トイレでの出血の理由はいくつか想像できるが、そのどれも明らかに違う。出血量があまりにも多すぎた。失血で死んでいてもおかしくないくらいだ。

 建物の中のトイレがこんなことになっていて、騒ぎにならないのは不自然だと思うだろうか。この町は、相互監視と見て見ぬフリで成り立っている。それらは相反するようで、わりと両立できる。

 便器や床のタイルにこびりついた血は乾きはじめている。クレンザーをいっぱい振り撒いて、ブラシで擦りまくる。この汚れを落としきれなかったら、私のせいになる。

「あ〜もう!」

 どうせ人足に乏しい時間帯だ。私は堂々と独り言を漏らしながら、持ち手が折れんばかりに力を込めてブラシを擦りまくる。便器の内側についた血のりをどうにか落とそうと苦心する。数十分のあいだ擦り続けていると、ようやく色が薄くなりはじめる。

 汗だくになりながら掃除を続ける。腰や腕が限界に達し、いったん洗面台のフチに座って休憩することにする。鏡を背にしながら、ブラシを傍に置いて、ポケットから取り出したスマホで時間をつぶすことにする。

 しばらくすると足音が聞こえて、私は慌てて洗面台のフチから立ち上がる。

「清掃中」の立て札をよけて中に入ってきた客は私の姿を認めると、目を見開きながらあっと口を半開きにする。

「久しぶりだな」

 ここからが、馬車道とする最後の会話だった。

「そうだね」

 私ははにかみながら答える。どうしよう。なにを話そうか。いい話題があまり思いつかない……。

「ここで働いてんのな」

 馬車道は今、私が金を必要としていることを知っている。それだけ言って、彼女は個室に入っていこうとする。よりにもよって奥側、血まみれになっているほうだ。突発的にそれを止める。

「待って! 反対側のほう使って!」

「掃除中だった?」

 そう言いつつ、馬車道は私が入場を拒んだほうの個室をわざと覗き込みに行った。お前はいつだってそういう奴だ。

「すげ。ド級の痔と、ド級の生理と、どっちかな。それか酒飲みすぎて血ぃ吐いたとか?」

「その三つ同時とか……」

 私も馬車道も、そんなはずはないとわかっている。

「床ってもう掃除したの?」

 馬車道はあたかも探偵を気取るように、目を細めて「現場」を眺める。

「いや、してないけど……」

 このとき、私は彼女の真意をはかりかねた。

「個室がこんなに血だらけなのに、床とか洗面台には血の一滴も散ってないって、不自然だよな」

 たしかに。ふいに、単なるやっかいな汚れにしか思っていなかったそれが、なんだか恐ろしげになる。

「個室で殺して、死体をバラバラにして、トイレに流しちゃった……?」

 見れば見るほど殺人の現場に思えてくる。私はとっさの思いつきを口にした。

「バカじゃねぇの」

 いつの間にか馬車道は隣のほうの個室に入っていて、用を足し終えている。洗面台で手を洗うまで私のほうを振り返らなかった。

「じゃーね。がんばってね」

 彼女は吐き捨てるように言う。えっ、待ってよ。もう帰っちゃうの?

 いまさらその背中を追うこともできなかった。私はふたたびブラシを掴み、掃除を再開する。結局それを綺麗にするのに、勤務時間のほとんどを費やすことになった。

ビリーバーズ

 大学進学のために地元を出てからは、本格的に作家を目指すようになった。小説を書くうえでの環境レベルはそれまでと段違いだ。取材や情報収集の手段は潤沢だし、たいていの本は手に入るし、ほとんどすべての新作映画を観ることができる。気の合う友人を見つけることも容易かった。そもそも私は地方よりも都市での生活に向いている。たまたま生まれが田舎だったってだけだ。あんまり地元は恋しくない。

 私は一度も帰省していない。町そのものがなくなってしまったからだ。

 私が地元を離れてしばらくして、例の大爆発が起こった。私の住む町全域を含む周辺は、原発事故によって足を踏み入れることはままならなくなった。

 大洪水と原発事故の立て続いた、見捨てられた地だ……。

 ハスミンはもちろん、馬車道もすでにあの町から離れているはずだ。ふたりは今、どうしてるんだろうか……。

 かろうじて一冊の小説を出版することができてからしばらく、次回作を書きあぐねているころ……。

 住んでいるアパートの一階にある101号室には今まで葬儀屋の事務所が入っていたのだが、最近テナントが変わって美容院になった。徒歩ゼロ秒で通えるし、せっかくだからとやってきた私のパーマをこなしながら、会話を切り出してくる。

 私はコミュニケーション能力に若干の難があるが……苦手なだけであって、嫌いなわけではない。

 幸いなことに、自分を担当してくれた美容師とはそれなりに趣味が合った。私たちの会話はかなり弾んだ。

「最近、映画観に行きました? 俺最近やっと『エブエブ』見に行って」

「はいはいはい。めちゃくちゃ面白かったですよね〜!」

「今の自分はこんなだけど、ほかの並行世界ではもっとうまくいってるかもしれないってね」

 なんの意味も持たない会話だ。そこから得られるものもある。

 話題はより個人的な方向へと向かって行った。

「出身ってどちらなんですか?」

 彼が尋ねてくる。出身地ね……。地元について話すと、極端に長引くか、気まずい雰囲気になるかのどっちかに陥ることが多い。かといってとっさに出まかせを思いつけなかった私は、あの町の名前を口にする。

 一瞬、私の髪の毛を指に挟んだまま美容師の手が止まる。

「マジっすか。俺もです」

 にっこり笑いながら美容師が言う。こんな近くで同郷者と出会うとは、偶然って面白い! あの町の出身ということは、彼もそれなりの苦労があったはずだ。歳も私とほど近いように思える。あの事件以降、自分以外の人間がどうやってサバイブしてここまで辿り着いたのか、純粋に興味があった。

「大変でしたよね」

 私の口調には、同情や共感のニュアンスが滲んでいたと思う。出身地が同じというだけで勝手に仲間意識を抱いてしまうのは、私がとっくに捨てたつもりだった田舎者気質が首をもたげているのかもしれない。やだな。

「俺はまぁ、大丈夫でしたよ。事故が起きたとき俺はもう地元にいなかったし。家族も全員、ちょっと後遺症があるくらいで」

 後遺症があるんだったら、大丈夫じゃないのでは……。とは口にできない。

 生きてるだけマシか。

 ……本当にそうだろうか?

「むう……」

 私はなんだか口ごもってしまう。スタイリング剤が頭皮に触れてピリつくのを感じる。

「痛みます?」

「ああいや。ぜんぜん大丈夫です」

 そろそろ会話を打ち切って、座席備え付けのタブレットで雑誌でも読もうかな、と思う。タブレットを手に取ろうとするより先に、美容師が声をかけてくる。

「そうだ。高校とかどこでした?」

 私は嘘をつかずに答えた。ふたたび、彼は大げさな反応をする。

 出身高校まで一緒だった。美容師の顔を鏡でそっと一瞥する。

 そこまで共通点が多いと、年齢を聞くのは怖いな……。元クラスメイトとかだったら嫌すぎる。いや、この店の会員になったから、個人情報はすでに渡している。彼がそれを確認しているかはわからないが、ごまかしがきかない……。

 年齢とか、所属していた部活とか、あらいざらい聞かれた。私は嘘がつけなかった。

 そして、彼は思い出してしまったようだった。

「お前あれか! あいつか!」

 美容師は指をパチンと鳴らした。態度をいきなり柔らかくしてくる。

 すっげー偶然だった。最悪だ。

 彼は本文中にすでに登場している。高校時代の陸上部の、アドラー心理学に影響を受けていたあの先輩だ。ずっと内心でアドラーって呼んでたから、本名を覚えてない!

「えっと……お久しぶりです」

 髪の毛このまんまでいいんで、帰っていいっスか?

「髪伸びたなー。えっ、顔変わった? ぜんぜんわかんなかったよ」

 さ、最悪だ……。なんで昔ちょっと部活で一緒だっただけの下級生のことを覚えてるんだ。あんただってもっといっぱいあっただろ。覚えておかなきゃいけないことが!

 私は彼の名前を思い出すのに必死だったが、どうしてもままならなかった。もしかしたら、はじめから知らなかったのかもしれない。なら、個人名を出さずに済む話し方をしよう。これまでずっとそうしてきた。

「先輩こそ、こっちも気づきませんでしたよ」

 頭皮が染みる。スタイリング剤の独特な匂いでかすかに頭を落ち着かせる。

「先輩って。いつまで部活気分なんだよ。名前でいいよ」

「あはは……そうですよね」

 彼の胸元には手書きの名札が貼ってある。私はとっさに目をやり、それを読み上げた。

 もっとも、私の緊張はわりと杞憂なようだった。お互いの正体が明るみになってからも、とくに美容師と客という立場は揺るがなかった。べつに高校生のころから成長が止まっているわけじゃない。人は必ず変わる。変わりたくなくたって。

 私たちはさっきよりも砕けた調子で会話をすることができた。

「そういえば、今も好きなんですか? アドラー心理学」

 彼の代名詞を持ち出す。それを聞いた彼は破顔した。しばらくゲラゲラ笑い続ける。

「あんなもんもう覚えちゃいないよ。なんだっけ? 『嫌われる勇気』ぃ?」

 思い出した。彼の下の名前は「ユウキ」なのだ。漢字表記は一般名詞の「勇気」と同じ。そういう面を含めてなかなか皮肉だったんだ。前の章で彼が登場したときに、このセンテンスを挿入しておけばよかった。

「あんなもん」

 気持ちはわかるけど、なんかあんまりだなぁ。

「アドラーに限らず。心理学とかは全部嘘っぱちだよ」

 彼は私の髪のうねり具合を確かめつつ、いったん私の名前を呼んでから、あのさ、と続ける。

「チームってあっただろ?」

「なんのチームですか?」

「チームはチームだよ。あのチームだよ。知ってんだろ? お前に映画のチケット、渡したじゃん。あのときの俺、すげー嫌な奴だったよね」

 私は目を見開いた。

「痛いか?」

「あっいや。大丈夫です」

 そのとき、急に思い出した。数年ごしに新事実発覚だ。正式名称ではなく通称にすぎないだろうが、あの、町の政治に侵食して都合よく操ったり、地方のシネコンの上映枠をプロパガンダ映画で潰したりしている団体の名前は「チーム」? なんでそんな殺風景な名前なんだ。あえて? ザ・バンドみたいなもの?

「お前にチケット押しつけちゃったあと、俺、けっこう後悔してさ。あれ観に行った?」

 私は否定する。

「どうしても予定が合わなくって……」

「うん。まぁあれは観なくていいかな。で、そんな無理矢理チケット配って映画観せるとか、そんなカルト野郎の言いなりになってるって思うとムカついてきてさ。文句言ってやろうと思って、団体の連中に直接殴り込んでやったんだよ」

「ほんとですか」

 彼は私に呪いを押しつけてはいなかったのだ。

「でも、自分は……」

 私の言葉を押しのけて、彼は続ける。

「奴らの話もあえて聞いてさ。映画も観て。どうせカルトの言ってることなんて稚拙なんだから、論破してやろうと思ったんだよ。俺のアドラー心理学を使って」

 アドラー心理学はアドラーのものであって、あなたのものではないと思うが……。

 彼は私の反応を待たない。

「そしたらさ」

「はい」

「案外、あいつらの言ってることもわかるなって。カルトだって決めつけて敵視してた、俺のほうが陰謀論だって……」

「はい」

「話をちゃんと聞いたら、けっこうちゃんとしてるんだよ。政治に関わってるっていっても、べつに思想を押しつけたりしてないし。洪水のときも、どんな団体よりも多くの金と時間を使って、清掃員を派遣したり。……今は除染作業にも積極的に協力してる。ディープステートとか電磁波とかQアノンとか、そういう連中とはまったく違うのよ」

「あの」

 彼は美容師だ。彼は私を椅子に縛りつけていて、すぐ手に取れるところに何本もハサミを用意している。

「どうした? お前も興味ある? そもそも宗教っていうのともちょっと違くて。特定の神とか教えとかを信仰するとかじゃなくて、むしろフレンドリーだけど寛容で、ちょっとドライでもある……そう、家族みたいな感じなんだよ! かなりの大家族だけど」

「へぇ……」

「そうそう、チームの人に教えてもらったんだけど、あの町、実は今はもう汚染されてない地域があって、入ろうと思えば生身で入れるんだってよ。そりゃあ表向きには立ち入り禁止になってるけどさ、もし行きたくなったら、こっそり俺に話してみてよ。俺が話つけとくからさ。けっこう融通利かせてくれるんだよ。心配なら防護服とかも安く貸してくれるし」

「はぁ」

「俺らが高校の時さ、洪水で流れてきたガラクタ拾って集めるの流行ってたじゃん。お前も知ってるだろ? あの……あれ。あれってまだ見つかってないらしいんだよ。いちおうチームでも探してるけど、いちばん最初に見つけた奴のものにしていいんだってさ! そうだ。よければ今度一緒に探しに行かね? 俺ら当時からゴミ拾いしてたし、土地勘もあるからさ、ぶっちゃけ有利だと思うんだよ」

「あー、まぁ……」

「決まりだな。電話番号はあとで確認すればいいし。このアパートの上の階に住んでるんだよな? あーそうだ。ちょっと俺は今から、すげーカルトっぽい話をする。いや、カルトっつーか、オカルトっつーか。そう思われてもしょうがないようなことを、言う」

 脚が重い。いまさら彼は話し方を耳打ちに切り替える。

「あの爆発って、ただの原発事故じゃないんだ。実のところ、あの町ははじめから普通じゃなかった。俺も、お前も、そしてあそこに住んでたどいつもこいつも、はじめっから普通じゃなかったんだよ」

 私はとっさに椅子から立ち上がった。頭にカーラーがつきっぱなしの状態で、料金も払わずに、店の外へと一目散に逃げ出す。たぶんこれが最後のチャンスだと思った。

 マジでどうしよう。なんで自分の家と同じ建物によりにもよってあいつがいて、あまつさえ、そんな……。私の過去はおおむね語り切ったつもりだが、あいにくまだ完結にはほど遠い。

 カーラーの外し方がわからなくて、何十本もの髪の毛を失って途方に暮れた。

第三話へつづく

 

筆者について

なみき・どう 1999年生まれ。茨城県出身。大学在学中の2021年、茨城県に暮らす3人の女子高校生の大麻栽培を描いた小説『万事快調(オール・グリーンズ)』(文藝春秋)で第28回松本清張賞を受賞しデビュー。

  1. 第一話 : フードコートと猫のゆりかご
  2. 第二話 : びしょびしょの町とかわいい闇
  3. 第三話 : 私小説の時間は終わり
  4. 第四話 : ワニワニパニック
  5. 第五話 : 職業には向かない女
  6. 最終話 : ペイルランナー
連載「ニュー・サバービア」
  1. 第一話 : フードコートと猫のゆりかご
  2. 第二話 : びしょびしょの町とかわいい闇
  3. 第三話 : 私小説の時間は終わり
  4. 第四話 : ワニワニパニック
  5. 第五話 : 職業には向かない女
  6. 最終話 : ペイルランナー
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