史上2番目の若さで松本清張賞を受賞した新鋭・波木銅による待望の長編連載、いよいよクライマックス!
フード配達員として生計を立てるギグワーカー・馬車道ハタリは、自身の小説を剽窃していた『ニュー・サバービア』作者の自宅で異形のワニ・サバービアとついに対峙する。人間の死体を跡形もなく食い尽くせるサバービアが悪用される前に、故郷・豪戸町に帰すことを決意したハタリ。彼女はサバービアをバッグに詰め込み、原発事故でゴーストタウンと化した故郷を目指していたが――
【第九章・職業には向かない女】
馬車道はしばらく目を閉じていた。
遠くでかすかに破裂音が聞こえた。激しく、乾いた音……。花火? いや、違う。銃声だ。映画の効果音でしか聞いたことがないような音が、遠くで鳴った。本物の音を聞いたことはないが、銃声にしか思えない。
光が近づいてくる。足音もする。ここにとどまっているべきじゃないと思うが、脚が動かない。咳き込むたびに、喉と腹部に激しい痛みを感じる。
「大丈夫かな?」
ライトを持った誰かが接近してきた。その声はそれほど敵意を感じない。
恐る恐る目を開ける。
四、五十代の……たぶん女性。大きめのコートを羽織っているのが見える。今の季節だとやや暑そうな気がする。深夜帯でも、たいていは上着が必要なほど寒くならない。
ライトで顔を照らされる。目が眩む。
「あなた、大丈夫?」
ふたたび安否を尋ねられ、馬車道はかぶりを振った。大丈夫なわけないじゃん。
この女は重機を操っていた張本人とは違う気がする。根拠はないが、そんな気がする。
「あ、重機……。ショベルカーとかが……」
「落ち着いて。もう大丈夫」
さっきとは違う、問いかけではないイントネーションで、もう一度「大丈夫」という言葉を使われた。
女がなにかを手渡してくる。視界が安定しないせいでよくわからないが、無心でそれに手を伸ばしていた。ひんやりとした感触を指先に感じる。飲み物の入ったタンブラーに違いない。カランカランと氷が鳴るのが聞こえた。奪い取るようにそれを掴み取り、蓋を開ける。中身を勢いよく喉に流し込む。
ゲェェェッ!
それを吐き出しながら咳き込む。喉に熱を感じ、痛みがぶり返してくる。胸の鼓動が激しくなる。思わずその場にうずくまった。
「あら。ごめんなさい。びっくりした? 平気じゃないよね」
女は慌てた様子で背中をさすってくる。馬車道は涙目になりながら相手を睨みつけた。手渡されたタンブラーに入っていたのは度数の強いアルコールだった。馬車道はぜんぜん酒が飲めない。今口に入れたのはささいな量だが、これだけでもう頭が痛くなってくる。
「はい! これもあげる。こっちは水。普通の水だよ」
ぐしゃぐしゃとペットボトルが指で押される音がする。そもそも得体の知れない他人からもらったものを口にするなんて危なっかしいが、今はしのごの言ってられなかった。キャップはすでに空いている。ぼやけた視界でそれを手に取り、半分ほど入っていた水を一気に飲み干す。ただの水を嚥下するだけでも一苦労だったが、喉に通すとほんの少しだけ楽になってくる。
「藪から棒で申し訳ないけど」
馬車道が落ち着いたのを見てから、女が口を開く。
「あなた、こんなところで何をしてたの?」
「警察かよ」
尋問まがいに投げかけられたことに、馬車道は嫌味としてそう返す。
「そのとおり。刑事の金城チルです。チルでいいよ」
「ホントにそうなんだ……」
かねしろちる……珍しい名前を反復する。チルね……。
刑事は身分証を見せてくる。目を凝らして確認すると、顔写真とともに本当に金城散と記載されているのがわかる。
馬車道はようやく立ち上がれるようになった。視界も正常に戻りつつある。遠くにかすかに車の影が確認できる。パトカーだろうか。重機が暴走しているのを誰かが発見し、通報したのかもしれない。
「職質なら断りたいんだけど。急いでるんだ」
「そんな体調で?」
「うーん……」
チルはロングコートの内ポケットからなにかを取り出す。そのコートは彼女の身体に対してかなり大ぶりだから、おそらくメンズサイズだ。
彼女の手元が一瞬きらりと光った。馬車道はそれを銃だと思って、とっさに身構えた。
実際のところ、彼女が取り出したのは銀色のタンブラーだった。さっき渡されたものと同じか。彼女は喉を鳴らして中身を飲む。かすかにアルコールの匂いが漂ってくる。
「酒?」
「ジャックダニエルだよ。水割り。口つけちゃったけど、落ち着いたなら飲む? 痛みがやわらぐよ」
タンブラーを手渡してくる。
「いらないよ。つーかさぁ、今勤務中なんじゃ……」
後方に停めてあるパトカーを指差す。
チルはにやりとしながら、口元に人差し指を持ってくる。
「シーッじゃねぇよ」
「飲まなきゃ仕事にならなくてさぁ。PMSで頭痛がね……」
「バレたらクビじゃすまないでしょ」
「酒を飲まないせいで本調子を出せずに犯罪を見逃してしまう刑事と、酒を飲んできっちり技量を発揮して平和を守る刑事、本当にみんなのためになるのはどっちだと思う?」
「お前みたいな奴に逮捕された人たちが不憫でならないよ」
権力をかさに着てやりたい放題やってるクズじゃないか。馬車道は口調に嫌悪を込めた。
チルの手元に目を向ける。よく見ると、薬指だけが短く、爪がない。切断されているように見えた。
チルは自身のコートを弄りながら言う。
「ほかに痛むところは? おなか空いてない?」
「これ以上私に関わらないで」
馬車道はこの場から去ろうとする。そばに投げっぱなしのデリバリーバッグを手に取る。
「どこに向かうつもりなの? 私はね、これから豪戸町に向かうんだ。知ってる? 豪戸町」
思わず足を止める。彼女の方へ振り向いた。
「尋問したり、逮捕したりはしないから。話をしようよ」
「言ったな?」
刑事というのが本当なら、手錠や拳銃を携行しているはずだ。しかしチルはそれらを取り出すそぶりを見せない。
ふたりでゆっくりと歩き、その場から移動をはじめた。
「私たちはある犯罪者を追っててね」
「うん」
馬車道はバッグのポケットからくしゃくしゃになったタバコのパッケージを抜き取る。ライターがない。手持ち無沙汰にしていると、チルがガスライターを渡してくる。馬車道は礼を言わずに手に取る。
煙を吸い込んで、ゆっくり息を吐く。「プラシーボ」はタールの含有量が多めの銘柄で、多少気休めになる。馬車道は少しだけ警戒を解いた。
「通称、スラップスティック。わかる? スラップスティック。昔のコメディアンが使ってた、今でいうお笑いのハリセンの原型みたいな道具で」
「体張る系の、スラップスティック・コメディーのスラップスティックだね。ヴォネガットの小説にもある」
「え? なにそれ? ……そいつは年齢性別職業、いっさい不明の猟奇殺人者。映画みたいでしょ」
「あんまり面白そうな映画じゃないね」
チルが乗ってきたらしいパトカーのそばにたどり着く。馬車道は車体を背にしてもたれかかる。ここは海岸沿いだから、潮風のせいでじっとしているとやや冷える。たしかに、彼女が着ているコートのような上着が欲しくなる。
「あなたたちはユーチューブとか、よく観るでしょ?」
「観ない! 観ないね!」
チルは自分の話を続けた。パトカーのボンネットに座る。彼女は少し喋るたび、しきりにタンブラーに入れたウイスキーをあおる。
「スラップスティックっていうユーザー名で動画をアップしてた奴。聞いたことある?」
「知らない。ユーチューブなんて大嫌いだ」
「スラップスティックを名乗って、街を練り歩く動画を投稿してたの。……それでね、たとえば路上で歩きながらタバコを吸ってたり、缶とボトル専用のゴミ箱にほかのゴミを捨てたり、空いてないからって異性のトイレを使ったり、あと……自転車で歩道を走っておいて歩行者に向かってベルを鳴らしたり。そういう奴らを見つけては、ひそかに忍び寄って隠し撮りする」
「ふーん」
ぜんぶやったことあるな……。誰だってそうでしょ?
「犯罪ってほどじゃないけど迷惑な奴ら。そういう連中を、手に持ったハリセンで軽く叩くんだ。うしろからこっそり回り込んで、パシってね。そしてすぐ逃げる! その様子を録画してユーチューブにあげて、ほんの少しだけウケてた」
「ふーん。セコいな……」
「うん。セコいね。そういう活動を、素人のバラエティ番組ごっこ、自警団気取りのクソしょうもない企画をやって小金を稼ぐくらいなら好きにしたらよかった。わざわざ警察が介入するほどじゃない」
「それもそうだね」
「でも、悪人退治への執着が暴走して、ただ小突くだけじゃなくて、もっと暴力的なことをするようになった。ガスガンで撃ったり、防犯用のペンキボールをぶつけたりね」
「はた迷惑なやっちゃな〜」
「激化してった果てには刃物とかも使い出してね。相手に怪我を負わせることも厭わなくなった。最終的にゃ殺しをするようにまでなった。規律を守らない奴を攫って、家に閉じ込めて殺しちゃうんだ」
「殺人鬼の誕生譚じゃん。しかもよくある感じの……」
「そいつが豪戸町の立ち入り禁止区域に逃げ込んで身を潜めてる」
「なんでわかんの?」
「さすがにそこまでは喋れないよぉ。機密情報だからね」
チルは会話しながらウイスキーを飲み切ってしまった。
別のポケットからもう一本タンブラーが出てくる。
「殺人犯を追ってんだね。捜査一課ってやつ? でも刑事って二人組で行動するんじゃないの? もうひとりは?」
「詳しいね。警察、好きなの?」
「嫌いだよ。警察はおしなべてみんなから嫌われてるからね」
「相棒はちゃんといるよ。ジョージローって奴。私よりひと足先に町に捜査へ行って、行方不明になっちゃった。こいつを探すのも私の仕事のうちのひとつ」
チルはスマホで写真を見せてくる。彼女よりやや若めの、ぽっちゃりとした警官が直立している。
「ジョージローねぇ」
「あなたは?」
ちょうどいい出まかせが思い浮かばない。正直に答えることにした。
「……豪戸、地元なんだ。訳あって、今からそこに行かなきゃいけない。理由は言わない」
「ふーん。乗せてってあげよっか?」
チルはボンネットに座ったまま、フロントガラスを指差す。
「え、いいよ……嫌だ」
「そんなこと言わないで。ここからそんな遠くないとはいえ、さすがに歩いたら何時間もかかるよぉ」
そういえば……。自転車はもう粉々なんだ。そのことを思い出して泣きそうになる。悔しいなぁ。
「でも、あんたと一緒にいるのも、パトカーに乗るのも耐えられない」
「もう。遠慮しないの。あなたは土地勘があるだろうから、案内してほしいし。それに、こっちは銃持ってるんだから」
チルは銃を取り出して、トリガーに指をかけてこちらに銃口を向けてくる。エアガンでもやったらすごく怒られるやつだ。
「え、狂ってる」
「途中に一件だけ深夜営業の飲食店があるよ。奢ってあげるから、道中でごはん食べよう」
「……勤務中だろ?」
銃で脅されたからにはやむをえず、馬車道はパトカーの助手席に乗り込んだ。こいつが本物の警官であっても、警官のフリをした犯罪者であっても、自分のことを警官だと本気で思い込んでいる狂人であったとしても、きっと無事ではいられない。
「あなた仕事は? なにしてるの?」
運転しながらチルが話しかけてくる。酒気帯びのくせに流暢にハンドルを握る。
「フードデリバリー」
「安定しないでしょう」
「公務員様とは違ってね……」
「公務員だって最近はみんな大変なんだよ」
だいぶ進んでも、車窓から見える風景は変わり映えしない。ときおり振り返って、後部座席に置いてあるデリバリーバッグに目を向ける。乱暴に扱い続けたせいで、表面がかなり痛んでいる。サバービアが中から突き破って出てきてしまうかもしれないが、今はまだどうすることもできない。
「いい服だね。ワニが描いてある」
話すことがなくなったのか、彼女はクロコダイルのロンTに目を向け、苦笑とも失笑ともつかない笑みを浮かべる。もうすでにボロボロで、ひどい有様だ。
「ああ。いいでしょ」
「ワニ、好きなの?」
別に、と答えようとして、ふと思いとどまる。
「うん。大好き。最高の生き物だよ。水中でも地上でも俊敏で、実は頭も良くて、鳥を捕まえるためにワナを張ったりもするんだ。地上の生き物に噛みついて水面に引き摺り込むのって豪快でありつつ狡猾で、そういう狩りってなんか、良くない? なんというか、色気があると思うんだよ。おまけにワニはなんか病気にもすごく強くてね。そして超長生き! 一世紀以上生き続ける個体もいるんだよ。タフで強靭だ。ゴツゴツしたウロコとか、歯とか、ずんぐりした脚もすごくかわいいでしょ。そうそう、ホオジロザメとかはイメージのわりにいうほど人を食うわけじゃないっていうのは有名だけどさ、まぁそれってスピルバーグのせいだと思うけどさ。で、その点ワニはちゃんと世界中で一定数人を殺してて」
ハスミンたちには一度も言っていなかったが、小説と自転車ほどではないがワニのことも好きだった。だからこそサバービアの存在がなんかイヤだった。サバービアがワニによく似ていることのばつの悪さは、たとえば好きな映画監督がふとしたときにインタビューで漏らした女性蔑視的発言みたいな、そういうのに対する失望に近い。
チルがうん、うん、うん、と一定のタイミングで相槌を打っていることに気づき、馬車道ははっとして口をつぐんだ。息も止めた。
「あ、ごめん。その、一気に喋りすぎた……。私、こういうとこあって……薬飲まないとさ、すぐに頭がひとつのことでいっぱいになっちゃってさ。他人のことを考えないでひとりでベラベラ喋りたいことだけ喋っちゃう」
こういう失敗は最近はあまりしていないつもりだった。うつむいて、親指でこめかみを強く指圧する。
「ふーん」
チルは話題を変えた。
「さっきはごめんね。酒、苦手だった?」
「え、ああ、うん。昔からぜんぜん飲めない……」
「普段も飲まないんだ?」
「ああ……」
正直な話、運転席から絶えず漂ってくる酒の匂いだけでも頭が痛くなってくる。アルコールに弱くて得をすることは基本的にないので、ちょっとしたコンプレックスだった。鍛えて改善できるものでもないし。
「お酒飲まないなら、なににお金使うの? 趣味とかあるの?」
彼女はすぐに質問ばかりしてくる。不快だったが、まだ恥の感情は頭にこびりついたままで、それを少しでも払拭するために答えることにする。
「今はぜんぜん。金ないからね。昔は本読んだり、映画見たり」
チルの反応は芳しくない。返答はため息混じりだった。
「私の母親も、読書がすごい好きだったな。でも専門書とかのちゃんとしたのは一冊もなくて、小説ばっかりだったけど。あと、映画とか漫画とか、音楽も。いい年してそういうのばっかり」
「ふーん。いい母親だった?」
「ぜんぜん。昔から仲が悪くてさ。もう何十年も会ってない。完全に縁を切った」
「そりゃいいね」
「私さ、完全菜食なんだ。なんでかわかる?」
「知らんがな……。体質? 環境のため? 宗教思想? それかアニマルライツ? なんでもいいよ」
「ぜんぶ違う。単に肉も魚も大っ嫌いだから、死んでも口にしないの!」
「あっそう……」
チルはコートの内ポケットからふたたびタンブラーを取り出し、飲む。かすかにアルコールの匂いが漂う。
「なんでかわかる?」
「わかるわけないだろ!」
「それも母親のせい」
「あっそう」
運転の途中、ときおりチルがレバーをいじっているのが見える。オートマじゃなくてマニュアル車らしい。車の知識はからっきしだから、このパトカーも本物なのかわからない。豪戸町付近に目的地を設定されたカーナビがときおり音声案内を行う。
「昔……うちの母親がいつもホラー映画……内蔵が飛び散ったり頭が弾け飛んだりするやつとか、生きたまま人間を解剖するやつとか、脳みそを食べるやつとかばっかり見ててさ。しかも家族みんなで食事してるときにもお構いなしに、家のテレビでさ」
「いいね。ホラーが好きな奴に悪い奴はいない」
「そんなことない。私、それでいっつも気分悪くて。子どものころとか、血がしたたってるステーキとか見るとさ、思い出して嫌な気分になっちゃって。それで肉とか食べるのも嫌になっちゃってさ。もともと血とか見たくないし」
「映画がトラウマになっちゃったなら、逆にもっと詳しくなればいいんだ。メイキング映像見るとかね。全部人の手による制作物だってわかるし、だからこそ面白い」
「そもそもなんでわざわざ金と時間をかけて、人が苦しんだり痛がったり怖がったりしてるところを見る必要があるの?」
なんでだろうね!
「でも、そのメンタリティーでよく警官になったよね。やっぱ、ほかにできる仕事がなかった?」
「まぁね。それに、仕事で見る血は大丈夫」
「なんで?」
「これがあるから」
チルはふたたび銃を取り出して、こちらに見せてくる。
「うーん。やっぱりお前、異常者だよね?」
「頭おかしいから刑事なんてやってんでしょうが!」
チルは突然大声を出し、ウイスキーを飲んだ。
「警官に向いてる人間は三種類いる。まず、警察官以外の仕事の適正がない奴、他人を罰することで性的興奮を覚える奴、そして暴力を振るう権利と銃さえあればどんな危機も乗り越えられる奴」
「あんたはどれ?」
「全部」
「要するに私はいま、アル中で話が通じなくて、あまつさえ銃を携帯している狂ったおばさんと行動を共にしている、ということ……」
「残念ながらそうなるね。まぁ立ち入り禁止区域まで着いたら解散だね。私はジョージローを見つけて、スラップスティックを殺らないといけない」
馬車道は深く息を吐く。だいたいわかってきたぞ。こいつは自分を刑事だと思い込んでいるだけの、ただの狂人だ。警察なんて見下してしかるべきだと思うが、いくらなんでもここまでおかしい奴はいないだろう。
こいつの言うスラップスティックという名の犯罪者が実在するのかも怪しいところだ。そうだ、きっと得意げに携帯している銃も偽物に違いない。なら、そこまで警戒することもないのかも。
でも、もしそうじゃなかったとしたら……。
黙ってシートに座っていると、つい頭がぼんやりとしてくる。あまりの疲労に加え、適温に保たれた車内の空気のせいで、気を抜くとすぐに眠りに落ちそうになる。でもここで眠るのは危険すぎる。殺されてもおかしくない。
うとうとする馬車道を尻目に、チルが声をかけてくる。
「疲れてるでしょ。着いたら起こしてあげるから、寝てていいよ。遠慮せず休息しなさい」
「はぁ〜?」
体力はもう限界だった。柔らかいシートに背中を預けながら目を開けているのも、もうままならない。
【第十章・チルアウト】
馬車道は自転車に跨って、道路を滑走していた。ゆるやかな下り坂を転がるタイヤは軽快な音を立てる。人や車もまったく通らない。道はほぼ貸切同然で、適切に整備されたアスファルトは不快な振動をいっさい感じさせない。まるで自分専用にあつらえられたコースを走っている気分だった。天気や気温もサイクリングにふさわしく、気分を害する要素はなにひとつとして存在しない。前触れなく降ってきて顔に当たる小雨も、目や口を目がけて飛んでくる小さい虫も、クラクションを鳴らしてくる車も、チンタラ歩く年寄りも、無意味に声をかけてくる自転車乗りの男も、興醒めな信号や通行止めも、ハンドルを握る手を滑らせる汗も、突然やってくる腹痛も、タイヤに挟まる砂利も、ここにはない。坂道はまだ続いている。
今乗っているのはもちろん、十代のころから乗り続けている、代えがたい、自分の人生において特別な意味合いを持つ自転車だ。ワインレッドのフレームに日光が反射し、煌びやかに光る。サドルやチェーン、ベルやライトといった部品は経年劣化で破損したり、より質のいいものにアップグレードするために交換しつづけているから、もうオリジナルのものは残っていない。唯一買ったときからそのままなのが、このフレームだ。わざわざ自分で色を塗り直しさえした。この乗り物の核ともいえる。完全に後付けだけど、真紅のカラーリングは心臓のメタファーとみなすこともできなくはない。それがある限り、この自転車はどんな形になろうとも、死なない。
たかがモノに過度な執着や愛着を持つような人間ではないと馬車道は自覚している。だから……もし大金が手に入ったとしたら、こんなオンボロは手放してもっといいものを……いや、なにも捨てることはないね。「殿堂入り」、「定年退職」、そして「永久欠番」として部屋の中にスタンドを置いて、それに飾って、毎日ピカピカに磨いて……。
つかの間、目の前をなにかがすばやく横切ったのが見えた。馬車道はとっさに腕に力を込め、ブレーキをかける。黒い。ゴミ袋か、猫か……いや、違う。ちっちゃいワニだ! サバービア。ブレーキをかけるのがほんの少しだけ遅かったらしい。慣性のかかった自転車は止まりきれず、突然目の前に現れたサバービアに前輪を引っ掛けた。タイヤがアスファルトと摩擦する音を聞く。馬車道の視界が九十度傾いた。尻がサドルから離れる。腕と膝を激しく打ちつけてしまった。激しい痛みと熱に顔をしかめたのち、すぐに立ち上がる。多少の転倒や事故くらい、何度も経験している。もう同じミスはしない。
「突然目の前に飛び出してくるなんてダメだよ、サバービア」
そんなことを口にした直後、強烈な違和感が生じた。なんだ? こんな、都合のよすぎる道路なんてあるわけないじゃないか。自分がよく知っているのは、豪戸町の殺風景で不愉快な陰鬱な道路と、都心の狭苦しい雑多な路地だけだ。著名なサイクリングロードで走ったことなんてない。楽しく自転車を乗り回すことなんて、もうぜんぜんしてなかったはずだ。道路に倒れたままの自転車を見下ろす。前輪がチリチリいいながらいまだ回転している。
背後からクラクションが聞こえた。馬車道はとっさに振り返る。でっかいトラック……というより、トレーラーだ。タンクを牽引している。錆びついた、ものものしい車体をしている。まるでスピルバーグの『激突!』に登場する……というか、そのものだ。映画に出てくるのとまったく同じトレーラーが、ものすごいスピードで、排気ガスとエンジン音をまきちらしながら走ってくる!
進行方向にはまだ自転車がある。やめてくれ、馬車道は叫んだはずだったが、声が出ない。自転車が巨大なタイヤにめきめきと粉砕されるのを見ていることしかできなかった。
自転車を踏み潰して、トレーラーは何事もなかったかのように道路の向こうへ走っていった。馬車道は頭が真っ白になって、口を半開きにしたままその場にしゃがみ込む。
「ハタリ、大丈夫?」
どこからともなくやってきた、サバービアを大事そうに抱き抱えたハスミンが声をかけてくる。
「ぜんぜん大丈夫じゃない、かも」
「ぼくたち、ひどい目に遭ってばっかだね」
ハスミンはペシャンコになった自転車に近づいて、それに哀れんだような目線を向けていた。ハスミンの腕の中で、サバービアが前脚をしきりに動かしてじたばたしている。地面に降りたがっているように見えた。ハスミンはかがんでサバービアを下ろす。
サバービアは自転車の残骸までゆっくり歩いていって、それを食べ始める。口を大きく開けて、おいしそうに……なんでこんな気持ちになっているのか自分でもわからないが、サバービアがバキバキと部品を食べているのを目の当たりにしても、そんなに嫌だとは思わなかった。すごくおいしそうに食べる。一口もらいたいくらいだ!
結局、サバービアが自転車を食べ切るのを最後まで見届けてしまった。満足したサバービアはその場で眠ってしまう。また車が通るといけないから、抱き抱えて歩道まで連れていく。振り向くと、もうハスミンはいない。
「あれ?」
やっぱりすごく変だ。
目を開ける。口の中が乾いていて、喉が痛い。馬車道は自分が助手席のシートに座っていることを思い出す。隣を見ると、さっき出会った金城チルが欠伸混じりにハンドルを握っているのが見える。
「おはよ。そろそろ着くよ」
これまで無防備を晒して眠りについてしまっていた自分に戦慄しつつ、車窓に見える風景を眺めた。よく知っている。昔何度も通ったあの道だ。
「ここさ、どっちに曲がればいいのかな」
チルは寝ている自分をゆすり起こしたらしい。三叉路の前でパトカーをアイドリングさせながら停止させていた。喉の渇きに咳き込みながら、馬車道は記憶をたぐり寄せる。三叉路の中心に鎮座する直径一メートルほどの太い樹木があり、それにはしめ縄が巻かれている。大きな樹木を避けるかたちで、これまで直線が続いていた道路が二股に分かれる。
この樹木は昔の道路整備の際、唯一伐採を免れた。土着信仰の神木というやつだ。ジャマだな!
「どっちに進んでもそんなに変わりないけど……」
ここまで言いかけて、馬車道は口をつぐむ。ちょっと前までは単なる分岐で、どっちに進んでも同じルートに合流するものだった。でもおそらく、今は話が違う。大洪水で崩れた土砂が道路を塞いだ。今は作業員が出払っているから、ほったらかしになっている。きっと現在も、左側の道路は車両が通れなくなっているはずだ。
「いや……左。左だ」
「そう」
チルはハンドルを左に切る。しばらくして、一般人の侵入を拒む簡易的なフェンスが立ち塞がる。彼女はスピードを緩めず、車体でそれをぶち破って先へ進む。そのときの振動を全身で感じ、馬車道は肩を揺らした。さっき怪我した腕が痛む。
「ここから先は侵入禁止エリアだよ。被曝しても、死んでも文句は言えないよ」
「うん。もうどうでもいいや……」
周囲の雰囲気が一変したような気がする。道路はまったく整備されておらず、ところどころがひび割れている。脇は雑草が生い茂って伸び切っており、葉がしきりに車体を撫でるのがわかる。車が振動して、身体が揺れる。
「どう? 懐かしい?」
馬車道は車窓を眺める。もちろんひとけはまったく感じられないが、風景は記憶の中とそれとさほど違いはない。
「別に……」
久方ぶりの帰省はそれほど感慨深くない。いっそのこともっと荒廃してポストポカリプス的世界観になってればよかったのに、と思う。
昔よく行っていたコンビニの残骸を発見し、せっかくだから写真の一枚でも取っておこうと思う。スマホのカメラアプリで撮影したのち、ふと、画面の右上に目が行く。電波を拾えていないようで、圏外の表示が出ている。
「ん。電波入らない」
「廃墟だからね」
「そういうもんなの?」
「私はポケットWi-Fiを持ってきてるけど、貸してあげないよ」
近くに駅舎が見える。ここら辺は、かつての町の中心部だった。チルは車を減速させつつ、茂みに突っ込んだ。外から見えない形にして、停車する。線路はとっくに廃線になって、雑草が生い茂っていた。
「どうしたの?」
「ここに停車するよ。これ以上乗ってると、帰りのぶんのガソリンが持たない」
「なんでこんな変なところに停めんの?」
「隠しとかないと壊されたりパクられたりするから」
「たしかに、誰も見てないところにパトカーが停まってたら私でもボコボコにするかな。ストⅡのボーナスステージみたいに!」
「うん?」
チルはまったくピンと来ていなかった。キーを抜いてドアを開ける。馬車道もそれに続いた。車から降りたあと後部座席を開け、デリバリーバッグを回収する。少しだけチャックを開けて中を見る。これまでと何も変わらず、サバービアはバッグの中で狭そうにしながらじっとしている。
あとはこいつをここらへんに離せば終わりだ。
「ところで」
バッグを背負い直そうとしたところ、後方からチルに声をかけられる。バッグを足元に置いたまま振り返る。
彼女は銃を握っていた。人差し指をしっかり引き金にかけているのが見える。
「なに?」
銃が本物であるという確証がない以上、過度に怯える必要はないと思う。馬車道はうずくまったり両手をあげたりはしない。むしろ、こうした事態は事前に想定していた。ここに着くまでそれなりに楽しい会話を交わしたとは思うが、信用に値する相手ではなかったということだ。
「最後に、その持ち物の中身、見せてもらってもいい?」
「やだ」
たしかに、かなり場違いな、とても普段使い用には見えないバッグの中身を追求しないのはむしろ警察としては不自然だ。
「意地張らないの!」
仮に彼女の握る拳銃が本物(か、それに近い威力に改造したガスガンとか)だったとしたら、背後にあるサバービアのバッグをとっさに掴んで盾にする。重機に踏まれてもびくともしないサバービアの身体なら、銃弾を受け止めることだってできるはずだ! ……いや、さすがに間に合わないぞ。無意識のうちにマトリックスみたいなバレットタイムの画面を思い浮かべながら想像してたけど、そこまで俊敏に動けるわけじゃない。こちらが少しでも怪しい動きを見せたら、チルはすかさず発砲するだろう。
ところで、こんな感じでよく銃口を向けながら会話する場面があるけど、そういうとき、銃を持ってるほうはなんでさっさと発砲しないんだろう? それはさておき、引き金を引くだけで相手が死ぬってどんな気持ちなんだろうか。
「なにボーッとしてんの?」
チルの声が聞こえて、馬車道は我に返る。また違うこと考えてた。
「あのさ」
「はい」
チルは銃口をこちらに向けたまま、姿勢を崩さない。よく見ると、彼女は左手で銃を握っている。左利きなんだろうか。ハサミや楽器がそうであるように、銃にも右利き・左利き用がそれぞれあったりするの? しないか。
「仮にあんたが私を撃ち殺したとして、その後どうするの?」
「その荷物の中を確認するよ」
「じゃあなんで、わざわざ私を車に乗せて、ここまで連れてきたの? さっきまで死にかけてたんだから、そのときさっさと力づくで奪えばよかった」
「私には私の考えがある。口を挟まないの」
今まで以上に話が通じない。
サバービアが友達のピンチを察して、バッグを食い破って中から出てきてさ……あいつに噛みついて私を助けてくれたりしないかな。
『ニュー・サバービア』の作者がしていたように、サバービアを操る方法がある。そのためのウクレレは……あの工事現場に置いてきてしまった。鉄球の攻撃を受けて、すでに原型をとどめてはいない。必ずしもウクレレでないとダメなのか? なにか、ほかに方法はないのだろうか。音に反応するんだったら、ウクレレに近い音を鳴らせばいいんじゃないのか。
「逆にさ」
馬車道は疑問点を直接口にしてみる。
「うん」
チルは案外聞き分けがある。そうだ。この膠着状態のままずっと会話を続けて、彼女の腕を疲れさせてさ。腕を下ろしたり銃を持ち替えたりしようとした一瞬のタイミングを狙って飛び掛かる! そして銃を奪う。完璧だ! ……ってまさか。
「この中身ってなんだと思う? なにが入ってると思う?」
チルは答えない。もしかしたら、もう知っているのかもしれない。しかし、もしそうならわざわざこんな回りくどい手間をかけて奪おうとする理由がわからない。
馬車道は質問を変え、鎌をかけてみることにする。かかとで背後のバッグを軽くつつきながら、言う。
「ほしい? だったら、いくら払える?」
チルは無言のままだった。彼女の表情は、道中までのふざけたアルコール中毒者の中年のものから、冷酷な刑事の顔に変貌しているように見えた。
「一銭も払うつもりはないよ。だから、こうしてる」
彼女が銃を構える腕の位置が、ほんの少し下がったのを見逃さない。引き金に指をかけてすぐにでも発砲できる姿勢をとってはいるが、まだ撃つそぶりは見せない。
「誓って言うけど、違法なものが入ってるわけじゃない。単にプライベートな私物だから見せたくないだけ。まぁデリバリーのバッグに入れてるのは変かもしれないけど、ほかにカバンを持ってないんだよ」
もう小手先のごまかしは通用しなさそうだった。チルは表情を変えずに、その場から微動だにしない。まだ撃ってこない。
「ラチが開かないねぇ」
チルはため息を吐いた。そう言いつつも、こちらへの注視を緩めはしない。
「だろ。だからこんなことやめて、あの……あれだ。ジョージロー。ジョージローを探しに行ったほうがいいと思うよ」
彼女の相棒の名前を覚えておいてよかった。
痺れを切らしたのか、チルは声を荒げた。
「じゃあもうわかった! 単刀直入に聞くよ! あなた、団体の一員でしょう?」
「チーム?」
なんの? シラを切っているのではなく、本当に知らない。それを強調するために馬車道は眉をひそめて小首をかしげる仕草を誇張して行った。それは逆効果だったかもしれないと、やってから思う。
「もういいや。時間切れだよ! いい加減に」
チルの言葉の続きを馬車道は聞き取れなかった。彼女は意味のある言葉のかわりに、短いうめき声をあげた。同時に鈍い打撃音がする。チルは目をかっ開きながら、受け身も取らずに前向きに倒れた。
「なんてこった」
最後に、かすかにそう言ったのを聞く。
何者かがいつの間にかチルの背後に忍び寄り、頭部を殴りつけたらしい。とっさに脳を揺さぶられたチルは、平衡感覚を保てなくなった。その様子は馬車道からも見えなかった。
「危なかったね。お兄さん」
「えっと……」
チルの背後に回り込んでいたその人物は、虚ろな目をしながら微笑んだ。「お兄さんじゃなくて……」と訂正する間を作れなかった馬車道は、気を失ったチルを呆然と見下ろす。殴られたことによる出血や損傷はないが、アスファルトに倒れ込んだので顔を怪我しているようだ。
視線を上げる。忽然と現れて自分の窮地を救ったその人物を見る。目が合わなくて、顎を上げる。馬車道は日本人男性の平均身長よりも背が高いが、その人物は彼女より頭ひとつぶんほど勝る身長だった。目測で二メートル近くあるように見える。とはいえ青白い皮膚と細い手足をしているせいで、さほど威圧感はない。おまけに角ばった頭部と、やぼったい黒髪の短髪、生気をあまり感じられない表情。これはまるで……。
『フランケンシュタイン』の怪物……厳密に言えば、フランケンシュタイン映画の元祖でボリス・カーロフの演じたフランケンシュタインの怪物……をモチーフにした、『ミツバチのささやき』に出てくる『フランケンシュタイン』の怪物を彷彿とさせた。今のこの町は、なんとなくあの映画のロケーションに似ていなくもない。
ところで、メアリー・シェリーは十八歳のときに匿名で『フランケンシュタイン』を書いた。今どき十代デビューの小説家はさほど珍しくない。私はそれになれなかった。
その『フランケンシュタイン』の怪物に似ている人物は、右手に一メートルくらいの棒を握っている。錆びた鉄製の……棒だ。小学校にある鉄棒を彷彿とさせる。それでチルの頭を、思いっきり殴打した。先のあたりが若干曲がっている。彼女を殴ったせいだろうか。
【第十一章・ストーカーズ】
馬車道はデリバリーバッグを拾い上げ、背負う。こんなことになるとは思わなかった。サバービアは町のもっと奥の方まで行って放したほうがいいのかもしれない。ただでさえ人の立ち入らないこの地域の中でも、さらに危険で殺伐としたエリア、たとえば発電所の構内とかにそっと隠すのがいいんじゃないかと思う。サバービアは放射線を浴びることに対しても耐性があるのだろうか。
もう無事に家に帰ることは考えていない。馬車道は目の前の人物に目を向ける。
この人物は何者なのだろうか。この町に住むことはできないはずだから、自分とチルのように、何らかの目的で外から不当に侵入してきたのだろうか。
「お兄さん、何があったんです?」
その人物はチルを殴り倒した棒を肩に担ぎつつ尋ねてくる。窮地から救われたのはいいが、直前に凶器として扱われた棒にはどうしても威圧感がある。死ぬのはそこまで怖くないが、痛いのは嫌だなぁ。
「見ての通り、突然殺されかけて」
汚れてボロボロの自分の容姿とは裏腹に、その人物の纏っている衣服は洗濯したばかりかのように清潔だった。髪の毛や皮膚も乱れていないのが、むしろ気がかりだった。
「ここは立ち入り禁止区域ってことになってるから、あんまり近寄らないほうが……。健康にも良くないし」
静かに笑いかけられる。なんだかくたびれたような表情をしている。悲哀が漂っていて、そういうところも『フランケンシュタイン』の怪物を連想させる。
「どうしてもここに来なきゃいけなくて」
もし、と馬車道は考える。もしこの相手が信頼に足り得るような人物なら、サバービアを任せてみるのもいいのかもしれない。すべてを打ち明けて、バッグを渡して、チルが乗っていたパトカーに乗って家まで帰ってしまおうか。免許ないけど。
「なるほどね。まぁ、これも何かの縁ってことで。お兄さん」
鉄の棒をこれ見よがしに掲げ、微笑む。馬車道はそれの凹んだ部分に目を向けた。チルが言っていた逃亡犯のことを思い出す。スラップスティックというのは木の板を組み合わせた鳴り物であり、棒ではない。
あの……と手のひらをこちらに向けてくる。名前を尋ねようとしているのだ、と思った。馬車道は答えあぐね、答えの代わりに言う。
「あと、『お兄さん』じゃなくて」
「あ、女性? ですか。すいません、失礼なことを」
申し訳なさそうに頭を掻くのを見る。わざとらしい仕草だが、詫びの意思は伝わってくる。
でも、と続ける。
「でも……あんまりそれって言わないほうがよかったかも」
「どうして?」
「わかってると思うんですけど、ここは……柄の悪い連中の隠れ場になってるんですよ。法の監視が及ばない地区になってるので。無法地帯ですよ。そのうえ、そのなかでもとくに破れかぶれになってるようなのが」
まぁそうなるよね。馬車道は頷く。
「そういう奴らはなにするかわからないでしょう。女子供にだってお構いなしですよ」
女子供ねぇ。自分だったら……少なくとも小説には使わない表現かな。なるほどね、と馬車道は相槌を打つ。
この時点で、どのくらい自分の身体は放射線の影響を受けているのだろうか。今はまだなんともなくても、のちのちに後遺症に苦しめられる可能性もある。それを踏まえたうえでこの町にやってくる、あるいはとどまっていることを選んだ人間は、自分も含めてもう後がないような奴らばかりなんだろう。
「まぁ、どうでもいいですよ。馬車道。乗り物の馬車の、道で。そのまま馬車道」
「珍しい名前ですね」
そんな苗字は実在しないのだが、とくに追求されたり疑問を持たれたりはしない。
馬車道は相手の名前を尋ね返そうとは思わなかった。『フランケンシュタイン』の怪物に名前はない。
「俺は……あの、本名じゃなくていいですか」
「別に無理に名乗らなくても」
彼ははにかみながら自身の着る薄手のサマーセーターに指をさす。ベージュの布に、丸っこいフォントの赤字でHONEYDEWとデザインされている。人差し指でそのテキストを強調した。
「ハニーデュー」
馬車道は発音が正しいか若干不安に思いながら言う。彼は頷いた。
「このセーター、ここで手に入れたんですよ。気に入ってずっと着てて。気づけばこう呼ばれるようになって」
「呼ばれるって、誰に?」
「さっきも言いましたけど、ここに住み着いてる連中は案外少なくないんです。そういう奴らは本名を教えあったりなんかしないですよ。そんな連中誰も信用ならないからね。俺も含めてですけど。あなたもそう呼んでもらえると幸いです。もしその機会があればでいいですけど」
ハニーデューは悲哀に満ちた表情のまま、口角を少しだけ上げてこちらに目配せをしてくる。だろ? とでも言いたげだった。彼は「馬車道」が本名じゃないことも見抜いているのかもしれない。
「呼び方なんて好きに決めりゃいいんですよね。ゲームで自分の操作するプレイヤーキャラに名前を入力するみたいに」
彼は咳払いをする。早口に、次々と言葉を投げかけてくる。これまで会話相手に飢えていたのだろうか。
「まぁ最近はカルトの連中が幅を利かせてて不愉快ですけど。あいつらやりたい放題ですよ。王様にでもなったつもりでさ」
「カルト?」
疑問げに繰り返す。ハニーデューはそれが不可解そうだった。
「知らないってことはないでしょ? あなた、宝探しに来たタイプじゃないの?」
「宝……探しぃ?」
「はい。タルコフスキーの、『ストーカー』って映画があるじゃないですか」
「ええ」
馬車道は曖昧に返事をした。見てない! サブスクの配信はなかったし、DVDはなかなか手に入らなかったし、なにより、仮に見たとしても、タルコフスキーなんて内容が難解すぎて理解できそうにない。さすがにどういう話かは知ってる。
この期に及んでも、いちばん悔しいのは映画の話題についていけないことだ。
「あれは『辿り着けば願いが叶うという噂の部屋』を探しに、立ち入り禁止区域に向かう人たちの話じゃないですか。ここに来る連中はそれと同じ」
馬車道は頷く。ハニーデューは話を続ける。
「カルトの連中が溜め込んでいる価値のあるものをかっさらったり、まだここに町があったころの、現地住民が残していった物品を集めたり。この界隈ではそういうことをする連中のことを『ストーカー』って言って。その映画からの引用なんですけど、これ、俺が流行らせたんですよ。マジな話。作中での用法とは若干違うんですけどね」
彼はストーカーという言葉を、一般的に犯罪のことを表す名詞とは違うイントネーションで発音した。
「つーか、まだそんなことやってんのかよ」
そうするつもりはなかったが、不意に言葉が漏れ出た。
「まだって?」
「あ……。昔この地域が大洪水に見舞われたとき、いろんなものが流れ着いて。バカなガキや貧乏人が、こぞってそういうのを漁ってたんです。売って金を稼いだりね」
「詳しいですね。あ、もしかして、ここ出身?」
馬車道は頷く。
「なるほどね。あなたにとってはある種の帰省なんだ! え、じゃあ、経験あるんですか? この町でなにか価値のあるものを探すの」
「そんなことしてなかった。みじめな気持ちになるから」
「そういうもんですか」
「自分が参加してないパーティーの、後片付けだけやらされてるようなもんじゃない? 私は嫌ですよ。そんなん」
ハニーデューは小さく笑う。
「一理あるー。でも、参加者が食べ残したおいしい料理とか、置き忘れていった財布とか、持って帰れますよ」
「でもそんなの、楽しくないよ」
「楽しくなきゃダメですか?」
「……ダメだよ」
ハニーデューはゆっくりまばたきをする。
「俺、こう見えて学生だったんですよ。映画学校の。卒制で豪戸町のドキュメンタリーを撮ろうと思って、ひとりでロケハンに来たんです。今は24ですけど。」
「あ、年下だ……」
そうは見えない。
「結局この国は歴史の教訓を活かせませんでしたね。無理に原発を動かして、このザマです」
彼が作っていたのは劇映画ではなくてノンフィクションらしいのだが、両腕を広げるその仕草は芝居じみている。
「言えてるね!」
「それを告発してやろうと思って。人が住めなくなって、死体すら片付けないでほったらかしにして蓋をしたこの国の行政の実態をカメラに映してさ。でも、それはもうできなくなっちゃいました」
「どうして?」
「地元民にカメラを盗まれちゃって。事故以降にもひそかにここにとどまってる地元民ですよ。カルトとは別の勢力って考えたらいいですね。放射線を浴びて凶暴化した地元民!みたいな、あはは。かれらは俺たちみたいな『ストーカー』連中が大嫌いなんですよ。なぜかっていうと……」
「この町にはカルトと、現地民と、ストーカーがいる?」
「……あなた、すぐ話に割り込んできますよね。別にいいですけど、人の話は最後まで聞かないと肝心なことを知りそびれますよ。そう。今のこの町の主要な勢力ですね。ゲームみたいでわかりやすいでしょ? 俺の最終目的はケッセイを手に入れること!」
「けっせい?」
また話に割り込んでしまった、と自覚する。ハニーデューは呆れたように微笑む。
「血清! 薬品です。SFじみて……すらないね。どちらかというとじみてるのはオカルトのほうかも」
「血清……」
「カルトが管理してるやつですよ。不死身の生き物を作るための」
「え? というと」
また聞き返されて、いよいよハニーデューは露骨にむっとする。このことについては答えてくれなかった。
「えーっと、そろそろ話戻していいですか。俺は学生のとき、映像を撮るためにここに来たんです。でもカメラを盗まれて。それを取り返すために四苦八苦してるうちに、長い時間が経っちゃいました。それで、いっそここに住んじゃおうかなって」
「どのくらい経ったの?」
ハニーデューは右手でピースサインを作った。
「去年の春ごろに来て、帰れなくなって、24になって……また春になって……もう一年半くらいに」
「そんなに!」
「案外、確立したコミュニティーがあるんで。対価を払えば食事や日用品だって手に入るし、風呂に入ることも、清潔な服を着ることもできて。しだいにこの町での自分の立ち位置を確立していきました。ここら辺をテリトリーにして、骨董屋のハニーデューとして。なんか、ここも案外悪くないなって。どうせ帰ってもお先真っ暗だし?」
「骨董屋」
「そう。レアなものを集めて、ほしい人に売りに行くんですよ。たとえば、こういう……」
ハニーデューは気絶したままのチルのもとへ歩いていく。かがみ込んで、彼女の手元から拳銃を取る。しばらく手に取っていじり、マガジンを取り出した。
「こういうタイプの拳銃って、中の弾の有無が一目でわかるようになってるって知ってました? ほらこれ、空っぽ。弾入ってない。脅しに使ってただけみたいだ」
彼はマガジンを外したチルの拳銃を見せてくる。空っぽの銃にビビり散らしていた自分に恥ずかしくなる。それでも、いちおう本物であることは確かなのか。
次の瞬間、ハニーデューの身体がよろめいた。
気を失っていたはずのチルの腕が動く。ハニーデューの足首を掴んだ。即座に立ち上がりながら強く引くのが見えた。彼の身体がひっくり返る。
「げっ、生き返った!」
気絶していたわりに、今はピンピンしている。
「死んでないよぉ。もっと言えば、気絶すらしてない。したフリをしてただけ」
馬車道は一歩後ずさる。尻餅をついたハニーデューが立ち上がるより先に、チルはコートの内側からなにかを取り出す。手錠だ。素早い手さばきで、彼の腕にカチャリと輪をかける。
「やりぃ! 捕獲ぉ〜!」
反対側の輪を左手でしっかりと握り込みながら勝ち誇る。ハニーデューは腕や身体を揺さぶって暴れるが、なかなか彼女から逃れられない。チルは彼を拘束したまま、コートからなにかを取り出す。酒の入ったタンブラーだ。それを右手に掴み、彼の頭部に向かって勢いよく振り下ろしてみせる。ハニーデューは咄嗟に身をよじってそれをかわそうとした。
コツン、と軽い音がする。チルは直前で力を緩めたらしい。タンブラーの底で、彼の頭を軽く小突いただけだ。
「話聞いてたけど、そのカルトっているのは、いわゆる『チーム』のことでいいんだよね」
「チーム?」
急に立場が逆転し、ハニーデューはうろたえていた。
「この町を仕切ってる集団のこと……。世間の目から逃れるために、連中は特定の名前を持たない。この町の連中は便宜的にそう呼んでるって聞いた」
小競り合いを続けているふたりを尻目に、馬車道は口を挟む。
「その、カルトっていうのは……」
どちらも聞いていない。豪戸町にあった新興宗教法人はあくまで詐欺と金儲けを目的としたケチな組織であって、断じて違法に地域を占拠して支配したり、テロを目論んだりするような感じではなかった。あまり頭のよくない現地住民に、効果のない健康食品やセラピー商品を売りつけたりしたうえ脱税することのみを目的とする団体にすぎなかった。
手錠を介しての格闘が続いていた。その間お互いになにかを言い合っていたが、馬車道はあまり聞き取れなかった。
「じゃあつまり、あんたは団体の構成員とかじゃないと」
「そりゃそうだろ! むしろ逆だよ、あんたこそ違うのか」
蚊帳の外に追いやられつつ、馬車道はだいたい全容がつかめてきたと自覚する。チルは車を降りたときから背後に潜伏する怪しい男のことに勘づいていた。あえてスキをさらしながら大げさに目立った行動をして、彼が近づいてくるのを待った。案の定、彼は背後からチルに忍び寄って殴りつけた。急所を外したのだが、チルはわざと致命傷を喰らったフリをして……その場に倒れた。その間、カルトのメンバーかもしれない男の言動を監視するためだ。
彼女の予測は外れて、ハニーデューは「チーム」なるカルトの関係者ではないとわかった。だから、これ以上敵対する必要はなくなった。自分はハニーデューの注意を引くための芝居に使われただけだったわけだ。チルが本当に追っているのは、個人の犯罪者ひとりといというより、カルトの組織そのものなのかもしれない。
ということだ。まだ気になることはたくさんあるけど、それでこの一件は片付いた。これ以上時間を浪費したくなかった。馬車道はバッグを背負い直して、この場から立ち去ろうとする。
「あら。ちょっと、どこ行くの」
チルがこちらに気づき、口を挟んできた。
「もう行くよ……」
なんでさっき堂々と銃を向けてきておいて、こんなに馴れ馴れしい態度を取れるんだ。
「一緒に行動したらお互いに都合がいいんじゃない、馬車道? せっかく新しい友達がふたりもできたんだし」
こいつには名乗ったつもりはないのだが、チルに名前を呼ばれた。ハニーデューとの会話を聞かれていたらしい。
最終話は9月13日(水)に配信予定です。
筆者について
なみき・どう 1999年生まれ。茨城県出身。大学在学中の2021年、茨城県に暮らす3人の女子高校生の大麻栽培を描いた小説『万事快調(オール・グリーンズ)』(文藝春秋)で第28回松本清張賞を受賞しデビュー。