史上2番目の若さで松本清張賞を受賞した新鋭・波木銅による待望の長編連載、ついに完結!
フード配達員として生計を立てるギグワーカー・馬車道ハタリは、自身の小説を剽窃していた『ニュー・サバービア』作者の自宅で異形のワニ・サバービアとついに対峙した。巨大な力を持ったサバービアが悪用される前に、故郷・豪戸町に帰すことを決意したハタリ。
彼女はサバービアを連れてゴーストタウンと化した故郷を目指す途中、警察官を名乗る謎の女・金城チルと出会う。不本意ながらタッグを組んだふたりは、ドキュメンタリー映画監督のハニーデューから『チーム』についてのある情報を聞かされる――。
【第十二章・ビッグマウス・ストライクス・アゲイン】
「近くに入浴できるところがあって。ちょっと休憩しましょう」
詳しい目的地も決まらないまま、ふたりの話が通じない人物とともに行動をすることになった。ハニーデューなる……着ているサマーセーターにデザインされた文言をそのまま名乗っている青年はそう言った。チルをしばき倒すのに使った鉄の棒を今も持っていて、ときおり進行の邪魔になる小枝やゴミをそれで弾き飛ばしている。
別にどうしても風呂に入りたいわけじゃないし、むしろ億劫だった。馬車道はハニーデューからのその提案を断るつもりだったが、彼は入浴を強く勧めてくる。
「いつでも入れるわけじゃないんで。それに、休めるときに休んだほうがいいですよ」
「そう?」
「いつ死ぬかわかったもんじゃないんだからさ。どうせ死ぬなら、風呂入ってから死んだほうが幾分はマシだと思うんですよ」
「それは確かに……」
「私もそう思うよぉ。とくにあなたは」
チルも口を挟んでくる。ふたりともそう言うなら……。意思を変えようとしたつかの間、彼女はさらに言葉を加えてくる。
「自分では気づいてないだろうけど、見た目も匂いもゴミ屋敷の主人そのものだからね」
馬車道は苦笑を浮かべる。
「それは困ったな……。じゃあ、そうするよ」
サバービアもずっとバッグに入れっぱなしだったし、ついでに洗ってやるか。こいつにとってそれが良いことなのかはわからないけど。
そのままハニーデューの後に続いて、住宅地の中の一軒家に案内される。
昔この町に住んでいたころには立ち入ったことのないエリアだった。どうせなにもないし。ところどころに損傷がみられるが、今もたしかに生活感がある。誰かによって清掃や整備がされた跡が見受けられる。
そこに建っていた一軒家は、外装や内装、生活感に満ちた部屋の中の匂いまで、驚くほどなんの変哲もなかった。かつてここに住んでいたであろう、郊外住みの中流家族の退屈な暮らしの息遣いまでが感じられるほどだ。掃除も行き届いている。
ここはハニーデューら、外から資源を求めてやってくる『ストーカーズ』にとってのベースキャンプみたいなものらしい。風呂とか、宿泊のための部屋とか、金さえ払えばスペースを貸してくれる。
部屋は明るい。少なくとも、ここには電気も通っているらしい。
ハニーデューは玄関口にいる、家の管理者らしき人物となにやらやりとりを交わしていた。馬車道たちは中に案内される。
一軒家の管理者は若い人物だった。私服ではあるのだが、退屈そうで畏まった態度から、仕事中という感じがする。あくまで業務としてここを管理しているのだろうな、と馬車道は考える。
その人物の顔に目線を合わせる。なんか見覚えがあるような……。
「あの、もしかして……」
向こうから声をかけられた。声を聞いてはっとする。
「ガラム……」
「はい?」
馬車道は思わず呟いてから、はっとする。別にそういう名前で呼んでいたわけではなかった。それはさておき、近所でフードデリバリーをしていたときの同業者そのものだ。こんなすぐに再会するなんて。
ガラムは人差し指を向けてきながら、興奮混じりに言う。
「違ったらごめんなさい、あれですよね、『ペガサスデリバリー』の配達員やってた……」
馬車道は頷き、言う。
「すごい! こんな偶然ってある? あ、たしか、就職先決まったって……」
正直な話、ガラムのことなどすっかり忘れていた。今さっき目を合わせたのをきっかけに、記憶がとめどなく溢れてくる。あの頃はよかったなぁ。少なくとも死の危険を味わうほどの怪我なんて負わなかったし、ツラくて貧しいなりに平穏だった。きっともう、元の住処に帰ってこられたとしても、前のようには生きられないだろう。
「それがこれです。こんな場所での勤務になるなんて、聞いてなかったんやけど……」
ガラムは歯切れ悪そうに言う。
「ん? 仕事なんですか、これ?」
「そうなりますね。表向きは清掃業者です。就職決まって、研修終わったら次の日にはここに飛ばされてて。金のない若者を騙して、危険地帯で働かせるってことですね。金はもらえるけど泊まり込みでこんな仕事やらされて、どうすりゃいいんでしょうね」
ガラムは自虐じみた笑みを浮かべた。
「大丈夫なんですか、それ……」
「大丈夫じゃないかも。面接受けた時点で、あっこれ関わったらダメなやつだな、って理解しないといけなかったってこと。世の中そういう形で回っとるから。完全にウチの過失ですわ」
これまで背後で黙っていたハニーデューが会話に割り込んでくる。
「搾取された者の終着駅ですね。ここは」
それには反応せずに、ガラムはふたたび馬車道に問いかける。
「そういえば……あなたこそ、なんでこんなところに?」
ガラムは馬車道がこの期に及んでデリバリーのバッグを背負っていることを怪訝に思っているらしい。
「配達じゃないんですけど、ちょっと用事があって。えっと、ここ、地元なんです」
「マジで! 生活成り立たんでしょ、こんなんじゃ」
「そのころはまだ普通の町だったから……。事故も起こってないし」
「あっ。そっか」
馬車道たちのほかに人影は見えない。ガラムは家の中の風呂場に案内してくれた。
風呂トイレ別の広い風呂場! 馬車道は脱衣所に入る。この町で服を脱いで無防備になるのはあまりに危ないかもしれない。
適温の湯を浴び、安っぽいシャンプーとボディソープで全身をくまなく洗う。それだけでかなり気分が良くなった。自分が思いのほか消耗していたことを自覚する。全身にあるおびただしい傷口や怪我の痕が水に染みることを懸念していたが、ほとんど痛みは感じない。
さらにハニーデューはタオルと新しい衣服を分けてくれた。下着はさすがに新品を用意できなかったらしいけど、汚れていないシャツに袖を通すと気分はわりとマシになる。身なりを整えてから、脱衣所に置いていたバッグの中からサバービアを出す。戯れにバスルームの中に放して、シャワーで水をかけてやった。信じられないくらい黒々とした水が排水溝に流れる。水を浴びせてもいっさい反応はない。喜んでるのか嫌がってるのかもよくわからなかった。
風呂から上がる。だいぶ身体が軽くなったような気がした。チルたちの待機するダイニングまで戻る。このあと彼女らもバスルームを利用するつもりらしい。あーごめん。ワニ洗ったあとだけど大丈夫ですか……?
「こんなときくらい、カバンおろしたら?」
風呂上がりにもバッグを背負っているのを、チルに揶揄される。
「いや……いいよ」
「よっぽど大事なのね」
この地域でどれだけ現金が意味を持つのかよく分からなかったが、手持ちぶんの料金で部屋を一日分借りられた。二階の角にある小さな部屋だ。たぶん元は子ども部屋だったんだと思う。部屋には当時としても時代遅れなブラウン管テレビが置かれている。電源を入れてみるが、さすがになにも受信できない。
台の下にプレステ3がある。コンセントをつなげば起動できそうだ。子ども部屋に置いてあったのがそのままなのか、宿泊者のヒマつぶしのために用意されたものなのか、とにかく、戯れに電源を入れてみる。本体には『ラスト・オブ・アス』のゲームディスクが挿入されていた。終末世界を舞台にしたアクションアドベンチャーゲーム……。ここにあるのはちょっと不謹慎だ。
幸いなことに、部屋には鍵がかけられる。小さくて殺風景な部屋の中にいると、なんだか久しぶりに帰省して実家に帰ってきたかのような気分になる。壁紙は経年劣化とヤニで黄色く黄ばんでいる。この部屋では喫煙を禁じていないようだ。部屋の隅に置かれたカラーボックスには、数冊の書籍が立てかけられている。
『美味しんぼ』の111巻だけある。それの隣にあるのは……『スケルトン占い・入門編』。嘘だろ? あのインチキ占いはこんなところまで侵食してきてるのか! 唖然とする。
残りの三冊はすげー俗っぽいペーパーバックのコンビニ本だった。仮に死ぬほどヒマだったとしても開くことはないな、と馬車道はそれを手には取らない。
テレビを消して、ひさしぶりに屋根の下でゆっくりと横たわる。念の為に電気はつけたまま、身体の力を抜いて目を閉じる。部屋にベッドは置かれていない。清潔でないカーペットの上でも、案外悪くはなかった。
ただ、全身にいまだ残っている痛みと疲労のせいなのか、ぜんぜん眠れはしなかった。いくら待っても眠気を感じなかったから、いつもと同じように……横たわりながら空想に耽ることにする。『ペイルランナー』の次に、金城和はどんな小説を発表するのだろう。彼女はきっと、いや、必ず、ホラー小説の歴史をぬりかえる。『ペイルランナー』は確実に映画化されるだろう。監督やキャストを予想してみるか。
翌日、ハニーデューは挨拶もなしにどこかに行ってしまったようだった。別に探しに行こうとは思わない。
馬車道たちは一階のリビングルームにいた。ソファーに座りながら、ガラムから一杯六百円で提供された缶コーヒーを飲む。
「夜中に出てっちゃったみたい」
「なんでわざわざ?」
チルも同じく、この家のどこかの部屋で眠っていた。
彼女はハニーデューの脈絡のない行動に疑問を感じているようだった。夜は冷えるだろうし、リスクもいっぱいなはずだ。そもそもここで一夜を明かそうとしたのも、できるだけ夜間の行動を控えることが目的だった。
「パンとかあるみたいだよ。あと酒もね! 金かかるけど」
チルは惣菜パンを頬張っている。ここでは食料品の販売も行っているようだ。チルは膝に五つほどパンの袋を乗せつつ、パンをウイスキーで流し込んでいる。
「私のはわけてあげないけど、なんか買って食べたら?」
風呂にも入れて、寝るところもあって、食事も手に入るんだったら……ここでの生活も悪くないと考える者も少なくないのかもしれない。税金もかからないし。
「いや、いいや。なんか、ぜんぜんお腹空いてない」
事実だった。一日なにも口にしていないが、馬車道はまったく空腹を感じていなかった。喉は渇くのだが、ささやかな食欲すらも覚えない。疲れすぎているのだろうか。
「ふーん。燃費いいのね」
「タバコとかもありますけど」
ガラムはキッチンの下にあるキャビネットにかがみ込む。そこに商品が入っているようだ。とくに施錠や警備はないようだから、やろうと思えば物品を盗み出すこともできるんじゃないかと思う。これまで誰もそうしようとは考えなかったのだろうか。この町でこんな、モラルを前提とした商売が成り立つものなのだろうか。
湧き上がる疑問はキリがないが、とりあえず言う。
「じゃあ『プラシーボ』あります?」
「ない。そんなのこの世であなたしか吸ってないですよ」
ガラムは代わりの銘柄をいくつか手に取って見せてくれる。馬車道はマルボロを一箱買うことにした。物販もやってるなら、なにも買わないってのもなんか申し訳ないし。
「千五百円っすね」
「はぁ⁉︎ なに言ってんの!」
「千と、五百円です」
「私が知らない間にインフレした?」
「豪戸町価格ってことで。わざわざ他の地域からここに持ってきてるんですよ。トラックで。あの、気持ちはわかるんですが、ウチが価格決めてるわけじゃないんで……。やめときます?」
ガラムは申し訳なさそうに苦笑する。
「やめないよ……。足元見るよね。生活必需品の値段を釣り上げるのっていちばん邪悪だから。カルト宗教より悪質だよな。くたばれ、資本主義」
「ところで、あの人のことなんか知らない?」
チルはガラムに問いかけた。どういうわけか、彼女はハニーデューの動向が気になっているようだ。
ガラムはすぐに答えた。
「なんかこういうこと、たびたびあるみたいで。あの人が、じゃなくて、全体的な傾向として」
ガラムはタバコの煙をくゆらせながら淡々と語る。「ガラム」特有の甘い匂いが部屋に充満する。
「こういうこと?」
「なんの脈絡もなくフラーっといなくなっちゃうんですよねぇ。彼に限らず。この町にいる連中はよく。だから前払いなんですけど」
チルは釈然としなさそうだ。
「異常な町ですからね。そういうものだと割り切るのが一番楽ですよ」
ハニーデュー本人よりも、町そのものに理由を求めるようなガラムの口ぶりがなんだか不可解だった。
「あなた、これからどうするの?」
チルが尋ねてくる。
「この先の道路をずっと歩いたところに原発の跡地があって。そこに行く」
とくに出まかせや誤魔化しに頼ることはせず、正直に答える。
「そう。私もついていっていい?」
「ええ……。どうして」
「私もそういう、人が寄りつかなさそうなところを散策したいから」
「スラップスティックは?」
彼女が追っているらしい凶悪殺人犯だ。
「そいつはついででいいよ」
「あのさ、ハニーデューが……たぶんスラップスティックだよ」
だから彼は突然いなくなった。
「そう。まぁ、だとしてもあとでいいよ」
いいの?
ガラムのいる一軒家を後にし、町を歩きはじめる。土地勘がまだ働く。原発のあるエリアまでの順路は難なく理解できる。誰かと遭遇することはなかったが、ところどころに新しげなゴミやら吸い殻なんかが落ちているのを見かけた。たしかに、人がいる痕跡がある。
「ここらへん、自転車で走れたらどんなに気持ちいいかって」
言葉にするといまだに切なくなる。道路には雑草が生い茂っていて、アスファルトもボロボロだ。きっと快適なサイクリングにはならないだろうが、あえてこの荒地を走り回ってみたい。
「バイクでいいじゃない?」
「じゃあお前も刑事じゃなくて医者になればよかったね!」
途中で会話を交わしたり座り込んで休憩を取ったりしながら、馬車道たちは歩き続けた。相棒が銃を持った話の通じないおばさんであることを除けば、ロードムービー然としていて悪くない。崩壊後の世界をほっつき歩いていると、昔読んだ小説を思い出す。『ザ・ロード』だっけな。マッカーシーの。あいつがその小説を好きだったはずだ。あいつ……『ニュー・サバービア』の作者。お前は小説を書くことについて、マッカーシーからもっと多くのことを学んでおくべきだったな。
上空に大きな雲が立ち込めていて、夜にはまだ早いがやや薄暗い。雨が降りそうだ。
馬車道とチルはふと足を止め、互いに顔を見合わせた。
「なんだろ、これ」
とてつもなく強い異臭が漂ってきて、馬車道は眉をひそめる。なんか、最近感じたことがるそれと似ている……あれ。人の死体。
「ちょっと、調べてみてもいいかな」
チルはこれまでのぼんやりとした態度を改め、深刻そうな顔つきになった。馬車道はそれに気圧されて思わず頷いてしまう。馬車道に先導される形で、袖口で顔を覆いながら先へ進む。やがてたどり着いたのは、コインランドリーの跡地だった。この店舗にも見覚えがある。ここは当時から廃屋になっていて、それが営業していたころを馬車道は知らない。
「ごめん、ちょっと、吐きそう……」
腐敗した感じの悪臭はそこに近づくたびに強くなっていく。馬車道は耐えられなくなって、その場にうずくまる。
「お風呂入る前のあなたもこんなもんだったからね」
「そんなこと……エッ!」
言葉を言い切る前に嘔吐してしまう。しばらく何も食べていないから、色のついていない粘ついた液体が漏れ出た。馬車道は情けなさに消沈した。
「平気? 深呼吸して、深呼吸……ってダメか。深呼吸なんてしちゃダメだよ!」
チルが背中をさすってくる。なんでこんな状況で笑えるんだ。彼女はそのままコートの中からタンブラーを取り出して、中身をごくりと飲み込む。
「アルコールはあらゆるネガティブな感覚を遮断してくれる……嗅覚さえ」
「無茶だよ……」
馬車道はゆっくり立ち上がる。背中を押される感覚がした。背負ったバッグの中で、サバービアが身体を動かしている。これまで、こんなに活発な動きをみせることはなかった。この匂いを嫌がっているのか、それとも、「ご馳走」の匂いに興奮しているのか。ワニはそれなりに嗅覚の長けた生き物であるらしい。
チルはランドリーの入口に近づいていく。自動ドアは当然反応しない。チルはしばらく入口の前に立ってから、踵を返す。コンクリートのブロック片を拾ってきた。おそらく、駐車場にあったタイヤ止めの縁石だ。
「よっ!」
それを自動ドアのガラスに叩きつける。ガラスは音を立てて割れた。枠に残ったガラス片を蹴散らしながら、チルは店内に入っていった。馬車道もその後についていく。
「ね、ちょっとまって」
馬車道は先行するチルの肩を掴んで呼び止めようとした。しかし、チルは素早い歩みで奥へと進んでしまって、触れそこなった。馬車道の言葉は彼女に届いていない。
なにか重要なものを見つけたように、チルは一点を見つめながら店内を進む。それなりに敷地の広いランドリーだったようだ。二十台ほどの洗濯機と乾燥機が列をなしているほか、部屋の中心には洗濯物を畳むための広いテーブルがある。
「これ」
チルは床を見下ろした。
馬車道はふたたび吐きそうになる。しばらく涙目になりながら地面を眺めたのち、意を決して起き上がる。チルが見下ろす地面に目を向ける。
直視しがたいむごたらしい死体がそこにあった。目に見える腐敗はさほどなく、まだ原型をとどめている。頭部がぐちゃぐちゃに損傷しており、赤黒い傷口に小さい虫の群れがおびただしくたかっている。それをきっかけに、店内じゅうに無数の小虫が群れていることに気がついた。反射的に鳥肌が立つ。チルは平気なようだ。
「おっ!」
馬車道はふいに声を上げた。床の死体を見つめていたチルが、どうしたの? と振り向いてくる。なんでもない、と手を振る。
サバービアが暴れている。今にもこの狭いバッグの中から抜け出そうともがいている。背中でガタガタ鳴っている。幸い、チルはそのことに勘づいていない。死体の分析に集中しているようだ。
死体は右手になにかを握り込んでいて、それの先端を自分の口に押し込んでいたようだった。拳銃を自分の口に押し込んで発砲したらしい。
「見てらんないね」
「これ、ジョージローだよ」
ジョージロー……って誰だっけ。一瞬考えて、すぐに思い出す。そうだ。チルの、この町でいなくなった相棒の刑事だ。写真を見せてもらったことはあった。しかし、この死体は警察官の制服を身に纏っているわけではなかったから、彼であるとは気づけなかった。
「それなりに時間が経ってるみたい。そうそう、ジョージローは明るくていいやつで、あんまり人生を諦めるようなやつじゃなかったんだよぉ」
悲しんだりとか、驚いたりとかはしない。チルは足首をぶるぶるさせて自分の靴に這ってきた蛆虫を払いのけながら、わりと淡々と言う。
「せっかくお風呂入ったのに、また嫌な匂いが染み付いちゃったね。ごめんね」
「別に……」
そんなことは別にいいんだが、えっと、あんたの相棒は……。
うまく声が出せなかった。
「外に出よう。さすがに私も気分悪くなってきた」
「あっ!」
そうだね、と同意しようとするものの、背中に感じた強い感触に阻まれた。バッグの中でサバービアが激しく身体を揺さぶったようだ。振り回されるような形になって、彼女の身体は横転する。
酷使したデリバリーバッグはついに限界に達し、側面から短くて太い、黒い後ろ足が突き破ってくる。横倒しになったバッグの中から、サバービアが這い出てくる。
「なにそれ?」
「あ……」
慌てて立ち上がり、サバービアをバッグに戻そうと試みる。もうとっくに手遅れだった。肩紐はちぎれて、ナイロンの布地はもうズタズタに破られてしまっている。
そして、チルはサバービアを目撃して、目を見開いている。
「ペットの……ワニだよ」
バッグの中から解き放たれたサバービアは、俊敏に床を這った。『ニュー・サバービア』の作者のウクレレの音を聞いたときのように、目で追えないくらいのスピードで脚を動かす。まるで地上を「泳いで」いるようだ。
サバービアはチルに向かって飛びかかる。彼女はとっさに身をよじり、洗濯機の影に身を隠す。サバービアは深追いしない。というより、狙っていたのは彼女ではなかった。
サバービアは腐敗したジョージローの腕に食いつき、たかった虫もろとも肉を食いちぎる。
「あっ!」
チルははじめて動揺を露わにした。
しばらく顎を開閉させて、すぐに飲み込んだ。ワニは腐肉を食べることもあるが、べつだんそれを好むわけではない。種にもよるが器官のなかではそれなりに味蕾も発達しているらしく、味を感じて判別する能力もあるらしい。
こんなときに考えることじゃないね。馬車道は自分の唇を強めに噛む。いちばん起こって欲しくない事態に直面して、思わず現状から目をそらしたくなった。
「逃げて!」
馬車道は叫び、ランドリーの外に出ようとする。前のめりになって転んだ。蛆虫の群れを踏んで滑ったのだった。何から何まで、最悪すぎる……。
これまでおかしいくらいおとなしかったことのほうがむしろ不自然だったのかもしれない。サバービアはまさに捕食者然とした目をこちらに向けてくる。
馬車道よりもチルのほうがサバービアに近い。案の定、サバービアは興味を死体からチルに移したようだった。たぶんだけど、死体より生きてる人間のほうが旨いんだと思う。
この隙にチルを見捨ててこの場から逃げることもできた。でも、善人を気取るわけじゃないが、そうすることもできなかった。
チルが乾燥機の影に隠れながらコートの内側から銃を取り出すのが見えた。それを構えながら素早く物陰と物陰の間を移動して、サバービアから距離を取ろうとする。あいつの姿が見えない。サバービアは俊敏にどこかに身を潜めたらしい。日が落ち始めていることもあり、もともと黒い身体をしているそれは目視が難しくなる。
「あ、危ない!」
馬車道は声を上げる。サバービアはテーブルの下にいた。
「下! テーブルの下だ!」
チルはテーブルの隣にある乾燥機の側面についたドアを開け、それに足をひっかけて飛び上がった。乾燥機の上に乗り、サバービアから距離を取る。馬車道のそばまで近づいてくる。
「あのさ、あれ……」
チルはこちらのことを探すようにうろつくサバービアに銃口を向ける。まだ気づかれてはいない。視界から逸れたら見失ったようだ。
すさまじい音を立てながら、洗濯機や壁に食らいついたり身体をぶつけたりしている。数台の洗濯機はぐしゃぐしゃに破壊されてしまった。とんでもない顎の力だ……。正直惚れ惚れするが、今はそれどころじゃない。
「ごめん! 後で話すよ。とにかく今は……」
「わかってるよぉ。あれは『リコリス』でしょ。どうりで大事そうにずっとカバン背負ってたわけだ」
チルはなにかに納得した様子だが、馬車道には理解できない。
「り、リコ……?」
そんな場合じゃないとは百も承知だが、詳しく聞き返したかった。
サバービアはジョージローの腕を一欠片かじっただけで、それ以上は食らおうとはしない。ワニはめちゃめちゃ大食いなわけではなくて、人間をまるまるひとり完食してしまうようなケースは稀らしい。ワニはけっこうな人数を殺しているが、死因のほとんどは水中に引きずりこまれたことによる溺死だとか。
ただサバービアはワニじゃないし、ここは水中でもない。
外はだいぶ暗くなった。黒い身体が影にまぎれて、どこに潜んでいるか検討がつかない。出口は十メートルほど先だ。気づかれないようにそっと歩けば、ここから抜け出せるはずだ。
進行方向にキャスター付きの洗濯物カゴがある。馬車道は音を立てずにそれをそっと転がす。
直後、ガシャンと激しく響いてカゴが崩れた。サバービアがそれに食いついた。一瞬でぐちゃぐちゃにしたのち、ふたたび馬車道たちを探すためにウロウロする。
「なんかこれ、ジュラシックパークみたいじゃない?」
チルはその場に相応しくない軽口を叩いた。
「あ、奇遇……まったく同じこと言おうと思ってた」
「こんなときにふざけたこと言わないで。あんたが蒔いた種でしょう」
「えっと……たぶん、サバー……あの生き物は、見た目はワニだけど生態はぜんぜん違うんだ。目も見えてないし、嗅覚も強くない。かといって、耳がいいわけでも」
「音波でしょ」
「えっ」
馬車道は息をのむ。今から言おうとしていたところだ。『ニュー・サバービア』の作者が言うには、サバービアは音波で制御できる。音波ってなんだ?
「なんでそれを」
「話はあとで! 早くしないと私たちふたりともぐちゃぐちゃになって死んじゃうよ」
混乱のさなか、馬車道はなにかの音を聞く。
「ウクレレだ……」
「はい?」
「ウクレレの音しない? なんか、そんな感じの」
「ぜんぜんしないよ」
サバービアは床を這って部屋じゅうを動きまわるのが分かる。馬車道たちは音を殺しながら、ゆっくりの出口の方向へ歩みを進める。じっとしていると全身に虫が這ってきて、身もよだつ思いをさせられる。
「今日はワニと虫の日だ」
「静かにっ。お喋りも大概にして!」
チルは左手に握った銃の先端で馬車道を小突く。サバービアはこれくらいの物音には反応を示さないようだ。聴覚はたいしたことがない? 音波を感じ取るのと、物音を聞き取るのはまた別の話なのだろうか。
体感よりも長い時間が経っていたらしい。すっかり日は落ちて、電気のついていない室内は一メートル先も目視することが困難になる。
「えっ」
自動ドアあたりまで近づいたときだった。いつの間に先回りされたのか、足元にサバービアが鎮座しているのを見た。一瞬目があったつかの間、馬車道の右足に向かって飛びかかってくる。
馬車道はとっさに後ずさった。背中を洗濯機にぶつける。
サバービアはしっぽを揺らしながら、テーブルの脚をとっかかりにして飛び上がる。跳躍はたいしたもので、首筋あたりに飛びついてくる。そのまま顎を開いて閉じる。痛みと衝撃に身悶えするが、声を出すこともままならない。
「嘘っ」
チルがたじろいでいるのが見える。サバービアに噛みつかれたまま、馬車道はその場をのたうち回る。壁や洗濯機に何度も身体を打ちつけた。
チルは手元の銃を確認してから、銃口をこちらに構える。馬車道は朦朧とする意識の中、窓の外を指さした。自分を置いて、ここから逃げ出すことを指示したつもりだった。もとはといえば自分が起こした事態だ。いくら話の通じない人物とはいえ、ここまで酷い目に遭う道理はないだろう。それに銃で撃ったとて、サバービアは止められない。
「じっとしてて!」
こちらの意思は伝わらない。チルは腕を伸ばして、サバービアに狙いを定める。馬車道にはどうすることもできなかった。サバービアは肉を引きちぎらんと首筋に噛み付いたまま身体をしきりに捻り回す。牙が皮膚と肉を突き破るのを感じる。腕を振り回して引き離そうとするのだが、よけいに深くしがみつかれるだけだ。
馬車道はその場からひっくり返って頭を打ちつける。発砲の音を連続して聞いた。激しい耳鳴りがする。
チルはリボルバーに込めた銃弾をすべて放った。六発の弾はサバービアにかすりもせず、あまつさえそのうちの一発は馬車道の身体に命中した。銃弾は肋骨を貫き、心臓を打ち抜く。
「なんで……」
「あっ、ごめん! 外した」
痛みはない。というか、痛みを感じる暇すらない、といった感じだった。
気を失う直前、馬車道は自身の死を自覚した。
【第十三章・冬眠】
馬車道が目を覚ましたとき、彼女はベッドの上に横たわっていた。強い寒気を感じて反射的に手元に毛布をたぐりよせてから、状況の不自然さを自覚する。
目を見開き、布団から起き上がる。昨日眠った一軒家とか、自宅の寝室とかではない。なんだか病室に見える。入院したことなんかないけど、そんな感じがする。よく見ると、腕に針が刺さっている。それはベッドを通る管につながっていて、管を辿ると血液の溜まったパックを見つけた。血を抜かれているのか、与えられているのか、どっちなんだろう?
それはさておき、馬車道は完全に覚醒した。とたんに自分の身体に接続された管を不気味に感じる。引き抜こうとしたが、うまく力が入らない。
部屋の奥に扉が見える。なにがなんだかわからないが、自分はここから出て、その扉をくぐるべきだと、少なくともこの得体の知れないベッドの上にとどまっているべきではないと思う。
そのために起きあがろうとするが、脚はまったく動かない。しばらくベッドの上でもがいていた。
何者かが扉を開けた。誰かが部屋に入ってくる。
「馬車道! やっと起きたんだ!」
「チル……?」
「ちょっと待っててね」
彼女の顔をよく見る前に、チルはふたたび外に行ってしまう。確かにチルだった。なんであんたもここにいるの?
チルはすぐに戻ってくる。彼女はトレイを持ってきていた。その上にはパッケージに入ったロールケーキと、タバコの箱とライター、ペットボトルの水がそれぞれ置かれている。タバコは『プラシーボ』の銘柄、ロールケーキは豪戸町のローカル店のものだ。地域の名産品のメロン果肉が中に入ってるやつ。顔の近くにそれを置かれ、馬車道は水のボトルに手を伸ばす。横たわったままそれのキャップを開け、中身を口に含む。
チルはその様子をじっと見ていた。水のおかげか、少なくとも身を起こすことはできるようになる。馬車道はベッドの上に座り込んだ。
「どうなってるの? これはなに? ここは?」
「まずは落ち着いて」
彼女はトレイに指をさしてくる。少なくとも、ロールケーキに手をつける気にはならなかった。タバコの箱の中から一本を抜き出し、ライターで火をつける。少しだけ落ち着いてきた。
「この点滴はなに? 私はどうなってるの? あなたは? ねぇ、教えてよ」
「えっとね……ちょっと待っててね」
またチルは部屋を出て行ってしまう。すかさず追おうと思ったが、立ち上がることもままならなかった。脚はまだ満足に動かせないというか、まるで感覚がない。
自分の置かれている状況を、記憶を頼りに整理してみることにする。
私はサバービアとともに豪戸町に出向いて、サバービアをウクレレの音を介することによって操り……壊滅状態の町を生き抜いた。警官のチルやドキュメンタリー映画監督のハニーデューなんかとも出会って、三人で、町にある宝を探して……。
馬車道は強くまばたきをした。そんな事実はない。ただあてもなく歩き回ったあげく、死体を見つけて、サバービアを制御できなくなって、それに殺されかけた。事実はそれだ。なんでそんな、ありもしない空想が頭をよぎったんだろう。
チルは灰皿を用意してくれなかった。やむを得ず、トレイにタバコの先端を押し当てて火を消した。座っているより、ベッドに横たわっていたほうが楽そうだった。でも、もうこれ以上眠りたくはなかった。
チルはまた戻ってくる。今度は、彼女のほかにもうひとり誰かを連れてきていた。馬車道には面識のない人物だ。自分と同じくらいの年齢の、女? 彼女は馬車道の姿を認めると、にっこりと笑顔を浮かべる。白衣を着ているのだが、オシャレにカールしたブロンドの髪はぜんぜん医者っぽくない。せいぜい、医者のコスプレをしてるやつにしか見えない。
「ハタリ! よくここまでたどり着いたね」
「お前は誰だよっ! ゲームのラスボスみたいなことほざきやがって」
白衣の女は微笑んだ。
「実際そうかも。……やっぱハタリ、ぜんぜん変わってないね。あの子が小説に書いてたのとそっくり」
あ。
「ハスミン? お前、もしかして、ハスミンか?」
思わず口にしてから、記憶が混濁しているな、と思う。だってハスミンはもう死んでるんだからさ。
「うん。サバービアもいるよ」
ハスミンはくるりとその場で回転し、背中を向けた。親におぶわれながら眠る子どものように、小さくて黒いワニがしがみついている。
「あー……」
これあれだ。死ぬ前に見る夢か。これまで出会ってきた連中が軒並み登場する、カーテンコール的なやつ。
「カルトとか、どうなったの? あんたが追ってたやつ」
馬車道はハスミンのとなりにいるチルに問いかけてみる。これは一種の走馬灯にすぎないとみなしたうえで、答えを聞いてみよう。
「幹部の立場にあるものは私が全員殺した。もう壊滅したよ。あんたが寝てる間に」
「ふーん。そりゃあいいね」
あんだけ伏線を貼っといたのに? 具体的な描写もいっさいなしに、たった一言の台詞で終わらせちゃうの?
「あんたが言ってた思わせぶりな言葉は? 音波とか、リコリスとか、あと……いろいろ」
えっとね、とチルは前置きを入れた。彼女はハスミンと顔を合わせ、しゃべってもいい? と確認を入れている。ハスミンは頷いた。
「あれでしょ。あなた、工事現場でブルドーザーとかショベルカーから逃げ回ってたでしょ」
馬車道は頷く。
「クレーンの鉄球も!」
「信じられないだろうけど、あれは、何者かが操ってたの。遠いところからね」
「ずいぶん断言するね」
その様子を見ていたのだろうか。何台もの重機を、遠隔で精密に操作する手段なんて思い浮かばない。今はそういう装置やシステムがあるのだろうか。工事現場のことなんてなにも知らなかった。
「それが音波。超音波のようなものを飛ばして……私たちは『音波』って呼んでるんだけど、厳密には違うものなのかもしれない。それはさておき、何者かはその音波を飛ばすことで重機を操って、あなたを殺そうとした」
「……はぁ。なんかよくわかんないけど、超能力みたいなものがあるの? マジで言ってる?」
話の要点がよくつかめない。結局のところ、彼女はなにを言いたいのだろう。ストーリーも最終盤に差し掛かったところでこんな新しい概念が持ち出されるなんて、プロットがいびつにもほどがある。まだ主人公のキャラすら立っていないというのに……。
「そう。そう考えて差し支えない」
「殺そうとって……」
「心当たりある?」
サバービアが反応するのも音波だ。
「別に……」
「豪戸にはそういう人間が、要するに音波を操れる連中が現れた。例の爆発事故以降ね。そういう人間をひとり残らず処分するのが、私に与えられた仕事だった」
「スラップスティックは?」
「あれはついで」
馬車道はふたたびペットボトルに手を伸ばす。
「あ。あれだ。水をさ、いきなり沸騰させたりとかもできるのかな?」
ボトルを振りながら言う。
「見たことないけど、やろうと思えばできるんじゃないかなぁ。人によると思う」
「いたよ。水を沸騰させるのが得意なやつ。相手の血液の温度を急激に上げて殺すこともできるんだ」
一歩後ろにいるハスミンが口を挟んでくる。
「ちょっとまって。その、音波で重機を操れるやつがいたとして、うん。で、なんでそいつは私を殺そうとしたの?」
「それはもちろん、あなたが連れてたこの子」
チルはハスミンの背中にしがみつくサバービアに指をさす。
「はい?」
「誰かによって情報が漏れたんでしょう。『チーム』の連中はこいつのことを探してた。メンバーはおもに豪戸の現地民だからね」
「はい?」
「リコリスの被験体を逃しちゃったのは連中のミスだったみたいだね。あなたたちがサバービアって呼んでたのが、それ。もとは縁日で売られてたワニの赤ちゃんの売れ残りだった」
「はいぃぃぃ?」
「ジョージローも私と同じ仕事を任されてた。豪戸町を対象にしたカルトの壊滅と『音波』についての調査。でも、あいつは音波にやられちゃった」
ハスミンが会話に割り込む。
「音波で相手の脳に干渉して、自殺願望をとてつもなく高める。そういうことが得意な奴がいたんだ」
「なんでもありじゃん。田舎のエックスメンかよ」
「うん。ぼくもその『なんでもあり性』のおかげで生き延びたからね。ハタリたちに、川の底に捨てられても」
「えっ!」
「もう怒ってないよ。最初はひどいと思って……復讐してやろうと思ったけどさ。ぼくは街よりも、ここにいるほうが好き」
自分の過ちを正当化し、トラウマを解消するための自己防衛だろうか。この夢の中のハスミンは、そんなことを言う。
「サバービアはリコリスの宿主だからね。噛み付くと同時に自分の血液を相手に注入するんだ。大抵の生き物はその拒絶反応で死んじゃうけど、ごく稀に生き延びるのがいる……不死性と類いまれな能力を身につけてね。リコリスの血清の原液を取り入れてることで」
「は? は? はい?」
「ミス羽純ぃ。彼女はリコリスのことはまだ知らないみたいだから……」
チルはハスミンのことを嗜めたようだが、馬車道にはなんのことだかさっぱりだ。というか、いつの間にかに仲良くなっている。このふたりに接点なんてないはずなのに。
ミス羽純ね……。ミス・ハスミ。回文だ。ハスミンよりもいいあだ名かもしれない。
「あっ、そっか! ごめんねハタリ、今説明するから」
「またぜんぶ台詞で説明しちゃうの?」
「視点人物をぼくにして、時系列をズラして回想形式で語ってもいいけど」
「いや、いいよ……。これ以上めちゃくちゃにしないで」
ハスミンはまた背中を見せる。おぶったサバービアをこちらに見せてくる。
「ぼくたちが最初出会ったときにはもう、この子は死んでたんだよ」
「はぁ」
「ワニとしての身体はもう死んでるってことで、伝わるかな。不死身なんじゃなくて、逆に、すでに死んでるんだ。だから死なないの。ぼくたちも似たようなもん」
触ってみて、とハスミンが腕を差し出してくる。脈か? 馬車道はハスミンの手首に指を這わせてみる。たしかに冷たくて動きも感じないけど、まぁ、夢だしなぁ。
「今のぼくの身体には、半分くらい血の代わりにリコリスが流れてるんだ。要するに、五十パーセントだけサバービアと同じ身体になってるっていうか」
「じゃあハスミンはあれなの、なにやっても死なないの?」
「試した限りでは」
「いつから?」
「ぼくはしばらく意識を失ってて、袋に入れられた状態で川の中で目を覚ましたんだ。苦しくはあるけど、水の中にずっといるのに溺れない。しみるけど目を開けつづけることもできた。たまたま浅瀬に流れ着いて、袋を突き破って外に出たんだ。見たことない町だった」
馬車道はハスミンが死ぬのをたしかに見た。サバービアに脊髄のあたりをえぐられて、おびただしい量の血を流しながら、すぐに動かなくなった。
「そのときにはもう……」
「逆に、あんなずさんな子どもの隠蔽が通用すると思ったの? もしぼくが本当に死んでたら、すぐに死体が見つかってハタリたち今ごろめちゃくちゃだよ」
「道理で、うまく行きすぎてると……」
「やっとの思いで家まで帰ってきたら、自分がもう死んでることになってるからビックリしたよ。事情を説明することもなんかできなくてさ。もとの生活には戻れなくなったから、しばらく居場所を探してた。食事も睡眠もいらなかったから、それでぜんぜん大丈夫だった。ときどきハタリたちの様子も遠くから眺めてたよ。それでね、豪戸であの事故が起きたから」
「ああ」
馬車道は集中力を失っていた。相槌を打って、ふたたびハスミンの話に耳を傾けることに思考を向ける。
「誰もいなくなったこの町に住むことにした。ここなら誰にも見つからないしって思って。ぼくは放射線も平気だしね。でもすぐに、いろんな連中が住みつきはじめた。この町に残った財産を探そうとするやつとか、豪戸町のカルトとかね」
馬車道はトイレに行きたくなったが、ハスミンの話の腰を折るタイミングがつかめなかった。
「リコリスを取り込んだ生物の血液から作る血清のことを……。時間は無限にあるから、ぼくは独学で化学を勉強してさ。豪戸図書館は建物も蔵書もそのままだったから、ほとんどぜんぶの本を読んだよ。ひとんちに残されてた専門書とか、バソコンとかも使って」
リコリス? そう、それ。ハスミンは今、それの説明をしてくれようとしていたのだった。結論から簡潔に伝えるつもりはないらしい。リコリスってなんだよ。
「この町に入り込んできたやつらに話しかけて、血清を配ってみたんだ。信じられないだろうけど、結果は、死んじゃうか、サバービアやぼくみたいに、類いまれな能力を身に宿すか、そのどっちかだった」
「そんな、人体実験みたいな」
馬車道は唖然とするが、ハスミンはとくに取り立ててそれを強調したりしない。
「うん。そんな感じ。それでしだいに噂が広がって、どんな病気でも治せるっていう血清がこの町にある……みたいな話になってね。藁にもすがる思いで身内の病気を治したい人とか、一攫千金を狙う無法者とか……いろんな人たちがこぞってこの町にやってくるようになった」
「え、あの、ということは……」
馬車道は周囲を見渡す。ハスミンがなにも言わないのを見て、続ける。
「さっきチルが言ってた、『音波』を使う連中ってのは、そのハスミンの血清を打ったからそうなった、ってことだよね」
ハスミンは馬車道が言葉を区切るたびに頷く。
「元をたどればサバービアのだけどね」
「リコリスってのは? サバービアの本当の名前がリコリスだったってこと?」
「サバービアはコビトワニっていうもともと小柄な種類のワニで、どこも特別なところなんてなかった。リコリスの研究をしてた研究員のペットだった」
「そのリコリスっていうのは⁉︎」
ハスミンのもったいぶったような話運びに、馬車道は思わず語気を強める。ベラベラしゃべるくせに、なかなか重要なことを口外しないんだからさ!
「一種の寄生虫みたいなもの。放射線による突然変異種で、偶然生まれた。実体がなくて、液体みたいな不定形な姿を取る」
ハスミンはそう答えてから、「という説があって」と付け加える。
「そいつはほかの生き物の身体の中に入り込んで成長するんだ。宿主の意識を奪って、肉体に栄養を送り込む……。黒くてドロドロしてるから、研究者の間でリコリスって呼ばれてた。そういうお菓子があるでしょ」
「それがなんだって?」
「怪我や病気の治療への応用、そして、放射線による汚染を取り除く技術の開発を目的として研究が進められて。発見されたのが豪戸町だったから、地域の行政は原発に代わる新たな利権としてそれを独占しようとして、カルトの息もかかってたりして……」
馬車道は自分の脚が感覚を取り戻したことを自覚する。ゆっくりと、その場から立ち上がってみる。裸足でタイルの床に立つ。冷たさを足裏に感じる。
一歩、ベッドから離れてみる。どうということはなく、問題なく直立二足で立てる。
馬車道はなんだか気持ちが冷めてしまった。
「陰謀論者のツイートでも読み上げてるみたいだね。……トイレ行きたい」
ハスミンは歯切れ悪そうにはにかむ。
「あの、身体にチューブがつながってるから、そういうのはしなくて大丈夫なんだけど」
「大丈夫じゃないよ!」
腕だけじゃなくて、下半身のあたりにもチューブが接続されている。馬車道はとたんに気味の悪さを感じる。右腕の手首に刺さっている点滴の管を、ふたたび引っ張る。今度はそれなりの痛みを伴いながらも、外しきることができた。接続面からかすかに出血する。身体に何本か刺さっている管をすべて抜いた。
「だめだよ、無理やり外しちゃ」
馬車道は部屋の外に出ようとする。ハスミンが肩をつかんでくるのを、とっさに振り払う。
「私、どんぐらい寝てたの?」
「一年くらい……」
「寝すぎ!」
「ハタリはずっと冬眠してたんだ。冬のワニみたいにね」
「ワニだってそんな寝ねぇよ!」
寒い地域住むワニは、凍った池の中で顔だけを水面から出して冬眠するのだ。
扉を抜ける。窓のない殺風景な廊下は、ここがどんな建物なのかまったく判断がつかない。錆びつきや汚れが目立ち、ところどころが経年劣化している。天井にある電気の光量は低く、薄暗い。ひとけはない。自分の小さな足音だけが響く。
とにかく、外に向かって歩きはじめる。痛みや空腹は感じないし、感覚にも過不足はない。バスローブのような簡易的な衣服を着せられている。自分のものではない。
傷だらけだったはずの身体の傷はあらかた回復している。爪やムダ毛の処理なんかもした覚えがないのにきっちりとなされていて、少なくとも不恰好ではない。自分自身の身体なのに、強烈な違和感が拭えない。
ハスミンが言っていたのは事実なんだろうか。一年間も眠ってたって?
「ハタリ! 落ち着いてよ〜。べつにここに閉じ込めようってことじゃないんだからさ」
「ここはどこなんだよ!」
馬車道は取り乱す。ハスミンの飄々とした態度に苛立った。
「豪戸原発の敷地。もう発電所は動いてないけどね」
「チルは? なんであんたら、仲良くなってんの?」
「今は協力してもらってる。お互いに利害が一致して……」
「あんたら、なにがしたいの?」
ハスミンの真意がまるで掴めなかった。なにより馬車道はここから出ていきたかった。
「なんでもかんでも説明してもらおうとするなんて、ハタリらしくないよ」
「さっきまでさんざんベラベラしゃべってただろうが!」
裸足のまま走り出す。ハスミンが後ろから追ってくるのがわかる。背中にはサバービアをおぶったままだ。
「待ってよ。走ったら危ないよ」
「こんな結末は認められない。これは私が想像するもっとも悪い結末のシミュレーションであって、もう一度眠って目を覚ましたらぜんぶなかったことになる。私はフードデリバリーの業務で糊口をしのぐ百凡の都市生活者であって、こんなところにはいない」
うわごとのように口走りながら、長い廊下の突き当たりまで走る。非常口のピクトグラム表示を見つけ、それの下の扉を押し開ける。鍵はかかっていなかった。
「ハタリ! 君の目的はサバービアをこの町に返すことだったんでしょ? だったらもう大丈夫だよ。サバービアはぼくとずっといっしょにいるし、ここにはもう人は寄りつかない。放射能の濃度が強くなりすぎて、誰も立ち入れないからね」
馬車道は振り返らずにハスミンの言葉を反芻する。階段を降りる。表示を見ると、ここは三階らしい。どんな建物なんだ?
「嘘だろ、それ! あんたとサバービアはともかく、チルは? あと、私も! じゃあなんでピンピンしてるんだよ」
「チルさんはリコリスの血清の被験者をやってて。放射能汚染の治療を目的とした新薬の。彼女が生きてるってことは、開発は成功してるってことで。副作用を抑えた頓服薬なんだ」
「あいつのことはどうでもいいから! 私もそうなの? いつのまに?」
「ハタリは違うよ。ぼくたちと同じだ。君、サバービアに噛まれても死ななかったでしょ?」
馬車道は足を止める。
「なに言ってんの? 私も不死身なの?」
階段の踊り場で振り返る。ハスミンは上の段からこちらを見下ろしながら、頷く。
「今まで気づいてなかったみたいだけど」
「そんなわけないだろ。私、何回も死にかけたんだよ」
「普通の人なら何回も死んでるよ」
「そうだ、私、撃たれた。あいつに。心臓を!」
「身をもって分かったでしょ」
馬車道は自分の胸に手を当てる。傷跡もないし、鼓動もたぶんしていると思う。
そうか、と唇だけを動かす。
「お前らふたりともグルだったってこと? 私をここに連れてくるために……」
ハスミンは階段の手すりに寄りかかりながら笑う。
「そんなことないよ。ハタリがサバービアを連れてここまで来たのも、チルさんと出会ったのも、ぜんぶ偶然だよ。そんなにうまくできてるわけじゃないからさ」
「じゃあ今ベロ噛み切ってみてもいい?」
「いいけど、おすすめはしないかな……痛みは感じるし、傷が治るのにも時間がかかるから。ぼくたちはあくまで、半分だけサバービアと同じなだけだから」
「サバービアと同じってことは、人間の身体はすでに死んでるってことなんでしょ? 年を取ったり、汗をかいたりとかの代謝とか、痛みを感じたりすることもないはずだ」
「痛みとか苦痛は感じるよ。それはたぶん脳科学の分野だから、ぼくにはよくわからない。ワニと人じゃワケが違うでしょ。実感としては、脳の一部をリコリスに明け渡すかわりに不死身の身体を提供してもらってるっていう具合なんだ」
どこで間違えてしまったんだろう。
馬車道は階段を降りるのをやめ、その場にしゃがみ込む。
「そんなの嫌だよ……元に戻してよ」
いちばんの被害者はサバービアだ。勝手に連れてこられて、なんかワケわかんない薬品を投与されて、死ぬことすらできなくなった。サバービアの身体はサバービアだけのものだったはずなのに。
「ワニの水陸両用の器官は非常に優れていて、寿命も人間とほぼ同じだから。被験体として適当だったみたいだよ」
「結局、結局さ。誰かに苦痛を押し付けてるだけじゃん。こんなのって……」
豪戸町の住人は生まれついてのスケープゴートだ!
「でも、リコリスを無害に安全に活用できるようになれば、世界はずっと良くなる。誰かが犠牲をおっかぶらなくちゃいけなくて、それがたまたまぼくたちだったってだけなんだ」
「あんたはそれでいいの⁉︎ 友達にゴミみたいに捨てられて、こんなとこにずっといて」
「それが案外、しっくり来てね。もともと欲しいものなんかそんなないし、大抵のものは手に入るし。それに今は、サバービアもいるし。毎日いっしょに遊んでるんだ」
「なにそれ。私はこんな、時間の止まった町にはいられないよ」
ハスミンは神妙な顔つきになる。
「正直、ハタリはそう言うと思ってた。帰りたい?」
「当たり前だよ。まだ読んでない本も、見てない映画も、聞いてない音楽も星の数ほどあるし、自転車にも乗りたい」
「時間が止まってるのはハタリもいっしょだよ。……ハタリは、この世に存在するぜんぶの本を読めるね。本当の意味で、時間は無限にあるから」
「やだよ……。そんなのズルじゃん。しょうもない仕事して、明日には家賃払えなくなってホームレスになるかもって怯えながら、せっかくの休日には疲れて一日中寝ちゃって後悔して、それで結局本なんて読めなくて。そういう生活のほうがずっといいよ」
「それは、特権に恵まれてる側の人間の考えだと思うなぁ」
それだけぼそりと言ったのち、ハスミンは言葉を返さなかった。
代わりに違う話題を投げかけてくる。
「ねぇねぇ、あの子のこと、覚えてる?」
「あの子ってどの子?」
「ハタリと一緒に小説を書いてた」
「忘れもしない」
「ぼくたちはあの子のことをもっと気にかけるべきだったかもしれないね」
「あれでも充分だったと思うよ」
しばらくハスミンと話して、馬車道は部屋に戻った。チルにここから出ていく旨を伝えると、彼女は「ふーん」と雑に反応した。こいつの真意だけは最後まで掴めなかった。
ハスミンは発電所の外まで案内してくれた。
「ところでさ、さっき、研究者の話をしたでしょ。ワニを飼ってたっていう」
馬車道は頷く。
「その研究者は別の次元で別の人生を歩んでたバージョンの君なんだよ、ハタリ。強力な爆発で時空がつながって、リコリスを取り込んだワニがぼくらの世界に飛ばされてしまった。それがサバービアだ。だから君は、どうであれサバービアとは出会う運命だった」
「はぁ?」
「……嘘だよ。いくらなんでも、そんなことあるわけないじゃないか」
「てめぇこのごに及んでなんだよ! ぶち殺すぞ」
馬車道は拳を握った。ハスミンは笑う。
「ハタリ、やっぱりあの頃からぜんぜん変わってないね」
「私は変わりたかったよ。変えなきゃいけないところを変えられないまま、いろんなものを失っちゃった。この町と同じだね」
「この町はもう終わりだけど、ハタリはまだ大丈夫だよ」
でもね、と続ける。
「ここから出て行ったあと、ハタリは苦労するかもしれない」
「だろうね」
「魔女狩りみたいにさ。いろんな意味でハタリのことを追う人間が、世界中に現れると思う。ちょっと時間をくれれば、別の容姿とか身分とかも用意できるんだけど」
「魔女ねぇ……。いいよ、それならそれで。怯えながら生きながらえることにするよ。きっと捕まったら一生実験動物でしょ?」
「火あぶりにしても死なないからね」
「動物実験、反対!」
馬車道は拳を突き上げて笑う。
ハスミンも彼女の動きを真似た。
「魔女って響きは悪くないね! ハスミン、あんたも一流の魔女だよ。もちろんいい文脈で」
「うん。ぼくはずっとそうなりたかった。だから、ぜんぜん平気なんだよ」
「使い魔もいるし……」
馬車道はハスミンの背中にいるサバービアの背中からしっぽまでに指を這わせる。
サバービアは目を閉じて眠っている。馬車道はこんな目に遭わず、どこかの川で大きく、強靭に、それでいてかわいらしく成長していたワニのことを考えた。数多くの人間の腕や脚を引きちぎり、ボートや車を破壊し、恐れられながら一世紀以上生きて、死ぬ。
だったはずなのに。
豪戸町にもそれなりに金持ちは住んでいたようだ。それなりに質の良い日用品や衣服は取り放題だった。馬車道は十年働いてもとうてい手に入らないファッションに身を包む。たいていの品物はこの町にやってきていた連中によって持ち去られていたが、取りこぼしも結構ある。パーティーの後片付けをしたおかげで、いいものをたくさん手に入れられた。
「あとなんかほしいものある? 好きなの持っていきなよ。現金とかでもいいよ。いくらでもあるから」
「自転車。昔、よく行ってた自転車屋があるんだ。そこに行ってみる」
「そんなんでいいの?」
それさえあれば、なにもいらない!
「それじゃあね。シーユーレーター、アリゲーター」
ハスミンは抱き抱えたサバービアの前脚を掴んで、ぶらぶら振り回す。
「はぁ〜⁉︎」
【最終章・ペイルランナー】
ハスミンからもらった自転車を駐輪場に停めて、店の中に入る。家賃を一年以上滞納してしまったので、元のアパートからはとっくに追い出されてしまった。新居を探すのにはとても苦労して、結局、都市部に住み続けることはままならなかった。都心にほど近い郊外の、駅からかなり遠い最悪のアパートをかろうじて見つけた。
なんか、元の木阿弥って感じがする。自転車を二時間ほど走らせて、都市部の大型書店にやってきた。
金城和のデビュー作『ペイルランナー』はもうすでに単行本になっている。そればかりか、発売中の文芸誌に早くも二作目の長編を発表している!
平積みされたそれをすかさず手に取る。掲載誌は新人賞を受賞したときのものとは別だった。エンタメ系じゃなくて、純文学の雑誌だ。自身の経験に基づく、半自伝的なオートフィクションであるらしい。警察官を志して実家を出て行った娘との確執が大きな主題となっていることが、あらすじから伺える。
正直、金城和にはホラーを書き続けてほしかったが……。きっと、またすぐに戻ってくるだろう。この国で高齢の女性として生き続けている限り、恐怖の題材は尽きないだろうから。
読み返した『ペイルランナー』はやはり最高の小説だったし、新作の私小説も素晴らしい出来だった。二本の小説を読み終え、馬車道はベッドにうずくまって眠る。
厳密にいえば、目を閉じて六時間ほどじっとした。馬車道の身体は睡眠を必要としなくなり、そのための機能を失っている。それでも彼女は人間のフリを続けることにした。くだらないデリバリーの仕事はまだ続けているし、割高で粗悪なファストフードばっかり食べるし、一日二箱はタバコを吸う。あいにく『プラシーボ』は製造終了となってしまった。
明日から仕事のペースを上げないと、そろそろ生活費を賄うことが難しくなってくるだろう。
少しでもマトモな候補者を当選させるために選挙に行くし、テンションを上げるために壊れてないけど古いスニーカーを捨て、新しいのを買う。せっかく買ったけどマズい飯はちょっとだけ食べてあとは残して捨てる。好きなゲームの二次創作小説を英語のファンフィクサイトで検索して、大ざっぱな機械翻訳で読む。嫌いな映画の否定的なレビューを探して溜飲を下げる。自分といっさい関係ない著名人のゴシップをネットで漁る。
そういうものだ!
二冊目の小説が単行本になるころ、金城和は死んだ。若くして……ってわけじゃない。彼女の年齢は九十に近かったから、むしろ自然なことだ。金城の作家としての人生は短かったかもしれないが、彼女が世に送り出した二冊の小説は、間違いなく歴史に名を刻むことになる。
金城和は独居していた。友人が訪問したとき、事切れているのが発見されたらしい。開いたノートパソコンのキーボードに指を這わせながら、頭を机に垂れていた。ワードのソフトが起動されたままで、彼女は死ぬ一秒前まで小説を書いていた。
馬車道は部屋に横たわり、金城の訃報を伝えるニュース記事をスマホで読む。タバコの煙を吐き出しながらスクロールを終え、深くあくびをする。馬車道にとっては必要のない動作だが、あえてやっている。
馬車道の知る小説家についてのニュースはもう一件あった。一年前よりとある雑誌で連載をもっていた、無名の作家が失踪した件についてだ。そいつは皮肉なことに、金城以上の有名人となってしまった。失踪したそいつの家に家宅捜査が行われて、部屋からバラバラ死体が発見された。行方不明者から容疑者として、別の角度から捜索されることになった。
そいつはまだ誰にも捕まっていない。一度だけ警察に見つかって追われたことがあった。そいつはそのまま道路を横切って逃げ出し、車道を通ったワゴンに跳ね飛ばされた。その後すぐに立ち上がって、ピンピンしたままふたたび走り出して逃げおおせたとか。
「そんなことやってないで小説を書けよ」
部屋のインターホンが押されて、馬車道は腰を上げる。今は深夜二時を回っている。普通ならあまりに不自然な訪問だ。馬車道はゆっくりと立ち上がりながら、玄関まで向かう。ドアの覗き穴から訪問者の姿を伺った。
しばらくドアの前にたって、思案に暮れる。
意を決して、扉の鍵を開けた。
筆者について
なみき・どう 1999年生まれ。茨城県出身。大学在学中の2021年、茨城県に暮らす3人の女子高校生の大麻栽培を描いた小説『万事快調(オール・グリーンズ)』(文藝春秋)で第28回松本清張賞を受賞しデビュー。