ニュー・サバービア
第四話

ワニワニパニック

ジャンル
スポンサーリンク

史上2番目の若さで松本清張賞を受賞した新鋭・波木銅による待望の長編連載、ついに新章突入!

フード配達員として生計を立てるギグワーカー・馬車道ハタリは、かつて高校時代に自身が書いていた小説を同級生が剽窃し、作家としてデビューしていることを知った。復讐に燃え、居場所を突き止めた馬車道はアパートで彼と対峙し、故郷の忌まわしい記憶を思い出す。

かつてともに小説家を目指していたふたりは、ある秘密を共有していた――

【第六章・ワニワニパニック】

 町はずれのバス停でバスを待っている時のことだった。この地域では一時間に一本来ればいいほうだ。地域でいちばん大きな書店に行った帰り、直前のバスに乗りそびれた馬車道たちはとてつもない長さの待ちぼうけを食らうことになった。「壕戸発電所前」から「壕戸駅」行きのバスが来るのは七十分後らしい。近くに時間を潰せる店のようなものはない。かろうじて視界に映るのは、畑と、何年も前に潰れたラーメン屋と、原発の敷地を囲う蔦の絡みついたフェンスくらいのものだった。

 おのおのがベンチに座って本を読んだりスマホをいじったりして時間をつぶしていると、沈黙を嫌ったハスミンが会話を切り出してくる。

「昨日テレビで見たんだけど、宇宙葬ってのがあるんだって」

 馬車道は手元の文庫本に目を落としたまま、ん? と相槌を打つ。

「遺灰をロケットで宇宙空間に飛ばして撒くのか」

「そう」

「なんか意味あんの? それ。わざわざ死人を、金かけて宇宙に飛ばして」

「そんなこと言ったら火葬とか埋葬だって、死んだ人間にわざわざ金かけてそうするわけだし」

「それはそうか……」

 いままで黙って本を読んでいた、奴が口を挟んでくる。

「宇宙空間をずっとただよってたらさ、テクノロジーのすごく進んだ異星人に拾われて、遺灰から情報を抽出して復元してもらえるかもよ」

「すげー嫌だなぁ。二回もやりたくねぇよ、人生」 

「ハタリはさ、死んだあと、どんな感じで葬られたい?」

 ハスミンが言う。馬車道は考えるまでもなかった。

「死ぬほどどーでもいいな……。葬式とかいらないよ。もし臓器とかまだ使えるやつが残ってたらぜんぶタダで配って、残りはそのへんに捨てといてもらうかな」

「それいいね。ぼくもそうしよ」

 それから、記憶にも残らないような他愛ない会話が続いた。バスはまだ来ない。ハスミンは催したらしく、トイレに行くといって背後の茂みに駆け込んでいった。

「どこでも好きなとこで排泄できて便利だね。というか、茂みの中で立ちションすることを『トイレに行く』って表現するかよ」

「そんな身も蓋もないことを……」

「でもハスミンは外でも座ってそうだよね。座ってしたら立ちションにはならないか。そういう場合はなんて書きゃいいんだろう」

「小便の話してなきゃダメ?」

『ニュー・サバービア』の作者は精神的に潔癖なところがあって、下品な話題をあまり好まない。だから馬車道はあえてその話題を続けることにした。

「ああ」

「馬車道さぁ……」

『ニュー・サバービア』作中での代替表現だけでなく、ハスミンを含めた彼女らは実際の対面でもペンネームの名義で呼び合っていた。誰も本名を使っていなかった。『ニュー・サバービア』の作者と馬車道はたまたま本名が同じだったので、それで呼び合うとなんだか滑稽な感じがした。それに、はじめから勝手についてた名前よりかは自分で考えたもののほうが幾分マシだ。

 背後から激しい悲鳴が聞こえた。

 めったに声を荒げたりしないハスミンの大きな喚き声だった。

「おっ。なんだと思う? 斜面を滑り落ちたか」

「噛まれた? ヘビとか」

「原発から漏れ出た放射能に汚染されたことで誕生した突然変異種のヘビ……ニュークスネークだ」

「原発の敷地に住み着いてるサイコキラーに襲撃されたのかもよ」

「だったらいいね。殺人鬼に襲われたとしたら、この中で生き残るのは間違いなく私だけどな。ファイナルガール適性があるから……」

 ハスミンはなかなか戻ってこない。それに要する平均時間なんて知らないが、立ちションに十分以上かけるのはさすがに長すぎだ。ズボンを下ろしたまま遭難して餓死してるかもしれない。

 馬車道は様子を見に行こうぜ、と茂みに向かっていこうとする。奴もそれに追従する。

 地面に落ちた木の枝や枯れ葉を踏む音がする。こちら側に走って向かってきているようだ。わざわざ走ってバス停まで戻ってきたハスミンは、息を切らしながら馬車道たちに言う。

「ね、ちょっと、来て」

 バス停から離れた茂みのほうへ指をさす。

「なんでお前の小便の跡見なあかんねん」

「そうじゃなくて……とにかく、すごいんだよ。マジで!」

 ハスミンは興奮さめやらぬ態度で、そばにいた馬車道の腕をつかむ。そのまま、さっきまでいた茂みの奥へと引っ張っていこうとする。

「なんなんだよ!」

 ハスミンに連れてこられた茂みの奥、顔にかかる葉っぱをかき分けながら進んでいくと、整備されていない雑草の群生地が広がっている。その先はフェンスに阻まれた原発の敷地内だから、これ以上は進めない。

 それはそこにいた。

 一見、黒いヘドロの塊だと思った。よく目を凝らすと、全身にタールを浴びた子どものワニ……みたいな姿形をしているのがわかった。平べったい身体に、短い四肢と長めのしっぽ、細長く突き出た頭部がついている。それだけじゃなく口かエラ、あるいは傷口のような大きく開閉する機関が二箇所ある。それは身体じゅうを不定形に移動しているように見える。

 側面にある目(のように見える器官)のうちの片方で、こちらを見つめてくる。得体は知れないが、少なくとも生き物であることは間違いない。

「特殊造形のアニマトロニクスとかじゃ……ないよね」

 誰かがここで映画かドラマなんかを撮影していて、それに使った小道具をここに置き忘れていった……いや、さすがにそんなことはないか。

「触ってみてよ」

 馬車道は隣にいた『ニュー・サバービア』の作者を肘で小突く。奴はすっかり萎縮している。

「やだよ」

「腰抜けがっ」

 馬車道はかがみながら、その生き物にゆっくりと近づいていく。それは微動だにしない。二つある器官を開閉させながら、爬虫類的な瞳をこっちに向けてじっとしている。

 それがどんなものなのかまったく計り知れないが、全長は一メートルにも満たないし、動きはぜんぜん俊敏じゃない。いざとなったらこっちが勝てる。こっちにはふたりぶんの身代わりがあるしな。

 早まっていく呼吸を整えつつ、馬車道はそれに一歩ずつ近づく。

 若い頃パラグアイの農村に住んでいた祖母に、当時の住処の写真を見せてもらったことがある。それに写っていたデカいトカゲよりは小柄だ。

 腕の届く範囲にまで近づく。その黒く光沢のあるタール状の身体に、そっと触れてみる。だいたい想像していた通りの手触りだった。粘性があって、どちらかといえば冷たい。触られている間にも、それは微動だにしなかった。なにかに気づいたかのように、少しだけ前脚を動かしただけだ。

「すげっ」

 手を離す。指先に黒い粘液が付着している。

「よく触れるね」

 奴は馬車道とハスミンの背後に隠れている。なにビビってんの?

「なんともないみたい。ハスミンも触ってみなよ」

「うん」

 ハスミンは馬車道と入れ替わるようにして、それに近づいていく。しゃがみこんで目を合わせてから、両手でゆっくりと抱き抱える。

「わ。けっこう重たいね」

 ハスミンに抱き抱えられたそれをじっと見る。宙に浮いた後ろ脚をしきりに動かしているのが見える。たまにエラか口が開く。エラ? ワニにエラがあるかよ。

「こう見るとけっこうかわいいな……」

「だよね!」

 ハスミンはそれをゆっくりと地面に戻す。彼が着ていたTシャツは色が移って真っ黒になっている。よりによって白地を着てくるとは間が悪い。

 奴は青ざめている。

「大丈夫? 噛まない? 噛まれてない?」

「指突っ込んでみれば?」

 それのエラ状の器官に指をさす。

 そうだ、とハスミンは背中に背負ったリュックサックをおろす。中から未開封の潰れたローソンのサンドイッチを出した。買ってカバンに入れたはいいが食うのを忘れたやつらしい。そういうこと、よくある。

「それ食わすの? あんま良くない気がするなぁ」

 口ではそう言ったが、実のところそれの生態をもっと見たくて仕方がなかった。馬車道はハスミンの手元からサンドイッチを取って、フィルムを剥いてその生き物の眼下に置く。

 それはしばらくそれを見つめる。食えるものなのか判断しているのだろうか。視覚なのか嗅覚なのか、それか……超音波とか。あるいはそのどれでもない感覚。その生き物がどういうメカニズムで動いているのか、まったく判別がつかない。

「あっ。動いた」

 わざわざ息を潜めてハスミンが言う。それが一歩前進した。ふたつある器官のうちのひとつで、地面に落ちたサンドイッチに食らいつく。その内側は暗くて歯や舌などは見えない。すぐにサンドイッチはなくなった。

「食ったというか、取り込んだというか……」

「あ、動画撮っとけばよかった!」

 かなりすごい光景だったはずだ。映像を録画しておくことに思い至らなかったことを後悔する。

「ハスミン、まだなんか持ってない?」

「もうないや」

 馬車道は残念に思う。あいにく、自分も食べ物を持ち合わせていないはずだ。

「お前は?」

『ニュー・サバービア』の作者はかぶりを振る。

「残念だな……なんかないかな」

 未知なる生き物の未知なる捕食をもう一度見たくて仕方がなかった。馬車道は淡い期待をこめて、ダメ元で肩にかけていたトートバッグをまさぐる。文庫本、スマホ、家と自転車の鍵、なんのやつだかもう完全にわかんなくなっているぐしゃぐしゃになった紙切れ……もともとたいしたものを持ち歩いてはいない。それらを手に持ちつつバッグの中を探るが、当然、必要なものは出てこない。

「おっと」

 不意に声が漏れる。手元が狂って、持っていたカバンの中身を取り落としてしまう。かがみこんでそれを拾おうとしたとき、その生き物がふたたび動く。地面に落ちたもののうち、文庫本と自転車の鍵を見つめると、それに向かって口あるいはエラを開く。

「やべ!」

 文庫本と鍵の上に覆い被さると、すぐにそれらを取り込んでしまう。馬車道はあわてて生き物の身体を持ち上げた。それらはもうそこにはない。身体の表面にある口あるいはエラをこじ開けて指を突っ込むが、その中には破片すら見つからない。

「そんな……自転車の鍵喰われちゃったよ。あと本も」

「ノドに詰まらせちゃったりしないかな?」

 ハスミンは心配そうにそれを覗き込む。奴も怪訝そうな顔をする。

「鍵はまだしも、文庫本も? けっこう分厚かったよね」

 ジョー・ヒルの『20世紀の幽霊たち』は文庫で六百ページを超える分厚い短編集だ。二十作近くの作品が収録されていて、そのどれもが上質だ。緊張感あふれる筆致で描かれた監禁スリラーの『黒電話』に、とてつもなく奇妙でハートウォーミングな友情譚『ポップ・アート』、ロメロの『ゾンビ』の撮影現場を舞台とした、エキストラとしてゾンビの役を務める男の話『ボビー・コンロイ、死者の国より帰る』など……まだ読み切っていないのだが、とても自分好みの小説だった。折に触れて読み返すことになるだろうな、ということがすでにわかる。なによりキングの息子でありながらホラー作家を目指して、ほんとに一流になったヒルって超すごいよね。自分だったらめちゃくちゃ嫌だよ。親が世界でいちばん人気の小説家なんてさ。その状態で作家になろうとするなんて、生まれたときからデカすぎる目の上のタンコブがデフォルトであるようなもんじゃんね。

「ハタリ?」

 ハスミンに肩を叩かれる。

「あ、ごめん。ボーっとしてたよ」

 そんなことを考えている場合ではない。文庫本くらいあとでもう一冊買えばいいが、自転車の鍵は別だ。家に帰れなくなるじゃないか!

 馬車道は車輪の動かない自転車を引きずりながら薄寒い路地をひとりで歩く様子を想像した。ダルすぎて身震いしちゃうね。

「吐き出せ!」

 馬車道はそれを掴み上げる。喉を詰まらせた赤ん坊にするように、揺すりながら首の部分を強く叩く。なにも起こらない。しまいには逆さまにして激しく振ってみるのだが、ときおり脚とか尻尾とかを動かしはするが、なにかを吐き出す気配はまるでなかった。

「かわいそうだよ」

 ハスミンが止めに入ってくる。たしかに、このままいくら揺さぶっても鍵を取り戻せるとはとうてい思えなかった。今日は諦めて駐輪場に置きっぱなしにして、翌日にスペアの鍵を持ってこよう。徒歩で歩いたら駅から家まで一時間以上かかる! 最悪だ。

「せっかくだから、写真でも撮ろっか」

「今⁉︎」

 それを抱き抱えたままの馬車道の隣に、スマホを構えたままハスミンがやってくる。内側のカメラを構えて、自分たちをアングルに入れようと腕を伸ばす。彼に促され、奴も画角に入り込んでくる。こいつは未だにそれにビビっていて、馬車道から距離を取ろうとしている。もっと寄って、とハスミンに言われ、泣く泣く近づいてくる。画角に入るために、ハスミンの足元にしゃがみ込む形になった。

「はい、チーーーーーーーッ」

 それを含む全員がカメラの画角に入る。ハスミンはシャッターを切った。

 ハスミンだけが屈託のない笑顔で笑っている。センターには得体の知れない生き物がいて、抱き抱えられている。変な写真だ。

 撮影が終わると、馬車道はそれから手を離した。手元から落とされて、四本の脚で地面に着地する。けっこうぞんざいに扱われても、とくに動じていないようだ。

 そろそろバスが来る。馬車道たちはその場をあとにすることにした。ネットで調べていても、それに該当する生物なんて見つけられなかった。馬車道はバスに乗って駅まで向かい、ハスミンたちと解散してから徒歩で帰路についた。田舎の中でも特にさびれた地域であるここらへんの道はちょっと休憩がてら寄るコンビニすらなくて最悪だ。田んぼ、ラブホ、パチンコ屋……外灯も申し訳程度にしかない。

 そんなことがあった。

 ガラスケージごしにそれと目を合わせ、馬車道は過去の記憶を鮮明に思い出す。

 それとはじめて出会った次の日、馬車道たちはもう一度集まってその場所へ向かった。放課後、当然部活はキャンセルだ。そんなことをしてる場合じゃない。駅の駐輪場に停めっぱなしの自転車を回収するがてら、「壕戸発電所前」のバス停へと向かう。

 その日、『ニュー・サバービア』の作者は不在だった。数学のテストの点数がすこぶる悪くて、今回の追試をサボると留年の危機らしい。十回くらい留年してればよかったのに。

 駅から自転車で原発前まで。ママチャリだったら後ろにハスミンを乗せてあげてもよかったけど、あいにく自分の自転車には荷台なんて野暮ったいものは装着していない。通学に使うような自転車じゃない。だからこそ価値がある。

 しょうがないのでハスミンと歩幅を合わせ、自転車を押しながら歩く。

「ハタリって小説いっぱい読んでるけどさ、どういうのがいちばん理想なの?」

「マジョリティをたくさんぶっ殺して、金持ちを騙して金を巻き上げる話……」

「いいな〜それ。ハタリが書いてよ。そしたら読むよ」

「いっぱい書くよ」

 茂みにたどりつき、かき分けて奥へ進んでいく。期待通り、そいつはまだそこにいた。やっぱり、たまたまそこにいたんじゃなくて、住み着いてるんだ。

「いたね」

 それはこちらを見つめてくる。個人を識別できているのだろうか。

 ハスミンはリュックサックからジップロックを取り出した。中にささみが入っている。

「わざわざ持ってきたの?」

「食べるかなって思って」

 ハスミンはジップロックから出したささみを、それの目の前に投げる。

「食うかな……まぁなんでも食うか」

 食うという表現が適切かどうかはよくわからない。

「動物園のワニはニワトリ食ってたよ」

「ワニか……」

 それはささみをしばらく眺めてから、口あるいはエラでそれを体内に取り込んだ。

「やっぱり、新種の生き物なのかな」

「そうとしか思えないよ。いくら調べても、これっぽい生物なんて出てこない」

 それの写真とか動画をネットにアップしたらスゴいことになるだろうとみんなわかっていた。でも誰もそうしなかったし、ほかの誰かに話したりもしなかった。この奇特な発見をほかの誰とも共有したくなかった……要するに独占したかったのだ。もっとも、原発の敷地の近くのバス停そばに住み着いていたら、いくら人の少ない田舎とはいえ近いうちに第三者に発見されるだろう、とも考えていた。公になる前にせいぜい自分たちで楽しんでやろう、という思いを全員のあいだで共有していたと思う。

 馬車道たちはそれと会って、餌をあげたり観察したりするのが日課になった。集まる場所がファミレスからバス停に変わっただけで、日常はさほど変化しなかったように思える。

 ずっと「それ」とか「あの生き物」とかの曖昧な代名詞で呼ぶのはなんだか煩わしかった。馬車道たちは固有名詞を考えることにした。

「ラコステちゃん」

「やだよ」

「クロちゃん」

「黒いからって? 安直すぎてちょい寒だなぁ」

「クロックスのクロともかかってるんだよ」

 ハスミンは付け加える。こいつにしては考えたな。

「なるほどね。でも却下だ」

 クロックスのロゴがワニなのは、水陸両用のサンダルをワニの生態になぞらえているからだ。しかもワニは頑丈で強くて、長生きする。

「ワニノコ!」

「引用以外で頼むわ。なんか呼ぶとき恥ずかしいからさ」

 ワニノコはポケモンに出てくるワニのキャラだ。あきらかに現実味のない生物なのでたしかにポケモンっぽさはある。でもそれだったらメグロコのほうが似てる……ワニノコのほかに、そういうワニがモチーフのポケモンがいる。ワニだけど砂地に生息していて、電撃が効かない。五作目のシリーズに出てきて、序盤の砂漠のステージに登場する。この次のボスは電気の攻撃をしてくるので、ここで仲間に引き入れておくと少し有利になる……と思いきや実際のところそこまで役に立たない。そういうやつだ。

「ティーグ、は?」

「ティーグって? あー、ルイス・ティーグか。『アリゲーター』の。そんなのよく覚えてんな。お前も私も……」

 下水道に住み着いてる超デカいワニが市街地に出てきて暴れるパニックムービーだ。続編もある。面白かったねあれ。何年か前に、古本屋にレンタル落ちのDVDが激安で売ってたから買って観たことがある。ビッグバジェットの大作はさすがに田舎でも簡単に観られる。B級のジャンル映画みたいな小品こそ、見るチャンスになかなか恵まれない。地方のシネコンでそういう映画はまずかからないし、レンタルビデオ店は潰れまくるし……。しかも、やっとの思いで観たところで、そういう映画が本当に面白いことはそんなに多くない。

 下水道に住み着くワニっていうモチーフはおもにアメリカのポップカルチャーにおいてよく使われるモチーフでもあって、あのピンチョンの『V.』にもワニ退治の話が出てくる。ピンチョンの小説なんて難解すぎてたけー金出して単行本買ってのにぜんぜん読み切れてないんだけど。読破できたのは文庫になっている『競売ナンバー49の叫び』だけだ。しかも読破したといってもただ読み切っただけで内容の理解なんてまったくできていない。郵便屋の秘密結社とか出てきて、なんかすげー面白いことが起こってるってことだけはぼんやりとわかるんだけど。それだけだ。将来ババアになって隠居したらピンチョンだけを読む生活をしよう。

 ところで、いわゆる「アリゲーター」と「クロコダイル」はどちらもワニを表す言葉だけれど、同義語ではなくて定義に違いがある。鼻先のかたちと牙の生え方で見分けられる。牙は目視できないが、顔のかたちから察するにこの生物はどちらかといえば「クロコダイル」寄りだ。

「そんな文句ばっか言うんだったら、馬車道もなんか案出せよ」

 返事をするのが遅くなった。『ニュー・サバービア』の作者に、なぁ、と繰り返されて、ようやくはっとする。

「え? あ。そっか、ごめん。ほかのこと考えてた」

「ボーっとしてんなよ」

「じゃあ、サバービア、とか……」

「どういう意味?」

「郊外。郊外出身の異形だから、さ」

 ちょっと赤面しながら言う。たまたまそこにいただけで、ここ出身だという確証はどこにもない。原発から漏れ出た放射線の影響で誕生した突然変異種! そんなわけはないんだけど、そう考えたらちょっと面白いじゃない?

「ワニ要素は?」

「ないけど。でもあれ、ワニじゃないよ。形がたまたま似てるだけで、まったく別の生き物だ。きっと爬虫類ですらない。憶測だけどさ」

 ハスミンらはふーん、と馬車道の解釈に相槌を打つ。

「いいかもね。サバービア」

「マジで? ホントにそれで行く? なんか恥ずかしいなぁ」

 それ以来、その生き物はサバービアと呼ばれるようになった。見捨てられた郊外に住む異形。自分たちにおあつらえ向きだと思った。

「悪くないと思うよ」

 致命的なアクシデントが起こったのは、それと出会ってからだいたい一年くらい経ってからのことだった。そのときのことはあまり思い出したくない……馬車道は過去の記憶をなるべく忘れてしまおうと勤めていたが、これに関しては特に、だ。

 サバービアのことをいちばん気に入っていたのはハスミンだった。自分たちが不在のときも、ひとりでそれに会いに行っていたらしい。

 サバービアは常にあのバス停そばの狭苦しい茂みの中にいた。長距離を移動するすべを持たないのか、なにか好都合なことがあってあえてそこに留まっているのかはわからない。べつに恵まれてないのにその場から動こうとしないのも、なんだか郊外生活者サバービアン的だ。

 そのときにハスミンが……。

 まぁ、今はいいや。馬車道はそこまで思い出そうとして、思考を振り切る。いつかまた、死にたくなりながら、じっくり思い出せばいいよ。今はまだほかにやることがある。

【第七章・サバービアンズ プロイテーション】

 馬車道たちが地元を離れるとき、『ニュー・サバービア』の作者がそれを新居に連れていくことになった。馬車道の引越し先には置いておけそうにないし、そのまま放っておくのもなんだかもったいない気がしたからだ。自分たちといっしょに、サバービアも上京したわけだ。サバービアンじゃなくなった。

 奴が背後で動くのが、重い足取りの音が聞こえた。小さいキャビネットを開け、中からなにかを物色しているようだ。金属がぶつかる音がかすかにする。奴がナイフを取り出したのだとわかる。

 馬車道はサバービアから目を離し、振り返った。

「だいたい勘づいてたんだけどさぁ。小説を剽窃してあまつさえあんな私小説を書いたのって、実のところ……私をあえてここにおびき寄せるためだった」

 っしょ? 馬車道はナイフを右手に携えた作者に笑いかける。なんでキャビネットの中に包丁じゃなくてサバイバルナイフが入ってるんだよ。

 奴はなにも言わない。

「私を殺して、サバービアに食わせりゃいいもんね。ハスミンのときみたいに」

 奴の目つきが変わる。馬車道はとっさに背中を曲げ、すかさず足を前に出す。腕を伸ばして奴の身体を突き飛ばした。相手がよろけて壁に背中を打ちつけたのを見たのち、玄関付近の床に置きっぱなしのレンチを手に取った。

 グリップの巻かれた持ち手を握り締め、奴の手元に向かって振り下ろす。直撃はしなかったが、指先をかすめて手元からナイフを滑り落とさせた。それを拾われるより先に、刃先を蹴って遠くに飛ばす。

 馬車道は次いで、そのままレンチを奴の頭上に振り下ろそうとする。

 一瞬ためらった。

 奴はそばに立てかけてあったウクレレの指板を握り、ボディーを頭上にかざして盾とした。表面が凹み、衝撃を腕で感じた奴は顔をしかめるが、致命傷には至らない。フレットが振動してかすかに軽い音が鳴った。

 奴はそのままペグのついたヘッド部分を突き出してくる。とっさに防御できなかった馬車道は眼球をえぐられる感覚を味わう。思わず目を閉じる。感覚に頼って後退りつつ、逃げ道を探した。背中にドアノブが当たる。玄関ではなく、バスルームへの扉だった。そのまま扉を開けて、バスルームの中に逃げ込む。鍵をかける。

 ウクレレのヘッドの先端には金属加工がついていた。熱くなった右目は痛みでなかなか開かない。手をかざしてみると、出血していることがわかる。袖口でそれを拭いつつ、ゆっくりと苦しみながら目を開ける。ユニットバスのバスルームには、窓はない。電気は消えたままだから、暗くてまわりがよく見えない。

 呼吸を整えつつ立ち上がる。奴はドアを二、三回叩いたが、それ以降はなにもしてこない。こういう室内にある簡易的な鍵なら、小銭やドライバーを使って外側から簡単に開けることができるだろう。それを知らないのか、あえてそうしないのかはわからない。

 目が慣れてきて、電気の消えたままのバスルームの中を視認できるようになる。水を張っていないバスタブになにかが突っ込まれているのが見える。馬車道はそれどころではないと自覚しつつ、単純な興味からそれを覗き込んでみた。青いビニールシートが雑に蓋をするように被せられている。それをめくる。

「なるほどね」

 息を殺しながらも、かすかにつぶやく。中に入っていたのは、どう見ても切断された人間の死体だ。視認できるうちの腕や胴体の部分からでは、年齢や性別は判別できない。

 サバービアはあらゆるものを捕食し、痕跡を残さない。その性質をもっともうまく活用するのが、このやり方なのかもしれない。気に食わない人間を何人だって殺し放題だ。チンケな部屋の中に似つかわしくなく置いてあった三台の空気清浄機の意味もわかった。残った死体を隠蔽するためだ。サバービアはそこまで大食いじゃないから、死体をいっぺんに処理するのは時間がかかるのだ。食休みが要る。

 馬車道は恐怖以上に怒りの感情を増幅させた。

 あいつはただの邪悪だった。ここでこいつを見逃したら、私は人間ではなくなる。

 とっくの昔に捨て去った意思が湧き上がってくる。サバービアはうまく使えばいくらでも金を稼げる手段になる。それ以上のことだってできる。そう思ったからこそ、自分たちはそれを隠蔽しようと考えたのだ。

 奴やハスミンには秘密にしていたが、馬車道は何度もサバービアを殺そうとしたことがある。ふたりに黙って例の場所に行き、刃物で刺したり、学校の化学準備室からパクってきた薬品を飲ませたりした。それでもサバービアはびくともしなかった。敵意を見せられたのに、こちらに攻撃を加えてくることもなかった。血も流さないし、声も上げない。ただ、そこにじっとしたまま、こっちを見てくるだけだった。袋に詰めて川に投げ捨てたこともある。次の日には、そんなことなかったかのようにいつもの場所にいた。袋を食い破って、ここに泳いで戻ってきたのだろうか。

 個人の力ではサバービアを殺すことは不可能だと諦めて、ほかのふたりと同じように、自分たちの中だけのささいな秘密として、不思議な生き物との触れ合いを楽しむことにした……。

 サバービアは強大な力だ。それは公にしちゃダメだ。そしてお前は、その力をもっとも最悪に使っていた。

 自分のためであり、サバービアのためでもある。あいつを殺さなければならないと、馬車道はふたたび決意する。バスルームから飛び出そうとする。

 つかの間、なにかが聞こえた。この場に似つかわしくない、陽気で叙情的な感じがする旋律……ウクレレだ。なんの曲だかはわからないが、ウクレレの演奏が聞こえる。

 馬車道は目を見開いて、その場に立ち止まった。

 奴はウクレレを弾いている。この期に及んで?

 馬車道はそれを挑発とみなした。レンチはバスルームの外に落としてしまった。自分の身を守るものはなにもないが、怯えている場合じゃない。

「かかってこい、マザーファッカー」

 ドアを蹴飛ばして、部屋の中に出る。目の前に何かが飛んできた。黒くて不定形の物体……サバービアだ。サバービアは馬車道の胸元に飛びついてきて、そのまま身体を食いちぎろうと口を開く。サバービアはシャツに食いついた。そのまま身体を回転させる。それに引っ張られるように馬車道は横転した。呻きながらサバービアを引き剥がそうとする。シャツを引きちぎって、ようやく拘束から抜ける。

 起きあがろうと床についた左腕にサバービアが食いついてくる。激しい痛みと出血に悶える。骨ごと身体が抉られていく感覚があった。数センチ先にあるデスクの脚の角に、食いつかれた腕ごと叩きつける。ダメージがあったようには思えないが、一瞬だけサバービアの力が緩む。その隙に強引に腕を引き剥がした。皮膚がえぐれて白みがかった肉が見え、出血がとめどない。今は痛みに顔をしかめる余裕もなかった。

 部屋の玄関口に目を向ける。そこには奴がウクレレを持って立っていて、進路を塞いでいる。向こうも本気でこちらを殺そうとしているようだ。

「こんな夜中に物音を立てたら、ほかの住人に怪しまれるぞ」

 誰かがこの状況を不審に思い、通報を入れることに期待した。

「このアパートに住んでるのはみんな仲間だよ。というか、家族かな」

 気取らない口調で、はにかみながら奴が言う。

「家族?」

 気味の悪いことを言うなよ。

「馬車道、あの私小説を読んでくれたなら知ってるでしょ。今の段階での小説ではカルトってことになってるけど、次の次の回あたりで、本当は良いやつらだったってことが明らかになるんだ」

「次とかねぇよ! お前はここで死ぬんだから!」

 言葉を発しながらも、馬車道はサバービアに目線を向けて警戒を続ける。さっきの襲撃の様子とは裏腹に、今はすっかりおとなしくなっている。

「壕戸町に暗躍するカルトなんてなかったけどさ、そういうのが欲しかったんだ。だから、自分ではじめることにしたんだ」

 奴はそんなとりとめのないことを言って、肩からストラップで下げたウクレレを構える。右手でフレットを握り、左手で弦を弾く。

 それと同時、ピクリとサバービアが動いたのを見た。馬車道はすかさず足元にあったレンチを手に取る。

 サバービアがこちらの脚元をめがけて飛びかかってくる。今度は見逃さない。とっさに身をよじる。攻撃をかわしがてら、脚元のサバービアの頭を目掛けてレンチを振り下ろす。

 こちらの腕は痛むが、サバービアはいっさい動じていない。床を殴りつけたときのような虚無的な感触だけがあった。

 ポローン、と、奴はふたたびストロークを弾いた。聞いたことがある。これは『アロハ・オエ』だ。ウクレレの練習本には間違いなく収録されているだろう。サバービアが前脚を動かす。こっちを睨みつけてくる。

 まさか、と思う。

「そいつか」

 ウクレレだ。どういうわけか、サバービアは奴が弾くウクレレの音に合わせて活動的になる。

 馬車道は間髪入れずに膝を曲げ、その場で跳躍した。床にいるサバービアを飛び越えるようにして、奴に向かって飛び込んでいく。股下スレスレでサバービアが口を閉じるのを感じた。

 そのまま奴の手元にあるウクレレをレンチで殴りつける。首にストラップがかかったまま、それは手元からこぼれ落ちてゆらゆら揺れた。のけぞった奴の顎を狙って、レンチで顎を打つ。奴は抵抗が間に合わなかったようだ。馬車道は無心で顔面を殴り続ける。しばらくして、奴は床に崩れ落ちた。そのあいだサバービアはなにもしなかった。

 破けて使い物にならなくなったシャツに返り血がべったりと付着している。汗と血液でレンチが手元から滑り落ちたが、それを拾う気にはならなかった。

 奴はまだ息があるが、もう当分立ち上がれるようには見えない。

 サバービアと目が合う。床に這うようにしながら、こちらを不思議そうに見上げている。

「そんな目で見ないで」

 馬車道は無性に落ち着いていた。そのことを自分でも不可解に思ったが、これ以上深く考えるのはやめた。救急箱を探すために片手で部屋を物色する。机の下にある引き出しからプラスチックの小箱を見つけた。消毒液と包帯がある。激痛に悶えながら、馬車道は左腕に応急処置を施した。

 ハスミンはサバービアに噛まれて死んだ。それの存在をどうしても公にしたくなかった馬車道たちは相談の果て、彼の死体を夜中に川へ捨てに行った。彼は人生がうまくいっているほうではなかったから……遺書をでっち上げるのもうまくいった。あの町には誰も彼もが見て見ぬフリをする性質があったから、彼女たちはそれをたやすくやりとおせた。

 そのとき以降、馬車道は小説を書けなくなった。自分はそんなことをする資格を剥奪された、と思った。本当は一生のうちのほとんどを刑務所で過ごすべきだった。

 包帯を巻いてすぐ、血が滲んでくる。しばらくそれを眺める。

 シャワーを浴びたいが、あんなユニットバスは使えない。クローゼットを開く。無個性で清潔感があるだけの、最悪な衣装ばかりだ。

「そこまで落ちぶれるなよ」

 ハンガーにかけられたそれらはすべてきっちりアイロンが当てられているが、一着だけシワの目立つロンTがある。ラコステとは別のワニのロゴ、クロコダイルのやつだ。

 それほどサイズにへだだりはない。そのTシャツを抜き取って、袖を通すことにする。

 机の上にスリープ状態のマックブックがある。

 馬車道は玄関前に倒れている、虫の息の奴の前にかがみ込む。

「パソコンのパスワードは?」

 十秒ほど息を乱してから、消え入るような声で言う。

「エフ、オー、アール、ジー……」

「え? なんだって?」

 よく聞こえない。しかも数字じゃなくてアルファベットだ。一度聞いただけで覚えられる気がしない。

「エフ、オー、アール……」

 ここまで言って、奴は咳き込みながら激しく息を乱す。

「ジー……」

「待った。メモるから。はじめから言え」

「エフ、オー……」

「ああ」

 スマホのメモアプリに、FOと打ち込む。

「アール、ジー、オー」

「ああ」

「ティー、ティー」

 RGOT……。

「イー、エヌ」

 EN。

 馬車道はマックブックを開き、メモ通りにパスを入力する。ロックは解除されない。

「あ。ごめん。聞き逃した。もう一回」

 返事はない。馬車道は奴の前にしゃがみ込み、頬を叩く。

「もっかい頼むよ。パスワード。お前テキトーこいたんじゃないだろうな?」

 奴はもうなにも言わない。まだ息はあるようだが、完全に気を失ったようだ。

「まったく」

 メモしたパスワードを駄目元でふたたび入力してみる。FORGOTEN……。

「フォー……ゴー……テン……ああ、forgottenフォーガットンか」

 Tが一文字抜けていたんだ。入力すると、ロックはたやすく解除される。

 起動中のワードソフトに、書きかけの『ニュー・サバービア』の原稿が見つかる。編集者とのメールのやりとりの痕跡もあった。

「お前の小説を毎回楽しみにしてる読者って……三人くらいはいるのかな」

 こいつはどうしようもない邪悪だが、その三人の楽しみを奪うのはいたたまれない。

「こいつを完結させて、次回作も書いてやるよ。あとのことは任せろ」

 馬車道は充電ケーブルが接続されたままのマックブックを閉じて手に取った。持ってきていたデリバリーバッグのポケットに収納する。

 自分がこれからどうするべきか、馬車道はもう決めてある。

 昔のように、サバービアを両手に抱える。ついさっき殺し合ったのに、こいつはそんなことなかったかのようにおとなしくなっている。よく見ると、目を閉じているようだ。眠っているのか。想定通り、小ぶりな身体はデリバリーバッグにすっぽりと入る。

「狭くてごめんね。お前は私と一緒に、帰省しなきゃいけない」

 サバービアの存在が公になったら、世の中は間違いなく変わるだろう。悪い方に。自分が平穏に暮らすことはもう諦めた。ただでさえ最悪なこの世界がさらに最悪にならないように、私はこうするよ。

 サバービアは出身地に……もう人が住めないあの地域に帰って、二度と誰にも見つからないようにじっとしてもらわなくてはならない。こいつをそこに返すことが、ほんの少しの贖罪になると思った。こいつがこのままここにいたら、きっと良くないことが起こる。自分たちの都合で勝手にこんなところに連れてこられて、身勝手な殺人の隠蔽に利用されたサバービアも不憫だ。これから何をしても今より良くなることは何もないだろうが、せめて元には戻したい。

サバービアを入れたバッグを背負う。かなりの重さだ。昔より体重が増えた気がする。

 準備を終えて、馬車道はさっさと部屋から出て行こうとする。

 床にのたれ込む奴を跨いだとき、消え入るような声がした。

「馬車道」

「なんだよ」

「これ……」

 奴は首にぶら下げているウクレレを指さした。ボディは歪んでいるが、まだ音は鳴らせそうだ。

「まだやるか?」

「いや……。これを持ってったほうがいいよ。……サバービアはこれでちょっと制御できる」

 馬車道は奴の首からストラップをもぎ取り、血濡れたウクレレを手に取った。

「どういう原理なんだよ。なんで楽器でさ」

「たぶん、音波……」

「え、なんて?」

 馬車道はウクレレを肩にかけた。これ以上バッグには入らない。

 サバービアはウクレレの音に呼応する。よくわからないが、そういうものだと割り切るしかない。

「ウクレレなんて弾けないよ」

 ひとりごととして言った。奴は反応しない。

「お前は世界を終わらせたかったの?」

「ちょっとずつね」

「なら、もっと真面目に小説を書けばよかったんだ」

 返事は返ってこない。

「ねぇ、馬車道」

「なんだよ! もう行くわ!」

「がんばってね」

 馬車道は両手で奴に向かって中指を立て、勢いよくドアを閉めた。

【第八章・殺人ブルドーザー】

 奴のアパートから出て、自転車のハンドルのスタンドにスマホを装着する。マップアプリを操作して、目的地を壕戸町に設定した。百三十キロ先、だいたい八時間。途中どこかで休憩を取れば十分な距離だ。自転車さえあればどこへだって行ける。

 まだ夜は明けていない。一時間ほど走れば、もう23区の外に出る。郊外に入ると、景色は変わり映えしなくなる。どこだって同じだ。迷ったりはしない。

 そういえば、と馬車道は思い出す。処方薬を持ってくるのを忘れた。毎朝服用しないといけないことになっているが、いまさら家に戻るわけにはいかない。

 飲まなくたって死ぬわけじゃない。

 もう首都圏を出たようだ。駐車場のやけに広いコンビニに入り、食料品とタバコとモバイルバッテリーを買いがてら休憩する。コンビニにしては珍しい銘柄が置いてある。入口そばの喫煙所で買ったばかりの『プラシーボ』の一本を吸いつつ、バッグを少しだけ開けて中を見る。サバービアはまだ眠っている。そういえば、ウクレレを肩にかけたまま入店してしまったことに気づく。デリバリーバッグを背負って片腕血だらけでウクレレ持って夜中に出歩いてるのって、完全に不審者だ。通報されないためにわざわざ自転車を使うことにしたのに、これじゃ本末転倒だ。

 缶コーヒーとパンで腹を満たし、走行を再開する。しばらく自転車を走らせていると、海岸沿いの工事現場にたどりつく。看板を見るに高層マンションが建つらしく、今はそこにある古い建物を解体している段階のようだ。

「金持ってるくせに郊外に住みたがる奴なんてクズだよ」

 ね、サバービア……。ひとりごとなんじゃなくて、背中のサバービアに語りかけているわけだ。ぜんぜん変なことじゃない。そう思う。

 しばらく走行して、馬車道は進みを止める。ブレーキをかけて地面に足をつく。

 通行止めの表示はなかったが、車道いっぱいになにかが車道を塞いでいる。自転車を近づけて、ライトを当ててみる。

 黄色いパワーショベルに、大型のブルドーザーだ。工事現場からはみ出して、公道に停めっぱなしの数台の重機が道を塞いでいるらしい。横幅のある車体やショベルのアームが進行を阻み、自転車でも迂回しないと先へ進めなさそうだ。

「迷惑なブルドーザーめ」

 馬車道はハンドルを切って、私有地の工事現場を経由して進もうとする。

 それと同時に、キャタピラが動いた。

「うわ! 誰か乗ってる?」

 危ない。操縦席を見上げるが、誰も乗っているようには見えない。しかし確かに今、キャタピラが動いてこちらに接近してきた。

 予想外の現象に、馬車道は肩を震わせる。

 さらに、アームが回転し、ショベルの爪部分がこちらに向いた。絶対に見間違いじゃない。

「え!」

 どう見ても操縦席は無人だ。キャタピラの音が聞こえる。目の前のパワーショベルのものじゃなくて、背後からだ。

 走行音はしだいに大きくなる。四台のブルドーザーが新たにこちらに向かってきている。どういうことだか理解に苦しみ、馬車道は萎縮した。そのまま複数台の重機に周囲を包囲される。いずれも無人だ。ブルドーザーのことなんてぜんぜん知らないけど、遠隔で同時に操作したりできるものなのか。だとしたら、なんのために?

 まだ重機の駆動音と思しき音が聞こえる。

 馬車道はとっさに自転車ごと倒れ込むように身を伏せた。頭上をなにか大きく重いものが横切っていった。それが起こす風圧を全身に感じる。

 恐る恐る立ちあがろうとして、ふたたび風を切る音を聞く。馬車道はヘッドスライディングの要領で前方に飛び込んだ。アスファルトに顔面を擦り、激しい痛みを感じる。

 地面に這いつくばったまま空を見上げる。頭上すれすれをなにかが往復していた。でかくて丸い物体……鉄球だ。あの重機の音はおそらくクレーン車のもので、こちらをめがけて振り回してきたわけだ。

「あさま山荘になった気分だな」

 誰も聞いてないのに冗談を言えるくらいには正気を保っている。馬車道はバッグを開け、自分と一緒に横倒しになったサバービアの様子を確かめる。まだ寝ている。クレーンで潰したら、さすがにこいつも死ぬんじゃないか。そうしたらなにもかも万事解決だけど……。

 でも、そうとも限らない。だからここを抜け出して、あの町に帰る必要がある。馬車道は結論づけ、この場から逃げ出す手段を模索する。

 クレーン車についている鉄球はモンケンと呼ばれる。語源はモンキーだ……ここまで考えて、馬車道はあわてて思考を中断する。なんでこんな状況下に陥ってまで、そんなくだらないことばっかり考えてしまうのか。いつかしょうもない理由で命を落とすだろう。

 四台のブルドーザーが進路を塞ぎつつ、その隙間を縫うようにして鉄球が飛んでくる。どうしたものか……。悪質な作業員がいたずらで重機を操っているとしたら、悪質が過ぎる。脅して金品を奪いとるつもりなら、こんな大掛かりなことをしないで刃物でも持って襲いかかりゃいい。機械の暴走なのか? シンギュラリティ!

 この前、駅のトイレで遭遇した怪現象を思い出す。突然あらゆる水が沸騰しだした。それと似たようなものか? 自分が気づいていないだけで、世の中はもうこういうのが普通になっているのかもしれない。なら仕方ないか。無人の重機たちに牙を剥かれて、私は「工事現場」に殺されて死ぬ……。そう考えると悪くないかも。

 頭上ではいまだにクレーンの鉄球が往復している。ちょっとでも立ち上がったら全身がぐちゃぐちゃになって死にそうだ。ちょっとずつ地面を這って、クレーンの射程から離れるしかない。そんな気力は残っているか?

 馬車道は横たわりながらしばらくそこにとどまっていた。疲労と全身の痛みがどっと押し寄せてくる。こんな状況なのに眠気を感じる。聞こえてきた新たな駆動音……キャタビラではなくタイヤのものであろうそれを聞き、はっと我に帰る。エンジンの音もする。

 べつの重機だ。徹底的にこちらを追い詰めるつもりなんだ。

 そういえば。馬車道は思い出す。ほんの少しだけ働いていた運送会社で、重機とはほど遠いがフォークリフトを操縦していたことがあった。誰かが言っていたはずだ。今の重機には緊急停止機能がある。センサーがあって、人が近くに接近しているのを検知するとブザーがなって自動で機能が停止する。たしか三メートル以内。

 だとしたら、この進路を塞いでいるブルドーザーは……。

 動かないはずだ、という考えに至った束の間、止まっていたはずの重機のエンジンが起動した。そのうちの一台のパワーショベルのアームがすばやく動く。薙ぎ払うようにショベルが横に動き、爪が頬をかすめる。

 ショベルカーの攻撃にニアミスしたことはあるか? 私はある。

 心臓が痛いほど高鳴る。この場所も安全地帯ではないと察し、這いずりながらかすかに移動しようとする。それに合わせるように、少しずつキャタピラが動く。こんな些細な動きすらも認識する以上、自動運転とは考えにくい。誰かがこの状況を観察しながら、的確に重機を操っている。そうとしか思えなかった。

 通過する鉄球の位置が若干下がっているような気がする。気のせいかもしれないが、もしかしたら、すこしずつ感度を調節しているのかもしれない。いつかは命中するように。

 馬車道は口を閉じたまま息を吐く。歯の隙間から呼吸が漏れる音を鳴らす。しゃがんだときにウクレレのペグが腹に食い込んで痛かった。

 背中に振動を感じる。サバービアが目を覚ましたようだ。バッグの中でもぞもぞと動いているのがわかる。いきなり狭いバッグに詰められてこんなところまで連れて来られたら、さすがのこいつでも動揺するのだろうか?

「サバービア、大丈夫?」

 この自分の人生をめちゃくちゃにした元凶をどうにかするためにこんな目に遭っていると思うと、なんだか無性に笑えてきさえする。

 窮地を脱して、生き延びて、目的を無事に成し遂げてからこの経緯を小説にしたら面白いだろうか。そうでもないだろうな。とてもじゃないが主人公に共感できるポイントが一個もない。ぜんぶ自業自得なんだもんな。……まぁ、そこはちょっとアレンジすればいいか。あいつと同じだ。

 このさい自転車は諦めるしかない。スマホだけをスタンドから外し、バッグのポケットに収納する。鉄球は常にすごいスピードで頭上を往復し続けているが、裏を返せばそれしかできない。ほかの方向に逃げればいいだけだ。

 そうした場合、進路を壁のようにぴったりと塞ぐブルドーザーが邪魔だ。全高は三メートル近くある。

 馬車道は頭上に注意を向ける。振り子のように物々しく往復を繰り返す鉄球がちょうど真上を通過し、向こう側に飛んでいった。すかさず起き上がり、側面のブルドーザーのうちの一台にしがみつく。キャタピラを足がかりとして、操縦席に飛び移る。このブルドーザーの操縦席は個室になっているわけではない。扉はなくて、剥き出しだ。操縦席の椅子にたどり着いたとき、鉄球が戻ってきて、さっきまでいた地点の空気を薙いだ。ぐしゃり、と自転車が粉砕される音がする。馬車道は泣きたくなった。

 椅子から反対側に飛び降りる。背負ったバッグをクッションにするように、仰向けになって背中から落ちた。アスファルトに着地する。サバービアは潰れたか? あいつは死なないから大丈夫。

 とてつもない破壊音が背後で響く。クレーンの鉄球がブルドーザーに激突し、車体を砕いた。ブルドーザーはかすかに跳ねてから、その場にとどまる。

「やっぱり。狙ってるのか」

 すかさずその場から逃げ出す。平衡感覚が正常でなく、まともに走れているかどうかもよくわからない。キャタピラの駆動音が聞こえる。先ほどのブルドーザーのものよりは若干軽い気がする。走りながら振り向く。

 なにかが足の先に触れた。足元を掬われ、砂利道に倒れ込む。巨大なハサミのようなアタッチメントを先端に装着した小型のショベルカー……ユンボだ。ユンボのアタッチメントの先端が開き、足を切断せんと勢いよく閉じる。その寸前で立ち上がって走りつづける。

 ユンボってどんぐらいの速度出るの? 走って逃げ切れるくらい?

 疲労と脱水がピークに達して、馬車道は走りながら嘔吐した。脇腹と喉が痛む。ぜんぜん逃げ切れそうにない。ユンボってこんなに速く走れるものなのか。キャタピラなのに。

 身体を酷使しすぎて頭がよく回らない。どこまで逃げ切ればいいのかも判断がつかない。

 重機はすぐ背後に迫ってくる。ガソリンの匂いも感じた。

 馬車道は深く息を吐く。背中に背負っていたバッグを手に持つ。

 すばやく振り返る。キャタピラの進行方向に向かって、それを勢いよく投げつけた。ユンボは方向転換や一時停止はしない。そのままバッグを踏みつけるように前進し、車体を傾けた。

 バランスを崩したまま横転する。激しい音を立てて、ユンボはその場に倒れた。バッグはキャタピラの跡がついて凹んでいる。馬車道はそれをすかざず回収する。

「ごめんね。痛かった? どうせ死なないんだから別にいいよね!」

 中を開けて確認すると、重機に踏まれたのにも関わらずサバービアはおとなしくしている。怪我や損傷のひとつすら見当たらない。思ったとおりだった。こいつはどうやっても死なない。だから、絶対に壊れない盾として使える。

「ざまぁみやがれ」

 息を切らしながらも馬車道は口に出す。自分がちゃんと生きているという実感が湧かなくなるほどに満身創痍だった。身体に水や血がまったく足りていない気がする。

 周囲を見回す。ほかに動いている重機はない。この得体の知れない現象は収まったのだろうか。倒れたユンボの操縦席を見る。これも無人だった。感情を発露させることすらままならないほどに疲れ果てた馬車道は、もうこのくらいでは驚かない。

「あ……」

 遠くに光が見える。重機のライトかと思ったが、それとは形が違うようだ。円形をしている。懐中電灯の光を思わせた。光はゆっくりと移動している。こちらに向かって来ているのだろうか。

 逃げるべきかと思ったが、脚がもう動かない。ここでとどめの一撃を喰らうのならもういいか。諦観に心を支配される。その場に座り込んでしまう。自分が死んで、サバービアの存在が明るみになったら……。案外それもいいかもしれない。いいことに、世の中をちょっとマシにするために、誰かがこの力を使ってくれるのかもしれない。ならいいや。

 光が近づいてくる。眩しさに目を眩ませたのち、馬車道はゆっくり目を閉じる。

 第五話は8月23日(水)に配信予定です。

筆者について

なみき・どう 1999年生まれ。茨城県出身。大学在学中の2021年、茨城県に暮らす3人の女子高校生の大麻栽培を描いた小説『万事快調(オール・グリーンズ)』(文藝春秋)で第28回松本清張賞を受賞しデビュー。

  1. 第一話 : フードコートと猫のゆりかご
  2. 第二話 : びしょびしょの町とかわいい闇
  3. 第三話 : 私小説の時間は終わり
  4. 第四話 : ワニワニパニック
  5. 第五話 : 職業には向かない女
  6. 最終話 : ペイルランナー
連載「ニュー・サバービア」
  1. 第一話 : フードコートと猫のゆりかご
  2. 第二話 : びしょびしょの町とかわいい闇
  3. 第三話 : 私小説の時間は終わり
  4. 第四話 : ワニワニパニック
  5. 第五話 : 職業には向かない女
  6. 最終話 : ペイルランナー
  7. 連載「ニュー・サバービア」記事一覧