ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学
第4回

ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理

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セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。

個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。

海外産スマートフォンゲームのPVがもたらした衝撃

かなり長い助走を経た気がする。いや、この時を待っていたのか。

【ブルアカ】4th PV

2023年1月22日に公開された、スマートフォンゲーム『ブルーアーカイブ』のPVである。筆者は日頃からTwitterで「セカイ系」と検索する習慣があるのだが、この動画の公開直後は同ゲームに対する言及が集中的に目立った。同ゲーム自体が「セカイ系」だという言及が増えたわけではなく、その語を使わずに盛り上がっていた人のほうが多かったはずだが……他の最近のどの作品よりも、筆者がこの映像に「セカイ系」を感じたのは確かだ。というか、この連載で「セカイ系」をキーワードに筆者がやろうとしていることは、この2分半の映像にすべて凝縮されていると思えたのだ。

なお、先に断っておくと筆者は、本稿の執筆時点で『ブルーアーカイブ』をプレイしていない。メインストーリーのプロローグ~Vol.1の内容を、YouTubeのプレイ動画を通じて知っている程度である(ほか、公式書籍におけるスタッフインタビューには目を通した)。できる限り慎み深く言及することを心がけるつもりなので、既プレイの読者は何卒お許しいただきたい。

まずはじめに触れておきたい重要な事実がある。『ブルーアーカイブ』は中国企業のYosterが運営、韓国企業のNEXON Gamesが開発を手がける、海外スタッフによって生み出されたタイトルなのである。そして、シナリオ担当のインタビューには(日本向け書籍への回答ということもあるが)庵野秀明、奈須きのこ、西尾維新、舞城王太郎といった『セカイ系とは何か』(前島賢・著)にも重要人物として挙げられた固有名詞が並ぶ1。「セカイ系」もその内に含まれる、2000年代に隆盛をきわめた、アニメ・ゲームと文学が独特の融合を見せたムーブメント2からの影響がこのゲームには流れ込んでいるのである。

さて、上記のPVは「4th PV」ということで、ゲームのリリースから2周年を迎え配信されたメインストーリーの「最終編」を盛り上げるものになっている。魅力的なキャラクターを次々と投入し「ガチャ」を引かせることで収益を成り立たせるスマートフォンゲームの性質上、数多くの登場人物が存在する本作では、どうやら通常の人間とは異なる身体的特徴(頭上に浮いている光輪のようなオブジェクトが象徴的だ)を持つ女学生たちが重火器を手にして戦っている。本作の世界にはいくつかの「学園」があり、各々が現実でいうところの国家に相当する自治権を持っているようで、「最終編」に至るまでの「Vol.1~Vol.4」では、それぞれの「学園」を舞台にしたストーリーがオムニバス的に展開される。ときには政治的に対立するそれらの「学園」が、共通の巨大な危機に対して一時団結し立ち向かう、というのが「最終編」の大まかな内容のようだ。

PVの前半部では、そういった決戦前夜の雰囲気が断片的に提示される。印象的な静止画が高速で切り替わっていくのだが、指令室の電子モニタ、ブリーフィングの様子など、『ヱヴァンゲリオン新劇場版:序』でも山場として描かれた「ヤシマ作戦」をかなり彷彿とさせるものである。また、遠方に光の柱を見やる人物のカット、といったものも見られ、これも『エヴァ』的なイメージを反復している。敵は小柄な女学生たちに対して巨大でさまざまな姿形を持ち、その得体の知れなさもやはり「使徒」を彷彿とさせる。

前半部と後半部のつなぎ目では、エモーショナルなピアノのフレーズと硬質なビートに支えられたインスト楽曲に乗せて高速で切り替わっていた静止画が一時停止し、上方向へとカメラアイが移動しつつ、夕焼け空に青い弧を描く彗星、そして宇宙空間のイメージが挿入される。ウユニ塩湖のような、水平線だけが広がる空間とそこに佇む人物のシルエットが表示され、誰のものかもわからない、断続的で思弁的なモノローグが覆い被さる。この足場を欠いた感覚、心象風景と遠い宇宙がモノローグによって無理やり接合されてしまうような感覚というのは、画面全体に満ちた淡い色彩やライティングのトーンも相まって、どこか「新海誠的」な抒情性を感じさせるものだ。

そして再び加速するBGM。時系列的に「Vol.1~Vol.4」、あるいはそれ以前の出来事を描いたと思われるカットが断続的に現れつつ、黒地に白で書かれた(おそらく複数の人物のものからなる)台詞の書き文字が目まぐるしく表示されていく。そうした走馬灯的なフラッシュバックを経て、前半部の時間軸に再び接合される。敵との戦闘はどうやらクライマックスを迎え(戦艦が敵本体?の黒い球体目がけて特攻していく様は、『シン・エヴァンゲリオン』終盤における「ヴンダー」の特攻のようだ)、明らかに重要人物でありそうな、黒いドレスを纏った女性が焦点の定まらない瞳で星空を眺めるカットを映して、静かに動画は終わっていく。

作家ではなくオペレーター

このPVが特筆すべき「セカイ系」的映像なのは、単に『エヴァ』や新海誠作品「っぽい」モチーフが画面に表れているから、という理由によるものだけではない。もちろんそれも重要なのだが、加えて、映像の形式的側面において『エヴァ』や新海誠作品のこれまで見過ごされてきたポテンシャルを(まったく無関係なタイトルであるにもかかわらず!)引き出していることによる。モチーフと形式が相互に参照し合いながら、「セカイ系」に関する議論をより一層深めてくれるのである。

前回までの記事で、庵野秀明と新海誠の最新作になお見出される「どこでもない」場所=〈セカイ〉の原型的イメージを抽出したわけだが(『シン・エヴァ』ラストの水平線だけがある空間=新海作品における「常世」)、作家のフィルモグラフィという観点から整理したとき、彼らはそこに背を向けることを選んでいた。『シン・エヴァ』のラストカットが庵野の出生地である山口県・宇部新川なのは自らの人生の宿題である『エヴァ』というタイトルにケリをつける意識があったためだろうし、『すずめの戸締まり』は新海が当事者ではない立場から東日本大震災という「国民的記憶」に向き合った結果、死の世界に通ずる「常世」に「戸締まり」をして「行ってきます」と別れを告げる被災地出身の主人公を描いていた。映画というものが線的な形式を持つメディアで、彼らがクリエイターとしてこれからも新しい映画を作っていく以上「この現実」が出口に置かれるのは仕方のないことだ。鑑賞者にとって画面の中の出来事はフィクションだが、それを作っているクリエイターにとっては、その外側に一本道の人生が続いている(「作る」というその行為は彼らの人生の一部である)。最終的に彼らの人生の物語に回収されていくのは、これからも作品を作り続けていくという宣言と考えたら喜ばしいことで、鑑賞者の側がそこに描かれていることを、「大人になれ、現実を見ろという価値観を押し付けられた!」とか言って、騒ぎ立てる必要はまったくない(むしろ両作品は〈セカイ〉を切断面として差し出した後、一拍置いて作家自らの自伝的語りを付け加えているという意味で、むしろそうした批判に対して良心的な作りになっていると言える)。

重要なのは、彼らがそれでもなお〈セカイ〉を画面の中に描かざるを得なかったということと、〈セカイ〉が連続的な物語=人生の切断面として現れていたということだ。「すべての時間が融け合ったような空」が広がる、扉の向こうの「どこでもない」場所。あらゆる時間軸から切断されているからこそ、そこを蝶番としてあらゆる時間軸と接合することができる。『すずめの戸締まり』の「常世」も、そのようなものとして描かれていた。

時空間をスライスし、その切断面を接合し直すことによって新たな語りを立ち上げる。これをデジタル環境における編集行為のプロセスに重ね合わせることもできるのではないだろうか。映像技法としてはモンタージュという名前でフィルムカメラの時代からあるものだし、それこそテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』のOP映像はアナログのセルアニメーションでありながら、本編の内容を示唆する意味深なカットを断片的に散りばめる手法といい、楽曲の起伏にピタリと合わせた編集といい、その特徴を先取りしていた。デジタル化以前と以後を分かつのは、こうした技法がソフトウェアさえ手に入れれば誰にでも簡単に活用できるようになったということと、他分野の制作においても応用可能であるということだ。たとえば「カット&ペースト」などの概念は、クリエイティブを生業としない市井の人々でも今や誰もが知っており、日常的な行為(たとえば、テキストエディタによる文書の作成)の中で理解されているものでもある。印刷術の普及が近代という時代を準備したように、デジタルツールを介した制作行為の一般化が現代人の潜在意識に与えた影響は計り知れない。

そして新海誠の出現とは、そのような時代の変化を予告するものだったからこそ衝撃的だったのである。『ほしのこえ』公開当時編まれた論集『「ほしのこえ」を聴け』(アニメージュ叢書、2002年)を繙けば、最初はCGクリエイターよりも、アニメーションのクリエイターに驚きを持って迎え入れられたとの証言が残っている3。その驚きは新海誠という個人に対してではなく、まず第一にデジタルツールを駆使して独力で短編アニメーションを作れるようになってしまったという、テクノロジーの進化に対するものだったはずである。つまり新海誠は「作家」ではなく、普及し始めたばかりのテクノロジーを操る優秀な「オペレーター」として世の中に出現したと考えられるのだ。

当時、新海誠本人と対談もした批評家の東浩紀は、同書に収録のインタビューで以下のように述べている。

編集というのは、印象の流れをコントロールする技術、つまり時間をコントロールする技術だと思うのですが、新海さんはその点で凄く長けている。一見無意味な映像を組み合わせて、事後的に意味を発生させることがとてもうまい。

『「ほしのこえ」を聴け』(アニメージュ叢書、2002年)

この作品は最近のオタク系文化が蓄積した「データベース」(編註:例として「中学生の制服だとか、夕方の教室だとか、ロボットのコクピットだとか、空が映ったらこういう感じがするだろうなあ、とか」と述べられている)に対して凄く従順な作品だと思うんです。〔…〕編集の技術や、音楽、声まで含めた映像面での完成度は凄い。『ほしのこえ』はよくできたミュージッククリップみたいなものです。

『「ほしのこえ」を聴け』(アニメージュ叢書、2002年)

東は続けて、対談時の印象も踏まえ「いわゆるオタク的現場からはちょっと引いた位置にいる」「メタ的に「アニメ」や「ゲーム」というジャンルに接してきた」人物と新海を評しつつ、「日本アニメが開発してきたお約束の集積を、無自覚なまま反復するのではなく、一種の効率のよさとしてクールに利用した」のではないかと結論づける。東の言葉を借りつつ整理すれば、「彼の中にある、訳のわからない表現への傾き」が現れていない「パイロットフィルム」を作ったにすぎないために作家としての評価は保留せざるを得ないが、デジタル制作ツールのオペレーターとしては、その優れた実力を認めるべきだ、といったところだろう。

レイヤーの美学

そもそも作家は「訳のわからない表現への傾き」を作品に込めなければならないのかとか、新海誠の資質は果たして「作家」的なところにあったのかとかいった判断は、ここでは差し控える。検討したいのは、新海……というより『ほしのこえ』という作品が端的に示したデジタル編集の方法論と、それ自体が持ちうる美学についてである。そして、実際に動画を見てくれた読者ならお気づきのように、その美学は『ブルーアーカイブ』のPVからも感じ取れるものである。

では、それは一体どのような美学なのか。

漫画原作者・編集者・評論家の大塚英志は『君の名は。』公開時に刊行された『新海誠、その作品と人。』(スペースシャワーネットワーク、2016年)というムック本に、「レイヤーの美学」と題した小論を寄せている。大塚は先に紹介した『「ほしのこえ」を聴け』にも序文を寄せており、新海誠および『ほしのこえ』という作品のポテンシャルを最も初期から評価していたひとりである。その出会いの際の驚きを込めて、大塚は以下のように述懐する。

ぼくが『ほしのこえ』を初めて見た時の驚きは、このアニメーションが、まず、一つのカットが計算された鋭角的なカメラアングルに加えて、レイヤーからなる重層的な画面の構成によって設計され(つまり映画の1カットとして徹底して設計され)、その上で、カット間でショット(ブロッキングサイズ)やアングルを大胆に変化させながら、それを一連の映像として、繋いでいき、そして、さらにその映像に少年と少女の声とメロディーが(妙な言い方だが)「重層的に重なる」構成になっていることだ。

言い方を変えれば、カットの中で風景がレイヤーの重なりとしてあり(つまり、空間内のレイヤー化)、そしてそのむしろ静止的であることが重要なカットごとの醸し出すイメージを私たちはレイヤーが次々と重なるように示され(時間軸上のレイヤー化)、そして、その映像の流れの上に少年のモノローグ、少女のモノローグ、そしてメロディーが重なる(意識、あるいは「声」のレイヤー化)のだ。そういう多元的なレイヤー技術によって新海のアニメーションが作られていた。

『新海誠、その作品と人。』(スペースシャワーネットワーク、2016年)

レイヤーとは、デジタルツールを手に現実やそれを構成する情報(視覚、聴覚……)に介入するための根本原理である。Adobe Photoshopをはじめとした画像編集ソフトの多くにはその名の通りレイヤー分割機能が標準搭載されているし、DAWと呼ばれる音楽制作ソフトの多くも、楽器の種類ごとに音声データを格納するトラックという横軸が層状に積み重なるインターフェースを備えている。

このような「レイヤーの美学」は、漫画雑誌の編集者、のち漫画原作者というキャリアを歩んできた大塚にとってはなじみ深いものだったという(たとえば人物とフキダシは同じコマの中に描かれているが、実際にフキダシは人物の横に浮いているわけではない。この状態を「人物とフキダシは別のレイヤーに存在している」と言うことができる)。そんな大塚が特に新しさを見出したのが、モノローグに代表される音声=意識レイヤーの扱い方である。当然ながら、漫画というメディアには音声がない。そして音声と映像をひとつのテーブルの上で合成できるというのは、オーディオとビジュアルをそれぞれ「情報」として処理できるデジタル環境ならではである。

さらに大塚の文章から引用しよう。

新海は彼自身、キャラクター、感覚の意識をレイヤー化して行くのだ。主人公、あるいは観客の主観が捉える空間をまずレイヤーとして構成する。風景はただの背景ではなく、内面の投影であり、意識の外化の手法である。主人公がどこにいるのかを説明するための背景画ではない。だから人物は最小限で構わない。そして風景を意識の流れとしてモンタージュしていく。つまり、繋いで行く。そこに、少年と少女の言葉や音がレイヤーとしてモンタージュされていく。彼は作中人物の、そしてそれを受けとめる主観や意識をレイヤー化し、モンタージュしていったのである。

『新海誠、その作品と人。』(スペースシャワーネットワーク、2016年)

大塚は、「物語が進行して行けばいくほど、ふたりのそれぞれのことばは互いに届かず、ただ、レイヤーとして、重なるだけだ」とし、これを『ほしのこえ』の「主題」として抽出する。クライマックスにおいて、実際に言葉は届いたわけではなく、鑑賞者にそう感じられるのは編集上の錯覚なのだが、二人の声色には微かな希望が感じられる。さらに加えて、作品の制作者である新海誠の主観と、鑑賞者である我々の主観の交わらなさも作品の中に重ね合わされているというのが、大塚の分析の勘所である。誰の心にも響かないかもしれないという不安に苛まれながら、しかし誰かに届くかもしれないという希望を携えて手を動かすこと。デジタル環境においては、電子メールの作成と、専用ソフトウェアを用いたムービー作品の制作との間に共通する原理(カット&ペーストやundo[元に戻す]など)がある。ミカコとノボルがメールを書き合うことと、新海がまだ見ぬ鑑賞者に向けて『ほしのこえ』という作品を作っていたことはパラレルなのだ。コミュニケーションと制作行為が結びつく時代における、普遍的な寂しさや切なさを定着させたことが、『ほしのこえ』という作品が持つ唯一無二の価値だと言えるのだ。

作ること、沈黙に耐えること、祈り

これまでの連載で、〈セカイ〉とは連続的な時間の流れの中に裂け目として現れる「どこでもない場所」であり、そこにおいて立ち上がるはずの感性だと書いてきた。ソーシャルネットワークの発達を背景とした、「あなたは何者か」の証明を強く求められるアイデンティティ・ポリティクスの時代、その窮屈さに対する「沈黙」という処方箋をもたらすものだ、とも。

しかし、「沈黙」したままでは他者と関わることができないのが問題であった。「何者でもない」ままの個人が、他者と関わることはできないのではないかと。

その問いに対する答えはおそらく、レイヤーをはじめとする、デジタル環境におけるさまざまな制作行為(文書を作成する、画像を加工する、音声を編集する……)の背後に共通して存在する原理の解明を通じて得られるのだ。パソコンの普及以来、時代が下るにつれてより直感的に、背後で機械やプログラムが作動していることを意識せず使えるように、デジタルツールのユーザーインターフェースはデザインされている。またスマートフォンの普及以後は特に、アプリケーションという用途を絞り込んだパッケージが手に取りやすくなった。利便性の観点で考えたとき、それはそれで正当な進歩なのだが、何か新しいものを「作る」という観点で考えたときには、そもそもデジタルに特有の性質とは何かということに思いが至りにくい環境が全面化していることには問題がある。『ほしのこえ』が示していたように、コミュニケーション(電子メールの作成と送受信)と制作(ムービー作品の制作と発表)をパラレルな関係において捉えられるということが、デジタル環境がもたらした革新だったはずなのだ。

ソーシャルメディアに投稿する言葉や写真について、「作る」という意識を持っている人は今や少ないだろう。ソーシャルメディア上を飛び交う言葉の体感速度が速すぎるのは、テクノロジーが透明化した結果、「作る」というプロセスに意識が向かなくなり、メッセージの意味内容のみが消費されやすくなったことにも原因がある。とはいえ、何も大層な「作品」を作らなければならないということではない。どのようなテクノロジーを背景に、どのような操作によって「作る」ことが可能なのか理解するだけで、たとえばSNSに言葉や写真をアップする際に、ふと立ち止まって「もっと工夫して文面を作り込んだら、これくらいの手間がかかるだろうな」と考えやすくなる。自分がいったい何をしようとしているのか、具体的にイメージすることができるようになれば、安心して沈黙の内に留まり、その先の制作行為にも進みやすくなるはずだ。

常にネットワークにつながり、瞬間的に言葉を不特定多数に向けて放つことができてしまう現代では、制作物が完成するまでの時間に耐える力を養うことも、それを届けたい対象への距離を想像する力を養うのも難しくなっている。沈黙に耐えるために必要な姿勢とはどのようなものだろう。『ほしのこえ』は、そんな姿勢を教えてくれる作品でもあった。本作において、携帯メールの送受信は早々に挫折を余儀なくされる。当時のネットワーク環境と現在のそれとは異なるとはいえ(2Gから5Gへ)、通信の挫折とそこからの歩み直しは、仮にネットワークなしで生きるとした場合のモデルを示している。お互いのメールが届くまでに数年の時間を要するようになり、文面にもノイズが交じるようになると、地上に残された少年ノボルは「心を硬く、冷たく、強くする」……すなわち沈黙という倫理を自らに課すようになる。その先のコミュニケーションは大塚も分析したように、あくまでレイヤーの操作による画面上の、仮想的なものとしてしか成功しない。しかしそれは希望を捨てずに沈黙を耐え続けたノボル、そしてミカコの姿勢に対する、『ほしのこえ』という世界――新海誠という作者が生み出し、鑑賞者によって観測された――がもたらした、奇跡という名の報酬と言えるのだ。

『ブルーアーカイブ』PVの中にも、こうした奇跡を願う祈りが満ちていた。次々に切り替わる静止画の中で、登場人物たちは海を見つめている。空を見つめている。遠くにそびえる塔を見つめている。一枚一枚の静止画もまた、デジタルツールのレイヤー機能を用いて奥行きが表現されている。巨大な敵や、象徴的な星空や海の表象を見やりながら、こちらに背を向けて立つ人物の構図は、総じてきわめてロマン主義的なものだ。しかし、異なる政治的立場を持つ「学園」の生徒を構図の中心に据えた画像が(ほとんど同時と言っていいほどの高速で)反復されることで、視点の複数性が担保され、全体主義的なイデオロギーへの回収は免れている。個々のイメージにどのような意味があるのか、物語らしきものは始まる手前で断ち切られ、無関係な時空間どうしが、音楽に乗せて無理やり接合されていく。彼女たちは戦いの日々に生きながらも、同時に学生であり、当然平和な日常を取り戻すことを祈っているはずだ。その切ない心情の集積が、匿名的な人物のモノローグを介して鑑賞者のもとに届くのである。PVの最後に表示される「最終編」のサブタイトルは、「あまねく奇跡の始発点」だった。

こうした映像が、現実においては日本と未だ政治的緊張感の漂う、中国・韓国の企業から生み出されたことも重要なことだ。東浩紀は『ほしのこえ』について、それ自体は「お約束」の組み合わせであり、鑑賞者によって「主題らしきもの」が読み取れるに過ぎないと言い放った。しかし逆に言えば、言葉に拠らない「お約束」的なイメージの組み合わせであることは、だからこそ、異なる言語=歴史=物語を持つ「国民」としての意識に基づく対立を超えた、デジタル時代の同時代人に普遍的な感情を誘発する可能性があるのだ。

切断とつなぎ直し

改めて整理しよう。〈セカイ〉をめぐる思考とは、あらゆる属性からも、時間からも空間からも断ち切られた、「何者でも、どこでもない」イメージをベースにすることによって、同じようなイメージを抱える物/者との接合をゼロから試みるものである。作品や出来事における、前後の関係から切れた切断面の発見に加えて、そのつなぎ直し=編集の方法論までを、〈セカイ〉をめぐる思考は射程に収める。

この連載の副題につけた、「『距離』の時代のイメージ学」とは何かということについても今一度確認しておこう。初回の記事ではソーシャル・ディスタンス概念の導入によって、ソーシャルネットワークの普及によって再編された「距離」の概念が改めて相対化されたと述べた。そのときは触れられなかったが、イメージという観点から真に重要だったのは、ロックダウン中にSNS上に出現した、無人と化した都市の写真である。見慣れた(心理的に近い)風景でありながら、まったく見たことのない(心理的に遠い)光景でもあったそのイメージは、「つながり」「シェア」という概念を軸にユーザーや出来事の距離を「近い」ものにし続けていくSNSというメディアにおいて、自分がいつ、どこにいるのかわからなくさせるような効果をもたらした。

作品の中に突如として現れる足場を欠いたイメージ=〈セカイ〉を積極的に発見することで、まったく別の作品における〈セカイ〉との接合可能性を探る。それは、特に物語系の作品において、従来は破綻や矛盾として見なされてきた要素を再評価することであり、そもそも「作品」として評価されることが少なかったフォーマットを、積極的に作品として評価することでもある(たとえば、かつて『ほしのこえ』に対するネガティブな形容としても用いられたミュージッククリップや、ゲームのPVなどがそうだ)。総じて尺が短く、断片的に表現されるそれらのフォーマットは、デジタルな制作において行われる操作(レイヤー分割、カット&ペースト、ループetc……)と非常に相性が良い。その原理を解明することは、「つながり」が基礎となってひさしい現代のデジタルコミュニケーション環境に、今一度新鮮な亀裂を走らせもするだろう。

またこうした視点に立つことで、「セカイ系」の典型的な物語形式についても、新たな見方が生まれるはずだ。「君と僕」と「世界の終わり」の間に社会や組織といった中間項が描かれていない、というのがかつての「セカイ系」批判の要点だった。しかし「君と僕」という二者関係は、最小の社会とも言える。それは親子や家族、地域共同体へと拡張していく可能性を持っているのだ。だからこそ、「君と僕」の関係の先に続くはずだった日常が「世界の終わり」によって突如断ち切られる、「セカイ系」のそうした側面をこそ、筆者はむしろ積極的に取り上げていきたい。本連載において「セカイ系」の恋愛要素は重要ではないということは、このタイミングで改めて断っておこうと思う。

〈セカイ〉との遭遇の記憶を携えて、また次の作品へと赴く。そこでまた出会った切断面=〈セカイ〉を蓄積していく。そうして構築された「アーカイブ」の総体を、「〈セカイ〉系」と呼んでみたいのである。

1『ブルーアーカイブ オフィシャルアートワークス』(一迅社、2022年)に収録のスタッフインタビューより、シナリオディレクター・isakusanの発言を参照。

2このムーブメントを牽引したのが、講談社文芸図書第三出版部によって編集された文芸雑誌『ファウスト』である(編集長は現・星海社代表の太田克史)。「闘うイラストーリー・ノベルスマガジン」をキャッチコピーに掲げ、ジャンルとしてはミステリ・伝奇を中心に、小説だけでなくイラスト・漫画・批評を織り交ぜた誌面を展開した。ちなみに、『ブルーアーカイブ』のシナリオパートにも同様のインタフェースが実装されている、ノベルゲーム(美少女ゲーム、ビジュアルノベルとも)の分析も行われた東浩紀の連載「メタリアル・フィクションの誕生」(後に『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』として刊行)が掲載されていたのもこの雑誌である。

 3庵野秀明総監督の下、後に『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の監督も務めた前田真宏は『ほしのこえ』に象徴されるデジタルツールを用いたアニメーションの個人制作について、集団制作が前提となっているアニメーションというフォーマットにおいて、本来「絵を描く」という行為には備わっているはずの「純度の高い(パーソナルな)」性質を取り戻せたという意味で革新的だという旨のことを述べている。「「ついに来るべきものが来たか」という気になりましたね。個人で「アニメ」を作る時代が来たんだなと。…彼らは集団作業ではできない「純度を上げる」ことが出来るわけで。…ツールにしても、特殊なものじゃないですよね。…とりたてて高額というわけでもないし、音楽や効果音といった音響も出来ますし、自分でツールをいじることで、そういう純度の高い仕事が出来る時代が来たんだなぁと痛感しますね。」

第5回へつづく

筆者について

北出栞

きたで・しおり。1988年生。神奈川県横浜市出身。幼少期の約4年間をドイツで過ごす。会社員として音楽系ウェブサービス/メディアの運営に携わりながら(2022年現在)、個人として文筆・編集を行う。これまで『リアルサウンド』、『CONTINUE』、音楽ZINE『痙攣』などに寄稿。セカイ系同人誌『ferne』主宰。Twitter:@sr_ktd

  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」
  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
  12. 連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」記事一覧