ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学
第9回

スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」

カルチャー
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セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。

個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。

スマートフォンゲームに着目する理由

前回、ソフトウェアを用いて「作品」を作る際に、デジタルの「素材(モノ)」としての性質――数による抽象化や、編集・加工・変換が容易であるなど――に直面する経験を、言葉(社会/ソーシャル)にもイメージ(一対一の親密な関係/つながり)にも還元されない領域に出会う体験として整理した。

また、「セカイ系」についてのよくある定義が「主人公と(たいていの場合は)その恋愛相手とのあいだの小さな人間関係を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」といった大きな問題に直結させる想像力」といった形をとっており、それぞれ小さな人間関係=イメージの世界、社会や国家=言葉の世界、大きな問題=言葉でもイメージでも表現できない世界として、精神分析家のラカンがいう「想像界・象徴界・現実界」の区分に相当する、という議論が行われていたことを確認した。

つまり本連載で問題にするのは「象徴界=社会関係」の欠如ではなく、「現実界=恋愛関係にも社会関係にも還元されない『モノ』の領域」を捉えるということである。そして、その領域をこそ〈セカイ〉という名前で具体化してみたいのだ。

これを踏まえて、今回は「作る」ことをしない大多数の人々にとっての〈セカイ〉体験――「モノ」の領域に直面する体験――はどのようにして得られるのかという話をしたいと思う。具体的にはスマートフォンゲームの分析を行うことによってである。

本連載の文脈における「〈セカイ〉系」の対極にあると言えるのが、スマートフォン‐プラットフォームビジネス‐ソーシャルメディアの三つ組である。直感的な操作によって、ソフトウェアの作動原理を覆い隠してしまうスマートフォン。ウェブ上での行動履歴を学習し、IDの下に「わたし」を統合するプラットフォームビジネス。そしてその「わたし」を「コンテンツ」として発信するように促すソーシャルメディア。物言わぬモノと対話する沈黙の時間を奪い、一元化された「社会/ソーシャル」の中に人々を閉じ込め続ける仕組みが、この三要素によって形成されている。

スマートフォンゲームはAppleやGoogleといったビッグテックが運営するストアで配信されるが、それぞれはスタンドアローンなアプリであり、ビッグテックによる情報収集からは独立したものだ。ユーザーのログイン傾向や課金率などのデータは運営元によって収集されるが、あくまでゲーム体験を改善するために用いられる。また、多くのコンシューマーゲームと同様に、ストーリーや世界観がシステムと必然的な結びつきを見せることで、プレイヤーの感情を動かすこともあるだろう。しかも、2000年代に「セカイ系」に分類される作品を作っていた作り手たちが、その作風を維持しつつヒットタイトルを送り出している事例もスマートフォンゲームでは見られるのだ。

スマートフォン‐プラットフォームビジネス‐ソーシャルメディアの三つ組の中で、唯一物理空間に存在する「モノ」でもあるスマートフォンを介して体験される「別のシステム」に着目することで、この三つ組を脱するヒントが得られるかもしれない。スマートフォンゲームに着目するのはこのためである。

「スキマ時間」から「別の時系列」を作り出す仕組み

多くのスマートフォンゲームは「基本プレイ無料」を謳っている。それは課金率と同様に「継続率」も重要だからだ。無料ユーザーも含めていかに多くのユーザーが継続してログインし、どこかのタイミングで課金をしてくれるか、その機会を増やすのが重要である。

ユーザーの日常のルーティーンの中に「アプリを立ち上げる」という行為を組み込むには、触っていて心地よいUIがあることを最低条件として、プレイの継続によって何かしらの利益が得られると思ってもらうことが必要になる。その報酬は多くの場合「新たなキャラクターユニットの実装」という形で与えられ、人気キャラクターの衣装替えユニットが実装されることもままある(代表的なものとして「水着衣装」や「クリスマス衣装」などがあり、スマートフォンゲームが季節感を大事にするのはこのためだとも言える)。

キャラクターが増えるほどその組み合わせのバリエーションも増えるし、描けるエピソードの幅も広がっていく。キャラクターという単位に縮約されていれば、わずかなスキマ時間でもシナリオを読むことが可能になるのも、忙しい現代社会を生きるユーザーにとってメリットだろう。

興味深いのはキャラクターごとのシナリオが、「記憶」という主題と結びつくことが多い点だ。たとえば、以前にもタイトルを挙げた『ブルーアーカイブ』。キャラクターごとに設定されている「メモリアルロビー」という機能は、個別シナリオである「絆ストーリー」を読み終えることで、ホーム画面に対象キャラクターの描き下ろしイラストを表示させることができるというものだ。「絆ストーリー」を読む際には、プレイヤーとキャラクターがメッセージアプリでやり取りをしている擬似インターフェイスから入っていくことになり、ストーリーはすべて過去形の「思い出(メモリー)」として記録される。

キャラクターや装備アイテムという単位に縮約されて、スマートフォンゲーム内の世界の時間はバラバラに散らばっている。それらを読み集めていくことは、歯抜けになったアルバムに、ふと家具の隙間から見つけた写真を補完して時系列を再構成していくようなものだ。このようにストーリー・世界観ベースで考えるとスマートフォンゲームは、「日用品」としてのスマートフォンにインストールされた、目覚まし時計や通話機能と並列の、「スキマ時間を取り込み、ルーティーン的な日常と別の時間軸を作り出す」アプリ=拡張機能だと考えることもできる。

継続率アップのため、定期的に新規の「ガチャ」や「イベント」を打ち出してくるスマートフォンゲームだが、プレイするにあたって重要なのは目先のコンプリート欲に惑わされず、そのストーリーや世界観は常に断片的にしか与えられない、という構えを持つことである。そうでなければスマートフォンゲームの体験は、効率よくゲーム内通貨を集め(時には直接課金をして)運営会社に貢献するだけの「労働」に成り果ててしまうだろう。

PCゲームからスマートフォンゲームへの展開

以上を踏まえた上での実例として、本稿では2022年にサービスを開始したスマートフォンゲーム『ヘブンバーンズレッド』(以下『ヘブバン』)を取り上げたい。本作は「セカイ系」についての議論が華やかなりし2000年代初頭にその代表格と言われる作品を送り出したPCゲームブランド・Keyの関わるタイトルであり、本作に注目することで、PCとスマートフォンというメディアの差異も浮かび上がってくる。

本作はKeyの母体である株式会社ビジュアルアーツと、スマートフォンゲームの開発に強みを持つ株式会社WFSの協業によって開発・運営されている。メインシナリオを手がけるのは麻枝准。新海誠とも同世代の1975年生まれである。2000年代に『AIR』『CLANNAD』などアニメ化もされた人気作を世に送り出した後、2010年代に入ってからは『Angel Beats!』『Charlotte』といったアニメ作品のシナリオを中心に手がけてきた。『ヘブバン』は麻枝自身がシナリオを手がけた完全新作のタイトルとしては、2007年の『リトルバスターズ!』以来15年ぶりの作品となる。

ここでノベルゲームとは何か説明しなければならないだろう。ひと言でいえば「デジタル絵本」である。その画面はシナリオを表示するテキストボックス、立ち絵と呼ばれる最低限の表情差分を備えたキャラクターの図像、背景グラフィックの三層で基本的には構成され、プレイヤーはクリックをすることでシナリオを読み進めていく。中でもムーブメントの最盛期を担い、Key作品の大半も属する恋愛アドベンチャーというジャンルでは、プレイヤー=主人公の一人称視点(主人公の姿は基本的に画面には映らない)で物語が進行していき、特定のキャラクターと親密になることが目標となる。

「ゲーム」とは言うが、選択肢を選ぶことによるシナリオ分岐以外にはゲーム性に乏しい。その代わり、シナリオの内容に合わせてキャラクターの表情が細かく変化したり、背景も切り替わるといった演出部分に力が入れられている。重要な場面ではイベントCGと呼ばれる特定のシチュエーションを切り取ったイラストが画面いっぱいに表示され、BGMやボーカル曲が相互作用して読者に感動を与える。少人数・低コストで開発できるため、ブームの最盛期には後に『Fate』シリーズというグローバルヒットを生み出すTYPE-MOONをはじめ、同人サークルも大きな存在感を持っていた。

麻枝は学生時代からコンピュータを用いた作曲(打ち込み)を行っており、自ら書いたシナリオの内容に沿った楽曲を自前で用意し、その流れるタイミングもスクリプト(プログラム)によって細かくコントロールする、デジタル時代ならではの「総合演出家」として唯一無二の存在感を発揮していた。しかし、アニメ制作においては書き上げたシナリオを元に作画スタッフが分業制で映像を制作するという工程上、主題歌や挿入歌の作詞作曲こそ自ら手がけていたものの、その流れるタイミングまではゲームと同じように細かく指定することができていなかった。

『ヘブバン』でも麻枝は当然のように主題歌・挿入歌の作詞作曲を手がけている。本作が麻枝にとって十数年ぶりのゲーム復帰作であることの価値は、その「総合演出家」としての能力を十全に発揮できる場が整ったということにある。さすがに自らプログラムを書くことはしていないようだが、WFSの協力でそれに近い体制が実現できているようだ(※1)。

 ※1 “麻枝 …ノベルゲームを作っていたときは、ひとつのセリフに対して表情や背景の表示、音楽の切り換えなど、すべて自分でスクリプトを組んでいたのですが、今回はWright Flyer Studiosさんに作ってもらったものを、右手が腱鞘炎になるぐらい監修しています。”
『ヘブバン』麻枝 准氏インタビュー。今後5年の構想もラストシーンも、その先も頭の中に。完成させるまで死ねないプレッシャーと戦い続けるクリエイターの真意(ファミ通.com)https://www.famitsu.com/news/202207/05263023.html

「泣ける装置」としてのPCゲーム

実は、ノベルゲームは前回少し触れた東浩紀の「データベース」理論を説明する格好の事例として取り上げられたメディアでもある。

テキストボックス・立ち絵・背景グラフィックという簡素な構造からなるノベルゲームは、当時の著作権意識やそれに関わるテクノロジーが発達していない状況では、フリーのソフトウェアで簡単に要素分解することができ、それを素材として使い回した二次創作のゲームが同人即売会などで流通することで巨大なムーブメントを形成していた。

そのようにデータに還元されてしまう存在にもかかわらず、「オタク」と呼ばれるユーザーが目の前のキャラクターに固有の愛着を覚えることができるのは、そんなことは百も承知で、キャラクターを構成する無数の「萌え要素」……つまりその背後にある「データベース」にアクセスすることを同時に楽しんでいるからだと、『動物化するポストモダン』では説明されていた。

麻枝の手がけた『AIR』への同書での評価は以下のようなものである。

一〇時間以上にも及ぶプレイ時間の後半は、実質的な選択肢もなく、ヒロインのメロドラマが語られていくのを淡々と読むだけだ。そしてそのメロドラマも、「不治の病」「前世からの宿命」「友だちの作れない孤独な女の子」といった萌え要素が組み合わされて作られた、きわめて類型的で抽象的な物語である。物語の舞台がどこなのか、ヒロインの病とはいかなる病なのか、前世とはどんな時代なのか、そのような重要な箇所がすべて曖昧なまま、『Air』(原文ママ)の物語はただ設定だけを組み合わせた骨組みとして進んでいく。

同作が人気を博したのは、「設定」の「組み合わせの妙」によるものであり、効率よく「泣ける」装置として評価されたのにすぎないというのである。

しかし前回も述べたように、東はあくまで哲学研究をベースとする「言葉」の世界の住人であり、仮にも「ノベル(小説)」と名前のついた「物語らしきもの」が当時人気を博していた、その不思議さを自身の職能意識に沿って立証しようとしたにすぎない。装置(「ただ設定だけを組み合わせた骨組み」)であることへのネガティブな評価も、ここに起因する。

確かにビジュアルノベルと呼ばれる、テキストボックスの代わりに前面にテキストがいっぱいに表示される、より小説に近いインターフェースを備えたものも人気を博した。その代表的な作家といえるのが『Fate』シリーズのシナリオで知られる奈須きのこであり、同氏は実際に『空の境界』などの小説作品も発表している。

しかし麻枝はもともと作曲家としてゲーム業界を志望した人間であり、ゲームのシナリオライターとして実績を積んでからも、「文章力には自信がないので、小説は書けない」との旨を公言してきた(※2)。逆に言えば、ノベルゲームという媒体は麻枝のような人間にも「物語らしきもの」を紡がせることができるのであり、そんな人間が作った作品がジャンルを代表するヒット作になり得たところに、ノベルゲームという媒体の核心を見るべきなのだ。

2 2021年に初となる小説作品『猫狩り族の長』を発表した際にも、それまでのキャリアを振り返って述べている。 / 「CLANNAD」から17年 麻枝准さんが初小説で問う「人生」(産経ニュース) https://www.sankei.com/article/20210612-LUYNK42IVNMWDG6HE3L7YQPE2A/

音楽的手法と「永遠の世界」

麻枝の手がけるゲーム作品が「泣ける」装置なのは間違いない。しかし、その理由は「設定」という言葉に還元できる要素の組み合わせの妙ではなく、テキスト・イラスト・BGMをプログラミングによって制御するメカニクスと、人々を踊らせるという明確な機能性を持つ、ダンスミュージック的なシナリオの構築法にこそある。

麻枝、および彼の影響下にあるKeyの諸作品には、真っ白で抽象的な背景に、ぽつりぽつりと吐露される独白のようなテキストが表示される形で表現される、それまでの物語進行とは別次元にある空間を描く演出が頻出する。それらは作品によって「永遠の世界」や「幻想世界」と呼ばれ、『AIR』のヒロインである「前世からの宿命」に起因する「不治の病」に侵された「友だちの作れない孤独な女の子」、神尾観鈴がそのような境遇にあるのも、同じような場所につながっているからだという(※3)。

そして、そのイメージを引き出したのはアメリカの音楽プロデューサー・BTの楽曲「Flaming June」なのだと麻枝は語る。

BTの作るトランスというダンスミュージックの一種は「“4-on-the-floor(日本では4つ打ちとも言われる)”と呼ばれるキック、非常に長いビルドアップ、アンビエンス、音の質感やシンセ、BPM125~150程度のテンポなど、反復的でメロディアスな構造」(※4)といった特徴を持つ。

恋愛アドベンチャーにおいては、登校とデートを繰り返す反復的な日常パートと、クライマックスの衝撃的な展開との落差によってユーザーの心を動かすという文法が確立されている。麻枝がパイオニアとして開拓したとも言われるこの文法は、反復的なビルドアップ(サビ前のパート)→昂揚感のあるサビ、というトランスの音楽的構成ともきれいに一致している。

Keyの立ち上げ以前に、株式会社ネクストンのブランド・Tacticsに所属していた麻枝が企画・執筆を手がけた『ONE~輝く季節へ~』(1998)は、初期キャリアの作品だけあってこの形式がわかりやすく取り入れられている。

「永遠の世界」は、プレイヤーのコマンド選択によっては回避できない「力」として日常パートに侵入してくる。主人公がそれに近づいていくたびに、周囲の人の記憶から存在ごと最初からなかったかのように扱われてしまい、最終的には主人公を完全に連れ去ってしまう。それまでのゲームプレイで十分にヒロインとの親密度を上げることができていれば、ヒロインだけは主人公のことを覚えていたと、また主人公自身も幼少期の「永遠」よりもヒロインのいる日常を尊いと思えるようになったということで、元の世界に帰還することができるという仕組みである。

「永遠の世界」パートでは、実際の空や海の写真を加工した抽象的で茫漠とした画像を背景として、以下のようなテキストが繰り返し流れる。問答無用で主人公を連れ去る、理不尽な「力」であることを先に強調したが、実際にプレイしてみると幻想的なBGMも相まって、どこか安らかな雰囲気を漂わせるものである。

どこまでもつづく海を見たことがある。

どうしてあれは、あんなにも心に触れてくるのだろう。

そのまっただ中に放り出された自分を想像してみる。

手をのばそうとも掴めるものはない。

あがこうとも、触れるものもない。

四肢をのばしても、何にも届かない。

水平線しかない、世界。

そう、そこは確かにもうひとつの世界だった。

『ONE』における「永遠の世界」は、主人公が幼少期に最愛の妹を失ったトラウマから逃避するため、「生きていてもつらいことばかりなのだから、永遠に時の止まった世界にいたい」と願ったことで生まれたと設定されている。そして、トラウマという現象がラカン派の臨床家によって説明される際に用いられるものこそ「現実界」――「セカイ系」の人口に膾炙した定義における「世界の終わり」に相当するもの――なのである。

いつか捨て去らなければならないものとして「現実界」的なものが、やがて還るべき場所として恋人や日常生活が設定されているという意味では、『ONE』は『シン・エヴァ』や『すずめの戸締まり』など、近年の「セカイ系」の流れにある作品と、25年前の作品にしてすでに同じ構造を備えていると言える。

麻枝の立ち位置が独特なのは、彼が「シナリオライター」でありながら「音楽家」であり、「ゲームクリエイター」であるということに尽きる。つまり小説や映像と異なり、始点から終点へ向かって進んでいく線的な構造ではなく、繰り返し聴く、あるいはひとつのエンディングを迎えたらまた最初からプレイし直すという、ループ的な経験によって特徴づけられるメディアを出自としているということだ。

「永遠の世界」的なモチーフも微妙にその形を変えながら、作品をまたいで何度も回帰してくることになる。

※3 BTのアルバム『These Hopeful Machines』日本盤に、麻枝准が以下のコメントを寄せている。「1997年発表「ESCM」が自分の創作人生に与えた影響は多大なものだった。そこから「永遠の世界(ONE)」「大気の中で待つ少女(AIR)」「幻想世界(CLANNAD)」は生まれた。今作ではその回帰が、ヴォーカル・アルバムとして果たされている。」

※4 Tranceミュージックとは?高揚感にあふれたUplifting Tranceの作り方(Native Instruments Blog)https://blog.native-instruments.com/jp/trance-music/

『ヘブンバーンズレッド』

以上を踏まえて『ヘブバン』を見ていこう。まず前提として、『ヘブバン』はキャラクターのレベルを上げ、より良い装備品を入手して強敵を撃破することでシナリオが進行する、いわゆるバトルRPGである。主人公の茅森月歌は女性であり、三人称のビジュアルで描かれ、PCゲーム時代に定番だった「主人公=プレイヤー視点」という図式はそもそも存在しない。

物語のジャンルとしてはSFに属する。未知の地球外生命体・キャンサーの出現によって、人類は滅亡寸前だ。プレイヤーが育成・操作することになるキャラクターたちは、前線で戦う兵士である。余暇の時間も用意されており、キャラクター同士の絆を深める(主としてコメディ調の)イベントも戦闘の合間に発生する。失いたくない絆が増えるからこそ死と隣り合わせの戦闘に緊張感が生まれ、ときに死者も出る展開には、これまでの日々が思い出されて「切なさ」を覚えることになる。

これだけ見ると、「永遠の世界」という道具立てを用いて学園生活中心の現代劇と幻想性を両立する独特の作風を確立していたPCゲーム時代から、単にSF・バトルRPGという伝統的なジャンル性に寄りかかった作劇に移行しているようにも見え、オリジナリティという面では後退したかのように思えなくもない。「永遠の世界」的な体験――言葉やイメージによって説明できない、不条理な「力」そのものとの対面――は、15年ぶりのゲーム新作では完全に失われてしまったのだろうか。

実際にはそんなことはない。むしろ、表面的には所在がわかりづらくなった「永遠の世界」がどこに保存されているかを見ることで、スマートフォンゲームというメディアにおける〈セカイ〉体験がいかになされるのかを掴むことができるのだ。

(以下、メインストーリー第三章クリア以降のネタバレを含むため注意)

メインストーリー第三章クリア後、作中でプレイヤーが育成するキャラクターたちは「ナービィ」という(キャンサーとはまた別の)地球外生命体が、実在した死者の生体情報をもとに擬態した姿であったということが明かされる。これまで人類のためにと戦ってきた人格も、すべてオリジナルの複製に過ぎなかった。自分たちは使い捨ての兵器だったという事実を突きつけられ、キャラクターたちは苦悩する。

茅森たち、人間に擬態したナービィたちは「ヒト・ナービィ」と呼ばれ、肉体の死を迎えるとナービィの姿へと戻り、ヒト・ナービィであったときの記憶もすべて失われる。一度ナービィに戻ったら再びヒト・ナービィに戻ることはなく、つまり記憶の消失という意味での「死」は不可逆なのだという。

「死」を迎えた「かつてヒトだった」者たちの心象風景の描写は、BGMも含めて「永遠の世界」のそれにも匹敵する幻想性を湛えており、麻枝准の真骨頂ともいえるものだ。

わたしは…なにをしようとしていたんでしょう…。

それは…ちゃんと…できたのでしょうか…。

だれかおしえてください…。

なしとげたのでしょうか…わたしは…。

わたしは…わかりません…。

もう…わたしがだれだったか…それすらもわかりません…。

スマートフォンゲームにおいて、キャラクターに付随するストーリーが「(断片化された)記憶」の形をとることはすでに見た。それは「スキマ時間」を活用してランダムにシナリオを読むことになる、プレイヤーのライフスタイルに寄り添うものでもあった。

『ヘブバン』ではそうしたプレイヤーの時間体験の「あらかじめ壊れている」あり方が、キャラクターの設定に折り返されているのである。ある人物をその人物たらしめる時間=記憶の連続性がばらばらであり、その根拠を支えるものもどこにもない、ということがおそるべき事実として突きつけられる(※5)。

※5  ちなみに、もともと『ヘブバン』ではプレイヤーの視点を肩代わりする、ノベルゲームと同様の「主人公」――兵士である女性たちに命令する男性の指揮官――が想定されていた。しかし麻枝の筆がどうしても乗らず、現在の形になったという経緯がある(『週刊ファミ通』2022年6月9日号のインタビューより)。麻枝は兵士である女性キャラクターこそが、性別問わずこのゲームをプレイする人間の似姿であるということに、直感的に気づいたのかもしれない。

「記憶の不確かさ」という主題

自らの同一性の拠り所である記憶の連続性への不信感、それがもたらす存在不安。これが『ヘブバン』における「永遠の世界」に直面する体験に相当するものだ。

『ONE』や『AIR』において「永遠の世界」的な空間は、いずれそこから離れなければならない場所だった。PCゲームのプレイヤーはモニタの前に座って作品世界と長い時間一対一で向き合っていたし、主人公の視点=プレイヤーの視点という図式も成り立っていた。何より恋愛アドベンチャーというジャンルにおいては、恋愛対象のキャラクターと添い遂げるというのが最優先事項である。これにより「いつかはゲームを終え、モニタの前を離れなければならない」というプレイヤー自身の体験と重ねる読解もなされたのである(※6)。

『ヘブバン』ではメインストーリーでゲームオーバーになった際、どことも知れない謎の部屋に飛ばされる仕様になっている。キャラクター育成のためにダンジョン探索などをする際にもここを経由することになっていて、システム的には「ホーム画面」なのだが、茅森を通してプレイヤーにチュートリアルをしてくれる「しゃべる猫」がいるなど、何か意味ありげな幻想性が付加されている空間でもある。

この空間の正体はまだ明らかになっていないが、部屋とダンジョンを仲介する地点に基地の似姿があり、そこにはノイズの走った、壊れたデータのような各キャラクターの似姿がいることから、おそらくナービィとしてそれまでに蓄えた「記憶」が断片的に集まってできた、アカシックレコードのような場所と考えるのが妥当なように思われる(ちなみに、このノイズを取り除くための「記憶の修復」というコマンドも存在する)。ストーリーの時間軸とは異なる位相に属し、ゲームプレイの中で何度も立ち返る場所という意味では「永遠の世界」に近いようにも思えるが、あちらがゲームプレイの「終わり」に連動していたのに対して、こちらはキャラクター強化のためのダンジョン探索など、むしろゲームを「継続」するための拠点として位置づけられている。

スマートフォンゲームは、収益性に問題がないかぎりはずっと続いていく。外出先にも持ち運ぶ、「日用品」としてのスマートフォンに追加されたアプリであり、さまざまな日常生活のスキマで体験するという制約が、あらかじめ織り込まれたものでもある。

だからこそキャラクターという、ゲームをプレイし続ける上でずっと付き合い続けなければならない存在に近いところに、「永遠の世界」に相当する「不確かなもの」への感性が埋め込まれているのである。

※6  東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』(講談社現代新書、2007年)など。

精神から脳へ――物質性に着目する哲学の流れ

現代フランスの哲学者、カトリーヌ・マラブーは、肉親がアルツハイマー病に罹った経験などをもとに、脳が損傷を受けることによって人格が変わってしまうような事例は、精神分析の枠組では扱えないのではないかという議論を展開している。

つまり人間という存在の物質的な側面を強調しているということであり、これまでコンピュータの物理的な基盤と、言葉やイメージの外から到来する「力」――ラカンの「現実界」――を重ねてきた筆者の話とも重なるのだが(実際に当初「そんなことはラカンがすでに言っている」という反論もマラブーに対してあったらしい)(※7)、精神と結びつく物理的な基盤として、より即物的に脳というものを持ち出したところに差別化のポイントがあるといえる。

マラブーは脳と精神の関係に見られる特有の性質――物理的な損傷によって不可逆の精神の変化が起こってしまう――を、脳の「(破壊的)可塑性」という用語で表す。「可塑性」とは、マラブーの弟子でもある哲学者・小説家の千葉雅也によれば、「『すべては仮固定的に形態を持ちながらも差異化し変化していく』というようなタイプの差異概念」だという(※8)。

これを聞いてナービィの生態を思い出すのには、おそらく必然性がある。マラブーは東浩紀も研究の対象としていた80年代「フランス現代思想」ブームの中心的哲学者、ジャック・デリダの弟子であった。デリダは、テクストの精緻な分析を通じてさまざまな二項対立(差異)を見出しその階層構造を転覆させることを試みる、「脱構築」の哲学者だった。そこにはマラブーが新たに着目した、「モノ」の「形」への視線が欠けている。PCからスマホへという時代の流れの中で、追求すべき物語と同じように、追求すべき哲学も変わっているということだ。

スマートフォンの「直感的」で「直接的」な操作感と、ネットワークの高速通信化による、言語やイメージを介す間もない「レスポンスの早さ」は、脳という物理的な基盤への注目を高めている。人間の脳の基本的な構造は狩猟時代から変わっておらず、スマートフォンが要求してくるアテンションの過剰さには対応できていないという説を唱える『スマホ脳』(アンデシュ・ハンセン、邦訳2020)という本がベストセラーになったことも思い出される。

到来する「力」(≒「永遠の世界」)を精神的なものとして処理するだけでなく、それを受け止める自らの物理的な基盤――脳や身体――の「可塑性」として理解すること。

ヒト・ナービィとしての茅森たちは、私たちの似姿なのだ。

※7  カトリーヌ・マラブー『新たなる傷つきし者 フロイトから神経学へ、現代の心的外傷を考える』(平野徹訳、河出書房新社、2016年)

 ※8 千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書、2022年))

デジタル時代の「作家性」を問う

以上、『ヘブバン』を事例にスマートフォンゲームにおけるストーリー・世界観とシステムとの連動を見てきたわけだが、これらがすべて麻枝准という個人のアイデアによって成立したものではもちろんない。WFSの公式サイトに掲載されたスタッフインタビューによれば、たとえば先に挙げたホーム画面のデザインなどに関して、スマートフォンRPGとして成り立たせるために、どのような機能やインターフェースが必要なのかWFS側が一度プロトタイプを作った上で、そこにどのような意味合いを持たせればストーリーと整合性がとれるのか、麻枝の協力も仰ぎつつ詰めていったという実態が語られている。(※9)

しかし、仮に名のある作り手を擁したプロジェクトであっても、そうしたプロセスが踏まれるということ自体が重要なのだ。特定の誰かが考えた物語的な主題ありきでユーザーの体験が考えられるのではなく、ユーザーが普段意識することなく行っているルーティーンに、いかにゲーム体験を組み込むかという視点で考え抜かれたシステムに、後から物語的な意味がついてくる。

まずプロトタイプを作ってみて、逐次改良を加えながら後から意味付けを行っていくというのは、編集・加工が容易なデジタル環境によって急速に一般化した制作のプロセスである。デジタル時代の「作家性」とは、そのように個人の主体性をソフトウェアなり制作環境なりに一部「明け渡す」ことによって成立する、「オペレーター」としての能力によるものだというのもこれまでに繰り返し言ってきたことだ。

デジタル環境で制作された作品を評価する際に重要なのは、そうした「作家性」概念の更新と同時に、ある固有名――今回なら「麻枝准」という名前――のもとに一貫しているものを見定めるということだ。そうすると「永遠の世界」のように、デジタル環境との協働の中からどうしても溢れてきてしまうものが見えてくる。

自分と普段触れているデジタル環境との間にもそういったものを見出すことができれば、プラットフォームに搾取されるだけでない独自の付き合い方を見つけられるかもしれない。それが「作品」を作る、という方向でなかったとしてもだ。

 ※9 『へブンバーンズレッド』の面白さは”行間”に宿っている。企画スタッフが語る開発秘話(WFS公式サイト) https://www.wfs.games/blog/story/interview17/

第10回へつづく

筆者について

北出栞

きたで・しおり。1988年生。神奈川県横浜市出身。幼少期の約4年間をドイツで過ごす。会社員として音楽系ウェブサービス/メディアの運営に携わりながら(2022年現在)、個人として文筆・編集を行う。これまで『リアルサウンド』、『CONTINUE』、音楽ZINE『痙攣』などに寄稿。セカイ系同人誌『ferne』主宰。Twitter:@sr_ktd

  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」
  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
  12. 連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」記事一覧