ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学
第1回

20年後に聴く「ほしのこえ」

カルチャー
スポンサーリンク

セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。

個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ文筆家・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。

パンデミックで「世界」はリセットされた

「世界っていう言葉がある。私は中学のころまで、世界っていうのは携帯の電波が届く場所なんだって、漠然と思っていた。」

『ほしのこえ』(2002年)

最新長編『すずめの戸締まり』が公開されたばかり、今や日本を代表するアニメーション作家のひとりとなった新海誠。そのデビュー作である短編『ほしのこえ』(2002年)の冒頭を飾るモノローグだ。同作は超光速航行する宇宙船に乗った少女と地上に残された少年との(時差によって引き裂かれる)恋愛模様を、携帯メールの送受信の遅延現象に重ね合わせて描いた物語である。そこでは漠然と「遠い」場所を指す言葉としての「世界」と、その「遠さ」を測る物差しとして「携帯の電波(の届く距離)」が採用されていた。しかし、いまでは手のひらのスマートフォンで、リアルタイムに「世界中」の出来事が送受信される。「携帯」から「スマホ」へ、「3G」から「5G」へという推移の中で、先述のモノローグはすっかり同時代的なリアリティを欠いてしまったように思える。

では20年の時を経た現在、「世界っていう言葉」に対応するのは一体なんだろう?

2020年代も3年が過ぎ去ろうとしている。この3年間というのは、2010年代を通じて変質してきた「世界」という言葉の意味合いがリセットされた期間でもあった。

言うまでもなく新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックによってである。

大規模な移動制限、「ロックダウン」が行われた街からは人が消え、至近距離で会話をする際にはマスクをすることが暗黙の前提となった。人と人との適切な距離をとることが「ソーシャル(フィジカル)ディスタンス」と謳われ、文字通り「社会的距離」は「物理的距離」と置き換え可能なものとなった。

一方で遠隔通信テレコミュニケーションの存在感が飛躍的に増したのもこの3年間だった。Zoomに代表されるビデオ会議ツールによりリモートワークの導入が進んだ半面、必ず「接触」してのサービスを行わなければならないエッセンシャルワーカーの不遇が改めて可視化されもした。

各国のガバナンスは異なれど、こうした事態はある程度同質的な危機として「世界中」に共有された。WHO(世界保健機関)によるパンデミックの認定は2009年の新型インフルエンザ以来とのことで、今回のパンデミックはソーシャルメディアとスマートフォンの普及以来初めてのパンデミックということになる。日本においては2011年の東日本大震災をきっかけに災害メディアとしてのTwitterに注目が集まり、他愛もない日々の「つぶやき」を投稿するライフログから、徐々に社会インフラ的な性格を帯びるようになってきたのは周知の通りだ。海外に目を移しても、台湾での民主化運動(雨傘革命)や#MeTooおよびブラック・ライヴズ・マターといった社会運動、2016年アメリカのドナルド・トランプ大統領選勝利に至るまで、2010年代の政治・社会のさまざまな局面でソーシャルメディアは力を発揮してきた。タッチパネルで操作するスマートフォンというデバイスの普及も手伝い、それら「社会」的イシューは擬似的に「触れられる」ものとなる。同じインターネットという技術でありながら、この惑星を覆い尽くしたそれは「遠い」対象にアクセスするものではなく、「近い」距離で私たちを圧迫するものになった。

そこにあるひとつの問題は、すでに「近い」距離で私たちを圧迫するものになっているにも関わらず、インターネットが「世界」という、かつての「遠い」場所を指すニュアンスを持つ言葉とともに使われ続けていることである。国際ニュースとしてカテゴライズされる海外の動向はもちろん、政治的・社会的なイシューを取り上げながら誰に向けるでもなく「広い世界を知れ」などと宣う光景は、日々インターネット上でも見られるだろう。「世界」は依然として現在いる場所から相対的に遠い/広い場所を指す言葉として捉えられており、しかし実際には遠さや広さというスケール自体が壊れてしまっている。『なぜ世界は存在しないのか』というタイトルの哲学書がひところ話題になったが※1、このタイトルが表しているのは、「世界」なる、あらゆる物事を包み込む最も外側の円は存在しないといったほどの意味だ。しかし実際にはそのような言葉遊びに堕することなく、それでも「世界」という言葉が使われ続けている事実に目を向けなければならない。

1:ドイツの哲学者、マルクス・ガブリエルの著書『なぜ世界は存在しないのか』(原題:Why the World Does Not Exist、2013年)。清水一浩訳による日本語版は、講談社より2018年に刊行。

コロナ・パンデミックによる「世界同時危機」は、世界中のあらゆる「当事者」からの怨嗟の声が手のひらの上にフィードバックされ、自身が「何者か」であることをひとりひとりが問われ続ける「分断の時代」の困難からの解放を、私たちにもたらした。一時的ではあれ、確かに未知のウイルスの脅威というひとつのイシューのもとに「人類」というひとつの主語は立ち向かっていたのだ。無人の街の風景や、ウイルスの存在などどこ吹く風で宙を舞う鳥、その背後に広がる青空に、すべての人が同様に、かつて「世界」と呼ばれていたものを透かし見たのではなかったか。

もちろん先に述べたように、個々の従事する職業、負う役割によって遠隔通信技術による恩恵の多寡にグラデーションはあっただろう。それがソーシャルメディアに折り返されることで、「いつものように」分断は幾度も可視化されてきた。しかしこれについても先に述べたように、「社会的距離」と「物理的距離」が置き換え可能になったという事態にこそ注目すべきである。世代・ジェンダー・人種・収入といった社会的属性の差異によって「社会」が語られる状況――「社会性」が「社会」を作る、という一種のマッチポンプ――から、人外のウイルスの介入によって「物理(的距離)」が第一の原理として浮上したということ。私たち人類が物理的な存在であり、「遠さ/近さ」の概念もまずその次元で捉えられねばならない、ということが突きつけられたのである。

ここに至ってようやく、冒頭に引いた『ほしのこえ』のモノローグを、単にノスタルジックな時代性の刻印ではないものとして解釈することができる。「携帯の電波が届く」というのは、要するに物理現象だ。それを実現するのはCPUやアンテナといった金属部品であり、さらに還元していけば分子・原子である。スマートフォンも通信網も、宇宙船も惑星も、ウイルスでさえも同様に原子の集まりだ。私たち人類も例外ではなく、水分と炭素が組成の大半を占める、まずもって物理的な存在なのである。「世界」という観念は、それら物理的関係性からなる総体と、「総体」をイメージしようとしても実際にはできない、人間の認知限界の先に生じるものだと捉えてみよう。携帯電話にしろスマホにしろ、電子メディアは物理と認知との間を仲立ちするものだ(lxやHzといった物理量を持つとはいえ、光や電波は目には見えないし触れることもできない)。だからこそその利用シーンにおいて、「世界」という言葉は象徴的に表れる。メディアの変化が「世界」という言葉の意味を変えるのではない。「世界」という言葉そのものが、その時々のメディア環境の写し絵なのだ。

超高度情報社会における「距離」の回復

こう考えたとき、思い出されるひとつの事実がある。『ほしのこえ』が2000年代初頭の同時代的表現として、「セカイ系」という形容で呼ばれていたことだ。いわく、「〈きみ〉と〈ぼく〉の関係性を中心とした小さな問題が、〈世界の終わり〉といった抽象的で大きな問題に直結してしまう作品群」のことで(『ほしのこえ』でいえば、少女が宇宙船に乗って異星生命体の殲滅任務に赴き、「(異星生命体を)倒さなきゃ」という気持ちと「少年に会いたい」という気持ちとをモノローグ上で交差させる、という演出に表れる)、元々はインターネット上の個人サイトに、どちらかといえば批判的なニュアンスを込めて書き込まれたものだったという。その後、社会問題や「オタク」の生態を論じるサブカルチャー批評の文脈でも取り上げられ論争を巻き起こしたというが、当時ティーンエイジャーだった筆者の実感としては、必ずしも広く知られた言葉ではなかった。自分の場合は公開から数年後に『ほしのこえ』を観て(個人制作によるデジタルアニメーションとして、「情報」科目の資料という名目で学校の視聴覚室に入っていた)からだいぶ経ったあとに「セカイ系」という言葉を知り、同作がその代表的な作品として挙げられているのを知ったという順序で、そうした意味では『君の名は。』や『天気の子』で新海誠という作家を知り、『ほしのこえ』に遡った人たちと大差はない。ではなぜ自分がこの言葉にこだわり、こうした文章を書き連ねているのかといえば、決してノスタルジックな動機からではなく、この「セカイ」という表記自体に簡単には無視できない魅力を感じるからだ。

実際、ティーンエイジャーを中心に人気のスマートフォン向けリズムゲーム(『プロジェクトセカイ カラフルステージ! feat. 初音ミク』:「現実の世界とは異なる、人々の“本当の想い”を映し出した不思議な世界。想いの数だけセカイは存在し、想いに応じてその姿かたちを変える。」)や、バーチャルタレント事務所のメタバースIPプロジェクト(「ホロライブ・オルタナティブ」:「VTuberグループ「ホロライブ」そこに所属する彼女たちの、同じようでいて違う、あるいは、違うようでいて同じ――……そんな、ほんのすこしだけ別の可能性。これは、もしかしたら存在するかもしれない「とあるセカイを描く」、異世界創造プロジェクトです。」)といった最新のユース世代向けコンテンツに始まり、変わったところでは音楽配信代行サービス国内最大手・TuneCore Japanのキャッチコピー(「あなたの音楽でセカイを紡ぐ」)など、いまなお「セカイ」という表記を目にする機会は少なくない。こうした用例を見ていて気づくのは、「セカイ」とはある一定の「広さ」を持ちながらも、一般に「世界」が指すような極大の「広さ」とは異なり、「現実=世界」に対するオルタナティブという意味で相対的に「狭い」ものであるということ、また「本当の想い」や「“紡ぐ”もの=創作の可能性」といった、あくまで個人にとっての未確定な領域を指しているということである。

これらのコピーを採用した企業や団体の担当者が「セカイ系」のことを意識していたかは定かではないが(流行の20年周期説――20年前のティーンエイジャーが仕掛け人に回ることによって流行は繰り返されるとされる俗説――を踏まえればそれもありそうな話だが)、ともあれこうした現代の用例によって、かつての「セカイ系」概念に別角度から光を当てることができる。「セカイ系」が主に批判されたのは、「小さな問題」と「大きな問題」が短絡されることによって「社会や組織といった中間領域」が中抜きにされており、「複雑な現実」が描けていないという点だった。あるいは、「男性向け」作品の、〈きみ〉に当たる少女だけが〈世界の終わり〉に対峙させられる――〈ぼく〉に当たる主人公の少年は傍観者の位置にとどまる――構造を取り出し、男性中心社会の根本的な搾取構造を、センチメンタルに美化しているのでは、とも※2。かつて「セカイ系」と呼ばれた作品の中にそうした作品がひとつもないとは言えないが、一方でそう呼ばれた全体に対する批判として適当ではないのも事実である。「セカイ系」という語の意味的変遷を追ったほとんど唯一の書物である前島賢『セカイ系とは何か』によれば、当初個人サイトに名指しされ、その後「セカイ系」の御三家と目されるに至った作品――新海誠『ほしのこえ』、高橋しん『最終兵器彼女』、秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』――のいずれも、こうした特徴を完全には満たさないというのだ。

※2:こうした批判は主に、2000年代に東浩紀と宇野常寛の間で起きた「論争」の中で可視化された。東はセカイ系に対して「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群」という定義(東が編集人を務めた同人評論誌『美少女ゲームの臨界点』に初出)を与えており、政治的イデオロギーのような「大きな物語」が信じられなくなり、記号的な要素の組み合わせで各々が手元で物語を構築する「データベース消費」が一般化した時代性の反映として――つまり社会批評の文脈で――これを評価した。一方の宇野はこうした物語形式を持つ作品を作家や読者の自意識の反映/投影、すなわち「文学」の問題として捉え、その想像力の「貧しさ」を批判したのである。そこには東が言うところの「社会志向」型批評と「作品志向」型批評のすれ違いが起きており〔「社会志向型の批評が、作品「を通して」社会を分析し、物語や登場人物を社会状況の反映として捉えるとすれば、作品志向型の批評は、作品「のなかに」それ固有の問題を発見し、作品の内容をむしろ、それを生み出した社会への抵抗や逸脱などと捉える傾向があります」東浩紀『セカイからもっと近くに 現実から切り離された文学の諸問題』(東京創元社、2013年)〕、実際のところ「論争」以前の問題だったというその見解には筆者も同意する。

現代の用法からはこうした歴史的経緯は明らかに脱色され、そこにある「気分」のようなものだけが残存している。いみじくも『セカイ系とは何か』でこの言葉の提唱者として名指しされている「ぷるにえ」を名乗る人物が2021年にTwitterで述べた通り※3、「セカイ系」の本質とは「テーマでありストーリーでありキャラであり設定であり、そういった諸々から醸し出される独特の「っぽさ」」……言い換えれば「空気感」なのだ。「〈きみ〉と〈ぼく〉の関係性を中心とした小さな問題が、〈世界の終わり〉といった抽象的で大きな問題に直結してしまう作品群」といった特徴も、個々の作品を重ね合わせたときおぼろげに立ち上がってくる、曖昧な輪郭のようなものにすぎない。「それまでの世界の連続性がなんの脈絡もなく断ち切られてしまう理不尽さ」と、「そんな中でも大切な誰かに出会えたことを祝ぐ」ということ……そこに漂っている「空気感」を言語化するなら、「セカイ系」のコアとは、むしろそういったところに求められるべきだろう。

※3:「理解が難しいのは、セカイ系というのが単純に話のジャンルを指してるだけではないということです。テーマでありストーリーでありキャラであり設定であり、そういった諸々から醸し出される独特の「っぽさ」がセカイ系だということでなんです。だから分からない人には永遠に分からない。」(ID:@tokatakiによる2021年6月22日の投稿、原文ママ)。このツイートは「ぷるにえブックマークのぷるにえです。2002年ころ、意味の分かりにくいネット用語「セカイ系」を最初に提唱した者です。」と宣言するツイートにぶら下げられる形で投稿されている。 https://twitter.com/tokataki/status/1407334967353425929

これはコロナ・パンデミックによりそれまでの習慣が断ち切られ、大切な人と触れ合う機会も失われた、私たちの姿に重なるのではないか?

つまりこういうことだ。「セカイ系」の「セカイ」は、携帯電話という個人用の情報通信端末が普及した2000年代初頭に、それまであくまで物理的な関係性をベースとしていた「世界」が、「電波の届く距離」に急速に置き換わっていく感覚を言い当てた言葉だった。その言葉はインターネットがインフラ・通信速度ともに当時とは比べ物にならないほど発達し、スマートフォンというデバイスを介して情報が「リアルタイム」に送受信されるものになってからも様々な場所に現れている。ソーシャルメディアの窮屈さに満たされた時代は、「社会(ソーシャル)」を中抜き……というよりそもそも問題にしない「セカイ」という概念を、潜在的に求めているのではないか。その欲求をコロナ・パンデミックという、超高度情報社会に対して「物理的距離」のスケールを改めて持ち込んだ事件が、改めて可視化させつつあるのだ。

これから始まる論考は以上のようなビジョンに基づき、「セカイ系」という言葉がこの20年の間に曝されてきた毀誉褒貶を受け止めつつ、その始まりの地点まで遡り、「セカイ」という言葉のポテンシャルをいま一度解き放つことを目的とする。サブカルチャー批評――いわゆる社会反映論や「オタク」論――としての文脈ではなく、「セカイ」という言葉が象徴する特定の感覚が、その後の情報通信技術・デジタルメディア環境との関係の中でどのように展開されてきたのか、イメージの系譜として「セカイ系」を描き直すことが目指される。必然的に物語分析より、作品の非言語的な要素が織りなす意味を読み解くイメージ学※4的なアプローチの比重が大きくなることだろう。

※4イメージ学bildwissenschaftは美術史研究における図像学iconography・図像解釈学iconologyから発展し、神経科学・認知科学など自然科学的なアプローチとも合流したドイツ発祥の学際的研究領域。坂本泰宏、田中純、竹峰義和(編)『イメージ学の現在 ヴァールブルクから神経系イメージ学へ』(東京大学出版会、2019年)も参照のこと。ただし本論考では厳密にこうした学術的アプローチをとるというより、必ずしも視覚情報に拠らない不定形なイメージの経験を記述していくという目論見の下、この語を用いることにする。

とはいえ何も目印がなければ道に迷ってしまうだろうから、20年間の空白をブリッジする上で格好の補助線となる長期シリーズを検討することで助走をつけていくことにしよう。1995年に現れ、2021年、公式が送る物語としてはすべての歴史に幕を降ろした『エヴァンゲリオン』シリーズのことである。

第2回へつづく

筆者について

北出栞

きたで・しおり 1988年生。神奈川県横浜市出身。1990年代半ばをドイツで過ごす。音楽雑誌の編集部員、音楽配信サイトの運営スタッフを経て、2010年代半ばより現名義で評論同人誌への寄稿を始める。2021年、〈セカイ系〉をキーワードにした評論アンソロジー『ferne』を自費出版。同人誌即売会「文学フリマ」を中心に話題となる。2024年4月、初単著となる『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を刊行。

  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」
  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
  12. 連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」記事一覧
関連商品