ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学
第3回

新海誠作品の「常世」のイメージを問う

カルチャー
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セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。

個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。

「どこでもない場所」と「成長」の拒絶

前回は自分の幼少期から続く経験の記述と『シン・エヴァンゲリオン劇場版』クライマックスの読解を通じて、「どこでもない場所」から遠方を見やる感覚について探っていったのだった。現実的な時間や空間から隔絶され、沈黙と向き合うよりほかない、青空と水平線が広がっているだけの風景。あらゆる歴史性から切り離され、ノスタルジーとも無縁なそんな場所を〈セカイ〉と名付け、2020年代を考えるスタート地点としたいという指針を示したつもりだ。

ではなぜ「どこでもない場所」への感性が2020年代のいま必要なのか。ネットワークとの常時接続によるストレスが、誰にとっても身近な時代だからである。個人的に特別な思い出の記録も、SNSに投稿すれば即座にコメントを付けられ相対化されてしまう。各種オンラインサービスのレコメンデーションの精度は、自らの個人情報を明け渡すのと引き換えである。こうして私的領域、プライバシーは知らず知らずのうちに溶け出しているのだが、一方で日常生活において「アカウント」という単位を持たないことは不可能に近く、それに紐づいた発言や発信の連続性が強く求められる。これらはスマートフォンの表面を「触る」「なぞる」アクションによってなされ、ウェブブラウザを介さずに動作するアプリケーションの直感的な操作性は、上述したような問題を前に立ち止まって考える暇を与えてくれない。

「分断の時代」と言われて久しいが、真の問題はむしろ、こうした「なめらかな」社会的/工学的インターフェースによって、ネットワークにアクセスするひとりひとりがあらかじめ孤独でかけがえのない存在である、という事実が覆い隠されていることなのだ。SNS上で展開される「アインデンティティ・ポリティクス」と呼ばれる潮流に目を向けていると感じるのは、プロフィール欄に「/(スラッシュ)」つきで羅列されるような「属性」が発言内容と照合させられることによって、フィードバックループ的に「アイデンティティ」なるものが構成されているということである。それぞれの個人が異なる景色=タイムラインを見ていることには薄々勘づきながらも、仮初のコミュニケーションを成立させるために「アカウント」と「アイデンティティ」を結びつけて扱わざるを得なくなっているのが現状なのだ。

しかし、本当に大切なことはSNSに投稿しなくたっていい。常時ネットワーク接続社会において、「アカウント」からも「アイデンティティ」からも切れた「個」に立ち戻ることはできるのかという問いが必要だ。「断絶」と「沈黙」の価値をいま一度見直そうという本連載のマニフェストは、あらゆるものが過剰に接続され、「なめらかさ」と「連続性」がイデオロギーを構成する、現代という時代に対する異議申し立てでもある。

さて、今回の原稿を始めるにあたっていま一度確認しておきたいのは、少年少女を主人公とした「セカイ系」は青春文学の一形態であり、基本的には彼ら彼女らと同年代のティーンエイジャーと共振する感性であるということだ。児童期からティーンエイジ期に特有の、自分が「世界」から断絶しているという感覚。本当に大切なものが見えてこず、手を伸ばしても何にも届かない無力感。そういった感覚を捉えたものであって、ゆえに無時間的であり、「成長」という概念を拒絶する(きみとぼくが出会った瞬間「世界は終わる」。結婚して家族を作って……という意味での「社会性」への接続は、構造的なレベルで果たされない)。そもそもそういうジャンルなのだから、それに「成長」がない、とかいった批判を向けるのはお門違いだ。

余白を残し短尺で終わる「セカイ系」の物語作品は、断片的かつ詩的である。そうした形式を持つ芸術表現が人生のある時期には深く刺さるし、誰に語るまでもない「個」的な記憶に立ち戻るために、年齢にかかわらず、いつ何時でも役に立つものだと信じている。

今回は以上のような観点を踏まえて、新海誠作品について考えていくことにする。

10代を惹きつける新海誠作品の「MADムービー」性

新海誠の最新長編『すずめの戸締まり』は物語的な秩序に従順な映画だった。個人制作の短編作家から出発した作家が名実ともに「長編映画」の監督になったという意味で、配給元が本作を彼の「最高傑作」と謳い上げたことに筆者としても異論はない。しかし本作は「大人しすぎた」のではないか。「大人になった」ということではない。作家が東日本大震災というテーマに正面から向き合い、天皇制や日本神道などにも目配せしつつ「国民作家」であることを引き受けようとしたことの是非は、ここでは本質的な問題ではない。

「大人しい」というのは言い換えれば、「ティーンエイジャーを熱狂させるような作品ではなかった」ということだ。新海は『君の名は。』『天気の子』そして『すずめの戸締まり』を東日本大震災に対する応答の「災害三部作」として制作してきたことを公開後のインタビューなどでたびたび語っている。しかし過去2作は世間の認識と主人公の認識の間にある齟齬を意志の力でねじ伏せようとする作劇に、ティーンエイジャーを熱狂させるカタルシスがあった。カタルシスの演出という点で、『すずめの戸締まり』と最も大きな差異が見られるのは音楽の使い方である。『君の名は。』公開時、当時としては珍しいロックバンド・RADWIMPSとのタッグが注目された新海だが、実はそれ以前にも映画音楽の「素人」とばかり組んできた映像作家である(天門=ゲーム音楽、KASHIWA Daisuke=ダンスミュージック)。『すずめの戸締まり』でもRADWIMPSは筆頭でクレジットされているものの、ハリウッドでも活躍する劇伴作家の陣内一真が加わったことでより映像に対して適切な、ある意味では匿名的な音楽の使い方がなされている。わかりやすいところでは、『君の名は。』や『天気の子』に見られた「突然ボーカル曲が流れ、日常の断片が走馬灯のように早回しで再生される」という演出はなりを潜めている。こうした演出は通常の映画の作法からすれば異物だったのであり、その意味で『すずめの戸締まり』は「普通の長編映画らしい」作品になっている。

新海誠はゲームのOPムービーからキャリアをスタートしたこともあり、その作家としての資質は「映画監督」と言うより「動画クリエイター」である。デビュー作である『ほしのこえ』は当時のMac PC一台で個人制作されたという伝説的逸話を持つ。Adobe Photoshopで一枚一枚絵を描き、After Effects上で音声とのタイミングを緻密にコントロール、自らすべての声を吹き込んだ「ビデオコンテ」を作成しキャストに共有するというのは、現在に至るまで一貫した手法だ。人物やオブジェクトの生命的なアニメートではなく、背景の美しさと「撮影」と呼ばれる色彩や光のコンポジット(構成)、音楽的なリズムによってエモーションを生み出す手法こそ、「新海誠」を特徴づけるスタイルである。新海作品において音声情報は視覚情報に追従するものではなく、特定のエモーションを観客に発動させるための素材として等価に作業台に並べられるのである。

また、新海作品はこう言ってよければ「MADムービー」的である。MADムービーとは、既存のアニメ映像から印象的なシーンのみを抜き出してきて切り貼りし、無関係なポップミュージックを当てたりして別の文脈を発生させるような映像作品である(※1)。1997年発表の既存曲「One more time, One more chance」を使って瞬間的に時間軸を入り乱れさせながら人生の走馬灯を演出する『秒速5センチメートル』(2007年)のラストが最たるものである。山崎まさよしの楽曲は書き下ろしの主題歌ではない。楽曲が持っている物語性と、『秒速5センチメートル』の物語の間には直接の連関性はない。しかしデジタルツール上の編集によって、画面の中で両者は無理やり接合されてしまう。弛緩と緊張を繰り返す旋律に合わせて、視覚的な記号が結合したり離れたりを繰り返すことで、観客の中に非言語的な文脈が積み重なっていく。これは『ほしのこえ』の、地上と宇宙に引き裂かれた二人の実存が編集上のトリックで「ここにいるよ」と同期する、あのクライマックスの仕掛けの発展形とも見なせるものだ。通常の過去があって、現在があって、未来に至るという、線的な時間感覚がそこでは崩壊している。

このように線的な物語構造に頼らない、短い間隔で断続的に繰り返されるモノローグと視聴覚情報の作り出すリズムによって「刹那さ」を生むメカニズムが、後の『君の名は。』の大ヒットを準備した初期新海作品の核だった。『エヴァ』からの流れでいえば、あくまで碇シンジのモノローグは自己撞着的でパラノイアックなものだった。音響的な演出もコラージュ的な映像技法も、混沌を極めるシンジの「内面」を表現することに奉仕していた。一方『ほしのこえ』のモノローグは、それが誰にも届かないことを知りつつも、誰かに届くかもしれないという可能性に賭けられずにはいられない、そんな「切なさ」に彩られている。モノローグの過剰と「世界の終わり」(「使徒」や宇宙人との対決)という共通項によって同じ「セカイ系」の系列に括られた『エヴァ』と『ほしのこえ』だが、それが届く「宛先」をモノローグが想定しているか否かという点で、大きな違いがあったのだ。

『すずめの戸締まり』の何が問題なのか

「2020年代の〈セカイ〉系」における「沈黙」というタームの重要性を『シン・エヴァ』におけるシンジの姿に見たが、その先にある発話のモデルは、『ほしのこえ』的なモノローグなのかもしれない。世界からの断絶を強く意識しながらも、秘密の通路を伝って「どこか」へ届くかもしれないという希望を持ちながら口にする言葉。世紀末〜2000年代初頭の時代背景においてディスコミュニケーションの主題として捉えられた『ほしのこえ』のモノローグが、『シン・エヴァ』を経由した今なら別の価値を持つものとして捉えられると思うのだが、その検討の前にまずは『すずめの戸締まり』について見ておきたい。

『すずめの戸締まり』の主人公・鈴芽は高校生だが、本作のトーンは全体的に「地に足がついている」。彼女が震災という社会的な出来事の当事者だからとか、そういう次元の話ではない。もっと映画的な作りの話だ。本作はロードムービーなので、文字通り地に足をつけて歩みを進めていくし、九州から東北へ北上していくという、まさしく線的な構図を描いている。

以前、新海作品の一挙上映が下北沢トリウッド(『ほしのこえ』が初上映されたミニシアターである)で開催された際、イベント後の質問コーナーに登場した新海誠本人から、「エンターテインメント作品の真髄とは(現実では行けないような)“遠く”へ観客を連れて行き、大切な何かを持ち帰ってもらうこと」「“遠く”の極みたる場所は“死の世界(黄泉の国)”であり、自作ではそれがときに『アガルタ』という名前で呼ばれたりする」といった旨の回答をもらったことがある。「アガルタ」とは『ほしのこえ』でミカコがたどり着く異星の名前でもあり、『星を追う子ども』に登場する地下世界の名前でもある(元ネタは『ピラミッド帽子よ、さようなら』という新海が幼少期に親しんだ児童文学)。映画研究者の伊藤弘了も指摘するように(※2)、こうした「行きて帰りし物語」の構造は、最初期から『すずめの戸締まり』に至るまで一貫している。

しかし、『すずめの戸締まり』における「行って、帰ってくる」場所とは鈴芽の故郷である東北の被災地域であり、異界ではない。

異界は確かに存在している。『すずめの戸締まり』では「常世」という名で、旅の途中に扉の向こうにある空間として現れる。日常に潜む裂け目のようなものとして、線的なロードマップの途中に点在している。「常世」につながる「後ろ戸」は、人がいなくなった寂しい廃墟に現れるといい、人には一生にひとつだけ、任意に出入りすることのできる「後ろ戸」があるという。「常世」に縛られた草太を救うため、自らの「後ろ戸」を目指して鈴芽は自身の故郷たる東北の被災地域を訪ねるのである。

アニメ評論家の藤津亮太が整理する通り(※3)、これまでの新海作品では異界において(夢の中のような仮初の形ではあれ)生者は死者と出会うことができた。『すずめの戸締まり』では死者は死者のままであり、徹底して生者の側に立つ物語である。本作のクライマックスでは「常世」に迷い込んだ過去の自分に向けて、現在(幼少の鈴芽から見た未来)の鈴芽がエールを送る。自分と自分の対話という意味では、これもある意味でモノローグなわけだが、(シンジのそれとはまた違った意味で)自家撞着的である。本作における主人公のモノローグは異界(にいる死者)に向かって投げられるものではなく、異界の只中で生者である自分自身に投げられるものである。

こうした「自己との対話」に帰結するという形は、作家が震災を正面から扱うということに向き合った結果、生者の側に寄り添いたい、自分の背中を押せるのは自分だけというメッセージを提示するために導き出されたものだろう。その真摯さは汲みたいと思うし、筆者も鈴芽の台詞には素朴に胸を打たれた。しかしやはり本作には決定的な問題があると感じていて、それは映画の最後に開く「後ろ戸」が鈴芽=主人公という特権的な人物のものだという点だ。

「後ろ戸」は本来どこにでも開きうるものであるし、被災地域が特別、というものでもない。映画の中で最後に開く「後ろ戸」が主人公の故郷=被災地であるというのは、作劇上の都合でしかない。新海が公開前、本作が東日本大震災に直截的に言及する映画ということが伏せられていた段階では前面的な制作動機として語っていた「場所を悼む」――日本、特に地方は少子高齢化もあり寂れていく一方なので、そういった場所に「戸締まり」するところから始めよう――というテーマは、結果的にあまりフォーカスが当たることがなく「震災を扱った映画」として語られがちである(もちろん、新海自身が折に触れて「震災文学」としての本作を強調しているのも大きい)。映画というもの、物語というものがそもそもあるひとつのテーマに向かって線的に組織されるものだと言われたらそれまでなのだが、「寂しい場所ならどこにでも後ろ戸は開く」という、それ自体は物語と無関係な「世界観」のポテンシャルが、主人公である鈴芽を中心とした語りに覆い隠されてしまっているように思えるのだ。

「リミナル・スペース」と「常世」

逆に言えば、そういった「世界観」を下敷きにしている時点でやはり新海誠は良い意味で変わっていない……こう言ってよければ「セカイ系」的な感性を今でも抱えた作家だと言える。ソースはファンによるツイートのみなので100パーセント事実とは言い切れないのだが、興味深い可能性を示唆する情報がある(※4)。『すずめの戸締まり』の舞台挨拶に登壇した新海誠自身が、「常世」の情景とは『秒速5センチメートル』第2話「コスモナウト」で主人公の貴樹が独り幻視している、どことも知れない「世界の終わり」のような情景――茫漠とした草原、無窮の星空、果てには超新星の輝きが見え、隣には誰とも知れぬ女性が立っている――と同じようなものである、と言及したというのだ。

貴樹は幼少の頃に初恋の約束をした明里にずっと後ろ髪を引かれ続けており、上述の風景を幻視しながら途中までメールを書いて結局出さない、ということを繰り返している。個人的には普通に送信ボタンを押せよと思うし、決して彼の人物像を魅力的とは思わないのだが、(「コスモナウト」の語り部である花苗が惹かれてしまったように)いつも「ここではないどこか」を見つめているような貴樹の眼差しに惹かれる気持ちも理解できる。

話は逸れたが、同じ「常世」を前にしたとき、異なる人間性と来歴を背負った主人公ごとに異なる物語が出力される……そのバリエーションとして「新海ユニヴァース」を捉えるのも悪くないと思うのである。

『すずめの戸締まり』の予告編によれば、「常世」の空は「全部の時間が溶け合ったような」と形容される(鈴芽のこの台詞は、本編中には登場しない=『すずめの戸締まり』という作品にのみ固有の形容とは限らないことは重要だ)。全部の時間が溶け合っているということは、逆にいえばどの時間に対応したものでもないということ。そして「常世」が空間的に現実とは隔てられていることは、作中で何度も視覚的に表現される。そう、「常世」とは『シン・エヴァ』でシンジがたどり着いた場所、〈セカイ〉と名付けたあの場所と同じ機能を有しているのである。

『すずめの戸締まり』予告

このようにして捉えると、『すずめの戸締まり』がロードムービー形式をとったことにもポジティブな意味が見出せる。本作は新海誠作品史上初めて、複数の「常世」=〈セカイ〉への入口が、一本の作品の中で描かれた作品なのである。これによって、物語の主人公ではない私たちそれぞれの現実にも、「常世」に続く「後ろ戸」は開きうるかもしれないという想像が促される。

ここで筆者が思い出すのは、「リミナル・スペース」というネットミーム的画像群のことだ。「リミナル・スペース」はホテルの廊下やショッピングモールなど、資本主義的でありふれた建造物の中の「誰もいない」瞬間を捉えた画像として示される。「リミナル(liminal)」を和訳すれば「境界的」という意味で、文筆家の木澤佐登志によれば(※5)、もとは建築のタームとして「人間をある場所から別の場所へ運ぶために設けられた人工的建造物」……たとえば「廊下、階段、道路、待合室、駐車場、空港ロビーといった、輸送や交通に関わるターミナル空間」を指していたのだという。木澤は同コラムにて「リミナル・スペース」の「美学」としての側面についても掘り下げている。ありふれた光景であるがために「懐かしい」が、無人であるために「不気味」である。インターネット上では、3Dのアクションゲームにおける「壁抜けバグ」のような想像力と結びついており、この世の理の裏側(バックルーム)に迷い込んでしまったようなホラー的感情を喚起するものとして愛好家に捉えられてもいるという。

「リミナル・スペース」と比べると、「常世」の情景に不気味さはない。むしろ、その空はひたすらに煌めいていて、多くの人が「美しい」と口にするものだろう。「リミナル・スペース」が自らの人生とはまったく無関係に存在し、さながら亡霊のように「出くわす」ものであるのに対して、「常世」は各人の歩んできた人生や土地の集合的記憶と因果的な関係で結びついたものだという違いもある。「常世」の美しさを前にして、出せないメールを片手に陶酔し続けるか(貴樹)、「行ってきます」と口に出して背を向けるか(鈴芽)は、各人に委ねられている。逆に、自らの人生の歩みと深く結びついているがゆえに、どのような態度をとるか選ぶこと「しか」許されていないとも言えるだろう。

美学研究者の星野太は、カントが超越的(=垂直的)な美的経験として定式化した「崇高」に対して、「水平的崇高」というべきものがあり得るのではないかと提案している(※6)。此岸(現実の日常のような「こちら」)と彼岸(死の世界・夢の世界のような「あちら」)を明確に切り分け、彼岸にあるものを捉える思想として崇高を捉えるのではなく、此岸と彼岸の境界をめぐる(liminal)思想として「崇高」を捉え直し、日常の中にもそれを見出せるようにしようというのだ。星野は「リミナル・スペース」に接したときの感情が、まさにそういった枠組みの中でこそ捉えられるとしており、水平的な日常の隙間に立ち現れるものにこそ目を向けようという、その眼差し自体には筆者もシンパシーを覚える。しかしその図式を採用するならなおのこと、「常世」は美的な対象として捉えるべきではない。「美しい」情景を描くことに対する作家自身の葛藤・アイロニーは、『君の名は。』冒頭の彗星を目にした瀧のモノローグや、『すずめの戸締まり』で鈴芽の故郷を目にした芹沢が発した台詞などにも表れている。しかしそれを見る観客にとっては、新海の描く情景が最大公約数的に「美しい」ことはやはり罠なのだ。鈴芽が「行ってきます」とつぶやき「常世」に背を向けたのは、この罠から脱出するひとつの姿――美的判断を宙吊りにし、自らの人生の問題に向き合うことに注力すること――を示してみせたとも言えるだろう。

『シン・エヴァ』が提示した〈セカイ〉の原風景。そこに広がる青空と水平線は、美しいというよりはどこか平板な印象を与えるものだった。沈黙というのは、情動に流されないということであり、しかしそれは「心が死んでいる」という状態とも表裏一体である。「セカイ系」の青春文学、ユースカルチャーとしての側面を評価していくなら、それが喚起する刹那的な情動とも向き合っていかなければならないだろう。新海作品の主人公たちとは違う形――それを前にして陶酔するのでもなく、扉を閉めて背を向けるのでもない形――で、〈セカイ〉とともに歩んでいくことはできるだろうか。『すずめの戸締まり』から、鈴芽という「主人公」を中心とした物語という枠組みを取り払ったとき見えてくるのは、そのような課題である。

1英語圏では「AMV(Anime Music Video)」と呼ばれる類似の文化が存在する。

2新海誠作品を支える神話的構造――「ほしのこえ」から「すずめの戸締まり」まで(前編):よくばり映画鑑賞術 – ひとシネマ https://hitocinema.mainichi.jp/article/mxfoxavh3191(2023年1月29日最終閲覧)

3「すずめの戸締まり」新海誠監督が描く「星を追う子ども」「君の名は。」に続く“生者の旅”とは【藤津亮太のアニメの門V 第88回】 | アニメ!アニメ! https://animeanime.jp/article/2022/11/15/73485.html(2023年1月29日最終閲覧)

4 Twitterアカウント「天使の梯子」(@echelledange)による2022年11月22日のツイートを参照。https://twitter.com/echelledange/status/1591403005152268288

5コラム】Liminal Spaceとは何か – FNMNL (フェノメナル) https://fnmnl.tv/2021/11/16/139203(2023年1月29日最終閲覧)

6星野太『崇高のリミナリティ』(フィルムアート社、2022年)

第4回へつづく

筆者について

北出栞

きたで・しおり 1988年生。神奈川県横浜市出身。1990年代半ばをドイツで過ごす。音楽雑誌の編集部員、音楽配信サイトの運営スタッフを経て、2010年代半ばより現名義で評論同人誌への寄稿を始める。2021年、〈セカイ系〉をキーワードにした評論アンソロジー『ferne』を自費出版。同人誌即売会「文学フリマ」を中心に話題となる。2024年4月、初単著となる『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を刊行。

  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」
  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
  12. 連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」記事一覧