ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学
第7回

ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性

カルチャー
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セカイ(系)。「主人公の周囲の小さな問題と、〈世界の終わり〉のような大きな問題が短絡的に結びつけられる」作品に対して使われてきた言葉。そんなセカイ(系)の作品はかつて「中間にあるはずの〈社会〉が欠落している」と批判や揶揄の対象となっていました。しかし2020年代の今、スマートフォンゲームから音楽配信代行サービスにいたるまで、カタカナの「セカイ」という表記が再び存在感を増しています。

個人編集の「セカイ系」同人誌『ferne』が話題を呼んだ編集者・北出栞さんが、アニメや音楽、美術作品などに見られるイメージを横断しながら、「セカイ」という言葉に宿るリアリティの正体を探ります。

ボカロシーンの「空白性」

前回はTikTok動画をきっかけに「新海誠作品っぽい」イラストが表紙にあしらわれた小説作品が人気を博している現象を取り上げた。ショート動画に慣れたユーザーにも、物語の内容に合った音声と画像を効果的に組み合わせて情動に訴えかけることによって、ある程度の厚みを持った紙の文庫本を手に取ってもらうことができるのだ。

今回考えてみたいのは、紙の文庫本など他メディアに誘導するという形ではなく、動画そのもので物語性を持った表現を行っている事例はないのかということである。


そうなると、やはりボカロ(以下、ボカロ)(※1)シーンに触れないわけにはいかないだろう。2007年の初音ミク発売を機にニコニコ動画を震源地として広がりを見せたこの創作のムーブメントは、「架空の歌姫」を歌わせる、という当初のコンセプトからは早々に逸脱しつつも、キャラクターを描いたイラストとともに多くの楽曲が発表される、という点では現在に至るまで一貫した傾向が見られる。

一枚絵の上に歌詞テロップを合成する、リリックビデオと呼ばれる簡素な動画で投稿されることが多く、楽曲のキメと同期した寸断的なカット割りと、力強いフォントのコントラストで情緒に訴えかけるその形式は、コスト削減の観点からやはり止め絵を多用した『新世紀エヴァンゲリオン』の映像美学の、遠い子孫であるかのようだ。一枚のイラストの背後にどのような物語性を込めるか、歌詞テロップをどのタイミングで出すかというところでも曲の与える印象は大きく変わってくるところがあり、リスナーは与えられた断片的な情報から考察を膨らませることで、さらに曲の世界観に没入していくことができる(YouTubeのコメント欄がユーザーによる長文の考察で埋め尽くされることもざらである)。


動画と動画の間に見えない線の存在をほのめかし、さらなる空白を演出するような表現も存在する。2010年代前半に一斉を風靡した『カゲロウプロジェクト』(以下『カゲプロ』)はボカロクリエイター「じん」による連作であり、小説・漫画・アニメといったマルチメディア展開、そのすべてのシナリオ執筆を「じん」が手がけていた。多視点的な群像劇として、時系列はばらばらであり、本編が始まる前のあるキャラクターの来歴にフォーカスした曲もあれば、本編の一場面を切り取ったような曲もある。空白の多い世界観の中で、動画のみからでもかろうじて読み取れる情報といえば、「カゲロウデイズ」という8月15日という日付を起点に同じ時間を繰り返す謎の空間(「シニガミレコード」という曲の中で「終わらないセカイ」と表現されている)が作中に存在しているということくらいである。

このように各動画を連関させつつ、物語の断片を収集させるような展開を行っている後続のクリエイターには、自らアニメーションやゲーム制作も手がける「はるまきごはん」などがいる。また、ボカロシーン出身のクリエイターがメインで関わり、名前に「夜」に関連するワードが入っていることから「夜好性」と一括りにされることもある人気ユニット、YOASOBI、ヨルシカ、ずっと真夜中でいいのに。の3組も、それぞれ物語(小説)との関わりを深く持っている。

YOASOBIは「小説を音楽にするユニット」を一貫したコンセプトにしており、毎回タイアップ先のアニメの原作者や脚本家が、そのためにわざわざ小説を一本書き下ろすというのが恒例になっている。ヨルシカは作詞作曲を手がけるn-bunaが、アルバムのコンセプトと連動する小説作品を発表。「ずとまよ」は直接的な小説との関連は持たないが、ミュージックビデオをまたいで登場するキャラクター「にらちゃん」が存在しており、背景に共通した世界観があるのではないかとの考察を誘うものとなっている。

「考察」文化の現在

『エヴァ』の人気が加速したのには、意味深なワードが散りばめられ、その関連性が明示されないことで視聴者の考察が加速したことが一因としてあった。〈セカイ系〉一般の特徴としても、「世界の終わり」のようなトピック(『エヴァ』でいう「使徒」の襲来)が抽象的すぎる、ということがよく言われる。しかし本連載で突き詰めてきた〈セカイ系〉性と「考察」文化は、必ずしも相性が良いわけではないことは強調しておく必要がある。

「考察」は受け手による無数の語りを前提とするために、それが行われるコミュニティと大きく関係するものであり、現代においてはソーシャルメディアがその主なフィールドになっている。一方、この連載で〈セカイ系〉のキーワードに託してアニメーション作品から抽出しようとしてきたのは、ソーシャルメディアにおける自分語りのゲームから身を引き離すための「沈黙」の方法だ。筆者が『シン・エヴァ』のラスト付近のシーンに見出した〈青空〉とは、地上のコミュニティ=社会性の息苦しさからは切り離された場所の象徴だった。

『エヴァ』の時代にはSNSというものがなかったため「孤独な考察」が可能だったが、いまは考察といえば「みんな」でするもの、集合知的なものとなっている。ボカロ楽曲の表現がいくら空白の大きいものであっても、その空白が受け手にもたらす作用はそれが流通する環境の違いによって、『エヴァ』のそれとは真逆なものとなるのである。

それでもボカロシーンについて考えることは、本連載で展開してきた議論に不足していた点を補ってくれる可能性がある。それは〈青空〉を見つめる主体は誰だったのかという点だ。

筆者は、『シン・エヴァ』ラスト直前のシーンにおいて〈青空〉を見つめていたのは、自身と関係するすべての人々をいずこかへと送り出した「誰でもない」誰かだったと考えている。「彼」はその外見的特徴や話の流れから、普通「碇シンジ」という固有名詞とセットで認識されるだろう。しかし本来あの人物は、真希波・マリ・イラストリアスが迎えに来るまで、他の誰からも名前を呼ばれることのない「誰でもない」存在であったはずなのだ。いかなる関係性からも切れ、水平線を前にひとり沈黙する者……実写パートで「彼」の声優がおなじみの緒方恵美から神木隆之介に変わっていたのは、すでに「彼」が「誰でもない」、どんな声でも受け入れる「器」となっていたからだと解釈できる。

『エヴァ』は周知の通り公式による無数の「作り直し」とユーザーによる二次創作を経たからこそ、「碇シンジが碇シンジであること」から解放されることのカタルシスがあった。しかしこれはあくまで特殊な例であって、基本的にはキャラクターという単位に依存するアニメーション作品を手がかりにするだけでは、「誰でもない」存在について考えることは難しい。

そんな中ボカロは、キャラクター文化ときわめて近いところで発展しながらも、「誰でもない」とはどういうことかについて考えさせてくれる格好の存在だと言える。ソフトウェアとしてのボカロは元となった声優の声質に依存する個性がありながらもあくまでユーザーの作曲行為を補助するための道具であり、それを使うユーザーの数だけの「〇〇(初音ミク、など)」が存在するものだからだ。

※1  語源となった「VOCALOID」はヤマハの持つ音声合成技術の登録商標であり、その技術を用いてクリプトン・フューチャー・メディアがパッケージ販売したソフトウェアが「初音ミク」である(クリプトン社以外の会社による「VOCALOID」を用いたソフトウェアとして、「GUMI」「IA」などがある)。また、近年ではAIによる機械学習によってサンプルボイス提供元の演者の歌いグセをトレースする「CeVIO AI」という技術を背景にしたソフトウェアも登場しており(「音楽的同位体 可不」など)、しかしカルチャー的にはこれらを使って生み出された楽曲がすべて「ボカロ(曲)」と呼ばれる傾向にある。詳しくは以下の記事も参照。 / ボカロ曲の作り方①【ボカロの歴史/ボカロPの作業/基礎知識】(プラグ・プラス) https://www.gcmstyle.com/contribution-plugplus-vocaloid/

『プロジェクトセカイ』にはなぜ「セカイ」が含まれているのか

では、以下からはボカロという存在がどのように捉えられてきたのか、その変遷を見ていくことにしよう。先に整理しておくと、それはプロデューサー─アイドルという支配─被支配的な関係から、「しゃべるシンセサイザー」として見なす使い手─道具としての関係へ、そして友達や家族のような並び立つ関係へ……という変遷である。

現在のボカロシーンを形作った象徴的な存在である初音ミクには、2007年の発売当初「バーチャルアイドル」「電子の歌姫」というコンセプトがあったため、アイドル育成シミュレーションゲーム『アイドルマスター』のプレイヤーの立ち位置になぞらえて、クリエイターを「〇〇P(プロデューサー)」と呼ぶことが定着した。人に歌わされる存在でしかない初音ミク「自身」の実存を「人間には到底歌えない」超高速の歌唱で表現したcosmo@暴走P「初音ミクの消失」(最初のバージョンの投稿は2007年11月)は、この時期を象徴する楽曲のひとつだ。

しかし早くも同年12月、「初音ミクが歌う」必然性のない等身大の少女視点のラブソング「メルト」(クリエイターはryo)がヒットしたことをきっかけに「クリエイターの自己表現の道具」としてのボカロの認知が拡大、2010年代初頭に活躍した「じん」の世代(そこには「ハチ」こと米津玄師も含まれる)ではロックバンド方面から参入したボカロを文字通りの「楽器」として用いる作り手も増え、クリエイターの固有名詞でシーンが語られることが相対的に多くなっていった。

とはいえ完全な移行が果たされたわけでもなく、ボカロたちは創作コミュニティにおけるアイコン、女神のような存在として君臨し続けた。じんはその中でも自ら作ったオリジナルのキャラクターを中心に作品展開をしたのが当時としては異質であり、初音ミク発売10周年記念の折には「初音ミクは僕のことを嫌いだろうな」という考えからメディアの取材を受けるのを固辞したほどである(※2)。

そして近年はスマートフォン向けリズムゲーム『プロジェクトセカイ』(以下『プロセカ』)のヒットによって、初音ミクたちボカロキャラクターを「日常に寄り添ってくれる」ものとして愛するような、新たな感性が定着し始めている。

2020年9月にサービスを開始した『プロセカ』には初音ミクたち以外にも多くの「人間の」オリジナルキャラクターが登場し、彼女/彼らの交流と成長がストーリーの軸になっている。『プロセカ』は現実にリリースされている多数のボカロ楽曲を実装するプラットフォームであり、オリジナルキャラクターがストーリーの中心となるといえど、「じん」というひとりのクリエイターの作家性に拠っていた『カゲプロ』のそれとは意味合いがまったく異なる。どの「P」の楽曲が実装されるかという話題性を盛り込みつつ、オリジナルキャラクターの心の揺れ動きに寄り添うものとしてボカロ楽曲が登場するという構図となっているのだ。

さて、本連載の文脈からいって『プロセカ』の最も興味深いところは、何と言っても初音ミクたち(作中では「バーチャル・シンガー」と呼ばれる)が棲む場所に「セカイ」という名前が与えられているところである。そこは「本当の想いが歌になる」場所とされていて、いざこざやわだかまりを互いに抱えた登場人物たちが「セカイ」に迷い込み、そこで心を通わせることによって現実世界に帰還、バンドなりユニットなりで活動を始めるというのがストーリーの導入になっている。

「セカイ」とは現実とは異なる次元に生じた異空間であり、「バーチャル・シンガー」たちはそこにしか存在できない曖昧な存在である。未だ名前の付けようがない心の機微を、音楽という形に結実させる手助けをする存在としてのボカロ、という思想が表れているのだ(それを裏付けるように、登場人物たちは一度は「セカイ」を出て現実での音楽活動を始めるも、活動が行き詰まるたびに「セカイ」を訪れることになる)。

『プロセカ』における「セカイ」、『カゲプロ』における「カゲロウデイズ」は、これまで再三語ってきた『シン・エヴァ』の〈青空〉、『すずめの戸締まり』の〈常世〉と同じ物語上の機能を持っていると言える。これらは日常の裂け目にふとした瞬間に現れる、現実の社会やコミュニティから切り離された空間であり、基本的にはそこに留まることが良しとされず、脱出することが目指されるという点が共通している。

しかし「セカイ」と「カゲロウデイズ」の間には違いもある。「カゲロウデイズ」が「終わらないセカイ」と表現されていたことはすでに述べたが、メタな見方をすれば物語上「終わる」ことがあり得るからこそ、設定上「終わらない」とわざわざ明言されていたのだ。一方、「セカイ」には終わりもなければ、終わらないということもない。それは常に、すでに現実の狭間に存在している。これは『カゲプロ』があくまで「じん」という作者の手にあった=いつか「じん」の手によって「終わらされる」ものであったのと対照的に、『プロセカ』はボカロシーン全体に関わるものであることに対応していると言える。

『プロセカ』は初音ミクの発売当初から著作権ガイドライン(ピアプロ・キャラクター・ライセンス)を設けるなど創作文化の発展を促してきたクリプトン・フューチャー・メディアの公式コンテンツであり、公募楽曲のゲーム内実装が行われるコンペティション「プロセカNEXT」を開催するなど創作意欲を刺激する仕掛けにも積極的である。このことから鑑みても、「セカイ」と現実世界を音楽ユニットが往復するという『プロセカ』のストーリーの軸は、「音楽を作る」という行為のメタファーと見なすことができるだろう。作曲とは孤独で、ときに「世界」に立ち向かうようなヒロイズムと表裏一体の行為である。出来上がった音楽作品に「世界観がある」といった形容がされることもままあり、作品それ自体がひとつの小さな「世界」とも言える。おそらくカタカナの「セカイ」とは、こうした機微を捉えようとした表記なのだろう。

そもそも、音楽は空気の振動を通じてダイレクトに情緒に訴えかけるものであり、かつその圧縮された情報量から、高速通信網で瞬時に「全世界の」リスナーに届きうるものである。誤解をおそれず言えば、音楽とはそもそも「私」と「世界」を直結させる〈セカイ系〉的な性質を持ったメディアなのである。

ちなみに「セカイ」という表記の音楽関連での用例については『プロセカ』以外にも近年、音楽ディストリビューションサービス・TuneCore Japanのキャッチコピー「あなたの音楽でセカイを紡ぐ」(※3)や、ソニーミュージックが2020年に立ち上げた「インターネットを活用し自身の作品を発表している次世代アーティストを発掘・サポートする」企画、Puzzle Projectのキャッチコピー「あなたの“セカイ”を世界に広げるプロジェクト」(※4)などがある。『プロセカ』の「セカイ」も含めて、おそらく〈セカイ系〉的な文脈を意識したというよりも単に字面の印象のよさから選ばれているのだろうが、「音楽を作り、届ける」という一連のプロセスにおいて漢字の「世界」より相応しい表記がある、という共通感覚があることは確かなはずだ。

※2 じん「メカクシティリロード」インタビュー|5年半の時を経て「カゲプロ」を再装填させた理由(音楽ナタリー) https://natalie.mu/music/pp/jin03

※3 TuneCore Japan公式サイト https://www.tunecore.co.jp/

※4 Puzzle Project公式サイト https://puzzle-project.jp/

「ソーシャルゲーム」の限界

ではボカロという存在は、音楽というメディアの持つ本来的な〈セカイ系〉性……歌い奏でる主体と「世界」との直結性に対して、どのような立ち位置を持つのだろうか。ここで初音ミクについて〈セカイ系〉の概念を援用しながら分析を行った過去の事例を振り返ってみたい。

フランス文学研究者の中田健太郎は(※5)、「初音ミクの消失」のような初音ミク「自身」が何かしらのメッセージを発している楽曲に不思議さを覚え、そこに表れている主体性とはどういったものかを解き明かそうとした。具体的には、〈セカイ系〉について東浩紀をはじめとする論者がラカンの理論を引きつつ定式化した「もっとも親密な極小の関係性(想像界)が、社会や国家などといった中間的な共同体(象徴界)を介さずに、「この世の終わり」といった認知不可能な問題(現実界)に直結してしまうという、臨界的な想像力」というフレーズを引きつつ、初音ミクは「現実界」と「想像界」を直結させる、「セカイ系的主体」とでも言うべき新しい主体性を示しているのだとする。

そもそも「声」というものはラカンの理論によると、「世界の終わり」にも匹敵する抽象的で拠り所のない、人間に不安をもたらすもの(現実界への通路=対象a)だという。要するに、ソフトウェアとしてのボカロのパッケージに描かれているキャラクターの図像は、「声そのもの」が聞こえてくる(「現実界」に直面する)のに人間は不安で耐えられないから、仮の「出所」として必要とされるのだ、ということである。

また精神科医の斎藤環は(※6)、「ラメラスケイプ」という独自の概念を説明するのに初音ミクと〈セカイ系〉を重ね合わせている。「層状の風景」を意味する「ラメラスケイプ」は、インターネットやモバイルデバイスの普及を前提に、現代の多層化した社会のリアリティを捉えようとする概念だ。社会が欠落しているとも言われる〈セカイ系〉は、この時代性を正確に反映したフィクションとも言えるのだが、均一で単層的な社会(=象徴界)が「まだある」と信じている多くの人間にとっては、「身体性という拠り所が希薄で、社会が描かれていない」作品という評価になってしまう。

ではどのように現代において、社会とその接点としての身体は認識されるのか。そこで初音ミクの存在がヒントを与えてくれる。身体なき「彼女」の実在性を身体に代わって支えるのは、有志によって制作されるMMDと呼ばれる3Dモデルや、ニコニコ動画のコメント機能やタグ機能など、「彼女」にまつわる創作やコミュニケーションを支えるインフラだというのだ。「『彼女』の人気を支えているのは、あらかじめ失われた身体性を強力に補完する、重層的なアーキテクチャなのである。極論するなら、ラメラスケイプにおいては、『初音ミク』という『タグ』が一つあれば、キャラのリアリティは成立する」。

これらはボカロを用いるクリエイターでもそのリスナーでもない、あくまで部外者の側からの考察だが、そう的を外したものでもないと思う。まず共通認識として、ボカロは実体を持たない存在である。青緑色の、ツインテールの髪をした……という、図像としての最低限の共通項は保ちつつ、N次創作(創作が創作を呼び起こす連鎖反応)によって事後的に付与された設定を取り込みながら「初音ミク(と名指される存在)とは〇〇である」の「〇〇」の部分を無限に増殖させていく、他にあまり類を見ない対象だ。『プロセカ』でも、初音ミクたちはユニットごとの「セカイ」に応じて服装をはじめとしたその見た目を大きく変化させる。つまり初音ミクたちが棲んでいるとされる「セカイ」とは、そのような幽霊めいた対象を私たちに可視化するための装置なのだと言える。

「セカイ」という言葉を「社会」からは切り離された観念的・非言語的な「想い」の集まる領域として再設定したところに、〈セカイ系〉言説史の観点から見た『プロセカ』の価値があるとひとまず言えるだろう。

しかし『プロセカ』における「セカイ」の扱いに関して、筆者としては不満もある。まず『プロセカ』において登場人物たちがユニットの垣根を超えて交流するのは、基本的に現実の学園生活の中においてであり、「セカイ」の中においてではない。また初音ミクたちバーチャル・シンガーは、ロックバンド「Leo/need」に対応する「教室のセカイ」ではパンキッシュな装いに身を包み、ミュージカル集団「ワンダーランズ×ショウタイム」に対応する「ワンダーランドのセカイ」ではサーカス団員のような格好をしているなどの違いが見られるのだが、逆に言えば少し衣装が変わるくらいで、アニメ作品に「よくいる」キャラクター像に収まってしまっている。彼女たち、異なる「セカイ」に棲む初音ミクたち同士が交流する=「セカイ」が交じり合うということも基本的にはない。


そもそも『プロセカ』オリジナルキャラクターたちはロックバンドだったりミュージカル集団だったり、ストリートダンスのチームだったりアイドルだったりするのだが、基本的にはボカロを用いて曲を作るわけではない。一応、現実のボカロクリエイター像に近いあり方をしているユニットとして、作曲家・イラスト担当・動画担当・歌唱担当からなる「25時、ナイトコードで。」が配置されてはいる。このユニットは開発スタッフ曰く、ボカロシーンに必要不可欠な「心の闇(アンダーグラウンド)」というテーマ性を担っているそうだが(※7)、上記のようにユニット内で役割分担ができている時点で、その「闇」というテーマもあくまで社会性の中で生じ、また社会性の中で解決が目指されるものとして設定されていると言える。

これはユーザー同士フォロー/フォロワー関係になることによってゲームの進行をサポートし合う「フレンド」と呼ばれる機能など、文字通りの「ソーシャルゲーム」としての性質を『プロセカ』が備えていることともパラレルになっている。どんなにソロプレイヤーとして楽しんでいても、ランキングや「フレンド」一覧で他のプレイヤーの存在は可視化されてしまうのだ。また、キャラクターは「ガチャ」を引くことで入手できるカードの形に封じ込まれ、その「育成」の度合いと「ユニット編成」によってゲームクリアの難度も変わってくる。個として孤独に〈セカイ〉と向き合う図式は、システム面でも物語面でも、最終的に社会や人間関係の中で解消されることとセットになっている。

現実のボカロシーンにおいても、作詞作曲に加えてイラストや動画まですべて個人で手掛けるクリエイターは少数派で(とはいえそういったクリエイターが一定数いることが驚くべきことではあるのだが)、大半はボカロPが主体となってソーシャルメディアのDMでイラストレーターや動画クリエイターに依頼し、ゆるいコレクティブが都度作られるという形をとる。そこにはコミュニケーション能力、広義の社会性が求められるし、勢いのあるクリエイターとつながるほど当然アテンションを獲得しやすくなる。

※5 「主体の消失と再生 セカイ系の詩学のために」、『ユリイカ 2008年12月臨時増刊号 総特集=初音ミク』収録。

※6  「ラメラスケイプ、あるいは「身体」の消失」、東浩紀・北田暁大編『思想地図 vol.4 (特集・想像力)』(NHK出版、2009年)収録、および『キャラクター精神分析』(筑摩書房、2011年)。

※7  『プロジェクトセカイ』は音楽と人間の関わりを支える“初音ミク”という存在を具現化した作品に【開発者インタビュー】(電ファミニコゲーマー) https://news.denfaminicogamer.jp/interview/200803a

「無色透名祭」とオルタナティブなボカロ表現

しかしこうした「ソーシャル化」の限界に接して、ボカロシーンが本来的に備えていた「誰でもなさ」……匿名性を回復しようとする運動が、当のシーンの中から生まれてきていることも特筆すべきだ。

2022年7月に第1回が開催された「無色透名祭」は、ニコニコ動画運営の協力の下ボカロPの「ちいたな」が主催した楽曲投稿イベントだ。レギュレーションとして「楽曲の匿名での投稿」「動画は白背景以外は使用不可(文字フォントは5種類のみ使用可能)」「イベント終了までは「どの曲を投稿したのか」は明かしてはならない」といった条項が設けられ、応募総数は3000曲となるなど好評を博した。

以下は「ちいたな」による「無色透名祭」のステートメントである。

インターネットに無数の音楽が広がっている現代、

聞き手がその中から話題性や既に知名度のある作品を好んで聞くのはごく普通のことだろう、、。

ただ、我々は知っている。

どんな作者も無名から始まったということを。

そこで私は考えた。

あなた自身が信じる、本来の実力を知らしめる機会を作れないだろうか。

元々アーティストが持っている話題性や知名度は関係ない。余計な情報は断ち切って、本当に求めている音楽に出会える機会を、純粋に音楽のみを楽しめる機会を作ることができたなら…。

既に著名なアーティスト諸君、売れ線など放棄して久しぶりにやりたい音楽を作ってみてはどうだろう?

自分の作品価値を信じてやまない、未来の売れっ子アーティスト諸君、これを機に実力を魅せてはくれないだろうか。(※8)

イベント終了後、作者が自身の投稿曲を明かすところまでが実質的にイベントに含まれているということもあり、結局「売れる」ことが最終目的であるかのような文言となっているのは気になるところだが、それはそれとしてだ。「ちいたな」はイベント終了後に行われたインタビューで、「MVが付いていないことによって音楽や歌詞がスッと入ってきやすい。今までどれだけタイトルや作者、動画に音楽の評価がされたいたのか痛感した」という方がかなりいらっしゃっいました」と明かしている(※9)。

「誰を評価するか」「何を評価するか」が自らを形作るアイデンティティとしてフィードバックされてしまう……そのような環境では、まだ人気のないクリエイターや曲を評価することは「コストが高い」行為ということになり、「人気のあるものが人気」というループを形成しやすくなってしまう。「無色透名祭」はそのようなボカロシーンの現状に対する、内側からの抵抗と言える(なお、今年も第2回が開催されるようだ)。

また、メインストリームから外れた場所に目を向けて見れば、「名前が売れる」というアテンション・エコノミー自体への抵抗……とまではいかなくとも、そこに疑問を提示するような作風を確立している作家も散見される。

たとえば〜離(ゆーり)という作家は、真っ白なアートワークを基調にアンビエントな質感のトラックに初音ミクの声を溶け合わせ、ときに自らの声も用いて作品を構成する。そこでは自身の声と初音ミクの声が完全に等価であり、作者性というものを限界まで消し去ろうとしているかのようだ。筆者が以前話を聞いたところによると(※10)、氏は初音ミクを「言葉を付与することができるシンセサイザー」として使い始めたといい、これと同様のことはかつて『カゲプロ』原作者の「じん」も語っていた(※11)。

また同氏はインターネットレーベル「i75xsc3e」(※12)の運営も行っており(名前に深い意味はなく、これも「特定の色を持たせたくない」志向が反映されているという)、toulavi、uami、MON/KUなど、専門メディアでも高い評価を受ける先鋭的な電子音楽家の作品をコンスタントに送り出し続けている。それらの作品がBandcampという、クリエイター個人が「投げ銭」形式で音源データを販売することができるサイトでも配信されていることも、サブスクリプションや広告モデルに代わる新たな経済圏を提示しているという意味で注目すべきことだ。

また、「アメリカ民謡研究会」の名義で作品を発表するHaniwaは、複数の合成音声ライブラリを駆使してポエトリーリーディング作品を発表する作家だ。特に近年の作品ではAIが搭載された(=イントネーションやビブラートなど演者の「歌いグセ」をより正確に再現する)CeVIO AI・VOICEPEAKなどのソフトを用いつつ、一聴して「まるで人間のように」聴こえる朗読が醸し出す違和感を詩的な表現に昇華、そこにグリッチノイズ的なエフェクトを重ねることで、合成音声の人工性を意図的に露出させる表現を行っている。ミュージックビデオの制作も自ら手がけ、キャラクターイラストをメインに用いないその作風はボカロシーンにあっては異彩を放つ。

下に引用した動画は珍しくキャラクターイラストが用いられているが、実はこれはAIが生成したものであり、先に述べた合成音声の人工性を露出させる音楽表現と相まって批評的な文脈を提示するものになっている。

~離は「自分の思考を自分の身体から切り離して存在させたい」(※13)がためにボカロを使うのだと言い、Haniwaは合成音声を使うことで「人間を通さずに言葉がやってくるというか、言葉が直接聴者にやってくる感覚があるのではないか」(※14)と語る。ソフトウェアに自らの主体性を半分明け渡すような態度、以前の記事でも触れたソフトウェアに対する「オペレーター」としての立ち位置を、作家がボカロに対して発揮している例だと言えるだろう。

商業性に重きを置かない、アマチュアだからこそ可能になっているスタイルともいえるが、ボカロというソフトウェア自体は万人に開かれたものだということを思い出す上でも、こうした試みに対する再生数やフォロワー数などとは別の評価軸は必要だと筆者は思う。

※8 第1回「無色透名祭」の公式サイトより。 https://site.nicovideo.jp/mushokutomeisai/2022/

※9  人気ボカロPたちが“匿名”で楽曲投稿したらどうなった? 3000曲近くが集まった「無色透名祭」のオススメ楽曲&投稿者ネタバレを一挙にご紹介(ニコニコニュース) https://originalnews.nico/391921

※10  インターネット・空気・コミュニケーション――ネット世代の表現者が見つめる〈セカイ系〉のポテンシャル(ferne web) https://ferne.hatenablog.com/entry/rintarofuse-riyuuuyu

※11  「僕はボーカロイドに関してキャラクターとして捉えるっていう嗜好がなくて、「声の出るシンセサイザー」だと思っていた」、磯部涼編『新しい音楽とことば 13人の音楽家が語る作詞術と歌詞論』(スペースシャワーネットワーク、2014年)、p.135。

※12 レーベルの公式サイトはこちら。 https://i75xsc3e.hatenablog.com/

※13 同上

※14 アメリカ民謡研究会・Haniwaインタビュー 合成音声×ポエトリーリーディングで紡がれる、唯一無二の作風の根源に迫る(Soundmain) https://blogs.soundmain.net/17374/

今回のまとめ

今回考えてきたトピックを、連載全体の文脈に照らしつつ整理し直すと以下のようになるだろう。

・制作ツール(DAWや映像制作ソフト)と流通インフラ(ディストリビューションサービスや動画プラットフォーム)の普及を背景にして、個人で音楽・映像を制作するハードルが低下した

・個人的な詩情を、通信網を介して広く、また空気の振動として直接的にリスナーに伝えることができる音楽とは、そもそも〈セカイ系〉的な性質を持った表現手段である

・ボカロというソフトウェアは、特定の身体と結びつかない「誰でもない」声による歌唱表現を実現する

・アマチュアリズムに根差した=限られたリソースを効率的に用いて制作されるリリックビデオというスタイルは、空白を残し「考察」を促す

以上から、アイデンティティの提示が過剰に求められるソーシャル的な息苦しさからの退避先となり得る「どこでもないどこか」「誰でもない誰か」のイメージに到達することを目指す本連載の方針とも一見相性がよいように思われるボカロシーンだが、クリエイターや作品を発見する回路がソーシャルメディアに大きく依存しているのも事実であり、その構造は現在シーンにおいて存在感を増しているスマートフォンゲーム『プロセカ』の物語構造・ゲームシステムを見ることによっても明らかになったのだった。

しかしシーンの周縁も含めて目を凝らしてみれば「ソーシャル化」への抵抗が見られるのもまた事実であり、そのようなダイナミズムが見られるということ自体が、「ソーシャル化」一辺倒に傾く現在の情報環境においては稀有なことである。その中心にあるのはやはり、ユーザーの創作意欲を喚起するボカロ(合成音声)の、実体を持たない「空白の存在感」なのだろう。

「2020年代の〈セカイ〉系」を考える上で『エヴァ』や新海誠作品に匹敵する重要性を持つのは、個々の楽曲や動画、あるいは『プロセカ』のような個別のタイトルではなく、ボカロシーン全体が織りなす生態系なのである。

第8回へつづく

筆者について

北出栞

きたで・しおり 1988年生。神奈川県横浜市出身。1990年代半ばをドイツで過ごす。音楽雑誌の編集部員、音楽配信サイトの運営スタッフを経て、2010年代半ばより現名義で評論同人誌への寄稿を始める。2021年、〈セカイ系〉をキーワードにした評論アンソロジー『ferne』を自費出版。同人誌即売会「文学フリマ」を中心に話題となる。2024年4月、初単著となる『「世界の終わり」を紡ぐあなたへ――デジタルテクノロジーと「切なさ」の編集術』を刊行。

  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」
  1. 第1回 : 20年後に聴く「ほしのこえ」
  2. 第2回 : 「シン・エヴァ」と〈セカイ〉の原風景
  3. 第3回 : 新海誠作品の「常世」のイメージを問う
  4. 第4回 : ミュージッククリップ的映像とデジタル編集の原理
  5. 第5回 : 現代の表現者は“オペレーター”である
  6. 第6回 : TikTok動画と〈セカイ〉の手触り
  7. 第7回 : ソーシャルゲームの限界と、ボーカロイドの空白性
  8. 第8回 : 「子供の世界」に出会い直す
  9. 第9回 : スマートフォンゲームとデジタル時代の「作家性」
  10. 第10回 : 切断・隔離・プロトタイプ――デジタル時代における「作品」の原理
  11. 最終回 : どこにもないセカイで、響き続ける祈りの歌
  12. 連載「ポスト2020の〈セカイ〉系 「距離」の時代のイメージ学」記事一覧