こんな地獄を乗り越えないと就職できない世の中、間違ってないか――?
20XX年の近未来、「ウルトラベビーブーム世代」の大学生たちが、今とは比べ物にならないほど激化した就職活動に挑む――。
3月26日(火)に太田出版より刊行される佐川恭一『就活闘争20XX』。OHTABOOKSTANDでは本書の発売を記念し、ひと足先にプロローグ〜第二章までを全三回にわたって無料公開。
記念すべき第一回は、プロローグと第一章冒頭の試し読み。主人公の太田亮介は、就職活動に熱が入っていない京都大学三回生。周囲の同級生たちが突然就活モードにギアチェンジし、その雰囲気に圧倒される彼は、これまでどんな人生を辿ってきたのか……。至高の“就活エンターテインメント”をお楽しみください。
プロローグ
九〇年代に始まる「失われた二十年」を経てすっかり経済大国の地位から陥落し、後は沈み続けるばかりかと思われていた日本。しかしある年、時の政権によってヤケクソで打ち出された「超次元的少子化対策」が意味不明の大成功を収め、ありえないほど子供が生まれる「ウルトラベビーブーム」が到来した。それからさらに約二十年が経過した20XX年現在、日本は再び世界での地位を回復しつつあったが、一方で人口減とともにゆるやかになっていた国内での競争が、個人レベルでもかつてないほど激化していた。特に就職率の悪化は大きな社会問題となっており、ウルトラベビーブーム世代と呼ばれる世代の就職活動では、血で血を洗う争いとしか言いようのない惨劇が繰り広げられていた。
超次元的少子化対策が炸裂して以降、日本の「就職偏差値ランキング」も過去に類を見ない大変動を見せたが、その争いを勝ち抜いたのは多角的な事業を展開する「Z社」だった。現在では家族で一人でもZ社に入りさえすればその前後三代は安泰とされるほどで、みなZ社内定に有利である「高学歴」を得るために狂奔し、受験戦争も過熱の一途をたどっている。もちろん、多くの識者たちが「こんな社会はおかしい」と異を唱えてきた。長きにわたって価値観の多様化を推し進めてきたにもかかわらず、「成功」の形が画一化し、ほとんどの者が難関大受験→Z社コースを志願する、あるいは親に志願させられる状況は、人間の自由と尊厳を奪っているのではないか? しかし、国がこのいびつな状況になってからというもの、人々の幸福度は年々上昇していた。日本の「復活」を見たアメリカの社会学者ポール・J・ウダンは、自らの著書において次のような分析を行っている。
権力が分散し価値観が多様化するところには、避けがたく「内面」が出現する。言うまでもないことだが、社会的人間は純粋な生理的欲求ではなく、他者に媒介された欲望によって突き動かされている。それは例外なく他者=外部によって規定されたものであり、その限りにおいて「内面」は非常に限定された領域を安全に跳ね回るだけで済む。しかし、価値観の多様性は人間に無際限の「内面」と向き合うことを強いる。それを真に突き詰めること、つまり「内面」との対話に取り組み続けることは、実のところ現実の人間の精神に長く耐えられる営為ではない。それは若者の輝ける青春時代のように期間限定のものだ。そんな悲しい限界を自覚した時‐あるいは自覚させられた時‐、他者=外部に媒介された強大で支配的な価値観が抗えない求心力をもって再興してくる。いわばその「逆行」こそが日本を「復活」させたのだ。
(ポール・J・ウダン『PARTYが始まるよ‐伝説の死闘・キリストvs前田敦子』より抜粋)
右のようにポールは日本の「復活」をひとまず礼賛しているが、分析の結論は曖昧である。この日本の祭りのような状況もまた「期間限定」のものにすぎない、いや、すべての現象はある限界のなかで、終わりのある長さをしか持つことができないのだ、という諦念が彼の論の通奏低音をなしているのだ。このことは文字にしてみれば至極当然のことのように思える。しかし人間という未熟な生物は、ひとつの祭りを理性とは異なる部分で永遠のようにとらえてしまう。二、三日たてば誰も覚えていないようなネット上の炎上、終わってしまえばすっかり興奮のさめてしまうオリンピックやW杯、そういった刹那的なものが、そのさなかでは永遠のように感じられてしまうという経験を、誰しも持っているだろう。それらすべてをつねに冷笑するポジションを取ることなど誰にもできない。人間は社会的生物であり、全員に何らかの祭りが用意されている。そしてその祭りは永遠を仮構し、私たちはその終焉にきわめて長い間気づくことができないのだ。
20XX年現在の日本における狂騒が、一体いつまで続くものなのかはわからない。だが、その時代を生きる者が時代と一体化した狂騒を避けて通ることは、究極的には不可能である。時代の中心的価値から距離を取ろうとする者も、その価値を基準に自らを位置づけざるをえない。この先に書かれるものは、強大な価値基準の打ち立てられたひとつの時代を象徴する、「就職活動」にまつわる詳細な記録である。
第一章 合同企業説明会①
京都大学三回生の太田亮介は、迫りくる就職活動に対してそれほど身が入っていなかった。もともと太田はのんびりした性格で、人と争うことがあまり好きではなかった。小学生の時にはリレーの選手に選ばれて目立つのが嫌でわざと遅く走ったし、サッカーやバスケでは人に強く当たれず、逆に転ばされてばかりだった。社会情勢も相まって競争、競争とうるさい世間からは、どちらかと言えば浮いた存在だった。太田の両親は息子のそうした性質を快く思っていなかった。きちんと周囲に対して競争意識を持ち、「勝利」を目指す気概を見せてほしかった。
もともと太田の両親は田舎生まれでおおらかな家庭に育ったが、二人が十代を過ごしたのはまだウルトラベビーブームなどは予測できない時期で、田舎暮らしを称揚するような、終わりのない社会の競争から降りるという価値観がまだ力を持っていた。二人は豊かではなくともゆったりした自分たちの暮らしを悪くないものだと考えていたが、社会情勢の激変を受け、自分たちは大きな過ちを犯していたのだと深く反省した。「ゆったり」している間に周囲に思い切り差をつけられ、それはもはや取り返しのつかないレベルにまで広がった。周囲がギラギラと目を血走らせて過酷な競争に身をさらし、自らの社会的地位を上昇させていくにつれ、二人のゆったりした暮らしはだんだん逼迫していった。「俺は努力すべき時期に努力してこなかった」と太田の父は悔いている。
「俺はずっとほどほどの人生が良いと思って生きてきた。なにごとも中庸が大事、それが俺の考えで、たぶん俺の先祖たちの考えだった。アリストテレスもそう言っていた。だがこの現実を見ると、ほどほどを目指して歩くことは後退に等しい。まるでムービングウォークを逆走するような現代では、走って走って走り続けなければ、その場に留まっていることさえできないのだ。『こんな時代は長くは続かないだろう』と言う奴もいる。だが、その実際の長さを明言できる奴は一人もいない。ある時代の長さを予見することは不可能なのだ。俺たちの子供が、この時代性の中で最後まで生涯を過ごすということだって十分にありうる。そんなとき、『いつかこの時代は終わる』なんてうそぶいてほどほどに生きていれば、結局俺たちみたいにズルズルと下層民へと堕ちていくしかなくなってしまう。今与えられた時代の条件にしたがって戦う道を選ぶことこそが、限られた生しか与えられていない人間としての正しい生き方だったのだ!」
太田の両親はぬるい仕事からきつめの仕事に変え、何とか国の平均給与がもらえるところまでは持ち直したが、この先大きな成功を望むことは到底できない状態だった。
こうして思想的な「転向」を経た太田の両親は、子供を競争社会で意欲的に戦うデュエリストにし、国を統すべる巨大企業「Z社」に就職させ一発逆転で一族を繁栄させるため、さまざまな方策を尽くした。まず、Z社の選考に引っかかるには、一定以上の学歴がなくてはお話にならない。両親は、子供がお腹にいる頃からモーツァルトなどのクラシック音楽を聴かせ、生まれてからは無数の絵本を読み無数の童謡を歌わせ、また英語教材を執拗に聞かせたり高額な教材を買ってやらせたりした。テレビ視聴は禁止し、ゲームなどはもってのほか、小学校に入るとすぐに地元で一番大きな塾に通わせ、その順位の向上に家族をあげて全力を尽くした。しかし、当の太田はやはり両親のもともとの性質を受け継いだのか生来がのんびり屋であり、必死になっている両親の期待をそれほど重く受け止めていなかった。両親が劇画風漫画なら、太田は日常系ほのぼの漫画のような雰囲気で、ひとつの家に別の漫画が同居しているようなちぐはぐさがあった。だが、両親が生活を切り詰めて多額の教育費を太田にぶちこんだおかげで、そしてその教育方針が‐少なくとも受験方面では‐奏功したおかげで、太田本人にはそれほど頑張ったという感覚がないまま自然とそれなりの努力を積み上げることができ、京都大学合格という結果を手にすることができたのである。Z社に入るためには東京大学がもっとも理想的であることは間違いなかったが、滋賀に住む太田家の収入では高騰し切った東京での生活費が出せなかったため、これは太田家にとって最善の結果だった。
京都大学の合格発表はインターネットで見ることもできたが、現地の掲示板で見たほうが少し早く結果を知ることができたため、太田の両親は「ネットでいい」という太田を家から引っ張り出して京都大学に見に行った。京都大学に向かうあいだ、太田の両親は「お前、自信はどうなんや?」「できたんよね?できたんよね?」としつこく聞いてきて、もうそんなことは受験が終わった日から何度も答えてきたことだったが、太田は「五分五分や」と言い続けた。じっさいのところ、五分五分であることは間違いなかった。開始早々に廃止された「共通テスト」に代わる「第一能力テスト」での点数も微妙だったし、二次試験でも体調が悪く、初日一発目の国語は何を書いたかすら覚えていなかった。そもそも、太田は模試でC判定やD判定ばかり取っていたから、まったく合格安全圏というわけでもなかった。太田は両親にそういうことも丁寧に説明してきたつもりだったが、あまり伝わっている様子はなかった。幼少期こそ両親に勉強を教わっていたが、中学あたりではもう太田に両親がついて来られなくなっていたし、二人とも大学を出ていないこともあり、大学受験の話をしても今ひとつイメージできていないようだった。それでも父はひたすら「京大やぞ、京大」と繰り返し続けるルーティンを崩さなかった。太田はそれに苛立つこともあったが、京大卒でもないのに「京大ニキ」と名付けたくなるほどの京大狂と化した父を、どこか面白がってもいたのだった。
合格発表で太田の受験番号を見つけたとき、両親は太田そっちのけでハグし合って喜び、涙さえ流した。というか大泣きしていた。泣きまくりすぎて目立ち、アメフト部が一気に寄ってきて、なんと太田ではなく両親のほうが胴上げされて、そのインタビューまでがテレビに映った。当の太田は胴上げもインタビューも固辞し、帰りの電車では「あんな恥ずかしいことやめろや」と呆れていた。しかし両親は「今日喜ばんでいつ喜ぶんや!」「あんた甲子園優勝したようなもんやで!」と興奮冷めやらぬ様子で、太田ももちろんうれしかったのだが、半狂乱の両親を見ると逆にしらけた気持ちになり、「まあ、オトンとオカンが喜んでるならよかったな」と思う程度だった。自宅に帰る電車の中で、少し落ち着きを取り戻した両親は「次は就職活動やな」「うん、Z社に向けた戦いが始まるんや」などと言ってきて、太田は「そうやなあ」と曖昧に返事した。この京都大学合格がその先のZ社入社のための手段であるということは両親から口酸っぱく聞かされていたが、正直なところ、太田にその実感はなかった。ていうかしばらくはゆっくりさせてくれや、と思っていた。さすがに受験疲れしていた太田は、これからは人並みにゲームやスマホ、テレビやYouTube やSNS、そして何より恋愛を楽しむぞ、という気分で、いわば浮かれポンチ状態だったのだ。太田はどちらかと言えば数学が苦手で、数学の配点の低い文学部に出願したのだったが、友人の証言によると受験翌日には積分の仕方を忘れていたという。
さらに、太田は両親の敷いたレールにしたがって生きてきたため、将来の夢というものを持っていなかった。やりたいこともまったくなかった。大学受験の先のことを何も考えていなかったのだ。当然、就職活動の具体的なイメージを持ってもいなかった。そしてさらに、太田の両親も「Z社Z社!」というわりに、現代の就職活動がどういったものかという知識を持っておらず、何をさせればいいのかわかっていなかった。とにかく一族で四年制大学に入ったのは太田だけで、しかも日本で東京大学に次ぐ京都大学に入ったのだから、これはもうZ社もかなり近づいただろう、という程度のあやふやな感覚しか、太田の両親は持っていなかったのだ。太田自身もまた、「まあ今は相当な学歴社会なんやから、Z社とかいうとこの選考も有利やろ」と楽観的だった。
そういうわけで、太田は三回生になるまで普通の大学生活を送った。「普通」という言葉が何を指すのかは人それぞれだが、講義に出たり友人とサボったり、単位を取ったり落としたり、飲みに行ったりカラオケに行ったり、車の免許を取ったりアルバイトをしたり、観光旅行に出かけたり自転車で琵琶湖一周しようとして挫折したりと、まあそんな感じだった。ただ、彼女だけはできなかった。恋愛は大学で楽しみにしていたことナンバーワンだったが、それだけは叶わなかった。好きになった女の子は何人かいたが、誰も太田には見向きもしなかった。みんな、太田よりもしっかりとした将来設計を持つ者や、大きな夢を語る者に惹かれていった。太田からは「将来」の匂いがしなかったのだ。のんびり屋で楽観的な太田だが、この冷酷な事実にはさすがに傷つけられた。しかし大学には他にも似たような非モテがわんさかいて、彼女ができない者で集まってくだを巻いているのも楽しかった。彼らと鴨川に並んで酒を飲んだりもしたし、不条理系のサブカル映画や学生演劇を観て熱い議論を交わしたりもした。だが、そういう彼らにも、映画監督になりたいとか劇作家になりたいとか、そんな夢を持つ者が多かった。バンドを組んで音楽で食べていこうと本気で考えている者もいたし、現代アートでやっていくという者もいた。太田は映画監督やら劇作家なんかになって役者にバーバー文句を言われたり現場スタッフに舌打ちされたりするのは嫌だったし、音楽のセンスは壊滅的だったし、現代アートに対する理解も、いくら話を聞いても深まらなかった。太田は、大学でもやりたいことが見つからなかったのである。
*
そうこうしているうちに就職活動が始まった。就活がはちゃめちゃに激化した20XX年現在において、就職活動は三回生になる直前の三月、説明会から始まるのが原則となっている。太田はまだまだのんびり構えていたが、その頃になると周囲の様相がガラリと変わった。突然幼少期からの自分の膨大な体験を書き出して自己分析を始めたり、将来のビジョンを詳細にデザインし始めたり、卒業論文と見紛うようなレベルの業界研究に精を出したりする同級生が増えた。その中には、映画監督になりたいとか劇作家になりたいとかバンドをやりたいとか現代アートをやりたいとか言っていたはずの人間も含まれていて、太田はショックを受けた。映画監督になりたいとか劇作家になりたいとかバンドをやりたいとか現代アートをやりたいとか言っていた人間に聞いてみると、「あの頃はまだ若かったから」などとわずか二年前の話を大昔のことのように語り、当然のような顔で企業に就職しようとしているのである。太田のようにやりたいことのない人間ならまだしも、あれだけ熱く夢を語っていた人間までもが「企業就職」のほうへと吸い寄せられてしまう、その求心力の強さに太田は驚かざるをえなかった。現代日本で就職以外の道を選ぶには、とにかく就職活動が始まるまでに大きな結果を残しておかなければならないのだ。映画やらアートやらの道へ進んで食べていくには、運不運にかかわらず若くして成功するぐらいの圧倒的才能がなければならないのだ……そういうムードが大学中に、いや国中に蔓延していた。三十代、四十代から新しいことにチャレンジして、それで成功することもあるんじゃないか、と太田は思っていたし、同級生たちにもそう言ってみたが、無駄だった。みんながみんな就活就活で、太田のようにぼんやりしている人間はいないのだった。
もともとはっきりした目標を持っていなかった太田は、両親が就活の時期になってまたZ社Z社と言い出したのもあり、そろそろ周りと同じように就活を始めようかと考えた。
しかし、就活のことを少し想像してみるだけで憂鬱な気分になるのだった。周りの人間は早くも自己PRを作成し始め、所かまわず「ちょっと聞いてみてくれ」などと言って内容を暗唱し始めたりしている。それでダメ出しを受けたところを直し、どんどんブラッシュアップしていくようなのである。太田はそれを見て到底かなわないと思った。自己PRなんて面接官相手ならまだしも、友人相手に披露するなんて恥ずかしすぎてできない。家族相手になんてなおさらだ。だが、周りの同級生はそういうことを平然とやっていて、太田が同じ学部の友人に「ようそんなんできるな」と言うと、彼は「しょうもない会社に入るわけにいかんからな」と答えた。しょうもない会社という表現もなかなか失礼だなと太田は思ったが、やはり周りもとりあえずはZ社を目指している様子だった。とにかくZ社対策を真剣にして、内定が取れれば万々歳、仮にダメでもZ社対策を応用すれば他の一流どころに引っかかるだろうという、あたかも受験進学校が軒並み採用している「東大目指しとけば早慶楽勝」作戦のようなスタイルで、みながみな自己をPRし、内面を分析し尽くし、会社員としてのすばらしい夢を創作していた。太田にはその大きな流れに誰も逆らわないのが気持ち悪く思えた。どうにもまともに話せる人間が周りにいないような気がして、高校時代からの親友で、京大に落ちて同志社に入った小寺に電話してみると、小寺もまた「同志社大学経済学部ゥ!小寺正紀ィ!」などと叫び出したので、太田はため息をついた。
「おい小寺、お前こんなんおかしいと思わん?みんながみんな狂ったみたいに就活始めてさ」
太田がそう聞くと、小寺は「お前はまたそんなこと言うんやな」と呆れたような声で言った。
「お前はいっつもそうや。みんなが真剣にやっとるのをどっか俯瞰して見て、ほんで偉そうに余裕ぶっこいてんねん。受験は確かにそれで成功したかもしれんで?お前は京大に受かって俺は落ちたわけやからな。でもな、そのやり方が通用するのはここまで、受験までで終わりや。今の就活ではな、いくら高学歴でもそんな風に余裕ぶっこいてたら即無い内定や。昔、俺らの二世代前ぐらいのときかな、空前の売り手市場の時代があって、そのときは東大京大いうたら大企業入り放題って状況やったらしいけど、もう全然違うフェイズに入っとるからな。まだまだまさか日本が中国に抜かれるなんて思ってもなかった時代やから。お前『先行者』って知ってるか?二〇〇〇年ぐらいに中国が作った二足歩行ロボットやねんけどな、めっちゃ造形とかショボくて日本のテキストサイトやらでボロカスに馬鹿にされとったんや。そこから二十年もせんうちに中国に経済大国のお株奪われて、今またこうやって日本がなんとか差し返そうとしてるわけやんか。つまり時代っていうのはめまぐるしく変わっていくんや。その都度時代に対応していくっていうのは、見方によってはダサいことかもしれん。でもな、俺は時代への適応をあきらめて、そうやって必死の人間を笑って冷めとる奴の方が最後には敗北すると思うで」
「わかったわかった」
「いや、わかってない。お前は昔から何もわかってない。なまじ勉強ができて京大にも受かってしもたから、お前は自分にホンマに疑問を持つ機会がなかったんや。まずお前は自分がどれだけ恵まれた環境におったかわかってない、親にもめちゃくちゃ金かけてもらって、思いっきり勉強させてもらって、それが当然のことじゃないってことがわかってないわ。俺はな、確かに受験ではお前に負けた。せやからお前に何を言っても説得力がないかもしれん、でもな、お前がそんなんやったら、就活では逆転するで。お前は同志社ごときにやられるわけないって思ってるかもしれんけどな、何もしてない京大野郎に俺は負けへんで!」
小寺の熱量に太田は「お、おう……」と返すのが精いっぱいだったが、よく考えてみれば親も最難関のZ社に入れとうるさい(そのための京大合格だったわけでもある)し、自分もZ社に入れればいいなあとは思っているのだから、小寺と一緒に就活の流れに乗るのがいいかもしれない、という考えが頭に浮かんだ。
「た、確かにな、俺はちょっと社会をナメすぎとるかもしれん。就活のことももっと真剣に考えるべきやったわ。よかったらさ、一緒に就活やらん?自己分析とか業界研究とか情報交換とか、そういうのって仲間がいたほうがええと思うし」
「仲間っつってもなあ。お前やる気なさそうやし、俺が一方的にアレすることにならん?」
「ならんならん。ならんようにするから。今から本腰入れて動き始めるわ。それに、お前も同志社の友達と就活するより俺とした方がいいって。会社によって大学ごとの採用枠決まってるって噂もあるし、俺と組んだ方が純粋に協力し合えるって」
「うーん……」
「な?筆記試験とかは俺の方が絶対できるし、教えたるから」
「なんか腹立つな……まあわかったわ。ほな来週京セラドームで企業の合同説明会あるから、それ一緒に行こうや」
「よっしゃ!これで契約成立やな」
「契約っつってもお前、お互い利益がある限りのアレやぞ。俺も人生かかっとるんやから」
「オーケーオーケー。それは重々わかったから」
「ホンマかいな……とりあえずこの説明会、絶対寝坊すんなよ。もうこの時点で名簿が置いてあって、その名簿も採用終わるまでしっかり保管されとるって噂や。そうやって学生の志望度を測るんやな」
「えっ、もうそんなん見られるわけ?」
「まあ不思議じゃないやろ。企業側としては内定出した学生に蹴られるのが一番痛いわけやから、同評価で並んだら説明会からちゃんと来てるほう採るわな」
太田はそれを聞いただけでもうウンザリという気分だった。大体、学生の中に一体どれだけ本気で働きたい人間がいるのだろう?働かなくて済むのなら働きたくないという人間が大半ではないのか? 自分の自己分析なんて、突き詰めたら「働きたくない」という結果になるのは目に見えている。努力せず働かず金がほしい、そしてかわいい彼女がほしい、という程度の情けない願望が自分のコアであり、何かしらの仕事はしていないと世間体が悪すぎるから、まがりなりにも人より多く詰め込んできたはずの受験の知識をそのまま使える塾講のバイトなんかを適度にやっていたい、というのが現実的なところだ。「働かなければならない」という前提からスタートする時点で、その自己分析は噓になる。
と思ったが、小寺にそんなことを言おうものなら協力関係を即切られそうなので黙っておいた。そもそも、働かなければならないという前提を覆すには、内的あるいは外的な「革命」が必要なのだ。それはほとんどコントロールできないがゆえに革命と名指される。いまの時代条件に適応する道を避けることは、楽なようでいて茨の道なのだ。とにかく合同説明会に行って、そこで就職活動とは何なのか、その相貌だけでもつかむことにしよう……太田は頭の中でごちゃごちゃ考えつつ、「ほな、また説明会で」と言って電話を切った。静まり返った部屋で、太田は不安と興奮の入り混じった感情が自分の中に渦巻いているのを感じた。やれるわけがないという気持ちと、もしかしたらやれるかもしれないという気持ち。何かに挑戦しようとしている、あるいは挑戦せざるをえない状況にある人間の誰もが味わったことのある気持ち。太田は、自分はこれまでそういう感情を経験してこなかったのだと思った。ふと部屋の本棚を見ると、大学に入ってから読み漁った小説、特に古い文学ばかりが並んでいる。そこには就活対策の本もビジネス本も、一冊たりとも混ざっていなかった。さすがにこの状態は就活生としてはまずいと太田は思ったが、そこに一冊の就活本を加えることで、自分なりに充実させてきた本棚が二度と癒えない傷を負うような気もした。しかしその危惧は一瞬の風のように過ぎ去り、太田はベッドに横たわって十分もしないうちにぐうぐうと寝息を立てていた。
冒頭無料公開②(3/16公開)へつづく
* * *
銃撃をかわしながら出身大学OBを探す「OB訪問」やSNSでの10万人フォロワー獲得をめざす「インターンシップ」、歴戦の就活猛者たちと激論をかわす「グループディスカッション」、そして多くの就活生が命を落とす「面接試験」。生死を賭けた選考に挑む就活生たちの悲劇を克明に描き、現代の新卒一括採用システムに一石を投じる、“就活エンターテインメント”登場!
『就活闘争20XX』(著・佐川恭一)は3月26日(火)より現在全国の書店、書籍通販サイトで発売予定です。