「カルチャー ×アイデンティティ×社会」をテーマに執筆し、デビュー作『世界と私のA to Z』が増刷を重ね、新刊『#Z世代的価値観』も好調の、カリフォルニア出身&在住ライター・竹田ダニエルさんの新連載がついにOHTABOOKSTANDに登場。いま米国のZ世代が過酷な現代社会を生き抜く「抵抗運動」として注目され、日本にも広がりつつある新しい価値観「セルフケア・セルフラブ」について語ります。本当に「自分を愛する」とはいったいどういうことなのでしょうか?
第9回は、アメリカで警鐘が鳴らされている”stan culture(推し活)”について。
「推しに救われている」、そのように感じる経験は私もある。
アーティストのマネジメントやPR、ディレクションに関わる身として、そのような気持ちになるファンの心理や業界の構造について、念入りな勉強と長年の経験を通して共感や理解をするよう努めている。昨今は「推し活で経済が回っている」と話題になるほど、様々なフィールドにおける「推し」に対する応援でお金が動いている。例えばライブに参加したりCDやグッズを買ったり、推しが起用された広告の商品を大量に購入したり、映画や作品を何度も見に行ったり、イベントのために遠征や宿泊をしたりなど、「好き」という感情に突き動かされた人間は「推し」にまつわるあらゆるものにお金を使う。しかしお金の動きだけではなく、精神的・時間的なコミットも、「推し活」においては非常に重要な要素となる。
例えば音楽の世界においては、「推し」の新曲のミュージックビデオやストリーミングサービスでの再生回数を増やすことは実質無料でできる。「推し」のアーティストをチャートにランクインさせるために、CDやグッズを買うだけではなく、隙間時間にMVを再生したり、戦略的に作られたプレイリストを複数の端末で流したり、投稿にいいねしたりと、時間的・精神的な労力をかけるのだ。他にも、SNSで認知度を高めるためにSNSでハッシュタグを拡散させたり、バトル番組の投票企画に参加したり、時には自分の推しが正当な扱いを受けていないと思ったら所属事務所に抗議文章を送りつけたり、様々な「ファンとしてやるべき行動」が存在する。もちろん、そのようなアクションを取らずに、好きな時に好きな情報を摂取することは可能だし、それが「間違った形での推し活」であるというわけではない。
しかし、アーティストの活動の中で、チャートでのランキングやグッズの売り上げ、ライブの動員などの「数字」ばかりが注目され、そこにファンが固執するようなムーブメントも世界中で確実に悪化しつつある。確かに、自分の現実の生活から目を背けさせ、辛いことや悲しいことから逃避をさせてくれる推し活は、一時的に精神的な安泰を与えてくれる。自分という個人よりも大きな組織や団体に所属したような気持ちになれるし、自分よりも「大きな」パーソナリティやゴールに没頭することも可能になるのだ。
さらに、コミットすればするほど、そして長期的かつ熱心に時間も労力も精神的キャパシティをつぎ込むほど、見返りを求めるような心理状況(サンクコスト効果)も発生しやすい。特にリターンは求めず、ただ時間を潰したり楽しい気分を味わうためにお金やリソースを注ぎ込む「趣味」と推し活を区別するとしたら、推しへの何かしらの形での「貢献」を前提としているのが推し活といえるだろう。その結果として、手放しに、無条件に推しを応援することができるのであればよいのだが、アイドルの熱愛報道が出たときに「せっかくこんなにお金を注ぎ込んだのに、裏切られた気分だ」というバッシングをする人が必ず出てくることを考えると、自分が提供した時間とお金は相手に対して何かしらの制限を与え、自分には何かしらの決定権があると無自覚にでも感じてしまいやすいのだ。
絶え間ないコンテンツの供給と経済的搾取、メンタルヘルスの悪化
自分という個人と、推しの対象という「別の存在」の境界線が曖昧になってしまうことで、まるでその推しの成功は自分の成功である、という二次的な「勝利」や「幸せ」を感じられる。推しがライバルのアーティストにチャートで勝った、今週はみんなの頑張りのおかげで1位になれた、そのようなファンとアーティストやアスリートなどの「一心同体」なカルチャーと推される側の人のカリスマ性が合体すると、ファンは「自分たちのおかげ」で成功の物語が形成されている、自分も勝者になれた、と感じられる。そしてその「成功」の見返りとして、当然公の場で推しからファンへの感謝が述べられ、関係性によってはまるで推しから”愛されている”かのように錯覚してしまう心理状況も発生する。もちろん実際に、ファンはアーティストから広く「感謝」され、「信頼」されているかもしれないが、必ずしもプライベートで親密な関係にあるわけではない。「推しからケアされている」と感じられたとしても、このような状態は「他者(=推し)」と「自分」との境界線がどんどん曖昧になってしまっていて、自分と他者のバウンダリーをしっかり設定し、自分を労わりケアしようというセルフケアの理念からは遠ざかってしまう危険を孕んでいる。
新たな推しを見つけた時の心理的な「ハイ」は、もはや中毒だ。あ、この人好きかも。この音楽良いかも。もっと調べてみよう。そして気づいたらファン向けコンテンツの動画やインタビューを漁り、それらを一周したら新たなコンテンツに飢えてしまう。望み通り新しいコンテンツが提供されたらまたハイが復活し、どんどんのめり込んでしまう。この「のめり込み」が行きすぎると、コンテンツが定期的に、もしくは自分の希望通りのスケジュールで提供されないと、運営や事務所に対して怒りや苛立ちが湧いてくることだってある。結果として、ポジティブな感情以上に強烈にネガティブな空気がファンダムの間で蔓延しやすいことも事実だ(ここで「創作物」ではなく「コンテンツ」という言葉を使っているのは意図的である。ファンの「需要」や「要望」に答え、ファンからのアテンションを逃さないためのサイクルを維持する機能を果たすものをあえて「コンテンツ」と呼んでいる)。
気づいたら、ファンとしての「あるべき姿」や「正しい推し方」などが気になってしまい、自分の生活をネグレクトしてまでその推しを追うこと、応援することを優先してしまうことだってあるだろう。英語圏でいう推し活文化は”stan culture”(Eminemの2002年にリリースされたStanという曲に由来している)と呼ばれるが、この言葉はインターネット空間(主に旧Twitter、現X)でファンアカウントを作って推しを過剰に応援・擁護することに生活の大半の時間やリソースを割いている人々の強迫的なカルチャーを指す。当然そのような熱狂的なファンの現象は昔から存在したが、昨今は特に音楽のような本来は「数字」が全てではない分野において、「勝つ」ことへの執着が強まっているように見受けられる。例えば自分の推しの新曲のミュージックビデオがダサいと批判されていたら、片端からそのようなアンチを攻撃・ハラスメントしにいったり、あらゆる投稿のコメント欄にミュージックビデオのリンクを貼ったり、「布教」に近い形の過剰な宣伝や擁護をしてしまう。このstan cultureに付随する精神的な状況は深刻な、若者の間でメンタルヘルスの問題を引き起こしている、と専門家にも問題視されているが、なかなか具体的な解決策は見出されない。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3960781/
私自身も凝り性で、一旦「好き」「興味がある」という感情が芽生えると、研究に没頭するように情報を集めたくなったり、コミュニティの一員としての活動を活発に行いたくなったりしてしまう経験も多々ある。しかし、寝る時間を惜しんでMVを再生しようとか、空き時間にはずっと曲を再生しようとか、(すでに資源の無駄、ファンの善意の搾取として批判される典型的な一例になりつつあるが、)CDを何百枚も買っては捨ててしまうとか、そのように「自分の生活は後回し」になってしまうほど推しが人生の中心的な存在を占めるのは、現実逃避に相まって何か達成感のようなものを感じられるからこそ、充足感が得られる行為だ。
自分のため、ではなく誰かのためになら頑張れる、そういう人の優しさで世の中のさまざまなことが回っていることは事実だ。自分のため、だけではモチベーションも湧きにくいし責任も持ちづらい。コミットするにも自分への約束という曖昧なゴールがは守るのが難しく、やる気も維持しづらいだろう。しかし誰かのため、もしくは誰かに見られる自分のためとなると、具体的な他者の視点を想定することになり、「やらなくては」という気持ちになりやすい(私自身もそのタイプである)。しかし、その心理が極まって「ライブで推しに見られるけど今の自分の見た目では恥ずかしい。だから整形しなくれはならない。痩せなくてはならない」「自分の応援がなくては推しは夢を成し遂げられない。だから自分にできることは無理をしてでもやる」という強迫性が滲んだ「自己犠牲」にまで行き着いてしまうと、自分の人生を充実させるための推し活からは遠ざかってしまう。
もちろん、推しを見ると元気が出る、推しが頑張っているから自分も頑張れる、という気持ちは全く否定しない。私もそういう気持ちになることは日常の中で多々ある。推しがセルフケア・セルフラブについて教えてくれたり、政治・社会について考えるきっかけを与えてくれたり、ポジティブな影響だってたくさんある。しかし何事も行きすぎるとバランスが崩れてしまう。本来は人生にポジティブな影響を与えてくれるはずだった推しの存在が自己犠牲や自己否定に繋がってしまうようでは、本末転倒なのでないだろうか。
次回の更新は、2024年8月14日(水)17時を予定しています。
筆者について
たけだ・だにえる 1997年生まれ、カリフォルニア州出身、在住。「カルチャー×アイデンティティ×社会」をテーマに執筆し、リアルな発言と視点が注目されるZ世代ライター・研究者。「音楽と社会」を結びつける活動を行い、日本と海外のアーティストを繋げるエージェントとしても活躍。著書に文芸誌「群像」での連載をまとめた『世界と私のA to Z』、『#Z世代的価値観』がある。現在も多くのメディアで執筆中。「Forbes」誌、「30 UNDER 30 JAPAN 2023」受賞。