「献身的」で、なくていい! 突然、働き盛りの夫を襲った脳卒中と半身の後遺症。何の知識もなかった私は、ゼロから手探りで夫の復帰までを「闘う」ことになる――。当事者だけがツラいんじゃない。家族にも個別のツラさがある。ここでは、ライター・三澤慶子が綴る、葛藤と失敗と発見の記録である『夫が脳で倒れたら』から一部ご紹介。正しいカタチなんてない、誰もがいつか経験するかもしれない、介護のリアルをお伝えしていく。 本書から、第一章を全11回にわたって公開。第5回目。
発症、麻痺の悪化とセカンドオピニオン~夫は『ゼロ・グラビティ』の境地へ⑤
入院3日目。面会時間開始に合わせて病院に行けば、トドロッキーの麻痺はさらに進んでいた。
「起きたら動かなくなってた」
と見せてくれた右手はゆっくりと上下する程度となっていて、買ったボールペンは持つこともできなくなっていた。
トドロッキーがトイレに行こうと点滴スタンドを動かしながらベッドから降りたとき、膝カックンされた人みたいに崩れ落ちるように床に転んだ。トドロッキー自身も何が起こったか分からないといった感じだった。支えられながらも立ち上がるのにかなりもたついた。
たまたま近くにいた看護師が慌てて車椅子を持って来た。
「バランスを崩しただけなんで、大丈夫です」
トドロッキーが、車椅子なんて必要ないです、そんな大変な事態じゃないんです、とアピールして断るが、看護師は強い口調で言った。
「これからはこれで移動してください。危ないので」
私も最初は車椅子なんて大げさなんじゃないかと思った。体調が悪くてずっと寝ていると立ち上がるときに立ちくらみでふらつくことがよくある。そういうことがトドロッキーに起きただけだと思ったのだけれど、車椅子に座る様子を見て事態を理解した。右足が動いていない。
「なぜか足に力が入らない」とトドロッキー。
麻痺は止まるどころか、刻々と現在進行形で進んでいる……。
二志野という医師に呼ばれ、トドロッキーと二人、診察室に入った。
ちなみに二志野医師もトドロッキーの主治医。この病院では3人の医師が主治医となって患者を担当していた。3人の医師のうちの誰かが常に病院におり、医師の間で患者の情報を共有しています、と説明を受けた。
診察室では、MRI画像を前に、トドロッキーの脳梗塞がBAD(ビーエーディー)というものであると説明を受けた。
「脳梗塞の中でもタイプがあるんです。これでなければいいが、というタチの悪いタイプがあるんですが、ご主人の脳梗塞は残念ながらそのタイプです」
ちょっと待って。
医師の説明は続いていったが、理解が及ばない。
脳梗塞という病気そのものがまず覚えたてなのだ。
まず「脳梗塞」について。
「脳梗塞」は「脳卒中」のひとつ。
「脳卒中」は、脳の血管が詰まる「脳梗塞」、脳の血管が破れて出血する「脳出血」と「くも膜下出血」をまるっと総称する言葉。日本では脳卒中の4分の3が脳梗塞で、トドロッキーが患ったのも、これだ。
脳梗塞には大きく分けて次の3つのタイプがある。
「アテローム血栓性梗塞」、「心原性脳塞栓症」、「ラクナ梗塞」。
アテローム血栓性梗塞は、脳や頸部のわりと太い血管が詰まったり、血流が悪くなったり、そこでできた血栓が剥がれて流れていくことでさらに先端の脳の血管の一部が詰まる状態。
心原性脳塞栓症は、心臓の中でできた血栓が脳に流れてきて詰まる状態。
ラクナ梗塞は、脳の細い血管が詰まり、その結果15ミリ以下の小さな脳梗塞ができた状態。
トドロッキーの脳梗塞は診断書ではラクナ梗塞と記載されている。
二志野医師の話に戻れば、ラクナ梗塞ではあるものの、中でも特殊な分枝粥腫型梗塞(Branch Atheromatous Disease)、通称BAD(ビーエーディー)と呼ばれるものだという。英語で「悪」を意味するBAD(バッド)ではないが、そう捉えていいくらいタチが悪い。
BADは、血管を川に例えるなら、太い本流から出てる支流のその分岐点あたりが狭まることで起こる。支流の先に水が流れなくなってしまい、それまで潤っていた一帯が干上がってしまう状態がBAD。ラクナ梗塞よりBADの脳梗塞は大きくなる。
BADをラクナ梗塞とは別ものとして、脳梗塞を4つのタイプ「アテローム血栓性梗塞」「心原性脳塞栓症」「ラクナ梗塞」「BAD」に分けたりもするらしいけれど、私が説明されたときはラクナ梗塞のうちのBAD、ということだった。まあ括りはどうあれ、BADがどういうものであるかに変わりはない。
BADによって引き起こされるのは片側性の運動麻痺、感覚障害、呂律障害などで、どれも軽症であったのが短期間に悪化し、どんな治療をしても症状が緩和されず進行してしまう。毛細血管が詰まり始めると現在行なわれている治療ではお手上げ。毛細血管は処置するにはあまりに細過ぎるし、分岐点あたりを強制的に広げることも血管が折れ曲がっているような場所のためできないという。
BADのタチの悪さは、病院で処置を受けているにも関わらず急激に悪化していくところにあり、初見では医師も分からないという。入院して処置を受ければ患者や家族は悪化が止まると思っている。なのに止まらないどころか体の機能がガクンガクンと落ちていく。落ちて初めてBADだと診断される。亡くなる人が多い病院内で、日に日に体が動かなくなる恐怖は筆舌に尽くし難い。
BADの説明を医師から受けている間、ずっと頭がぼんやりしていた。私の脳が理解することを拒否しているみたいに、言葉がほとんど入ってこない。それでも耳を傾け、モニターに映し出されているトドロッキーの最新のMRI画像を見た。入院初日に見た左脳の白いもやがかかった部分は、もはやもやではない。まっ白だ。血液が行かなくなって梗塞が進んだことを示している。
「止まるんですか」
もういいかげん進行は止まるよね。今日、止まるよね。これだけ進めばもう十分。病院にいるのに進行しつづけるっておかしいじゃない。点滴だってまったく効果がないわけでもないでしょうに。
「見守るしかない状況です」
この言い方、まだ進行しますと言っている。動揺が止まらない。
院内のあちこちの病室にいる身動きできない重篤な入院患者の様子が脳裏にフラッシュで次々と現れた。この先、トドロッキーはああなるってことなんだろうか。隣のトドロッキーを見れば、表情を変えずただ黙って聞いていた。
病室に戻ってからトドロッキーと交わしたのは他愛もない会話。二志野医師が言ったことを反芻するようなことはしなかった。身体の機能が刻々と落ちているトドロッキーはきっと正気をギリギリ保っていたような状態だったんじゃないだろうか。
そんなトドロッキーの頭になんと3人目の主治医、三河医師がハンマーを振り降ろした。
夕方だったろうか。病室にいた三河医師は車椅子でトイレからベッドに戻ってきたトドロッキーの様子をしばし眺めていた。車椅子にもまだ慣れないトドロッキーは、それでも私に押してもらうのを嫌がり、動く左足と左手を使ってゆっくりと動かしていた。車椅子の後を付いて歩いていた私が三河医師に軽く頭を下げて挨拶すると、医師はトドロッキーの前に立ちはだかり、言った。
「次は左だな」
最初、何を言っているのか分からなかった。三河医師はご丁寧に言葉を付け足してきた。
「いつそうなってもおかしくないから。左、左も麻痺しますよ」
三河医師は少し微笑んでいた。その微笑みのままくるりと背を向け、ゆっくりと病室を出ていった。
何が起こった?
医師が、次は左と言って去っていった?
トドロッキーに?
心臓を握られたような衝撃。トドロッキーも固まっている。
左も麻痺するということはもう寝たきりだ。そういう深刻な状態なのは分かった。見せられたMRI画像に写っていた部分的に極端に細くなった血管は、麻痺が出ている右半身を司る左脳だけのことではない。右脳の血管も同様の状態だった。だから右脳にいつ梗塞が起きても不思議ではない。そうなれば左が麻痺する可能性がある。診察室でそう言われたわけではないけれど、MRI画像でその恐怖は漠然と感じていた。
だけど、何、その言い方!
そんな風に言うのであれば家族だけに伝えて欲しかった。本人に伝えるとしてもこんな無防備な状態で言う? トイレから戻って来たところに爆弾くらいの威力ある言葉を投下されたのだ。三河医師にはそのことが分かっているんだろうか。
三河医師のことをこのとき怖いと思った。
麻痺はその後も進み、夕刻には右腕で動くのは人差し指の指先だけとなった。だらりと垂れて持ち上がらない右腕の人差し指の指先をかすかに動かしてみせ、トドロッキーは言った。
「ここしか動かない」
夕食は左手で食べた。利き手は右だから左手で食事をしたことはない。スプーンを使ってトドロッキーはゆっくりと食事を口に運んだ。
* * *
この続きは『夫が脳で倒れたら』本書にてお読みいただけます。
*本文中に出てくる病院、医療関係者、患者などの固有名詞は仮名です。
筆者について
みさわ・けいこ。北海道生まれ。ライター。
(株)SSコミュニケーションズ(現(株)KADDKAWA)にてエンタテインメン卜誌や金融情報誌などの雑誌編集に携わった後、映像製作会社を経てフリーランスに。手がけた脚本に映画『ココニイルコト」『夜のピクニック』『天国はまだ遠く』など。半身に麻痺を負った夫・轟夕起夫の仕事復帰の際、片手で出し入れできるビジネスリュックが見つけられなかったことから、片手仕様リュック「TOKYO BACKTOTE」を考案。
轟夕起夫
とどろき・ゆきお。東京都生まれ。映画評論家・インタビュアー。『夫が脳で倒れたら』著者・三澤慶子の夫。2014年2月に脳梗塞を発症し、利き手側の右半身が完全麻痺。左手のみのキーボード操作で仕事復帰し、現在もリハビリを継続しつつ主に雑誌やWEB媒体にて執筆を続けている。近著(編著・執筆協力)に「好き勝手夏木陽介スタアの時代」(講談社)J伝説の映画美術監督たちX種田陽平」(スペースシャワーブックス)、「寅さん語録」(ぴあ)、「冒険監督塚本晋也」(ぱる出版)など。