何もない“おしまいの地”に生まれた著者・こだまの、“ちょっと変わった”人生のかけらを集めた自伝的エッセイ集「おしまいの地」シリーズ。『ここは、おしまいの地』『いまだ、おしまいの地』に続く三部作の完結編『ずっと、おしまいの地』発売を記念して、シリーズ第1作目に続き、シリーズ第2作目となる『いまだ、おしまいの地』からも6つのエピソードを特別に公開します。
今回は、“逃走”してしまう人について。
「きょうも校長室から逃走してしまった」
帰宅した夫がネクタイを緩めながら報告する。
「やっちまったようだね」
「やっちまった」
パニック障害と診断され、かれこれ6年。夫は混み合う乗り物や狭い部屋、歯医者や床屋の座席といった逃げ場のない状況下で発作を起こす。
ちゃんと薬を飲んでいる。意識しないようにしている。だけど、発作は突然やってくる。激しい胸苦しさと頭痛に襲われ、居ても立ってもいられなくなるという。
校長室。学校で働く人間にとって避けられない場所である。ものの数分なら何とか耐えられるらしい。しかし、そこは校長との面談だけでなく、職員同士の打ち合わせの場としてもしばしば使われる。
革張りのソファに着席を促された瞬間から夫の「逃走」のカウントダウンが始まる。額装された歴代校長の白黒写真、窓辺に並ぶ盆栽、そして壁際に並ぶ教育書のぎっしり詰まった書架が圧力を掛けてくる。部屋の狭さや圧迫感のみならず、肘掛けのある椅子からも「逃げられない」という恐怖を感じるらしい。
「夜中に校長室に侵入して肘掛けを全部ノコギリで切り落としてやろうかな」
夫の目が本気だった。ノコギリの歯を全部丸くしておいたほうがいいかもしれない。
同僚にはパニック障害であることを話していない。変に気を遣われるのが嫌だから言いたくないという。いったん部屋の外に出て深呼吸をすればすぐ回復するから大丈夫。そう夫は言い張る。私の説得にも耳を貸さない。頑固なのだ。
この病気を隣で6年ほど見てきて、思った。過剰に心配しないようにしよう。一緒になって落ち込まないようにしよう。奇妙な行動を取ってしまうのがいまの夫なのだ。お互いの不安が伝染してしまわないように、せめて私はふざけていよう。怒られても、不謹慎でも、そうする。
いつのころからか私たちはパニックの発作を「逃走」と呼ぶようになった。
「逃走」できるのなら、何度でもしてしまえばいい。
「逃走」できない空間には行かなければいい。
そうシンプルに考えるようになった。
会議のあった日は「きょう逃走したの?」と訊く。混み合うファミレスで表情の固まった夫に「逃走するか」と誘う。夫は日々、逃走中。本人にしか見えないサングラスをしたハンターに追われている。
はじめは、それが発作だと気付かなかった。病気を疑うまで1、2カ月もかかってしまった。夫がふざけていると思っていたのだ。
一緒に映画を観に行ったら、序盤で「うわー」と声を上げて退出した。車に乗ったまま洗車できる箱型の自動洗車機を利用したら、水が勢いよく噴射した途端、ドアを開けて外に飛び出した。蕎麦屋の小上がりで隣のテーブルとの境に立てられた間仕切りを勝手に畳んで片付けた。いずれのときも夫は「なんか嫌だったから」と言った。気持ちを抑えられず、身体が勝手に反応するという。本人も何が起きているかわかっていないようだった。
運転中に急ブレーキをかけたこともある。後続車が避けてくれたから助かったものの、事故を起こしていてもおかしくなかった。
「どうしたの?」
「幽霊みたいなのが飛び出してきて俺の邪魔をした。霊、マジでうぜえ」
「でも急ブレーキは危ないよ」
幽霊のような、ぼんやりと人の形をした幻が見えるらしい。
「人が飛び出してきたら『人だー!』ってちゃんと教える。私が何も言わないときは『人』じゃないから」
「そのときは轢いていいのか?」
「轢いていいよ」
「本当だな? どうなっても知らんぞ」
私たちは何と闘っているのだろう。夫が噓をついているようには見えない。「子供のころから霊感があった」という話を聞いていたので、それらしいものが横切ったのかもしれない。そのときはそう思った。
散髪も一苦労だ。自由を奪われるあの席に長いあいだ座っていられないのだ。あの椅子にも憎き肘掛けが付いている。
そんな夫に近所の「1000円カット」の店はとてもありがたい存在だった。シャンプーをしない。肩や頭皮を揉みほぐさない。やや乱暴な手つきだが、即解放してくれる。
「俺にはコミュニケーションとか丁寧なサービスとか要らねえんだ。素早く椅子から降ろしてくれるのが最高の店。味気ない店ほどいい。流れ作業でいい。俺なら1000円カットに5000円払うね」
いつになく饒舌だった。だが、残念ながら店内の混み具合が気になり、次第に「1000円カット」からも足が遠退いた。人の多い場所も発作を引き起こしやすいのだ。
最終的に私がバリカンで刈ることになった。月1回、居間に新聞紙を敷いて夫を座らせ、芝生のようにツンと伸びた頭に刃を当てていく。父親以外は全員女というバリカンに全く縁のない人生を送ってきた私には新鮮な感触だった。
「これって、もしかして」と心の病を疑ったのは、昔から好きだった電車や飛行機に乗るのを極度に嫌がったときだ。
私は何をしていたのだろう。どうして早く気が付いてあげられなかったのだろう。病どころか、奇妙な言動をする夫を「ちょっと面白いな」と好ましく思っていたのだ。
すぐに精神科に予約を入れ、夫を連れて行った。医師に「パニック障害です」と告げられたとき、ふたりとも不思議と悲しい気持ちにはならなかった。ただほっとした。ようやくこの不可解な行動に名前を付けてもらえた。薄暗い森の中で迷っているときに小さな灯りを手渡された。そんな安堵を覚えた。
いきなり出口は見つからないかもしれないけれど、いま私たちがどんな道を歩いているのか足元を照らすことができる。これからは、ぬかるみや大きな穴を避けて歩けばいい。
医師は「土日も仕事に明け暮れ、生活が不規則になっていたことが原因かもしれない」と言った。
「きょうを境に良いほうへ向かうよ」
私は処方箋を手にした夫を励ました。
実は精神科に通うのは2度目になると打ち明けられた。大学時代から交際していながら初耳だった。
大学受験に失敗して実家で浪人生活を送っていたとき、両親から毎日のように「次は絶対合格するんだぞ」とプレッシャーを掛けられ、精神を病んでしまったという。家へと続く上り坂を見ただけで動悸が激しくなり、夜もよく眠れず、睡眠薬を処方してもらっていたらしい。
結果的に夫は志望する大学には行けなかった。私も行けなかった。お互い第3志望の大学にだけ合格し、たまたま同じアパートに入居し、そこで出会った。夫は仕送りをしてもらえなかったから、私は家にお金がないと思っていたから、家賃の安い風呂なしアパートを選んだ。
私たちは最初から「うまくいかない」ことが重なって繫がっていたのだ。そう考えると、夫の「逃走」も、私が長らく抱える免疫性の持病も、夫婦間の諸問題も、その続きのように思えてきた。
今更慌てることもないだろう。「うまくいかない」ところからスタートしたけれど、それなりに楽しみを見つけながら生きている。完璧ではないけれど、報われることも知っている。だから、夫の病気もなんとかなる。いや、なんとかしようと思った。
それから、長年の謎がもうひとつ解けた。夫が実家に帰りたがらない理由だ。あの家や住宅街の坂道には彼の苦しい思い出が詰まっているのかもしれない。ふたりで帰省したのは20年間で3回だけ。夫の両親と最後に会ったのは3年前。私が入院し、たまたま病室で4人顔を揃えたのが最後になる。
昨夏、遠方に住む夫の両親が、私たちの街へやってきた。
「そっちが来てくれないなら行く。もうチケットも取った。キャンセル料金がかかるから変更できないよ」と奇襲ともいえる手段で、はるばるやって来た。
不機嫌になった夫に「お義父さんもお義母さんも、あまり長旅できない歳だから最後くらい笑って迎えてあげようよ」と、なだめた。
「いやだね。言っとくけど俺は一言も喋らないからね」
ふたりとも70代半ばになる。しばらく会わないうちに、小柄な義母がまたひと回り小さくなっていた。腰を痛めて背筋を伸ばせないという。義父は反応のない夫にひたすら陽気に話しかけている。直前まで再会を渋っていた夫は、宣言どおり両親と目も合わせようとしない。
我が家に到着するやいなや「きょうはどうしてもこれを見せたかったの」と義母が意外なものをボストンバッグから取り出した。
どっしりとした金色のトロフィーだった。上部に野球のボールがかたどられ、最優秀選手賞と書いてある。
「お義母さん野球やってたんですか。すごいじゃないですか」
変化球を駆使する腰の曲がった義母。キャッチャーのサインに首を振る義母。マウンドで一本指を立てるユニフォーム姿の義母。あまりにも素敵だ。痺れた。
しかし「何を言ってるの。私じゃないよ」と、あっさり打ち砕かれた。夫が小学生のときに表彰されたものだという。
「覚えてるよね?」
義母の問い掛けに夫は首を傾げた。
「じゃあ、これは?」
将棋大会で入賞したときの盾、サッカー大会で敢闘賞に輝いたときの賞状、駅伝大会のメダル。義母は手品のようにバッグの中から少年時代の功績を次々と出すが、夫は首を横に振るばかりだった。
そういえば夫の口から子供時代の話をほとんど聞いたことがなかった。記憶がところどころ抜け落ち、友達の名前も、部活も、家族で出かけた温泉旅行もあまり覚えていないという。実家で暮らしていたころの記憶を全部なかったことにするかのように。
「本当に何も覚えていないのね」
義母は寂しそうな目をしてトロフィーやメダルをひとつずつバッグにしまった。
多才だった少年は過去の栄光を振り払い、現在オンラインゲームのとある界隈で「神」と崇められている。「無課金でこのレベルまで」と賞賛されている。無課金だが知恵はある。中高生や主婦らに「こう動けばいいんですよ」と技を教える見返りとして数々のアイテムを恵んでもらっているらしい。神であり乞食でもある。だが、落胆する義母にそう話しても伝わらないだろう。
その晩、渋る夫を再度なだめ、両親と4人で蟹を食べに行った。酒の力もあってか、最後には夫のほうから職場の様子を話して聞かせていた。帰り道、みんなで街を見下ろす展望台から夜景を眺めた。
ありったけの「栄光」を詰めて会いに来た両親、過去の傷が癒えない夫、身内に黙って本を出している私。全員まともではない。けれど、その夜は、ほんの少しだけお互いの距離が縮まった気がした。
翌朝、仕事で同行できない夫に代わり、私が両親を空港まで送り届けた。
道中、義母が大きな溜め息をついた。
「小学生のころは明るくて誰からも好かれる子だったのに、高校生くらいから何も喋らなくなってしまったの。あの子、本当に職場でちゃんと働けている? 一緒に飲みに行くような仲間はいる? あの子はいま何を楽しみに生きているの?」
「授業がおもしろくて、生徒にとても好かれてるんですよ。後輩にも慕われていて毎週飲みに行ってるんですよ」
私は仕事の話をしているときの夫がいちばん好きだ。誰にでも言いたいことを言い、叱り、励まし、私のできなかったことを易々とやり遂げていく夫を見ているのが好きなのだ。頑張りすぎてしまって、いま精神科に通っているけれど、私たちは大丈夫です。うつむいてはいません。ちゃんといろんなことをおもしろがって暮らしています。
伝えたいことはたくさんあったけれど、ほんの少ししか言えなかった。
「あの子のことよろしく頼みます。わがままな子ですみません。それから、これ。あの子には言わないで。ひとりで使ってね」
そう早口で言い終えると、夫婦は小走りで保安検査場のゲートに消えて行った。手渡された封筒には「ありがとう」と書かれた手紙と3万円が入っていた。
「あの子はいま何を楽しみに生きているの?」
義母の最後の問いが胸に刺さった。
鼻で笑われてしまいそうだから言わなかったけれど、夫は退職したら日本各地の動物園を巡りたいらしい。眉間に皺を寄せ「校長室のソファの肘掛けぶっ壊す」と企む人間が発したとは思えない可愛らしい夢だ。
そのころには飛行機に乗れるようになっているだろうか。相変わらず「逃走」しているだろうか。いま我が家に降り掛かっているいくつものおかしな状況を笑って話せる未来だといい。
そんなことを考えながら、晴れ渡った空へ飛び立つ飛行機を見送った。
* * *
本書では、集団お見合いを成功へと導いた父、小学生を出待ちしてお手玉を配る祖母……など、“おしまいの地”で暮らす人達の、一生懸命だけど何かが可笑しい。主婦であり、作家であるこだまさんの日々の生活と共に切り取ったエッセイが多数収録されています。
また、こだまさんの最新刊『ずっと、おしまいの地』は絶賛発売中! ぽつんといる白鳥が目印です。
筆者について
エッセイスト、作家。デビュー作『夫のちんぽが入らない』でYahoo!検索大賞を2年連続で受賞(第3回、第4回)、『ここは、おしまいの地』は第34回講談社エッセイ賞を受賞。ほか『いまだ、おしまいの地』、『縁もゆかりもあったのだ』など。