『ドライブイン探訪』の著書による新作ルポルタージュ連載。日本各地の「観光地」をぶらりと旅しながら、そこで暮らす人たちの声を拾い、その土地の今昔の切断面を描く。愛媛・道後温泉を訪れ、ただただぼんやり温泉旅館に滞在する。そこで偶然会った人々の声、まなざし、記憶。
市内電車で道後温泉駅にたどり着く
港は旅情をそそる。それが終点にあるというのもまた、旅情をそそる。
広島駅を出発した路面電車は、終点が近づくにつれ乗客が減り、宇品にある広島港まで乗っていたのは3名だけだった。この港から、瀬戸内海に浮かぶ似島や江田島行きの航路と、呉経由松山行きの船が運行している。
11時20分発のフェリーのきっぷを買って、乗船開始時刻まで売店をひやかす。4軒並んだ売店は、扱う品が少しずつ違っている。どこももみじ饅頭が並んでいるが、こちらは「藤い屋」、あちらは「にしき堂」とメーカーが別だ。ぼんやり棚を眺めていると、しつけ糸と編み針が片隅に置かれていた。船の中で編み物をする誰かを想像しながら、スポーツ新聞とお茶を買っておく。
フェリーは定刻通り出港する。雨が降っていることもあり、瀬戸内の島々は霧に包まれ、茫洋とした風景が広がっている。波もなければ揺れもなく、淡い風景が流れてゆく。ちょっと夢の中みたいだ。のどかな島々の風景に、工場や造船所が突然姿をあらわすのもまた、夢のようである。30分ほど経ったところで呉港に寄港し、これから音戸の瀬戸を抜けるとアナウンスが流れる。「瀬戸」とは海峡を意味する。デッキに出てみると、船はずいぶん狭い海峡をのろのろ抜けていて、なるほど瀬戸だという感じがする。
出港から2時間半ほどで松山観光港が見えてきた。「観光港」とついているけれど、こぢんまりした旅館が2軒並んでいるきりで、漁村といった趣きがある。港の近くに正岡子規の句碑があり、「雪の間に小冨士の風の薫りけり」と刻まれている。明治25(1892)年の夏に、正岡子規(まさおか・しき)が高浜虚子(たかはま・きょし)の家を訪ねたのち、川東碧梧桐(かわひがし・へきごとう)と3人で「延齢館(えんれいかん)」の雪の間に入ったときに詠んだ歌だという。句碑の隣に、ありし日の延齢館の写真と説明書きもある。湾になった海岸線を見下ろすように建てられた楼閣は、海水浴客向けの納涼席としてつくられたもので、松山中学校に赴任した夏目漱石も子規と一緒に訪れたことがあるそうだ。だが、120年近く前に姿を消し、それが建っていた場所もおぼろげにしかわからなくなっている。今では海水浴ができそうな砂浜もなくなり、消波ブロックが並んでいる。
ボストンバックを手に10分ほど歩いて、高浜駅に出る。明治38(1905)年に完成した木造駅舎は、風情が溢れている。改札鋏で切られたきっぷは、ふちのところが少し浮き出ていて、指先でしばらくその先端の感触を確かめる。伊予鉄道高浜線は、21分ほどで松山市駅に到着する。ここで市内電車に乗り換える。レトロな電車は唸りながらお濠端を走り、官公庁舎と繁華街をのんびり抜け、20分かけて道後温泉駅にたどり着く。
道後温泉の歴史は古く、日本最古の歌集・万葉集にも登場する。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
飛鳥時代の歌人・額田王(ぬかたのおおきみ)は、伊予を訪れた斉明天皇が瀬戸内の海に漕ぎ出そうとする情景を、こうして歌に詠んだ。斉明天皇が重祚(ちょうそ)した時代には、朝鮮半島をめぐる情勢が混迷を極めており、唐(とう)と新羅(しらぎ)の攻勢を受けて百済(くだら)は660年に滅亡する。百済と関係の深かった倭国は救援を求められ、斉明天皇は軍を率いて出兵する。難波宮(なにわのみや)を発った一行は、「熟田津(にきたつ)」に立ち寄り、2か月あまり滞在したのち九州へと船を出している。そののち白村江(はくすきのえ)の戦いが起こるのだが、この「熟田津」というのは現在の道後温泉の近くだとされている。今は港から小一時間かかってしまうけれど、この時代は道後温泉の近くまで海で、港にほど近い場所に温泉があったのだという。596年には聖徳太子も道後温泉を訪れたと伝えられている。
土産物屋が建ち並ぶアーケード街は、祝日とあって観光客で賑わっている。途中で商店街は右に折れ、正面に巨大な絵画が見えてくる。道後温泉本館は5年前から保存修理工事に入っており、巨大な囲いで覆われてある(工事用の囲いに描かれているのは大竹伸朗の絵画だとあとで知った)。この道後温泉本館を通り過ぎたところに、「常磐荘」という旅館はあった。
鯛めしをお櫃にあったぶんまで全部平らげる
「いらっしゃいませ、お待ちしておりました」。格子戸を引くと、女将さんが出迎えてくれる。玄関を上がるとすぐに階段があり、2階の桐の間に案内してくれる。ここは大正9(1920)年に建てられた木造二階建ての旅館で、10年前にリノベーション工事を施したものの、昔ながらの面影を残している。せっかく道後温泉に泊まるのなら、こういった趣きのある旅館にしたいと、常磐荘を予約しておいたのだ。
「最初は何に使われていたのか、今となってはわからないんですよ」。女将さんがお茶を淹れながら教えてくれる。「私はお嫁にきたので、あんまり昔のことはわからないんですけど、主人の母がここを買って常磐荘という旅館になったのは、昭和39年だと聞いてます。私がここを手伝うようになったのは、昭和53年頃ですかね。その頃でも、このあたりは今と全然雰囲気が違いましたよ。うちみたいな旅館が両隣にもあったんですけど、古い建物はずいぶん少なくなりました。うちもね、耐震工事をしたから、古いのと新しいのが混ざってますけど。今は大きな地震が来そうだと言われているから、どうしてもそのままというわけにはいかなかったんです」
万が一の場合に備えて、部屋の片隅にはヘルメットが置かれてある。道後温泉は、かつて大きな地震によって何度か湯が止まったことがあり、そのたびに祈祷が行われてきたと聞く。瀬戸内は地震が少ない印象があるけれど、地震に対するおそれが根強くあるのかもしれない。
レトロなのは建物だけではない。部屋に置かれた電話も、送話器と受話器が別になっている昔のタイプだ。そして、六畳一間の部屋にはテレビがなかった。
「この旅館を常磐荘として引き継いだときには、全部の部屋にテレビがあったと思うんです。でも、せっかく古い建物なんだから、タイムストリップをしてもらおうということで、テレビがない部屋を試験的につくってみたんです。ほしたら『テレビがないほうが落ち着けてよかったです』と言われる方が多かったので、それだったらもう、全部の部屋からのけてしまおう、と。テレビが観たかったというお客さんでも、一晩過ごしてみると、『ああ、テレビがないのもいいもんだね』と言って帰ってくださいます」
ゆっくり話を聞かせてもらっていたせいで、女将さんのペースを崩してしまう。「お茶が濃過ぎたかもわからんね」と謝られて、かえって申し訳なくなる。お茶と一緒に差し出された坊っちゃん団子を頬張り、一息ついたところで散歩に出る。
土産物屋が建ち並ぶアーケード街を、あらためてそぞろ歩く。ここには「道後ハイカラ通り」と名前がついているらしい。坊っちゃん団子に一六タルト、ぬれおかきに金賞コロッケ、じゃこ天にみかんおにぎり、道後ぷりんにアイスもなか。夕食前に買い食いを楽しむ観光客も大勢いる。蛇口みかんジュースありますと看板を出す店もある。何も買わないままアーケード街の終わりまで歩いてみると、ちょうどカラクリ時計が動いているところだ。
「この道後温泉は、日本最古の温泉として全国に知られ、年間を通じて、入浴客の絶え間がございません」。からくり時計の中央に配置されたマドンナが、そう語り出す。道後温泉界隈の観光スポットを案内して、「どうぞごゆっくり、松山の旅をお楽しみください」と告げ、からくり時計は元の形に戻る。
道後温泉をぶらついていると、“坊っちゃん”と“マドンナ”をよく見かける。観光会館の前に置かれた顔はめパネルも、“坊っちゃん”と“マドンナ”が並んで描かれている。うどん屋には丼を手にした“坊っちゃん”の姿があり、陶器の販売所には花瓶を抱える“マドンナ”の姿がある。土産物店の軒先には団子を手にした“坊っちゃん”像もあれば、店名に“マドンナ”が含まれるお店も2軒見かけた。『坊っちゃん』という小説が、恋愛小説だったんじゃないかと思えてくる。小説の中で夏目漱石は、「二十五万石の城下だって高の知れたものだ」「こんな所に住んでご城下だなどと威張いばってる人間は可哀想なものだ」と、こきおろすように記している。その小説をこれだけ観光に援用するというのは、松山の人は度量が大きい人が多いのか、あるいは意趣返しか。
土産物屋に入り、道後ビールを買った。この道後ビールにも、“坊っちゃん”と“マドンナ”の名前が使われている。ビールのほかに、今日の晩酌用にと日本酒も物色する。地元では定番だという「小冨士」という銘柄の酒を薦められて、五合瓶で買っておく。そういえば子規の句にも詠まれていたし、松山観光港の前の前にある旅館も「小冨士」だった。高浜の向かいに浮かぶ興居島に「伊予小冨士」と呼ばれる島があるのだと、これもあとで知った。
宿に引き返し、内湯につかる。常磐荘には客室が6部屋あるが、コロナ禍とあって4部屋しか稼働させていないという。内湯の入り口には鍵があり、ひと組ずつ貸し切りで利用できる。湯は道後温泉から引かれていて、それをひとりで貸し切れるというのは贅沢だ。風呂から上がると、若女将が料理を運んできてくれた。
◯刺身(鯵・鯛)
◯鰆の酢の物
◯サザエのつぼ焼き
◯カサゴの姿揚げ
◯野菜の炊き合わせ
◯茶碗蒸し
◯鯛のかぶと煮
◯鯛のお吸い物
◯鯛めし
一皿ずつ運ばれてくる料理に舌鼓を打ち、日本酒をすいすい飲む。サザエのつぼ焼きには梅が和えてあって新鮮な味がした。最後の鯛めしは、お櫃にあったぶんまで全部平らげてしまう。すっかり満腹になり、若女将が布団を敷いてもらって、布団に横になる。古い建物だから、外の喧騒が伝わってくる。通りを行き交う人たちの声を聴いているうち、すぐに眠ってしまった。
だからお皿には柄が描かれているのか
窓を開けると、道後温泉本館が見える。玄関にはあかりが灯っているものの、ひっそりと静まり返っている。時刻を確認すると午前4時だ。新聞配達のバイクが通り過ぎると、あたりはまた静寂に包まれた。
5時を過ぎると、人の気配が漂い始める。外に目をやると、湯かごを手にしたカップルがいそいそと道後温泉本館へ歩いてゆくのが見えた。道後温泉本館は改装工事中だが、男性は霊の湯に、女性は神の湯にだけ入浴できる。6時になると、どわん、どわんと太鼓の音が響く。朝を告げる時太鼓だ。やがて日がのぼり、観光客も地元の人たちも動き出す。常磐荘の前の道路は細く、昼間は一方通行になっているけれど、生活道路になっているようで、しきりに車が通り過ぎる。リュックを背負った中学生が、道後温泉本館とは反対の方向に駆けていく。
「ここは車通りがあると音が響きますけど、昨晩はよく眠れましたか?」布団を上げにきてくれた若女将が、心配して声をかけてくれる。まだ人通りの多い21時には眠ってしまったので、少し恥ずかしいくらいだ。布団を片づけたあと、8時過ぎに朝食を運んできてくれる。
◯ご飯
◯豆腐と椎茸の味噌汁
◯かまぼこ
◯しらす
◯たまご豆腐
◯煮豆
◯玉子焼き
◯鰆の塩焼き
旅館の朝食はどうしてこんなに魅力的なのだろう。昨晩もお櫃のぶんまで完食してしまったというのに、またぜんぶ平らげてしまう。ご飯を完食してしまったから、焼き海苔は酒のつまみに取っておく。
朝食を食べているあいだ、自然と斜め上に視線を向けていることに気づく。そこに何があるわけでもなく、ただ部屋の壁があるだけなのに、なぜか斜め上を見上げてしまっている。これは一体どうしたことだろうかと考えていて、ふと気づく。たぶんこれは、テレビを見ながらごはんを食べる癖が出ているのだ。
自宅で食事をするとき、決まってテレビをつけている。ビジネスホテルに泊まる場合でも、朝食会場には大抵テレビが置かれている。その名残りで、ありもしないテレビを見上げながら咀嚼していたのだ。
思い返してみると、料理だけを凝視しながら食事することは稀である。見晴らしのいい店であれば景色を眺めるし、特に凝った内装じゃなくたってお店の雰囲気を味わいながら食事をする。でも、ここは六畳一間の空間で、目の前には壁があるだけだ。急に料理だけを凝視しようとすると、まごついてしまう。じっと料理を眺めているうちに、ああ、だからお皿には柄が描かれているのかと思い至る。菊の花が描かれた小皿もあれば、花の形をした小鉢もあり、どこかの湖畔が描かれた皿もある。部屋にいながら、ここではないどこかを想像する。
「すみません、連泊いただくのにお布団あげてしまいましたけど、せっかくだからごろごろしたかったとか、なかったですか」。食事を下げにきてくれた若女将が、申し訳なさそうに言う。常磐荘に宿泊するお客さんには、2泊、3泊と連泊していく人が少なくないそうだ。
「うちに泊まってくださるお客様は、ゆっくり過ごしたいということで、特に予定を決めずにいらっしゃるお客様も比較的多くて。もちろん事前に予定を決めて、しっかり観光される方もいらっしゃるんですけど、お部屋でのんびり過ごされて、お昼前ぐらいになって『ちょっと出かけようか』とぶらぶらされる方が多いですね」
無為徒食に過ごすのは大変なことだ。常磐荘で朝を迎えて感じたのはそのことだった。
普段の生活であれば、朝起きるとまずはテレビをつける。たまにつけっぱなしのまま眠っていることもあるから、目を開ければその日のニュースが流れ込んでくる。スマートフォンを手に取り、SNSをしばらく眺めて、ああゴミを出さなければ身体を起こす。そしてコーヒーを淹れ、朝食をとり、洗い物をして洗濯機をまわし——とかく何かに追われている。でも、ここに滞在していれば家事に煩わされることもないし、この旅館にはテレビもないのだ。
「日本人は間が持たないからねえ」。昔、ある人が語っていた言葉がふいに頭をよぎる。