観光地ぶらり
第7回

昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道

暮らし
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「いんおこ」と呼ばれて観光客が来るようになった

集落の間を彷徨いながら、どうにか海岸線に出ると、数えきれないほどたくさんのサイクリストが通りを行き交っていた。ぴったりとしたサイクルウェアを身に纏った人もいれば、10人以上のグループもいて、家族連れもいる。「原付道入口/自転車歩行者道入口」と書かれた看板に従って坂を登ると、因島大橋の下に、かごのように吊り下げられた道路がある。原付・自転車・歩行者専用道路からだと、金網越しにしか風景を眺めることはできないけれど、自転車で海峡を越えるのは爽快だ。

橋を渡った先は因島だ。サイクリングロードは橋を降りて右側に続いていて、ほとんどのサイクリストはそちらに走っていくけれど、それとは反対側に進んでみる。坂道を下りかけたところで、白髪の男性が歩道の縁石の近くに腰掛け、鉢植えの手入れをしているのが目に留まった。

「このプランターは、区長会で置いてるものなんです」と、白髪の男性は作業の手をとめて教えてくれた。瀬戸内海で栄華を誇った村上水軍の拠点となり、かつては除虫菊の栽培が盛んで、はっさく発祥の地でもある因島は、平成に入る頃から「水軍と花とフルーツの島」をキャッチフレーズに町おこしをおこなってきた。また、町を花で美しくしようと「花いっぱい推進協議会」が立ち上がり、現在でもあちこちにプランターや花壇が設けられているそうだ。

「私が世話をする係というわけじゃないけん、ほっといてもええんじゃけど、枯れた花があると見てくれが悪いでしょう。だから、切ってやらんにゃしょうがないよねえ。それに、うちの庭にも植木があって、草取りから水やりから、あれこれするもんじゃけ、そのついでにプランターの手入れもやりよるんです。そこの庭木なんかも、綺麗でしょう。コブシというんですけど、葉っぱが皆落ちて、真っ白い花が咲くんですよ」

自転車で旅をしていると、風景はダイジェストのように流れてゆく。風景が一定のスピードで流れていくからこそ、浮かび上がってくるものもある。これが車や電車になると、おっと思った次の瞬間には流れ去ってしまうけれど、自転車であればその一つひとつに立ち止まることができる。草刈りをする人の姿や、耕運機で畑を耕す人の姿。野焼きの匂い。ネギの香ばしい匂いがして振り返ると、収穫したネギを詰んだ軽トラックが走り去ってゆくのが見えた。畑一面に植えられたたまねぎを、一家総出で収穫する人たち。公園でブランコを漕ぐこどもと、それを見守る老人。路地に入り込んでいくと、薪が積み上げられた家屋があり、「うちはまだ、薪ストーブを使いよるんです」と教えてくれた。旅に出ると、そこかしこの誰かの暮らしがある。

「旅の意味、旅の心というようなものをほんとうに考え、それを実践し、旅に生きた代表的な人として、私は念仏僧一遍を思い出す」。民俗学者・宮本常一は、『旅の発見』にそんな言葉を記していた。踊念仏を世に広めた一遍は、家を捨てて遊行に出ることで「民衆の中をわたりあるき、民衆とともにあるいた」。こうして「一遍は旅によって民衆を見出し、また民衆を旅の道づれにすることによって、民衆の世界を民衆たちに発見させた」。つまり、「自分たちの住んでいる世界以外にもっと広い世の中があり、そこにも同じように人の生きていることを民衆が発見したということは素晴らしいことであった」と、宮本常一は綴っている。

旅に出ることは、自分の生活圏を離れ、別の誰かが暮らしている土地を訪ねるということだ。そこでわたしたちは、自分自身とは異なる「私」の生活に触れることになる。

山を越えて、島の南側にある土生(はぶ)という地区にたどり着く。海岸線から一歩入ったところに、「愛はぶ通り」という商店街があった。ここもまた、昔ながらの商店街だ。シャッターが下りたままになっている店舗もあるけれど、今も営業している店舗が点々と続いている。この商店街の真ん中あたりに、「越智お好み焼店」があった。創業43年を数える老舗で、6人も入れば満席となるこぢんまりしたお店だ。11時の開店を前に列ができていたけれど、ぎりぎり席につくことができた。

「DeNA戦は週末なんかね?」と、お店の方が尋ねると、「いや、昨日から横浜スタジアムでやりよるんよ」と、常連とおぼしき男性が答える。そのお客さんはトラック運転手らしく、「こないだは積み残しがあったゆう話になって、えらい怒られたんよ」とこぼしていた。「まあ、しょうがないわねえ。船がなくなって、橋で運ぶしかないんじゃけ」と、お店の方が言う。

この商店街の近くに、土生港がある。正確には、港のそばに商店街が生まれたのだろう。因島と本州を結ぶ航路には、かつてカーフェリーが走っていたけれど、架橋によって廃止が相次ぎ、現在では旅客を運ぶ高速船だけが因島と本州とを結んでいる。港を利用する人が減るにつれて、商店街にシャッターを下ろしたままのお店が増えたのだろうか。

さて、何を注文しようか。広島風お好み焼きといえば、そば入りが基本だと思っていたけれど、ここ因島ではうどん入りを注文する人がほとんどなのだという。「私なんかも、生まれて68年、そばのお好み焼きって食べたことないんですよ」と、お店の方が教えてくれた。せっかくだから、僕もうどん入りを注文する。

因島のお好み焼きは、最近は「いんおこ」としてメディアに取り上げられるようになった。ここ「越智お好み焼店」も、ガイドブックには必ずと言っていいほど取り上げられている。ただ、「住田製パン所」がそうだったように、しまなみ海道が開通して間もない頃のガイドブックには「越智お好み焼店」は掲載されていなかったし、この商店街のことも取り上げられていなかった。この昔ながらのお好み焼き屋さんが観光客から注目を集めるきっかけはどこにあったのだろう?

「今から十何年か前に、『てっぱん』というのがあったでしょう」と、お店の方が言う。『てっぱん』は、2010年度下半期に放送されたNHK朝の連続テレビ小説だ。向島に生まれ育ったヒロインが、祖母と母が切り盛りしていたお好み焼き屋さんを復活させる物語がドラマに描かれていた。「あれでお好み焼きがクローズアップされたのと、ちょうどB級グルメがブームになりだしたでしょう。そうやっていろんなことが重なって、『因島のお好み焼き』じゃなしに、『いんおこ』というフレーズになって、うちにも観光のお客さんが見えるようになったんです」

目の前でお好み焼きがつくられていく工程を、じっと見つめる。魚粉がしっかりまぶされるのと、トッピングにのしいかが加わるのが特徴的だ。火が通ってきた頃合を見計らって、ぎゅうっとプレスして、仕上げにソースを塗る。定番の「肉玉うどん」は650円とリーズナブルだ。

「一回、50円だけあげさせてもろうたんじゃけど、あんまりあげたくないねえ」と、お店の方が言う。「私らからすると、お好み焼きはワンコインという感覚なんですよ。今は800円、1000円が当たり前になってますけど、私らなんかはお好み焼きを10円で食べた世代じゃけ」

そう語りながら、お店の方はへらで鉄板のコゲを丁寧に剥がしてゆく。「越智お好み焼店」では、鉄板に油を引かずにお好み焼きをつくる。ここの鉄板は、実に13ミリもの厚さがあるから、油を引かなくてもあまり焦げつかないのだろう。こんなに分厚い鉄板があるのも、しまなみならではという感じがする。因島もまた造船業が盛んだった島で、大型船舶の船底に使用される鉄板を特別に切り出してもらって、お好み焼き屋さんを開業したそうだ。

「今日はもう、尾道まで行ってきた帰り?」と、お店の方がお客さんに尋ねている。そのお客さんは、ぴったりしたサイクルウェアを身に纏っていた。聞けば、この10年近く、毎週のように今治—尾道間をサイクリングしているのだという。

「昔はレンタサイクルで走る観光のお客さんというのも、そんなに多くなかったよね」

「そうねえ。この5、6年でだいぶ増えたよね」

「最近のレンタサイクルはおしゃれじゃもんね」

そんなやりとりを聞いていたカップル客が、「東京から旅行できたんですけど、このあたりって自転車でもまわれるんですか?」と尋ねている。広島でレンタカーを借りて、因島までやってきたのだそうだ。

「全部の島を巡ろうと思うたら、だいぶ時間がかかりますけど、ポイントを決めて、どっかの島だけ自転車でまわってみるのもいいですよ」とお店の方が言う。「一番走りやすいのは、生口(いくち)かね?」

「うん、瀬戸田が走りやすいと思う」と、サイクリストのお客さんが頷く。

「あそこなら、島でレンタサイクルも借りられるし、わりとフラットだから走りやすいと思いますよ。耕三寺のあたりを巡って、ちょっとレモン谷まで足を伸ばしてみるとかね」

そんな会話を隣で聴きながら、そうか、レモン谷というところがあるのかと知り、Googleマップで検索する。因島の隣に位置する生口島は、尾道市瀬戸田町にあり、レモンの産地として知られる。この生口島の南端近くに、レモン谷があるようだった。

生活の痕跡が消えるとテーマパークになってしまう

生口大橋は、車道の横に自転車専用道路があり、見晴らしも抜群だ。生口島に入ると、海岸沿いにサイクリングロードが続いている。街路樹として椰子の木が植えられていて、リゾート気分が高まってくる。ここにきてようやく気づいたのだが、推奨されるサイクリングコース沿いには、車道の左端に青いラインが引かれている。この線に沿って進めば、地図を見なくてもしまなみ海道を走破できるようになっているのだ。ただ、せっかくだから横道に逸れてみたくなって、海岸線を離れることにした。しばらく進むと丘が広がっていて、一面に柑橘類特有の低木が植えられていた。そのあいだを自転車で抜けていると、どことなく爽やかな香りが漂ってくる。

丘を越え、集落を走っていると、竹藪の手前にお地蔵さんが数体並んでいた。そこにはきれいな生花が備えられていて、手入れが行き届いている感じがした。自転車を停めて、しばらく見入っていると、「ここのお地蔵さんは、通って手入れをしよる方がいるんです」と、通りがかりの人が教えてくれた。昔は地域の人たち皆でお世話をしていたのだけれども、高齢化が進んで掃除をする人も少なくなったのだ、と。これからどんどん人口が減っていくのだとすると、こうした風景にも変化が生じてくるのだろう。

「人は、この島をレモンアイランドと呼びます」。レモン谷に辿り着くと、そんな看板が掲げられていた。ここは耕地の大半が傾斜地であり、温暖で雨の少ない土地柄は、果樹栽培に適していた。明治31年、和歌山からネーブルオレンジの苗木を持ち帰った瀬戸田の農家が、一緒にレモンの苗を数本持ち帰ったのが、瀬戸田レモンの始まりとされている。昭和2(1927)年、昭和天皇の即位の大礼が執り行われた際には、瀬戸田町長はレモンの苗木を農家に配り、レモン栽培の促進を図った。こうして瀬戸田はレモン栽培が盛んな町となり、昭和38(1963)年の生産量は約900トンを記録し、生産量日本一の座に輝いた。その翌年、昭和39(1964)年にレモンの輸入が自由化されると、国産レモンは壊滅状態に追い込まれた。ただ、輸入レモンから防カビ剤が検出されたことで、国産レモンの需要は少しずつ回復してゆく。

この20年、広島に帰省するたびに、レモンを使った土産物がどんどん増えている。クッキーにラスク、餅に饅頭、マカロン、ブッセ、バウムクーヘン、レモネード、塩に胡椒にふりかけ、ドレッシングやお酒、そうめんやラーメン、はちみつレモンにレモン鍋の素、せっけんや入浴剤やフェイスパックと、レモンと絡めた土産物が膨大に並んでいる。レモンを使ったお土産のなかでも、定番となったのがレモンケーキだ。レモンケーキを製造・販売するお菓子屋さんは何軒があるけれど、瀬戸田のレモンケーキ発祥の店とされているのが「向栄堂菓子店」である。

「向栄堂菓子店」を創業したのは、明治生まれの向井栄太郎さん。創業当初は、お祝い事に使う鯛の生菓子や、法事で使う蓮をかたどった生菓子、上用饅頭などを作っていたそうだ。時代が昭和に変わり、終戦後に観光客が少しずつ増え始めると、土産物を仕入れて販売するようになっていたという。

「私はここに嫁いできた人間なんですけど、出身は瀬戸田なんです」。お店を切り盛りする向井芳江さんは、そう教えてくれた。昭和26(1951)年生まれの芳江さんが小さかった頃はまだ、大きな船は瀬戸田港に接岸できず、沖合に停泊する船まで小舟で移動していたそうだ。

「私が小さい頃だと、ここの通りをまっすぐ行くと、すぐに海だったんです。ここの商店街も、今みたいにシャッターが下りたままのところなんてなくて、ずらっとお店が続いてました。私がここにお嫁にきたころでも、今みたいに車が普及してなくて、船が主な交通手段でしたから、港に船がつく時間になるとお客さんがどんどん流れてきて、向かい側のお店に行けないぐらい人の流れがあったんです。その頃はレモンでPRというのは全然なくて、耕三寺にお参りにくるお客さんがほとんどでしたね」

耕三寺は昭和11(1936)年に創建されたお寺だ。溶接工から実業家となり、大阪で成功を収めた金本福松(のちの耕三寺耕三)は、母・ヤツの郷里である生口島に別荘を建てた。昭和9(1934)年に母が亡くなると、仏教に帰依し、母の菩提寺として耕三寺を創建した。母への感謝の心を示す「母の寺」として親しまれた耕三寺は、昭和25(1950)年に毎日新聞社が主催した「新日本観光地百選」の建造物部門において、山口県の錦帯橋に次ぐ第2位に選出された。3位が熊本城、4位が姫路城、5位が伊勢神宮という並びを見ると、快挙と言ってよいだろう。耕三寺は「西の日光」として雑誌に取り上げられるようになり、休日ともなると一日に3千人から4千人の行楽客が詰め掛けたと、当時の雑誌記事に書かれている。

冠婚葬祭用のお菓子を作っていた「向栄堂菓子店」でも、観光客が増えると土産物を仕入れて販売するようになり、饅頭や煎餅、こけしなどの飾り物を店頭に並べていたという。そんなある日、芳江さんの夫・祥夫さんは、「この島ならではの土産物を作らなければ」と思い立った。知り合いの洋菓子店にも相談し、1970年代に誕生したのが、レモンフレーバーのチョコでスポンジをコーティングしたレモンケーキだった。

発売当初から、レモンケーキは好評を博し、売り上げも順調だった。ただ、観光が多様化するにつれ、瀬戸田を訪れる観光客は右肩下がりに減ってゆく。昭和48(1973)年頃には年間100万人もの観光客が瀬戸田を訪れていたが、昭和63(1988)年には40万人を割り込んでしまう。行政は「文化の薫り高い個性のある施設をつくれば、活性化につながる」として、「文化の薫るまちづくり」をキャッチフレーズにまちおこしを進めた。こうした取り組みが功を奏した上に、しまなみ海道が開通したことで、瀬戸田を訪れる観光客は以前の水準にまで回復した。

「しばらく前に、耕三寺に『未来心の丘』いうのができたんですよ」と、芳江さん。「全部大理石でできた庭園があって、そこがインスタ映えするということで、若い方がたくさん見えるようになりましたね。それと、商店街に新しいホテルがオープンして――その時期はコロナ禍が始まったばかりの頃だから観光のお客さんは少なくなっていたんですけど、この島に移り住んでこられる若い方が増えて、海岸沿いに新しいお店も増え出したんです」

しまなみ海道が開通した頃のガイドブックと、今のガイドブックを見比べてみると、瀬戸田を紹介するページは「アートとレモンの島」というテーマに集約されている。島にはレモンをかたどったベンチが置かれていたり、鮮やかなレモン色をした郵便ポストが設置されていたり、レモンを使ったグルメが並んでいたりする。テーマがはっきりと打ち出されているから、観光客としても楽しむポイントを見つけやすいのだろう、向島と因島の商店街に比べると、大勢の旅行客で賑わっていた。ちょっとレモンのテーマパークのようでもあるけれど、路地を歩けば昔ながらの建物がそこかしこにあり、生活の痕跡が感じられる(こうした痕跡が消えてしまうと、テーマパークになってしまうのだろう)。

しまなみ海道を巡り、「向栄堂(こうえいどう)」にたどり着いた時点で、時刻は14時になっていた。尾道でレンタサイクルを借りて6時間が経過し、走行距離は55キロに達していた。自転車は今日の夕方までに返却しなければならないけれど、同じルートを走って引き返す体力は残っていないので、フェリーで尾道まで引き返すことに決めた。サイクリング客が増えたことで、しまなみ海道の真ん中あたりに位置する瀬戸田と尾道を結ぶサイクルシップが運航するようになり、自転車を積んで海を渡れるようになったのだ。

自転車を港の近くに停めて、商店街を歩く。耕三寺に近づくにつれ、観光客は増えてゆく。今は旅行という非日常の時間を過ごしているけれど、ひとりひとりに日常があり、それぞれまるで違う環境で暮らしている人たちが偶然一堂に会しているのだと考えると、くらくらする。入館料の1400円を払って境内に入り、日光陽明門を原寸で再現した「孝養門」をくぐると、朱色が鮮やかな本堂が建っていた。その手前には、周りを池に囲まれた大礼壇がある。その光景には見覚えがあった。母が見せてくれた古いアルバムに、耕三寺で撮影した写真が収められていたのだ。

古いアルバムをめくると、そこに思い出が焼きついているように感じる。その時代には、今のように気軽に写真を撮れなかっただろう。ポラロイドカメラから吐き出されてきたフィルムに、像が浮かび上がってくるのをじっと見つめて、家に持ち帰ってアルバムに貼りつける。そこには写真が貼られるだけではなく、日付や撮影場所が書き込まれ、一言添えられていたりする。たとえば昭和27(1952)年の春、1歳になったばかりの母を連れて尾道・千光寺公園を訪れた日のアルバムには、「桜も名残りを少しとどめていました。父さまと母さまと由紀子と――来年はアンヨして行きましょう」と書き添えられている。

こうして言葉を書き綴っていたとき、祖母はもう自宅に帰っていて、写真を貼りながら思い出を振り返っていたのだろう。その日の感慨を文字に綴ることで、記憶を焼き付けようとしていたのだろう。今のわたしは、一日の出来事をこんなふうに記憶に焼き付けているだろうか。ブルーブラックのインクで書かれた祖母の文字を見つめていると、そんな思いに駆られた。

写真の中で、まだ20代だったはずの祖母と、3歳になったばかりの母は、池のほとりに立っている。せっかくなら本堂の前で撮ればいいのにと思うけれど、行楽客の邪魔にならないようにと、端っこで撮影したのだろうか。祖父が立っていたであろう場所に佇んで、本堂の前を行き交う観光客の姿をしばらく眺めていると、僕が生まれるよりずっと昔に、この場所に足を運んだ人たちの気配が漂ってくるような心地がした。旅に出ることがなければ目にすることのなかった、自分とは異なる誰かの暮らしを、記憶の片隅に焼き付けておく。

*   *   *

橋本倫史『観光地ぶらり』次回第8回「長崎・五島列島」は2023年7月19日(水)17時配信予定です。

筆者について

橋本倫史

はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)

  1. 第0回 : プロローグ わたしたちの目は、どんなひかりを見てきたのだろう
  2. 第1回 : いずれ旅は終わる 愛媛・道後温泉
  3. 第2回 : 人間らしさを訪ねる旅 八重山・竹富島
  4. 第3回 : 一つひとつの電灯のなかにある生活 灘・摩耶山
  5. 第4回 : 結局のところ最後は人なんですよ 会津・猪苗代湖
  6. 第5回 : 人が守ってきた歴史 北海道・羅臼
  7. 第6回 : 店を選ぶことは、生き方を選ぶこと 秋田・横手
  8. 第7回 : 昔ながらの商店街にひかりが当たる 広島/愛媛・しまなみ海道
  9. 第8回 : 世界は目には見えないものであふれている 長崎・五島列島
  10. 第9回 : 広島・原爆ドームと
  11. 番外編第1回 : 「そんな生き方もあるのか」と思った誰かが新しい何かを始めるかもしれない 井上理津子『絶滅危惧個人商店』×橋本倫史『観光地ぶらり』発売記念対談
連載「観光地ぶらり」
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