史上2番目の若さで松本清張賞を受賞した新鋭・波木銅による待望の長編連載がスタート! 原発、カルト宗教、未確認生命体……次々と奇妙な事件に巻き込まれていく高校生たち。不穏な田舎町での青春を振り返る、ディストピア私小説。
遅延証明とベストセラー小説の書き方
ロクに数を書いていない新人の分際でこんなことを言えた義理ではないとは重々承知なのだが、最近文章を思うように書けないと感じることがある。自分は長編デビュー作をどうやって書き上げたんだっけ。
かつて、小説を書くにあたって、いくつかの文章技法や創作術の書籍を参考にしていた。そのなかで当時もっとも深く読み込んでいたそれを、今ふたたび買い戻してみた。クーンツの『ベストセラー小説の書き方』という本だ。当時はこれで執筆のメソッドを学んでいた。この派手派手しい虹色の表紙を眺めていると、十代のころを思い出す。
ここでは過去のことについて書こうと思う。しけた田舎町にいて、漠然と作家を目指しつつ、退屈ながらもかけがえのない日々を送っていたときのことについて、少し思い出してみようと思う。
その月曜の朝、電車が止まった。
この地域に駅はここにしかない。小さな無人駅のホームに、制服を着た中高生や会社員がひしめきあっている。小雨が降っているせいで湿気がすごい。
常磐線はちょっと風が強いだけですぐ止まるから、多少の遅延は日常茶飯事だった。私は別に急いではいなかった。むしろ、遅延証明書をもらって、悠々自適に遅刻できることに軽く胸を躍らせていた。
ちょっと外に出て自販機でコーヒーを買って、本を読みながら時間をつぶそう。ブレザーのボケットに読みかけの文庫本を無理矢理つめこんでいる。雑に使い古したスマホはバッテリーが三十分ほどしか持たなくなっている。こういうときにうかつに音楽を聴いたり動画を観たりすると一瞬で電源が切れてしまう。ここぞというときにしか使えない。
人混みをかきわけて、私は駅の外に出た。自転車で駅まで来たから傘は持ってきていない。多少濡れるが、別にいい。
駐車場にはたくさんの車が停まっている。なかなか電車が動きださないから、親を呼んで車で学校まで送ってもらおうとする同級生たちが散見される。
まぁ、せっかく堂々と遅刻できる機会なんだから、しばらくここでゆっくりしていこうと思う。
空いているスペースにしゃがみ込み、ブレザーにしまっていた文庫本を開く。
虹色の表紙をバックに、『ベストセラー小説の書き方』というタイトル。なんて俗物的なんだ! この本はあまり人前では読みたくなかった。「あ、こいつ小説を書きたがってるんだ」と思われるのがなんか嫌だった。作家になりたくて仕方なかったのに、作家になりたいと思ってる奴、と見なされるのは恥ずかしかった。なんて無意味な自意識だったんだろうか、と今になっては笑えるが、たいていの高校生がそうであるように、私もまた、当時は自意識を守るのに必死だった。
この本は昨日、友人から譲り受けたものだ。彼女はそれを古本屋で百円で手に入れ、十分読み込んだので譲ってくれるらしい。
「けっこう役に立つと思うよ。お前にとっては」
嫌味混じりに彼女は言う。
「クーンツ、読んだことないや……」
「勉強不足だな!」
彼女の名前は馬車道ハタリだ。本名じゃない。私と同じく作家を目指していた若者のひとりで、この名前はネットでの活動や公募への応募に使っていたペンネームだ。
「ふたりとも、熱心だねぇ〜」
もうひとり、私たちのやりとりを眺めていた共通の友人の名はハスミン。『悪の経典』に出てくる人をめちゃめちゃ殺す教師と同じあだ名を持つ彼は読書家でも作家志望でもなかったが、私たちと一緒にいることが多かった。たぶんほかに友達がいなかったんだと思う。私たちと同じように!
三人とも別々の高校に通っていた。映画を見に行ったか、カラオケかボウリングに遊びに行った帰りか、よく思い出せないけど、みんなで駅前のドトールにいた。
コーヒーを啜りながらの他愛もない雑談のさなか、ふいに暑さを感じた私はカーディガンを脱いだ。次の瞬間、向かいに座っていた馬車道は眉を顰めた。
「そのクソみたいなTシャツはなんなんだよ」
「え?」
私は自分の胸元に目を落とす。ここらへんはで最も栄えた街の古着屋で購入した、どこのブランドのものかもわからない謎の中古品だ。ショッピングカートを押している二足歩行のモグラちゃんがユルい絵柄で描かれている。
「そんなシャツを着てる人間に名作が書けるわけないだろ」
「かわいいでしょ」
「ふざけるな。お前は『あえてダサい服を着る』っていうユーモアのつもりなのかもしれないけど、側から見たらマジの奴にしか見えないからな。こんな服を着ることを良しとする価値観を心底、軽蔑する……」
馬車道はファッションにこだわっている。ユニクロやギャップのようなファストファッションを嫌っていて、なおかつダサい服を着ることには多大な嫌悪を顕にしていた。今日の彼女はステューシーのパーカーを着ている。ステューシーはいいの?
「そんな言わなくても……」
穏健派のハスミンが苦笑しながら口を挟むも、馬車道は止まらない。
馬車道は私の胸元を睨みつける。
「だいたいなんでモグラとショッピングカートを……あ、もしかして、『ショッピングモール』ってことか!?」
そして、勝手に合点がいったようにはっとした。なぜだか知らないが、馬車道はまるで一本とられた、みたいな顔になった。
「なるほどね……そういうことか。なるほど……」
しばらくぶつぶつ言い、天井を仰ぎ見た。馬車道は常になにを考えているかよくわからないが、とてもいい文章を書いていた。今はもう会うことはないが、ペンネームを変えて文壇で活躍しているかもしれない。もしこの文章を読むことがあれば、気が向いたら連絡してほしいと思う。
さて。私は馬車道からもらった本を濡れながら開く。
最後のページの奥付を見ると、この本は文庫版だけで十何回も重版がかかっていることがわかる。
この『ベストセラー小説の書き方』がそれだけ売れている事実が意味するところは、それだけベストセラー小説の書き方を知りたいやつがいるということであり、自分はその過酷なレースを勝ちあがらなくてはならない、ということだ。
思えば……当時の私は定員割れしている高校に適当に入学し、競技人口の少ない部活で県大会に行き、恋愛だって、最初から自分のことを好いていてくれている人としかしたことがない。失敗や挫折をしたことがなかった。戦ったことがないからだ。なにかを勝ち取ろうと本気でもがいたことなんて、これっぽっちもなかった。中島みゆきが歌うところの、戦う君の歌を笑う、戦わないほうの立場だ。
ファイト!
雨がそこそこ強くなってくる。まだ電車は動かないようだ。
読書に夢中になっていて、かなりの時間が経ったことに気づくのに遅れた。すっかり人だかりは少なくなっていた。みんな痺れを切らして、ほかの駅や交通手段を使うことにしたらしい。そして、駐車場にパトカーと救急車がやってきている。
私はスマホをつける。すでに情報が上がっている。ぜんぜん気がつかなかったけど、今朝、この駅のそばの踏切で、誰かが線路に飛び込んだらしい。その事故で電車が止まっていた。自分のすぐそばで誰かが命を落としていたことを知らされ、ふいに血の気が引くような思いをした。
ホームから線路を覗き込んで、事故現場を探してみる。ワンチャン死体見れるかも、という下世話な期待とは裏腹に、それはどこにも見当たらなかった。
私も観念して、ウェブで遅延証明書を発行した。こことは別の、遠いほうの駅へと向かう。
雨で手をかじかませながら、月曜の朝に限界になって飛び込んじゃったその人物について、勝手な妄想を繰り広げていた。なにも自殺と決まったわけじゃないが、当時の想像力はたかが知れていて、人生を苦にして飛び込み自殺、という典型例しか考えられなかった。
なにがその人を殺したんだろう。仕事か、人間関係か、この町か?
なんとなく気になって、後になってこの事故について調べてみたことがある。検索の仕方が下手だったのか、めぼしい情報はなにも得られなかった。ニュースも、SNSでの話題も見つけられなかった。
雨のときの湿気とともに、たまにこのときの感覚を思い出す。
フードコートと猫のゆりかご
田舎の国道沿いはどこも似通った風景である、と言われることがある。自分の地元もそんな感じだったから、非常によくわかる。パチンコ屋と駐車場のほかに、すき家、ガスト、マクドナルド、サイゼリヤ、ワークマン……ぽつぽつと存在するチェーン店の看板だけが殺風景な道沿いを彩る。
テキサスを舞台にしたロードムービーの傑作に『パリ、テキサス』があるが、それを初めて見たとき、作中に映るテキサスの風景が、いま住んでいる町にかなり似ていることに驚いたことがある。田舎ってマジでどこも一緒なのかよ!
そのころは動画配信のサブスクが一般化するちょっと前だった。当時はほぼ毎日、近所のツタヤに通っていた。そこも国道沿いにある。学校帰りに二枚くらいDVDをレンタルし、夜中それを観て、翌日返してまた別のを借りる……その繰り返しをひたすらに反復していた。そのときがいちばん、どんなものでも選り好みせずに観ていたと思う。わざわざ金を払って『市民ケーン』や『理由なき反抗』や『東京物語』なんかを観てたなんて! 考えられない! 今なんかよりずっと、映画を観ることにかけては真摯で熱心だった。
そのツタヤではそんなに仲が良くなかった中学時代の同級生がレジ打ちをしていて、毎回そいつと顔を突き合わせなくてはいけないのがめちゃくちゃヤだったが、ほかにレンタルショップがなかったから背に腹は変えられなかった。
勉強にも部活動にもいっさいやる気はなかったけれど、漠然とした将来への不安は常に感じていた。映画をたくさん観るためにも、この町に住み続けてはいけない。大学に行けなかったらこの町から出て行くことができない。これ以上こんなところに住んでいたら頭がおかしくなる。
地元に留まっている大人……周りを見てみろ! みんな人間の顔をしていない。
ここらにあるものといったら原発くらいのものだ。3.11以降、まだ動いてはいない。ここらへんに住んでいる子どもは、小学生のころ遠足でそこに連れていかれる。発電所そばには原子力をテーマにした科学館がある。湯を沸かしてタービンを回すだけのその仕掛けが、いかに安全かつ経済的で、環境に優しいかを教わり、作文を書かされる。原子力発電はクリーンで未来のエネルギーだから、被曝したり爆発したりして何百人を殺したりはしない。
湯沸かし器の上に成り立っているこの町、そんなとこに住んでいることについて、漠然とした苛立ちを感じていた。コンビニに行けば同級生かその親族が働いていて、一時間ほど電車に乗ってイオンモールに行くことが最上級のエンターテイメントである、ここ……。
考えれば考えるほどムカついてくるな。ひとけのない夜道を歩きながら、私は帰路についていた。なにをそんなに苛立つ必要があるのか、今思えば滑稽だけど、当時は切実だったと思う。人生なんてこんなもんだ、と割り切ってこの地域に同化したほうが楽だったし、賢い。
視界の先が白い光に照らされた。思わず目を細める。自転車に乗った巡回中の警官が、こっちにやってきているのだとわかる。私はばつの悪い思いをした。普段は別に後ろ暗いことなんてないから、警官に声をかけられようがかまわない。だが今日だけは話が別だ。背中のリュックサックの中身を知られるわけにはいかなかった。ここでは詳細を省くが、とにかく、あんまり公にはしたくないものを持ち歩いていたのだった。
こちらに近づいてきた警官は、まるで偶然友人と出会したときのような慣れ慣れしい口調で話しかけてくる。
最近いろいろあるから、いちおうね……。案の定、警官はそう言いつつ私に持ち物を開示するように求めてくる。歯切れ悪く返事をしつつ、この場をどう切り抜けようか、素早く模索する。
「爆弾とかドラッグとか、なんも入ってないですよ」
私は笑いながら答えた。あえて軽薄なことを言うことにより、警戒を解かせようとした。
逆効果だった。警官は私の言葉にむっとし、咳払いをしてからより強い口調で荷物を取り上げようとする。まだ直接手を出してはこないが、時間の問題だ。
あまり他人に見せたくないものが入っているから、見逃してもらえないかなぁ、と正直に懇願する? まさか。そんなんで引き下がってもらえるとは思えない。職質は任意だろ、と強引に突っぱねるだけの胆力もなかった。
この町の警官は人を殺す! リュックの中身を見られたら無事では済まないだろう(明言しておくが、違法なものを持ち運んでいたわけではない)。
切羽詰まった私は、その場から逃げ出そうとした。
足がもつれて、右足が左足に引っかかる。アスファルトの地面に勢いよく倒れ込んだ。陸上の部活にもっとちゃんと行っておけばよかった……なんて後悔に駆られている余裕もない。警官は慌てて立ち上がった私の背中のリュックの持ち手を掴む。
もがく気力もなく、私は青春の終焉を覚悟した。
その束の間、車輪の回転する音を耳にした。シャーッとホイールが回転し、タイヤがアスファルトを踏む音。
「よっ」
振り返る。一瞬、警官が怯んだ。赤い自転車に乗った馬車道が現れた。どこからともなくやってきた彼女は、サコッシュの中からなにかを取り出し、私たちに向かって勢いよく投げ込んだ。とっさに目を閉じる。警官は短いうめき声をあげたらしい。
恐る恐る目を開ける。警官は私から手を離し、うずくまっている。彼の足元には未開封のペットボトルが転がっている。おそらく、馬車道はそれを彼の顔に向かって投げつけたのだろう。公務執行妨害!
「乗れ!」
馬車道は自転車のサドルにまたがりつつ、私に向かって叫ぶ。馬車道は単なる移動手段としてだけでなく、趣味として自転車を乗り回していた。彼女が乗っている赤いフレームのそれも、既製品ではなく独自にパーツを組み上げたものらしい。よくわからないけど、みんなが通学に使うカゴ付きのママチャリじゃなくて、それよりもずっと洗練されたデザインをしている。
「え?」
突然の事態に、私は対応が遅れる。
「はやく!」
彼女は自分のうしろを指さした。でも、ママチャリじゃないから荷台もついていない。どこに跨がればいいのだろうか。
「ど、どこに?」
しばらく馬車道は沈黙した。
「……じゃあ自分で走れ! 行け!」
それだけ吐き捨て、馬車道はペダルを蹴って去っていった。それの初速はすさまじく、すぐに彼女の後ろ姿は見えなくなる。
「そんなのアリ〜?」
しのごの言ってられないのも事実だ。私は警官が姿勢を持ち直すより先に、その場から懸命に逃げ去った。人生でいちばん真剣に走り続けたと思う。こうして私は無事に駅まで辿り着き、警官から逃げおおせることができた。リュックの中身も無事だ。
「九死に一生を得たね」
翌日、私は馬車道に感謝を伝えた。彼女は私をときおり胸が張り裂かれそうな語彙をもって罵倒したりもするが、間違いなく正義の人間だった。
かつて彼女と一緒に歩いているとき、駅の構内に排外主義的なビラが貼られていたのを見つけたことがある。私はそれからなんとなくばつの思いをしながら目を逸らした。ここを通りがかる誰もがそうしていたと思う。対する馬車道はそれに近づいていき、公衆の面前で勢いよくそれを引っぺがし、ぐしゃぐしゃに丸めてその場に捨てた。すげーじゃん、と私はその行為をちょっとの皮肉混じりに賞賛した。
「ここでこうしなかったお前も、これを貼った奴と共犯だからな」
「むう……」
そこを突かれると弱い。
でも、そんな常に正しいことなんてできるはずがないじゃないか。
放課後、私たちは駅前のデパートに集まっていた。常に内装がなんか薄暗く、毎年怒涛のペースでテナントが減っていく、死にかけの建物だ。半年以内に潰れるという噂が立っている。
私たちはそこの地下にあるフードコートで、フライドポテトにソフトクリームをつけて貪っていた。
「そんなことあったんだ。大変だったねぇ」
私たちからこの顛末を聞いたハスミンは、人ごとのようにそう言った。常に眠たげに目尻を垂らしているのがキュートな彼は、いつも話を聞いてるんだか聞いてないんだかよくわからない。深夜にはラジオを聴かなくてはならないため、日中はいつも眠いらしい。学校でいつも寝てるせいでなかなか友達できないんだよね、とはにかみながら語る。ラジコのタイムフリーで聴きゃいいじゃん!ってわけにはいかないんだろうな。
「たまたま通りかかったからよかったけど、そうじゃなかったらどうなってたと思う? お前はボコボコに殴られて、首を絞められて死んでた」
「そりゃあ、まぁ。感謝してます」
馬車道はテーブルにノートパソコンを置いて、私たちと会話しながらも文章をタイプしている。今年の新人賞に応募するための原稿を書いているらしい。そのころの私は作家になりたいと漠然と思うだけで、友達と遊んでいる間にも執筆を続けるほどの執念は持ち合わせてはいなかった。こいつは本物だ、と感嘆せずにはいられない。こっちは重いからノートパソコンを持ち歩くことすら嫌なのに。
「ところでさぁ、ハタリってなんか文章だといつも怒ってる感じするんだよね。ラインのメッセージとかさ」
三人のLINEグループがある。落伍者の集まりとはいえまぁ普通の高校生なので、そういうものも使っていた。馬車道は書き言葉と口に出す言葉でいっさい違いがない。
「そんなことないけど。それとは別に、常に怒りを湛えてはいるが。人間にとってもっとも奪われてはならない感情だからな」
「絵文字とか使わないからじゃない?」
絵文字だけじゃなく、感嘆符やクエスチョン、長音符もまったく使わない。それは彼女が書く小説においてもそうで、馬車道の書く文章にはいっさい「かざり」がない。それがハスミンにとっては、冷たくて高圧的に見えるのだろう、と思う。彼女の文章はバカみたいに絵文字とかを使いまくるハスミンとは対照的だ。
「絵文字なんて使うのは年寄りかバカだけだろ」
間接的にバカとみなされたハスミンはしゅんとなる。
「でもさ、文章だけじゃ伝わらないニュアンスとかもあるし……」
ハスミンは右耳に開けたピアスを指でくるくるといじりながら反論する。彼が通っている高校は地域でいちばん校則がゆるく、こういったオシャレも自由だった。羨ましいな。
「そんなものはない。実力があればこの世界のすべてを文章で表現できる」
ところで、馬車道の口調はあまり誇張していない。本当にこういう喋り方だった。彼女は常に、誰に対してもこんな態度だ。だから友達いねぇんだろうな。自分も人のことを言えた義理ではないが……。
「そういうもんなの?」
ハスミンは隣の私に向かって尋ねてくる。作家志望としては、そうだと答えるのが相応しいのかもしれない。しかし、少なくとも今の自分の実力では、そんなことはままならない。すべて、なにもかもを文章で百パー描写するなんて、実際にできることなんだろうか。
「プロだったらできるのかな」
私は疑問系まじりの曖昧な言葉を用いて、答えを保留した。
「小説のプロとアマってどう違うの?」
ハスミンは私たちと比べてあまり本を読むほうではなかった。私と馬車道が読書についての話をしているときも退屈そうにしている。じゃあなんでこんな一緒にいるかというと……なんでだっけ。作家志望という共通の目標のある馬車道はまだしも、ハスミンとはどういう経緯で仲良くなったか、よく思い出せない。彼は高校生活の途中でいなくなってしまったのだ。転校して遠くに引っ越した。
それでも、私たちにとってかけがえのない友人であることには変わりはない。
「たいした違いなんてないよ。プロは書くと金がもらえるってだけ」
馬車道はそう言う。彼女はネットの投稿サイトにも精力的に書きまくっている。でもあんまりウケてないらしい。
「じゃあさ、なんでハタリたちはプロを目指してるの?」
ハタリ「たち」って。難しそうな質問の回答権を得てしまった私は、あわてて返答を考える。たしかに、どうしてプロ……というか、商業作家を目指しているのだろう。自分の書いた文章を他人に読んでもらいたい、っていうならネットにあげりゃいいし、ツイッターでもいい。地元の新聞の投書だって、なんなら学校の課題の読書感想文だったっていいわけだ。自分の本を出版したかったら、同人誌を刷って文学フリマにでも持っていけばいい。自費出版だって(推奨はされないが)できる。
私には、ハスミンを感嘆させるような答えが出せなかった。馬車道にちらりと目をやる。常にノートパソコンのキーボードを叩きながらも、なにかほかのことを考えているようにも見える。それはね、とタイプを続けながら彼女は言う。
「金がほしいからだよ。私が今狙ってる新人賞を獲ると、五百万の賞金が手に入る。出版も約束されてるから、印税も入る。憧れた職業になって、それで稼ぐってだけの話」
「へぇ」
なるほどね。納得したのかそうじゃないのかよくわからない、ぽけーっとした返事をしたハスミンを尻目に、私はなかなか関心した。そりゃそうだ。卑近な言い方をすれば、そうなるのかもしれない。小説を書いて金を稼ぐという立場になるために、私たちは小説を書いている?
「そういうもんなの?」
ハスミンは馬車道ではなく私に問いかけてくる。
「うーん。……そうかも」
馬車道がこのようなことを言うのは少し予想外だった。もっと、小説という手段によって世の中を変えるとか、権力に一撃を与えるとか、そういうことを言うのかと思っていた。彼女はそういうことをためらわずに口外できる、類まれな人間だ。
「そのためにはこんな町にいちゃいけないんだけどね。いいかハスミン。私たちはこんな町に産み落とされたという時点で詰んでいる。知識を奪われている。なにかに触れる機会を、情報を、希望を、チャンスを奪われている。スタートラインに立つためには、行動し戦わなくてはならない。力づくで手に入れなくてはならない!」
おっ、始まったぞ。私は馬車道の心にエンジンがかかったのを感じる。
「そうなの?」
フライドポテトにソフトクリームをディップして食っているハスミンに指を突き出す。
「あそこでレジを打ってるやつらを見てみろ。あいつらはみんな生きていない。ただ、死んでないだけだ」
ハスミンはポカンと口を開けた。ぜんぜん伝わっていない。というか、『クロノ・トリガー』に出てくる名台詞とまったく同じことを言っていた。パクったのか、偶然の一致なのか、本人に確かめていないから今もわからない。
「このままなにも行動しなかったら、あれになるぞ! それを避けるために私が取っている行動が、小説を書くということなんだ。私は、ひとつでも多くを知ってから死にたい……」
熱の入った馬車道は椅子から立ち上がった。重たそうに腰を曲げ、商品を陳列している店員に指を向けた。
「ん、あれ、ぼくの姉ちゃん……」
「こんな店で働くような奴を姉に持つな!」
馬車道はめちゃくちゃなことを言った。ハスミンはニコニコしている。
店内BGMの、ビートルズの『ヘルプ!』が反響する。馬車道は咳払いしながらふたたび椅子に座った。
「とまぁ、そういうことよ。殺しゃええねん。それでええねん。全員ぶっ殺しゃええねん」
「なるほどねぇ」
馬車道はふいに全部どうでもよくなったらしく、適当に話を切り上げた。
ハスミンははじめからそんなに興味なかったらしい。
「まぁね。ちょっとふざけたけどさ。あの……ヴォネガットのさ、『猫のゆりかご』でさ。もっとも悲しい言葉は、『だったはずなのに』だ、ってことが書いてあるだろ。そういうことかな。『だったはずなのに』って思いながら死んでいくのがヤだ。こいつなんかはどうせすぐに骸骨みたいな老いぼれになって後悔しながら死んでいくだろうけど」
馬車道は言いざまに私に指をさす。そして言葉を続ける。
「私はそういうのは嫌なんだ。書店の本棚を見て、あのときもっと努力してれば、あそこに並んでる本のうちの一冊は私のものだったはずなのに、って思うような真似だけはしたくない」
だったはずなのに。ふと真剣な顔つきを取り戻した馬車道の言葉を、私は内心で繰り返す。それは確かにそうだ。彼女はSFに詳しくなかった私にヴォネガットの作品群を貸してくれて、そのとき読んでもっとも印象深かったフレーズがそれだった。化学兵器アイス・ナインの爆発で世界がめちゃくちゃになったあと、最後の最後に出てくる台詞だ。
「ハタリ、いろんなこと考えてるんだねぇ。ぼく、ぜんぜん本読まないからなぁ。『HUNTER×HUNTER』くらいしか理解できないよ」
「最近のハンターハンターを読んで内容理解できてるなら、十分じゃないかな……」
「よし」
ふと、馬車道が息を吐いた。キーボードをタイプする手が止まる。小説を書き終えたようだった。
「完成したの?」
私は彼女のパソコンの画面を覗き込もうとし、眼球を指で突かれそうになる。
「推敲してから読ませてやる」
私は彼女の小説を読むのが好きだった。少なくとも当時では馬車道の書くものが活字になって書店に並んでいる様子も、想像に容易かった。
成果を出せないままくすぶっていると、ふいにこのときのことを思い出す。ただ、実際には作家になるまでより、なってからのほうが何十倍も大変だ。私はこのまま、作家としてやっていけるのだろうか……。だったはずなのに、とは思いたくない。
深い切り傷と嫌われる勇気
前述の通り、当時の唯一の友人だった馬車道とハスミンとは別の高校に通っていた。
学校にいるときはどうやって過ごしていたかというと、それはまぁ思い出したくもないほどに最悪だった。
在学中のふるまいについてはマジで後悔している。つまらない見栄と自意識のせいで、ひとりで勝手にがんじがらめになっていた。部活なんてやりたくないのに帰宅部はダサいというイメージが邪魔をして好きでもない陸上をやり、遊びまくってるわけでもないのに勉強もしてないから成績も悪い。同級生からも教師からもウケてない。
所属していた部活がマジでぬるかったのは不幸中の幸いだった。顧問がほとんど見に来ない放任的な組織で、ちょっとグラウンドが雨でぬかっているだけで練習が中止になる。
私が在籍していたころの先輩の部長は、そんな体制をどうにか変えようとしていた。彼は当時流行していた、アドラー心理学を扱う『嫌われる勇気』にめちゃくちゃ影響を受けていた。大ヒットしてる啓発本なら、どんなに田舎の書店でも手に入る。
部長はゆるい雰囲気で済んでいた部活に喝を入れようと、システムの抜本的改革を試みていた。きちんとした練習メニューとコーチによる指導を導入して、ちゃんとした運動部の体裁を取り戻そうと画策した。雨が降っているのに練習をするだって? 信じられない! 当然部員から大顰蹙を買い、その改革は失敗に終わった。
「時には嫌われる勇気が必要なんだ。こんなことして、みんなが嫌がるのはわかる。正直、俺だって嫌だ。でも、誰かが変えなくちゃ、嫌われなきゃいけない」
というか彼は、アドラー心理学というより『嫌われる勇気』というフレーズそのものがお気に入りだった。
なにかを変えようとする意思そのものは尊重すべきだし、少数派の立場で戦っている彼の肩を持つべきだった。でも、練習量が増えるのはあまりに嫌すぎた。好きなときにサボれて、普段も適当にボーッとしてれば練習時間が終わる今の体制を手放したくなかった……。
システムの抜本的な改変をしようとしている部長のもとからは、ひとりまたひとりと人が離れていき、しまいには孤立してしまった。少数派を迫害して隅に追いやる、典型的な田舎のコミュニティだ! ゲェ! 自動的に、彼の唯一の話し相手は私になった。部内にほかに友達がいない者どうし、消去法の人間関係だ。
「なぁー。ジュース奢ってやるから、一緒に帰ろうぜ」
部長とは帰路が同じだ。断る理由はないから、それに頷くことにする。道中の自販機で飲み物を買ってもらいつつ、私たちは横に並んで歩き始める。あんまり共通の話題が思いつかない。ふたりとも押し黙ったまま、セカセカと歩みを進める。本当に「一緒に帰る」だけだ。なにを話せばいいんだろう。『嫌われる勇気』読んでないしなぁ。
しばらく歩き、高校からだいぶ離れてから突然部長は表情を崩した。
いきなり機嫌を損ねた幼児のように、耳を赤くして啜り泣きはじめた。
「先輩? だいじょうぶですか」
とっさに彼の肩を支えようとするが、突き出された腕に阻まれてしまう。部長はその場にうずくまり、ブレザーが汚れるのも厭わずにその場に膝をついた。『プラトーン』のメインビジュアルに似たポーズになった。
そこらを歩いていた生徒たちが、彼に奇異なものを見る視線を向ける。
私は慌てた。ど、どうしよう。まさか彼が、ここまで追い詰められていたなんて。どうして味方になってやれなかったんだ! どうせ自分に、そのことで失うものなんてなにもなかったのに。
ひとしきり泣いたのち、部長は涙を拭って立ち上がった。その様子をずっと眺めていた。いままで沈黙していてごめんなさい、とはっきり謝ろうと思う。
「俺なぁ、実は今、すっげぇ苦しいんだ」
彼はそう言った。私の手元から飲みかけのドリンクを奪い取り、飲み干した。
これまでなにもできなくてごめんなさい、と言おうとする。私が口を開くよりも先に、彼は言葉を続けた。あのな……。私は黙って頷いた。
「昨日の夜、ケツの毛を剃ろうとしたんだ。俺、けっこうすぐ毛深くなっちゃってさ。それでそのとき、剃刀で深く切っちゃって。風呂場じゅう血だらけだ。……今もなにもしてなくても張り裂けるように痛い。椅子にも座れないし、走るなんてもってのほかで」
「……それは気の毒に」
物理的な痛みの話かよ。つーか、そういう話を平然とされるの、フツーに不快なんですけど……。呆気に取られたが、それはそれとして、想像するだけで身の毛もよだつ痛みだ。肉体の中でも、とくにデリケートな部分が……。なにか気休めを言おうとするが、いい言い回しが思いつかない。
「どうすりゃいいんだろう。俺」
部長としてのふるまいの話じゃないんですね、と口を挟みたくなったが、思いとどまった。でも、どういう言葉をかければいいんだろう。私は他人の痛みに鈍感だ!
「……あれだ。先輩の好きなアドラー心理学ですよ。そこになにか答えが」
出てきた言葉があまりにも頭空っぽすぎる。さすがに怒られるかもな、と怯える。
うん、と部長は頷いた。
「確かにな。アドラー心理学は過去に原因を求めない。未来にどうするか、を重要視する考え方なんだ」
「なるほど。そうですよね」
「でもさぁ。痛ぇもんは痛ぇよ。パンツも血だらけになって、ズボンにまで染みてくるしさ、誰にも相談なんてできないしさぁ」
「ワセリンとか塗って……」
「もう塗ったよ! 絆創膏も貼った! でも、ぜんぜん傷が塞がんねぇんだよ。痛いもんは痛ぇんだよ。アドラー」
部長は怒鳴った。
「ごっ。ごめんなさい」
「女の子って毎月こんな気分なのかもな。股から血が出て、最悪な気分になってさ」
「そうかもしれませんね」
たぶんそんなもんじゃないとは思うけど、ここで火に油を注ぐことは避けたかった。
しばらく泣き喚いて落ち着きを取り戻した部長とともに、ふたたび歩き出す。
「でも正直、最近の部活のことで悩んでるのかと思ってました」
ふと、口にしてみることにする。なんだか、もうそれを口にしても大丈夫な雰囲気になっていると思った。あんなことをわざわざ自分に打ち明けてくれた以上、こちらも本心で語ることが礼儀じゃないかな。
「あー。それは全然。なんとも思ってないよ」
「そうなんですか?」
部長の方針に賛成していない私にとっても、彼に向けられる部員たちの陰口は不快に感じていた。共通の敵を作り出してみんなで憎悪するような集団は居心地が悪い。
「あいつら全員バカでしょ。俺はなんも間違ってないから。バカを躾けてやるのも骨が折れるよな。まぁ、間違いは俺が正してやらないといけねぇから」
「ああ、そうですか……」
「あ、でもお前のことはバカだとは思ってないよ。お前は俺に逆らわないからな」
いやこれ、どっちもどっちだな! 嫌われる勇気が有り余っている……。
「そうだ、お前さ、映画とか好きだろ?」
部長の言葉に、ええまぁ、と曖昧に答える。別に彼と映画の話をしたことはない。
「クラスのやつにチケット貰ったんだけど、俺興味ねぇから。お前にやるよ」
部長はブレザーのポケットから財布を取り出した。そのとき尻に痛みを感じたのか、顔をゆがませた。くしゃくしゃに折り畳まれた二枚の前売り券を手渡してくる。
「いいんですか? どうも」
どんな映画であれ、タダで観られるんなら。映画を観て帰ってくるだけでかなりの出費を強いられるわけだからありがたい。どんなタイトルなのか、印刷面に目を落としてみる。
期待に満ちていた気分が一瞬でしぼむのを感じた。なんかひと昔前の、妙なセンスのビジュアルのそれには見覚えがあった。なぜかたびたびシネコンでかかっている、新興宗教団体が制作しているワケわかんない映画だ。あまり全国的に名の知れた団体ではないが、この地域ではその名前をちょくちょく耳にする。
「ちょっと面白そうだろ? 俺は興味ないけど」
「カルトの映画じゃないですか」
もしかして、嫌がらせされてる? 彼の顔をちらりと一瞥する。悪意は感じられない。
「お前らこういうの好きなんじゃないの? カルト映画」
「カルト映画ってこういうことじゃないですよ! どっからどう見ても、マトモな映画じゃないでしょ」
「でもお前らって、見るからにダメな映画をわざと観て面白がったりすんじゃん」
「むう……」
単につまんないだけじゃなくて、うかつにこういうのを観に行くと本当に危ないんじゃないかな。変なセミナーに無理矢理誘われたりとかさ……。
「まぁ二枚あるから。誰かデートにでも誘って一緒に行ったら? あと感想だけ聞かせてくれな。ホントは俺が観に行って感想言わなきゃいけないんだけど、そんなの嫌だろ?」
「はぁ。もしですけど、断ったらどうなります?」
「俺と同じ痛みを味わうことになる。これ、実はほかのやつから回ってきたやつなんだよね。そいつがこのチケットを受け取って、五千円で俺に押し付けてきた。だからホントは俺が観てそいつに感想を伝えなきゃいけねーんだ。そいつが感想を言うために」
こうして呪いが拡散していくのか……。私は沈んだ気持ちになる。
「貞子のビデオみたいっすね。その、要するに、まずこのチケットを配ってる奴がいて、そいつにチケットを渡された奴がいて、そいつが先輩に横流しして」
「そういうことだ。そいつ、ぜんぶ配らないと親にぶん殴られるらしいからさ。協力してやってよ」
「わざわざそんな回りくどいことしなくても、見たフリして、適当に内容をネットで調べて感想でっちあげればいいじゃないですか」
部長はかぶりを振った。
「いや。そういうのはバレてしまう。前にそれをやって、酷い目に遭った奴がいる」
「ろくでもないですねぇ……」
そもそもこんな映画がただでさえ枠の少ないこのエリアのシネコンでかかるのはなぜか。このカルトは私たちの住む地域に綿密に関わっていて、町の政治にもかなり食い込んでいるから、という話を耳にしたことがある。陰謀論の類を出ない話だとは思うけど……。まぁ原発もカルトみてぇなもんだしな! アハハ!
「とにかく。今週末とか暇だろ? どうせ真面目に練習してねぇんだから。頼むよ。ジュース奢ってやっただろ?」
「わかりましたよ……」
まぁ、適当にどうにかやり過ごそう。尻の痛みに悶えながら電車に乗っていく部長を見送りつつ、私は深いため息をついた。
ピザとカルトとわたしを離さないで
「お前はマジでクズだ。死んでくれ。人間じゃない。下痢便にたかるウジ虫にも劣る最悪の生物だ。二度と話しかけんな。マジで死んでくれ。つーか、死ね! ここで殺してやろうか。お前の家族も殺してやる。そういうことだけはしないって信じてたんだけどなー。マジで勘弁してくれ。カスにも程がある」
サイゼリヤでとうとうと訳を説明し、私が部長に押し付けられたチケットを取り出すや否や、馬車道は激昂して早口で捲し立てた。あらゆる語彙を駆使して私を罵倒する。こんなことになるんじゃないかと薄々思っていたが、案の定、こうなった。
「行こ、ハスミン。こいつと一緒にいるとバカが感染るよ。……いや違うな。お前がどっか行けよ。汚ねぇツラを二度と私たちに見せるな」
馬車道は一瞬椅子から立ち上がり、すぐに座り直した。私に向かって手を払いのけるジェスチャーをする。思いの外ブチ切れた馬車道に、ハスミンはびっくりしている。自分が非難されたわけでもないのに涙目になっている。
「いや、ほんとごめん。そんなつもりじゃ……」
私と馬車道は曲がりなりにも作家志望だ。リスクがあるし正しくないこととはいえ、こういったシチュエーションにあえて飛び込むことによって、持ち帰れるものがあるんじゃないか……というのが私の弁だった。
「小馬鹿にしながら観たら案外面白いかもしれないし」
「カルトを面白がった結果、どうなったか知ってるか? 地下鉄にサリンが撒かれて、何千人が苦しんだ」
そんなことを持ち出されてはなにも言えない。
「でも、見て感想を伝えないと……」
馬車道は私の手元からチケットを奪い取った。そしてそれを握りつぶし、口の中に放り込んだ。ぐしゃぐしゃとヤギみたいに咀嚼したのち、足元にぺっと吐き出した。
そして、にやりと笑う。
ハスミンは完全に絶句している。
「お前がこの流れに乗ったらこの連鎖は止まらない。こんなものを観に行ったら映画の文化も死ぬぞ。お前がせき止めろ。そのほうがよっぽど作家としてふさわしい。この呪いをかき消すのがお前の役目だ!」
店員がピザを運んでくる。馬車道はそれにピザカッターを引き、円を二つに割った。そのうちの半分を丸めて噛みちぎる。お前に食わせるピザはない、とでも言いたげだ。
「馬車道……」
彼女の足元に目をやる。唾液と歯形でぐちゃぐちゃになったチケットがみじめに転がっている。確かにそれを見ていると、こんなものに怯えていた自分が情けなくなった。
「トイレ行ってくる」
馬車道はそう言って席を立った。ハスミンとふたりきりになって、彼と目を合わせる。
「さっきのハタリ、MOROHAみたいだったね」
ハスミンが苦笑を浮かべながら耳打ちしてくる。
「MOROHAって親を殺すぞとか言うの?」
言うかもね。
「まーハタリもどうかと思うけどさ。ぼくも、それはさすがにダメだと思うよ。そんなことしてほしくない」
「だよね。ごめん……」
「この映画の宗教さ、うちの親戚もハマってるんだよね。本当にしょうもないから! この映画を観に行ったら、それがカルトの収入源になっちゃうんだよ?」
「めっそうもない……」
「ふたりとも、すごいと思うんだよ。夢や目標があって、それに向けて努力しててさ。ぼくはふたりのこと、好きだよ。だから、そんなことしないでよ」
そんなこと言われたらマジに好きになっちゃうって。私は思わず彼から目を逸らす。ハスミンは馬車道の食いさしのビザをふたつに切って、卓上のタバスコをめちゃくちゃかけて、そのどちらも食べた。私のぶんのピザはなくなった。
「ところでさ」
ふと、私は言ってみる。彼のことは正直、あまり多くを覚えていない。だから彼に関する記述については想像による補完に頼ることになる。馬車道はともかく、本を読む習慣のなかった彼がこの文章を目にすることはないだろうから、まぁ、あれだ……。好きに書いちゃえ!
「なぁに?」
「ハスミンって、ここにいてさ、楽しいのかなって……。なんか迷惑かけてばっかだな、って思って」
「そうかな。そんなこと考えたこともなかったよ」
なんか、言葉足らずだったかもしれない。私は自分が発した言葉を改めて反芻してみる。彼には彼の人生があるのだから、私たちとつるんで時間を浪費していていいのだろうか、ということが言いたかった。もう受験勉強も始めてるらしいし。まぁいいんだろうな。いいから一緒にいるんだろうな。
「家にいるよりずっといいよ」
少なくとも、彼が最後にぼそりと言ったその言葉は私の創作ではない。そこから話を広げることができなかったことを、今でも覚えている。べつに悔やんだりはしていないが、なんとなく心残りだった。そういえば、彼がどこに住んでいるか結局わからなかった。馬車道の家には行ったことがあるし、ハスミンを自分の家に呼んだこともある。でも、彼の住処とか、家族構成とか、まったく聞いたことがなかった。思えば、彼はそういう話をいっさいしなかった。
この際馬車道はどうでもいいけど、ハスミンとはもっと一緒にいたかったな。
「ただいま」
馬車道がスマホをいじりながらトイレから戻ってくる。さっきの激昂なんてなかったかのような、涼しい顔をしていた。
「あの……馬車道、ごめん。間違ってたよ」
「え? ああ。うん。そりゃそうだよね」
彼女はすでに冷めていた。どういう原理で思考しているかまったくわからない。親を殺すとかまで言ってたのに!
「あ、ピザ残ってない……」
「残り全部食べられちゃった」
ハスミンは私のほうを見ながら、空いた皿を指さしてくすくす笑う。
「お前マジか。協調性ゼロなのな」
ちょっとまってよ! 私は失笑しながらもうろたえる。
まぁさ、と馬車道は言う。
「もういっそ敵対してやりゃいいんだよね。いっそ私たちでぶっ壊してやろう。そんなカルト」
スマホを見ながら、適当な口調で馬車道は言う。
私たちは冗談として笑い合ったが、馬車道はもしかして本気で言っていたのかもしれない、と思う。彼女の、私たち、という言い回しがうれしかったのも、まぎれもない事実だった。
たかが宣伝映画を観なかったくらいで、なにかが起こるなんて考えられないしね。あとで部長にいたぶられればすむ話だ。だいじょうぶ。今のあいつは手負いだから、たいしたことはない。
さっきから、馬車道は喋りながらずっとスマホの画面に目を落としていた。
「ノーベル文学賞、カズオ・イシグロだってよ」
馬車道は表情を変えずに言う。
「えっマジで⁉︎ すごいじゃん!」
私はブレザーのポケットからスマホを取り出す。今日はあまり使っていないのにバッテリーはもう残り三パーセントだ。画面右上にある残量表示のゲージは真っ赤になっている。案の定、ニュースサイトを検索して開く前に力尽きた。
「あ、切れちゃった」
「そろそろ機種変しなよ……」
そう言いながらハスミンがモバイルバッテリーを手渡してくれる。それを受け取って、USBの端子を本体に突き刺す。
「ドコモショップになんて行きたくねぇ〜!」
それはそうとして、モバイルバッテリーくらいは持っておかなくちゃな、と思う。
「カズオイシグロ?」
……って、すごい人なの? ハスミンが言う。そりゃあ、めっちゃすごいからノーベル文学賞なわけよ。
「これを受けて、近所でも昔の文庫とか手に入るようになればいいんだけど」
実のところ、この当時イシグロ作品は『わたしを離さないで』しか読んでいなかった。そのうえで知った風な口をきいていた。
「『わたしを離さないで』って小説がすごく良くてさ」
「へー。こんど読んでみようかな」
そういう奴が本当に読んだことって有史で一度もないらしい。
「『わたしを離さないで』ってあれだっけ。クローン人間のやつ。面白かったよなぁ」
「そうだけど……切り出すところ、そこ?」
それから他愛のない雑談にしばらく時間を使った。ドリンクバー十回分くらいだ。心なしか、いつもより長居していた気がする。
そろそろ帰ろっかな、という雰囲気を全員が共有したころ、通路をはさんで向かいのテーブル席に座っていた数人の中年の客のうちのひとりが立ち上がった。こちらの方を見ている。なんだ? 騒ぎすぎだって注意してくるタイプの奴か? そんなにうるさくしてないって。少なくとも、もし気に障ったんなら馬車道のせいだ。
その男は目線を足元にやり、その場にかがみ込んだ。一瞬馬車道の脚に触れようとしているように見えて、私は思わず椅子から腰が浮きそうになる。
男の目線が捉えていたのは、さっき馬車道が吐き捨てた前売り券だった。彼はそれを拾い上げると、ぐしゃぐしゃに丸められたそれを指で広げた。
「あ、それ……捨てるやつだから。あんま触んないほうがいいよ」
男の目つきが変わったような気がした。
馬車道は男が拾ったそれを取り返そうとする。男は身体の向きを変えて馬車道の手をかわし、前売り券をじっと眺めつづけている。こちらからでは男の表情がよく見えない。
手元の前売り券を見ながら、男がなにかぶつぶつ言うのが聞こえた。具体的な内容は聞き取れなかったが、たぶんあまり良いことは言っていない。男の同伴者である残りのふたりと顔を見合わせ、なにかを話し合っているようだ。
「あっ。ちょっと!」
ふいにハスミンが声をあげた。男たちに向かって指をさす。その爪の先を目でたどると、その中のひとりがスマホの背面をこちらに向けていたのが見えた。
「え、なに? 撮ってんの?」
馬車道と私もそれに気づく。明らかに、レンズをこっちに向けて撮影している。
馬車道は撮影者に近づいていった。
「あのさ。撮んのやめてくんない? なんのつもりか知らねぇけど」
語気の強い馬車道の言葉にも、男はいっさい動じなかった。硬い表情を保ったまま、スマホで撮影を続けている。危ない、と突発的に思う。たぶん話通じないタイプのやつだよ! 私は激しく動揺する。逆上した男が馬車道を殴る様子を想像した。馬車道なら殴り返すだろうけど、そういう問題じゃない。立ち上がらなくては……そうは思えど、脚が動かない。
男はなにも言わない。そして、馬車道も臆さない。
ついに彼女は撮影者の手元に腕を突き出し、スマホを取り上げた。彼らがばたつく。男のうちのひとりが馬車道につかみかかろうとし、彼女は身をよじってそれをかわす。とっさに奪ったスマホをこちらに向かって投げてきた。テーブルに一度跳ねてから、私の手元に飛んでくる。とっさにそれを掴みとった。一瞬の隙に乗じて、彼女は顎を上げて私に目配せしてくる。中のデータを削除しろ、ということか。
わたしは起動しっぱなしのカメラアプリからアルバムを開いた。案の定、私たちの様子が撮影されている。記録を見ると、数十枚の写真に、一時間近い映像のデータが保存されていた。冷や汗が垂れる。ずっと前から隠し撮りされていたのだ。こんな隣で? 堂々と? なんのために?
私は即座にデータを削除しようとする。使ったことがない機種だから、操作に手こずった。
束の間、頭部に激しい痛みを感じる。男たちのうちのひとりに、髪を引っ張られたらしい。激しい痛みに私は手元からスマホを落としてしまい、あえなくそれは奪い返される。
男が私の髪から手を離した。馬車道が彼を突き飛ばしたらしい。テーブルの上に置いたままの空いたグラスを倒しながら、男の身体がテーブルに押し付けられる。
騒ぎが次第に大きくなる。店員を呼んできたらしいハスミンが戻ってきて、数人の従業員によって騒ぎはおさえられた。
どういうわけか男たちは全員忽然と姿を消していて、私たちが厳重注意を受けるという顛末をもって、親や学校や警察への連絡を免れつつ、この騒動は収まった……。
「どういうことだったの、あれ」
帰路につくために三人で歩いている間、私の頭は後悔と情けなさでいっぱいだった。彼らに果敢に立ち向かっていった馬車道、とっさの判断で行動したハスミン。自分は? ただ怯えながらそこに座っていただけだ。
「まぁ、一度くらい狂人と対峙するってのも、貴重な体験だよな。てかさー。なんでこっちが怒られなきゃいけないんだよ。盗撮されてんのにさ」
平然とした顔つきで馬車道はつぶやく。彼女がいなかったら、私たちはどうなっていたのだろうか。連中の動機の見当がまったくつかない。得体の知れない悪意に、私は恐怖した。
「なんか気に食わなかったのかな? だからって撮っていいことにはならないけどね」
ハスミンも珍しく嫌悪を露わにしていた。
「私が女のクセに態度がデカかったからじゃない?」
「そんなこと……」
その可能性がないとは言い切れないのがやんなっちゃうよね。
「にしたってさ。一時間くらいずっと撮られてたって、変だよ」
ハスミンの言葉に頷く。白昼堂々カルトの話なんてしたから怪しまれたのだろうか。だからといって盗撮していい道理はないが……公安気取りか?
「そういえば、映画の前売り券、持ってかれたね」
「そういや。あれが欲しかったのかも」
「あんなのタダでいくらでも配ってるでしょ。つーか、あれを窓口で出されるスタッフの気持ちにもなれって」
自分のしたことを棚に上げて馬車道は言う。私たちは乾いた笑いを共有する。
「あの……」
このまま解散しそうな流れになって、私は慌ててふたりに声をかけた。
なに? 馬車道とハスミンは怪訝そうな目で私を見る。
「その、さっき、ごめん。なんもできなくて」
「ん? まぁ、この中で肉弾戦を勝ち抜けるのは私くらいだろうからな。もしなにかに巻き込まれたらお前らは私をサポートしてくれるだけでいいよ。拳で殴って殺すのは私」
こうして、私たちの奇妙な一日は終わった。帰宅してから、この日の出来事をできるだけ正確に書き留めたことを覚えている。そのとき味わった感情、恐怖や驚きや自身に対しての失望なんかを、できるかぎり記録した。それはいつか、自分が文章を書くうえで糧となるのだと確信していた。きっとそうなっているはず。
第二話へつづく
【お知らせ】
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筆者について
なみき・どう 1999年生まれ。茨城県出身。大学在学中の2021年、茨城県に暮らす3人の女子高校生の大麻栽培を描いた小説『万事快調(オール・グリーンズ)』(文藝春秋)で第28回松本清張賞を受賞しデビュー。