終戦の年に生まれ、学生運動が激化していく1960年代に二十歳(はたち)の時代を過ごした元日本赤軍闘士・重信房子。6月16日に発売された重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、22年ぶりに出所した著者が、「女性らしさ」から自分らしさへ、自ら綴った決定版・青春記となっています。
OHTABOOKSTANDでは、本書より厳選したエピソードを一部抜粋し、全7回にわたって紹介します。
第4回目は「第三章 大学生活を楽しむ」より。充実した学生生活を送る重信は、ある日初めて参加した学生大会をきっかけに、反日共に目覚めていく──。
デモに行く
文研と弁論、加えてクラス討論や夜学研のメンバー(夜学研というのは夜間大学の学生自治会の連合をめざし、働く学生たちの自治や改善、連帯の為の研究サークル)と社会や世界を語り大学の学問の自由や自治を語ることが、生きている実感のように楽しいものでした。
日韓条約反対のデモが激しくなり、文学部自治会に誘われて、国会に向けたデモにも参加しました。国会通用門のところに座り込み、国際学連の歌やインターナショナルやワルシャワ労働歌を歌いながら、お互いに地面に座ってスクラムを組んで、ごぼう抜きに抵抗していました。
「斎藤君! 都学連委員長の斎藤君、君たちの行為は違法です。直ちに解散しなさい。解散し、引き揚げない場合には、実力を行使します」
投光機が放射状にデモ隊を焦点に光を投げかけると、夕暮れの暗闇に浮かび上がった都学連委員長の斎藤克彦さん(明大・66年初代再建全学連委員長)が、当時の公開録音のプロデューサーのように、右手を振り上げてまわし、抗議の仕草で合図をすると、何百人~千人位の座り込みの学生部隊が呼応します。「ナンセーンス! 我々は闘うぞ!」と機動隊に向かって叫ぶのです。夜の真剣勝負は荘厳でした。その野外劇場のような情景に圧倒されます。
そのうちに、「これから君たちを排除します!」と、警察が宣言すると、座り込みの私達は、ぎゅっとスクラムを組んで互いに繋がっている隊列を、さらに強く握り合います。そこへ機動隊が、ゴボウ抜きのように引き剥がしながら排除していくのです。引き剥がすと二人の機動隊員が一人ひとりの両腕を捕って100メートルほど先の交差点の方に連行し、そこで放します。私たちはまた、知らない者たちとスクラムを組み反撃しようとしてデモの隊列を組む、というイタチごっこが続くのです。そんな風に、日韓条約批准の頃まで、盛んに闘ったものです。
当時は、捕まることは無かったし、指導者が捕まっても、数日で直ぐに出てきたものです。社会党・共産党・国鉄労働者・日教組など、大勢のデモが、国会での論戦とあわせて院外でも、盛んに繰り広げられていました。権力側も学生たちへの弾圧は、無茶は出来なかったのです。
初めての学生大会
入学後の65年6月、明大全学自治会の学苑会の学生大会が開かれることになりました。日共系執行部の人たちがクラス委員を選んで、大会への参加を呼びかけるようになりました。そうすると、反日共系の方は、この日共系の学苑会は”正統性を失っており、ボイコットすべきだ”と主張し、ビラを撒いていました。文学部自治会としては、大会をボイコットするようにと、クラスに呼びかけています。
双方が授業の合間に教室に来てはオルグ合戦し、かち遇(あ)っては論争します。それをみていて、私たち入学して間もない史学科日本史専攻として、どうするか話し合いました。そして今回は、代議員を大会に出すことはやめて、出来るだけ多くの人が大会にオブザーバーとして参加することにしよう、と決めたのです。そんなわけで、40人ほどのクラスの8割くらいがオブザーバー席に参加して、大会の成り行きを見守ることになりました。
大会が始まり、資格審査委員が参加代議員を読み上げて大会の成立を告げました。ところが私たちのクラスのSさんが、日本史専攻の代議員として座っていました。彼女は高校時代から民青だと語っていて、学生大会への参加を強く主張していた女性です。この一件を通して、私は日共の友だちに対して批判的になり、反日共系に肩入れしていく出発点となったのです。
大会成立を告げる議長に、「異議あり!」と挙手をして、私は発言を求めました。オブザーバー席で、白い帽子を被り、紺に白の水玉のワンピースの見かけない女の子が手を挙げたので、思わず議長は私を指したのでしょう。当時、キッコーマン出社スタイルの流行りの出で立ちのままで、大学に通っていたのです。
オブザーバー席から、20メートル以上ある階段教室の600人収容の大会場の前までやっと辿りついてマイクの前に立ちました。そして、私のクラスでは大会には、代議員を出さずにオブザーバーとして参加すると決めた、そして今クラスのほぼ全員がオブザーバー席にいる。にもかかわらず、Sさんが一年日本史の代議員となって座っているのは不当であり違法だと訴えました。
私の発言の趣旨がわかりはじめたところで、「うるせーこのガキ!」と野次が飛び「トロツキスト!」と罵声が飛んだのには吃驚しました。「あなたたちは人の話も聞けないのですか?!」とやり返しているうちに、今度は、オブザーバー席にいた反日共系の学生たちが待ってましたとばかり、一挙に壇上に駆け上がりました。そして議長や壇上の日共系の学苑会高橋委員長以下を殴りつけたのです。
そのうえ「シュプレヒコール! この大会は不当だ!」「デッチあげ大会粉砕!」などと叫びます。スクラムを組んで「ああインターナショナル」とインターを気分よく歌い上げると、スクラムを組んでデモ行進しながら退場してしまいました。私たち1年生は、あっけにとられていました。
倒れていた日共系の高橋委員長はマイクをとり「学友の皆さん、見ましたか! これが暴力集団トロツキストの正体です。さあ、民主的な我々のもとで大会を続けましょう」と、呼びかけると、「異議ナーシ」の合唱のもとに、学生大会は議事進行し、スムースに日共系の議案と人事を採択して、終ってしまいました。
何のことはない。大人と子供の勝負みたいなものだったのです。私は日共系の誤魔化しは、まったく許せない欺瞞だと思いました。同時に、反日共系の自己満足的なやり方では、学生を結集させられないと思いました。ちゃんと計画を立てて、日共系から秩序に則って、学苑会を取り戻すことを考えるべきだと思いました。
先輩たちにそう言ったのですが、そんなことは無理だと一喝されました。そうかな、でもやってみる価値はある。そんなに難しいことはないと思う。この1年生の時の、学生大会における日共の誤魔化しが、私を反日共に追いやりました。そして、学苑会を日共系から奪回するために、数年かけてもやってみようと思うようになったわけです。もちろんそれだけを目的にしたわけではなかったけれど、日共からの奪回をめざしはじめました。
頼まれてやり始めた文学部の自治会の執行部はやめて、文研から出向する形で研究部連合会執行部に加わろうと思いました。ここなら、各サークルをオルグして文学部以外とも協力して、日共との論争も全学的に行えるからです。
研連執行部として
研究部連合会、通称「研連」には、20ぐらいのサークルがあったと思います。各サークルには大学側や自治会費から助成金が出て、研連執行部が予算を管理配分し、研連の活動の自治を保証していました。反日共系の人たちは、研連は民青の牙城だと言ってオルグもしていません。私はそうは思いませんでした。自分の文研サークルも民青が牛耳っているわけではありません。実際、研連の執行部に加わってみると、日共系の人は執行部の半分くらいのものです。それも「ゴリ民」というより、日共シンパのような人たちだったのです。
研連執行部として、サークル活動の保証とサークル相互の支援を強化することなど、当たり前のテーマで活動していくと、日共も反日共もない、みな友好的な仲間でした。そんなに、日共系の人が多くないと判ったと同時に、政治研究部や近代経済研究部などには、社会党系とか学内の反日共系とは一線を画して、昼間は労働しながら、職場で組合運動をしている人たちも、多くいるのが分かりました。
そうしているうちに、66年に、明大でも早大に続いて学費値上げの動きが始まりました。この学費闘争の始まりは、今から思えば、これまで60年安保闘争以降、日共系が牛耳っていた学苑会を、私たち研連を中心として、反日共系が奪回する機会となっていきます。
この頃にはもう、キッコーマンでの正社員としての仕事と大学の両方がこなせなくなって、2年近く勤めたキッコーマンを二十歳の冬に退職していました。そして、世田谷の中学の学区域にあった経堂の伯父の家から大学に通っていました。それ10時の授業のあとの研連の活動や文研の会合で、終電にぎりぎりです。0時20分の新宿発の最終で帰ってくる私を、門の外で待っていてくれる子供のいない伯母の優しさが申し訳なく、気づまりになって、そこを出て小さな下宿を借りることにしました。婚約者とは、日本を変えるために、自民党を変革するという彼とラディカルな革命を求める私で、会う度に論争になっていた頃です。この学費闘争を巡る秋に、私は21歳になりました。
* * *
※第5回は、7月20日(木)配信予定です。
重信房子・著『はたちの時代 60年代と私』(太田出版・刊)は、全国の書店・各通販サイトにて好評発売中です。
筆者について
しげのぶ・ふさこ 1945年9月東京・世田谷生まれ。65年明治大学Ⅱ部文学部入学、卒業後政経学部に学士入学。社会主義学生同盟に加盟し、共産同赤軍派の結成に参加。中央委員、国際部として活動し、71年2月に日本を出国。日本赤軍を結成してパレスチナ解放闘争に参加。2000年11月に逮捕、懲役20年の判決を受け、2022年に出所。近著に『戦士たちの記録』(幻冬舎)、『歌集 暁の星』(晧星社)など。