知らない街の知らない盆踊りをずっと眺めていた
ところで、昭和24(1949)年に平和記念公園および「記念館」の設計コンペが開催されたとき、原爆ドームを「爆心地の祈念として現状のまま残す」ことが前提になっていた。モンゴメリーの後任として広島市復興顧問となったS・A・ジャビーは、昭和23(1948)年7月13日の『夕刊ひろしま』に掲載された「観光と原爆記念」という座談会において、「原爆記念物は広島に与えられた唯一の観光資源」だと語り、原爆ドームを保存するべきだという立場だった。ただ、被爆の痕跡が残る建物に対しては、忌まわしい記憶がよみがえるから、撤去してほしいとする声もあった。
昭和26(1951)年8月6日の中国新聞に、「“平和祭”を語る」と題した座談会が掲載されている。広島市長・浜井信三や、広島県知事・大原博夫、広島大学学長・森戸辰夫などが参加しており、司会を務める中国新聞社長・山本実一から「原爆遺跡の保存は今後どのようにされますか」という問いかけに、三者は次のように答えている。
浜井 私は保存しようがないのではないかと思う。石の人影、ガスタンクとも消えつつあるし、いま問題となっているドームにしても金をかけさせてまで残すべきではないと思っています
大原 敵愾心を起すのなら別だが平和の記念とするのなら残さなくてもいいと思う
森戸 私も残す必要はないと思いますネ、あのドームも向いの建物は残っているんだし、建物の建て方が悪いんですネ。とにかく過去を省みないでいい平和の殿堂をつくる方により意義がありますそういうものをいつまでも残しておいてはいい気分じゃない。
原爆ドームの保存に消極的だった浜井市長が、一転して保存の保存を打ち出すきっかけを作ったのは、ひとりの少女が書き残した日記だった。1歳のとき、爆心地から1・5キロ地点で被爆した楮山ヒロ子は、高校生になって白血病となり、入院生活を余儀なくされた。昭和34(1959)年8月6日の日記に、「広島民の胸に今もまざまざと記憶されているおそるべき原爆が、十四年たった今でも、いや一生がい焼き残るだろう」と書き記している。それに続けて、「そうして二十世紀以後はわすれられて、記念碑に書かれた文字だけと、あのいたいたしい産業商れい館だけがいつまでもおそるべき原爆を世にうったえてくれるだろうか」と綴られている。この日記を書いた翌年に、彼女は亡くなった。その日記の言葉を深く心に受け止めた「広島折鶴の会」のこどもたちが募金活動を開始すると、他の平和団体からも保存を求める声が高まり、昭和41(1966)年になってようやく、広島市議会で原爆ドームの保存が決議されている。
21世紀を迎えた今、原爆ドームだけが、戦争の影を残した姿でそこに建っている。
米山リサによる『広島 記憶のポリティクス』は、広島市制100周年と広島城築城400周年を迎えた昭和64/平成元)1989)年に、「企業や行政により数多くの催し物やプロジェクトが企画され」、戦争や原爆の「暗い」記憶に対しされるものとして、「明るい平和」が生成された過程について考察を加えている。
市の観光行政は、無批判に消費文明に資金を投じることによって原爆の記憶を消し去ろうとしているのではないか。先の市職員はそのような私の懸念を払拭しようとした。観光産業の促進そのものが、平和の追求なのです。平和体験を探し求め広島を訪れる人々は、観光客と定義することができる。お寺や神社への参詣者と同じなのです。聖なる場所にある街、平和のメッカは、近くの有名なお寺や神社から発展する門前町と同じだと考えていい。彼はこのように説明した。ここでは、広島の聖性、広島の平和への祈りが、諸外国からの観光客に向けた魅力的な目的地と同じように、消費の対象に変換されている。(…)
観光かの市職員は、原爆体験を他の人々に伝えることの重要性は否定しなかった。しかし、平和のことや被爆者のことについて、人は毎日二四時間考えていることはできない、と彼は強調した。戦争と原爆の記憶は、「きちんと」、適切な場所と時に思い起こされなければならない、つまり「けじめ」が必要だ、というのである。彼の非歴史的な説明によれば(…)明るさへの志向も、人々がみな自然に共有する日本人の文化的特性のひとつである。日本人は一般的にグロテスクなものを見ていられないのだと思う。原爆資料館のなかにあるものまで含めて原爆の残骸を全て移転しようという計画さえあるぐらいだから。戦争記念公園は、ひとつの選択肢になるかもしれない。しかしそれもちょっと暗いと非難されるでしょうけれど。彼はこのように話した。
広島市制100周年祈念事業として計画された事業のひとつに、地上600メートルの「ひろしまタワー」建設構想があった。「明るさと地域振興のシンボルに」とマツダが提唱したプロジェクトで、タワーには展望台のほか、原爆が炸裂した高度とほぼ同じ高さとなる頂上には「平和の光」を灯し、地上にはワールドショッピングプラザや世界青少年交流センター、フェスティバルプラザなど市民や観光客が集える施設を配置する計画だった。当時のマツダの専務は、新聞社の取材に対し、「原爆ドームを否定しているわけではない。ただ、悲惨さだけでなく、平和の楽しさを追求していくときではないか」と語っている。ただ、この計画に対して被爆者団体などから批判が相次ぎ、タワーが建設されることはなかった。
それから20年が経過した2010年、広島マツダは原爆ドームに隣接する広島東京海上日動ビルを取得し、「広島マツダ大手町ビル」と改称した。2014年から改修工事が始まり、2016年に「おりづるタワー」としてリニューアルオープンした。1階には物産館があり、屋上には展望台がある。2200円支払ってチケットを購入し、50メートルの高さにある展望台から街を展望する。原爆投下直後には「70年は草木も生えない」と報じられた広島は、今やすっかり復興を遂げ、100万都市となった。その賑やかさが、ここからだとよく見渡せる。足下を見下ろすと原爆ドームがある。原爆ドームを見下ろすのは、なんだか畏れ多いような気もする。
「なんだか畏れ多い」という感覚は、どこからやってきたのだろう。昭和20(1945)年3月10日、東京大空襲により下町は焼け野原となり、およそ8万4千人が亡くなったとされている。東京スカイツリーの展望台から、その下町を見下ろしても、「なんだか畏れ多い」とは感じなかった。その違いはどこから生じているのだろう。広島の原爆被害は小さい頃から繰り返し資料を目にしてきたのに対して、東京大空襲にはそれほど触れてこなかったことが理由なのだとしたら、ずいぶん身勝手な話だ。それに、「なんだか」というのも、ずいぶん曖昧だ。
原爆が投下された翌月には、連合国側のジャーナリストが広島を訪れている。最初に広島入りした英国デイリー・エクスプレス誌記者のウフィルフレッド・バーチェットは、八丁堀の警察署を訪れた際に、その場にいた市民から「追い返せ」と罵倒されている。被爆者を収容した焼けビルでも、広島市民から睨まれ、罵声を浴びせられている。僕は被爆3世ではあるけれど、広島を訪れる外国人観光客を見かけても、憎しみは浮かんでこない。原爆ドームを見下ろしても、忌まわしい記憶はよみがえってこず、ただ「なんだか畏れ多い」というぼんやりとした心地があるだけだ。
高さ600メートルの東京スカイツリーの展望台では、人の姿は小さな粒にしか見えなかった。高さ50メートルのおりづるタワーからは、顔は判別できないまでも、どんな服装かは見える。当たり前のことだけど、そこを歩いているのは今生きている人だけだ。
お昼を食べたお好み焼き屋はどこだろう――展望台から景色をじっくり眺めていると、広場のような場所に櫓が建っているのが見えた。お祭りでもあるのだろうかと足を運んでみると、そこは小学校のグラウンドで、これから盆踊り大会が開催されるようだった。校門を抜けると、敷地内に建つ原爆慰霊碑の前で慰霊祭が執り行われているところだった。
ここ本川小学校は、明治6(1873)年に「造成舎」として創立された。昭和3(1928)年には広島市内の小学校としては初となる鉄筋コンクリート造の校舎が落成した。だが、原爆によって全焼し、生徒約400名と教職員十数名が亡くなり、生徒ひとりだけが奇跡的に生き延びたのだという。被爆した翌日から、学校は臨時の救援所となったのだそうだ。
献花を終えると、慰霊祭の参列者たちは盆踊りの会場である校庭に流れてゆく。僕もグラウンドにまわってみると、小さなこどもたちが砂埃を立てながら駆けまわっていた。
あるこどもはおにぎりを手に走り、あるこどもは「かき氷!」と叫びながら走り、あるこどもは葉っぱを持って走り、あるこどもはヨーヨーを振り回しながら走っている。「えー、こどもたちにお伝えします。ゴミが舞い上がりますので、走らないでください」と、マイク越しに何度かアナウンスが流れたけれど、そんな言葉はこどもたちの耳には届かず、ひたすら駆けまわっている。なんだかその姿はたのもしく見えた。
「只今より、第39回慰霊盆踊り大会を開催いたします」。そんな開会宣言とともに、盆踊りが始まる。300円のアサヒスーパードライと、1本100円のフランクフルトを買って、知らない街の知らない盆踊りをずっと眺めていた。
すっかり夜が更けた頃になって、もういちど平和記念公園に出かけた。昼間は大勢の観光客で賑わっていた公園も、今は静まり返っている。原爆ドーム照明にライトアップされている。
広島市内の主要な観光コースをライトアップする「ひかり感覚都市ひろしま」という企画が始まったのは、平成元(1989)年のことだった。市民や観光客が河畔の散策を楽しめるようにと計画されたもので、平和記念公園を中心に、緑や建物がひかりに照らされた。爆心地から1・3キロ地点で被爆し、戦後は教員として働きながら、「語り部」として被爆証言活動を続けた沼田鈴子は、夜ぐらいは平和公園をそっとしておいてあげてほしい、広島の過去がけばけばしい光で霞んでいくように思えるから、と語っていたという。彼女は2011年に亡くなっている。
今年は戦後78年目の夏だ。評論家の坪内祐三さんは、2015年の――つまり戦後70年を迎える年の初夏に、「戦後何十年という区切りが意味を持つのは今年が最後だと思います」と語っていた。人間の記憶が5歳から始まるとして、戦後80年を迎える年には、終戦の年に5歳だった人ですら85歳を迎える。だからもう、戦争の記憶を持つ人はほとんどいなくなってしまって、「戦後80年」という区切りは意味を持たなくなるのではないか、と。
「戦争中は食糧事情がひどかったというイメージが強いけど、それは最後の1年半ぐらいと戦後の数年間なんです」。坪内さんはそう語ったあとに、こう話を続けた。
その飢餓体験にも、微妙な世代の差があります。たとえば昭和十年生まれの人は、八歳ぐらいからの数年間が食糧事情にめぐまれなかったことになる。それはそれで可哀想だけど、その世代は物心がついたときから困窮していた。でも、たとえば昭和四年生まれの小沢昭一さんの世代だと、物心がついたときには豊かなものを食べられたのに、それが段々なくなっていく――その恐怖がいまだにあると言っていました。小沢さんはもともと軍国少年で、海軍兵学校にも通っていたのに、反戦に傾いていく。それはイデオロギーとしての反戦じゃなくて、食べ物がなくなっていく怖さを知っているがゆえの反戦でした。僕が小沢昭一さんと会ったとき――そのときはもう七十歳ぐらいでした――デパ地下に行くと全部買い占めたくなると言っていた。小沢さんより三歳若い小林信彦さんも同じことを言っていました。でも、戦後八十年になる頃には、そういうリアリティは失われていくでしょうね。
そう語っていた坪内さんも、いなくなってしまった。
昭和57(1982)年生まれの僕には、昭和の記憶はほとんどない。いちばん古い記憶として残っているのは、「平成」という新しい元号が発表されたときのことだ。そんな僕の目には、ライトアップされた原爆ドームを見ても、広島の過去がけばけばしい光で霞んでいくようには映らなかった。人通りの途絶えた真夜中の平和記念公園で、ひかりを浴びた原爆ドームだけが大きな存在感をともなって建っている姿を目の当たりにしていると、死者が主役となった世界に佇んでいるような心地がした。
祖母にはもう話を聞くことはできない
夜が明けて、8月6日の朝がやってくる。
その日、広島中央放送局の情報連絡室では、警報発令を知らせるベルが鳴り響いた。敵機空襲の知らせを受け取ったアナウンサーは、すぐさま放送スタジオに入り、「中国軍管区情報! 敵大型三機、西条上空を――」と読み上げた。そこまで読んだところで、鉄筋の建物が傾くのを感じ、体は宙に投げ出された。
西条は僕の郷里・八本松の隣町だ。原子爆弾を積んだ戦闘機は、8時13分に西条上空を通過している。ということは、八本松からでも、エノラ・ゲイの姿は見えたのだろうか。
僕の祖母は当時18歳だった。軍国少女として育った祖母は、女学校を卒業したあとは挺身隊に行くつもりでいたけれど、父に猛反対され、臨時教員養成所に通い、小学校の教師になった。原爆が投下された日には、八本松からでもキノコ雲が見えたという。広島壊滅の報せを聞き、祖母は弟を探しに出かけ、被爆している。いちどだけ、ICレコーダーをまわしながら、当時のことを聞かせてもらったことがあった。
「弟は一番おとんぼ(末っ子)で、40歳で産んだ子じゃけん、『四十子』『四十子』ゆうて、じいちゃんはからかいよったがね。あとは皆女の子じゃったけん、女の子に囲まれて弱々しい子じゃったけど、頭は良かったんよ。ほいじゃが『工業学校へ進んで設計士になりたい』ゆうて、広島の工業学校へ通いよった。あの頃は勤労奉仕ゆうのがあってね。8月6日言うたら、普通は夏休みじゃけど、勤労奉仕へ出にゃならんけん、休みがなかったんよ。勤労奉仕に出よる工場が、広島の宇品のほうへあったんよ。あの子は真面目な子じゃったけん、汽車を降りたらすぐ工場へ行きよったんじゃろうねえ。同じ汽車に乗って広島に出かけとっても、駅のほうでぐずぐずしよった人は助かったみたいなけん。
それで、私とお父さんとで広島まで毎日探しに行ったんよ。広島へ出勤したり、広島に親類がおるものは皆探しにきよったけん、駅がいっぱいになるほどじゃった。向洋じゃったか、海田市じゃったか、途中までしか汽車が動いとらんかったけん、そこからは歩いてね。広島中の収容所という収容所を探したんじゃけど、見つからんかった。学校が負傷した人の収容所になっとって――遥か昔のことじゃが、昨日のように覚えとる。体育館の床に布切れみたいなんを敷いて、その上へ死体が転がされとったよ。あんな時代があったんよ。
今はもう、なんでも店で売り寄るし、取り寄せもできるから、信じられんようなけど、あの頃は街から『コメと交換してくれ』と言うてやってくる人も多くてね、物々交換しよったんよ。知り合いだけじゃなくて、知らん人が訪ねてくることもあってね。戦争中やなんか、なんぼお金があっても、食べ物が手に入らんかったんよ。うちでコメは作りよったけど、あの頃はおかずを買うて食べるということは滅多になかったけん。鶏小屋で鶏を飼いよったけん、卵はあったけどね。鶏はね、最初は縁側の下で飼いよったんよ。ほいじゃが縁側へ置いたら臭いという話になって、うちのお父さんが『鶏小屋を作ってやる』ゆうて、鶏小屋を建てたんよ。じゃけん、コメはあるし、卵もあるけど、魚を食べるようなことは月に何回かしかなかったねえ。八本松の駅のほうまで出んと、魚やかんか買えんかったけん。
私が小さい頃に住んどった家は、駅まで40分ぐらいかかるとこじゃったんよ。そのあたりは一等地じゃと言われるぐらい、黒々としたええ土じゃったみたいなよ。ほいじゃが、昭和15年じゃったか、そのあたりを海軍省が買い上げるという話になって、それで皆、移転されたんよ。うちのじいちゃんは百姓人間で、「ここで100年も庄屋をしてきたのに、今さらヨソへ行かれるか」と言いよったけど、海軍省が言うんじゃけ、しょうがないよね。それに、前は駅まで40分かかりよったのが、ここに映ってきたら10分で行けるようになったけん、私らなんかは喜んだんよ。もとに住んどったところは、海軍省の弾薬庫になって、戦争が終わったらそこに米軍があそこの弾薬庫は、戦争が終わったら、海軍省じゃなくて米軍が入ったけんね。もしかしたら働きよる人は日本人かもしれんけどね。海軍省が買い上げてから一回も入ったことがないんじゃけん、わからんよね」
僕の生まれ育った町に弾薬庫があることは、小さい頃から知っていた。日が暮れて夜になると、遠くに見える山のなかに、オレンジ色のひかりが点々と灯っていた。僕はただそのひかりを「きれいだな」と思って眺めていた。そこが「だんやっこ」だということは聞かされていたけれど、それはただ「だんやっこ」という音として知っているばかりで、弾薬が貯蔵されているのだと気づいたのは大人になってからだ。
小さい頃から平和学習で原爆の話を聞いて育ったこともあり、広島の戦争を思い浮かべるとき、列車で数十分かかる距離のところに投下された原子爆弾のことを思い浮かべる。でも、戦争は遠く離れた街だけで起こったのではなく、こんな小さな町にも戦争の跡が刻まれている。広島市長だった浜井信三の回顧録『原爆市長』にも、八本松が登場する。
家財一切を焼いた市民は、着のみ着のまま、夜寝る布団にも困った。夏の間は裸の生活でもよかったが、そろそろ涼風がたちはじめると、それではすまされなくなってくる。秋――そして寒い冬がやってくる。当然、衣料が要る。といって、当時市民に着せる大量の衣料を、正規のルートで手に入れることは不可能であった。
そこでわれわれは、軍服と軍用毛布に目をつけた。幸いにも、広島市には陸軍の被服支廠があったので、その払い下げを受ける交渉を進めたところ、結局、新しい軍用被服一万梱をもらい受けることに話がついた。「軍用被服一万梱」というのは、軍服、下着、軍帽、軍靴など、兵隊一人が身につける、上から下までの被服が十万人分である。これだけあれば、まず市民の当座の衣料はまかなえる、と喜んだ。しかしそれも束の間であった。
それらの被服は、加茂郡西条町にあるので、そこまで行って引きとってこい、というのである。トラックも人手もないときである。それをどうして運ぶかが問題である。だがこのとき私は、どんなことをしても、この軍服を運び出して来て、ひどく窮迫した市民の衣料を確保してやり、この冬の寒さをしのがせようと心に決めた。
被服が疎開してあったのは「川上(かわかみ)」というところで、「西条駅から相当離れた山の中」と書かれている。この「川上」というのが、現在の八本松町だ。一体どこに陸軍の物資が疎開されていたのだろう。なんとなしにネットで検索してみると、広島大学の大学院生が、昭和23(1948)年に米軍が撮影した空中写真をもとに、陸軍兵器補給廠八本松分廠を調査した論文が見つかった。その論文によると、物資を疎開させていた建物があったあたりは、小学校の同級生の親が営む酒屋の近くだった。分廠が点在していた場所に行ってみると、軍用地と民用地の境界線を示す「陸軍」の文字が刻まれた標石が、今も残っていた。
自分が生まれ育った町でも、知らないことが山のようにある。実家の本棚にあった『広島県川上村史』を開くと、「海軍川上弾薬庫」と「陸軍兵器補給支廠」に関する記述があった。そこには「八本松開拓団」という文字もあった。
敗戦によって深刻な食糧不足に見舞われたことを受け、昭和20(1945)年11月、政府は「緊急開拓事業実施要領」を閣議決定し、国策として開拓事業に乗り出した。広島県では、原村(現在の八本松町原)にあった陸軍演習場跡地の開発に着手することになり、昭和21(1946)年春、戦災離職者22世帯、海外引揚者19世帯、旧軍将校12世帯、地元農家の二男・三男10世帯など、あわせて69世帯が入植した。だが、陸軍演習場跡地はオーストラリア軍に接収されることとなり、入植者は移転を余儀なくされた。軍部と交渉し、陸軍兵器補給廠跡の使用許可をとり、火薬庫を改築して雑居することになった。こうして昭和22(1947)年1月7日に「八本松開拓団」が結成されている。そのあたりは現在、新興住宅地となっている。言葉を辿っていくと、まるで知らなかった風景が立ち上がってくる。
八本松が発展する契機となったのは、山陽鉄道が敷設され、八本松停車場が設置されたことだったと、『広島県川上村史』に記されている。明治28(1895)年に八本松停車場が旅客の扱いを始めたことで、それまで「きつね山とよばれ墓地で寂しいところ」だった八本松停車場のあたりが、年々発展し、人家も増えていったのだそうだ。
驚いたのは、この町にかつて「廻り馬場」があった、という記述だった。明治33(1900)年に、「飯田区と米満区との間の天林とよぶ山林を開いて、巾三間(約五米)長三〇〇間(約五四〇米)余」の廻り馬場が建設されたのだという。この廻り馬場は、牛馬市を開催することが目的のひとつだったが、毎年10月17日には大競馬会が開催されたのだそうだ。明治36(1903)年には馬場の拡張工事がおこなわれ、「廻り馬場神社」も建設されている。この競馬場は「桜山馬場」と、牛馬市は「桜山牛馬市」と名づけられ、「この市場を目指して集散する博労、一般見物人のために、宿屋をはじめとして幾多の建物」が並び、大いに賑わっていたという。僕が知っている郷里とは、まるで違う地層がそこには記されている。
その競馬場というのは、どんな佇まいだったのだろう。今ではもう、競馬場も神社もすっかり姿を消してしまっている。郷土史に書かれた「天林」という地名も、現在では使われなくなっており、親も「聞いたことがない」と首を傾げていた。昭和2(1927)年生まれの祖母なら、あるいは知っていたかもしれないけれど、祖母にはもう話を聞くことはできない。
お盆になると、祖先の霊が還ってくるという。もしも幽霊というものが存在するのだとしたら、どんなに良かっただろう。自分の祖先に限らず、聞いてみたいことはたくさんある。今年の夏、久しぶりに各地で再開された盆踊り大会を見物してまわっていると、誰かに話しかけたい気持ちが膨らんでゆく。
【お知らせ】
当連載を収録した書籍『観光地ぶらり』が待望の書籍化! 全国書店やAmazonなどの通販サイトで、2024年3月27日より発売いたします。
筆者について
はしもと・ともふみ。1982年東広島市生まれ。物書き。著書に『ドライブイン探訪』(ちくま文庫)、『市場界隈 那覇市第一牧志公設市場の人々』、『東京の古本屋』、『そして市場は続く 那覇の小さな街をたずねて』(以上、本の雑誌社)、『水納島再訪』(講談社)がある。(撮影=河内彩)