シングルマザーのミルドレッド・ピアース(ケイト・ウィンスレット)が起業家として成功していくまでの紆余曲折と、複雑な母娘関係を描いたドラマ『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』。「フィメール・ゲイズ(女性の視線)」からミルドレッドの経験と欲望について論じた、映画研究者・久保豊さんの論考をお送りします。
トッド・ヘインズ監督が手がけた『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』(Mildred Pierce、2011年、Amazonプライムで配信中)の結末において、主人公ミルドレッド(ケイト・ウィンスレット)は、母親の元から逃げるようにニューヨークへ旅立つ長女ヴィーダ(エヴァン・レイチェル・ウッド)に対して、怒りに震えながら冷徹に言い放つ。
“Go! Get out of my sight! I don’t need you either! Go to New York, for all I care! And don’t you ever come back! Do you hear me? Never again! I won’t have it!”(消えて。出ていけばいい。顔も見たくない。二度と戻ってこないで。聞こえた? 縁を切ってやる。もう懲りごり!)
ミルドレッドの視界に入ることすらも拒絶されるヴィーダは、かつて彼女の自慢の娘であった。一体何が二人を引き裂くのか。
舞台は1931年のアメリカ、カリフォルニア州にある小さな町グレンデール。大恐慌で職を失い他の女と浮気している「役立たず」(useless)の夫バート(ブライアン・F・オバーン)を追い出し、ミルドレッドは非公式の「アメリカの象徴」たる「別居妻」(a grass widow)/シングルマザーとして、二人の娘を女手一つで育てる。
ウェイトレスとして働き、のちに起業家として成功するミルドレッドは、次女レイを感染症で失うものの、母娘の絆を何度も修復しつつ、上流階級志向のヴィーダへ愛と金を注いでいく。だが皮肉にも、将来有望なソプラノ歌手へと成長したヴィーダは、母の愛を見限り、思春期から忌み嫌ってきた地元から、母の元夫であった恋人のモンティ(ガイ・ピアース)が待つニューヨークへと去る。
古典的ハリウッド映画に親しむ者であれば、『ミルドレッド・ピアース』という名前からすぐにマイケル・カーティス監督の同名作品(Mildred Pierce、1945年公開)を連想するだろう。フィルム・ノワールとして名高いカーティス版は、ヘイズ・コード(自主規制条項)の要請に従いジェームズ・M・ケインの原作小説(1941年出版)を改変し、善悪二元論でミルドレッドとヴィーダの母娘関係を描いた。
一方、2011年3月27日から4月10日までHBOミニシリーズとしてテレビ放映されたヘインズの『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』は、1930年代におけるジェンダー、労働、階級といった現代社会にも通ずるトピックを織り込んだケインの原作にほぼ忠実に作られている。各1時間の全5章というミニシリーズの時間的余裕を享受することで、ヘインズは1931年から9年間の物語をミルドレッドの視点から詳細に描くことに成功した。
原作に忠実にと述べたものの、ヘインズと共同脚本のジョン・レイモンドは上述の場面に、“Get out of my sight!”(消えて)というセリフを追加している。なぜヘインズは、あるいはヘインズとレイモンドは、“sight”という視覚や視線に直結した言葉を用いる決断を下したのだろうか。
『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』において、ミルドレッド自身の視線と他者から彼女に向けられる視線はどのような役割を果たすのか。本稿では、「女性の視線 フィメール・ゲイズ」(female gaze)の概念を援用して、ミルドレッドという女性の経験と欲望について考察してみたい。
1975年にローラ・マルヴィが論文「視覚的快楽と物語映画」(”Visual Pleasure and Narrative Cinema”)において提唱した「男性の視線 メイル・ゲイズ」(male gaze)は、その発表から45年間にわたって映画研究やカルチュラル・スタディーズなど様々な学問分野で議論を促進させ、同時に批判の対象ともなってきた。他方、フィメール・ゲイズは比較的新しい概念であり、理論だけでなく、映画や写真など実践を通じて今後さらに洗練されていくことが期待される。
本稿では『トランスペアレント』や『I Love Dick』の監督であるジル・ソロウェイが2016年トロント国際映画祭で共有したフィメール・ゲイズの定義を援用したのち、ヘインズ版におけるフィメール・ゲイズを分析していく。
フィメール・ゲイズとは何か
ローラ・マルヴィによれば、物語映画におけるメイル・ゲイズは監督、観客、そして登場人物という三つの男性の視線を通じて、女性身体の見世物(スペクタクル)化とフェティッシュ化を行う。メイル・ゲイズは男性(の視線)の優位性を権威化し、女性を抑圧する家父長制的な権力構造を維持しながら、男性観客に視覚的快楽を与える。
一方のフィメール・ゲイズは、メイル・ゲイズが女性身体を性的に見世物化するのと同様の方法を男性身体に対してとる女性の視線を指すものなのか。明確な定義はまだ曖昧で頭を悩ませるものの、答えはそんなに簡単ではないようだ。フィメール・ゲイズは視覚文化に偏在するメイル・ゲイズへの政治的なカウンターアプローチであり、単純にジェンダーリバーサルな関係を作り上げ、女性の視線を通じて男性身体を見世物化することが主な目的の一つではない。
フィメール・ゲイズが何を指すのかは、ジル・ソロウェイが2016年トロント国際映画祭のMASTER CLASSにて提示した定義が役に立つだろう。
ソロウェイによれば、フィメール・ゲイズは第一に、登場人物の行為(action)よりも感情(emotion)を重視し、フレームを通じて登場人物の感情を「見せる」のではなく、心の底から「感じさせる」ことを試みる。第二に、視線を受ける人物のポジションからカメラを使い、視線の客体となる経験がどのようなものかを観客に提示する。第三に、他者の視線に客体化されていると自覚したとき、その人物に向かって視線を返すことで、その他者が自分を見ていることに気づいており、客体化を拒むと主張する。
ソロウェイが提示する三つの観点を参照すると、映画やテレビドラマの製作におけるフィメール・ゲイズとは、様々な選択を日々行うなかで女性(あるいは広義のシス・ヘテロ男性以外の存在)が積む経験や抱く感情がどのような視線のポリティクスのなかで形成されているかを表象し、観客に共感をうながす表現方法を想像する政治的ツールであると考えられる。
本稿ではまず、このようにフィメール・ゲイズを定義したうえで、後半でトッド・ヘインズがどのように『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』を製作するに至ったかを確認し、ケイト・ウィンスレット演じるミルドレッドという女性の経験と欲望を考察していきたい。
『ミルドレッド・ピアース』との再会
『ポイズン』(Poison、1991)がサンダンス映画祭でグランプリを受賞したトッド・ヘインズは、同時期に映画批評家B・ルビー・リッチが提唱した新しい波「ニュー・クィア・シネマ」に貢献した映画監督の一人である。ヘインズとカーティス版『ミルドレッド・ピアース』の出会いは、ブラウン大学在学中までさかのぼる。同大学で記号学を学んでいたヘインズは、フェミニスト映画研究者のメアリー・アン・ドーンの授業でカーティス版を観て、ノワール・メロドラマとして議論した経験を記憶している(Taubin 185)。
ヘインズが『ミルドレッド・ピアース』と再び出会ったのは、『エデンより彼方に』(Far from Heaven、2002年)の製作後、友人のジョン・レイモンドから薦められていたケインの原作を読んだ2008年夏のことであった。
ヘインズは、カーティス版と原作の間にある大きな齟齬に対してだけでなく、原作が描くミルドレッドのセクシュアリティの豊かさと物語が持つエロスの強度について衝撃を受けた。加えて、カーティス版が舞台設定を1940年以降とぼやかしている一方で、原作が大恐慌時代を時代背景とする点に、2008年8月当時すでにアメリカで高まりつつあったウォール街における経済危機との同時代性を見出したのである(Taubin 186-187)。
この時期、ヘインズにはHBOからミニシリーズ作品の監督として起用する話がプロデューサーのクリスティーン・ヴェイコンから浮上していた。ヘインズには、シットコムのヒロインに夢中の幼児を描く『ドッティ・ゲッツ・スパンクト』(Dottie Gets Spanked、1993年)ですでにテレビ向け作品の製作経験がある。テレビドラマの熱狂的消費者であると自負するヘインズにとって、長編のテレビドラマ作品を担当することはある目標を達成するうえで魅力的であった。
その目標とはすなわち、古典的ハリウッド映画として映画学の教材としても引用されるカーティス版を作り直すのではなく、現代の視点からケイン原作の魅力をミルドレッドの視点を通じて探求し直すことである。ヘインズは、大恐慌という遠い過去を生き延びた、ある中流階級女性の経験と欲望を現在の視点から再解釈することを試みた。
パスティーシュ(作風の模倣)を用いた、様式化され誇張的なストーリーテリングは、『ポイズン』を経て、『SAFE』(Safe、1995年)以降のヘインズ作品において顕著となる美学的特徴である。だが映画理論家のパム・クックが指摘するように、ヘインズは『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』においては誇張を自然主義的アプローチと置換し、ヘイズ・コード期のハリウッドのなかで抑圧されたケイン原作の女性主人公の物語をより原作に近い形で再解釈したのだ(”Beyond Adaptation” 379)。テレビ向けのHBOミニシリーズというプラットフォームは、ヘインズのこのような挑戦を可能にした。
トッド・ヘインズによるフィメール・ゲイズの探求
トッド・ヘインズが『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』においてミルドレッドに託したフィメール・ゲイズとは一体どのようなものだったのか。この点について考えるために、まずはVanity Fairとのインタビューにおけるケイト・ブランシェットの発言に触れたい。
レズビアンの恋愛を描く『キャロル』(Carol、2015年)出演にあたり、ブランシェットはヘインズの視覚的言語の特徴を『エデンより彼方に』と『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』を通じて把握していたと語る。しかし、ブランシェットが意義深い経験だったと振り返るのは、ヘインズがルース・オーキンやヴィヴィアン・マイヤーといった1950年代に活躍した前衛写真家たちの作品を彼女とルーニー・マラに共有したことであった。
ヘインズにとって、パトリシア・ハイスミスが小説で描いた1950年代アメリカにおけるレズビアンの物語を2010年代の視点から再解釈するためには、同時代の女性たちがどのように世界を視ていたのかを知る必要があった。写真撮影とは主体がある対象へ能動的に視線を投げかける実践であり、オーキンやマイヤーの写真が具体的に提示した女性の視線は、ブランシェットに1950年代を全く異なる視点から捉え直すきっかけを与えたという。
もちろん、『キャロル』の製作自体にたくさんの女性が関わっている。その意味で『キャロル』は複数のフィメール・ゲイズを通じて洗練された作品であると言えるし、またあるいは原作者のハイスミスをはじめ、複数の「クィアな視線 クィア・ゲイズ」(queer gaze)を通じて成立した作品でもある。ここでさらに強調すべきは、フィメール・ゲイズとクィア・ゲイズがともにジェンダー、セクシュアリティ、階級、人種、エスニシティ、年齢といった多層的な交差性と、そのような交差性が表象に与える影響に関心がある点だろう。
大恐慌を時代背景とする『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』においてジェンダーと階級は二つの大きなテーマである。だが、シングルマザーとして娘たちを飢えさせないよう奮闘するミルドレッドの経験をフィメール・ゲイズの観点から考察するためには、ジェンダーと階級に密接に関わる労働こそが本作において最大のキーワードとなる。
本作において女性の労働が重要であることは、第1章のファースト・ショットがパイ生地をこねるミルドレッドの手から始まり、パイが完成するまでの過程を描くオープニング・シークエンスに提示される。深夜に鳴り響く銃声や毛皮のコートを着たミルドレッドでもなく(カーティス版)、外で芝刈りをする夫バートの視点から物語が始まるのでもなく(ケイン原作)、ヘインズ版は働く女性の手から始まるのである【図2】。
このオープニング・シークエンスには、大恐慌で不動産業が立ち行かなくなった夫に代わり、パイやケーキを売って生計を支えている自身のスキルに対するプライドが表れている。だが一方で、彼女の手を映すクロースアップによって作り出されるタイト・フレームは、ミルドレッドがとても狭く閉じられた世界(台所)でしか自身の存在価値を見出せていないことを示す。
だからこそ、職業斡旋所の女性職員に料理も得意だと弁明しても、「できない。できれば書くはずだ」と見透かされ、「つまりあなたにチャンスはない」という断言は、学歴も職歴もないミルドレッドには台所という閉じられた世界以外に居場所がない現実を突きつける。
この職員の言葉は、ミルドレッドが大恐慌前は裕福に暮らしていた中流階級家庭の専業主婦として執着するプライドをも露呈させる。今は食料を買うにも手持ちの硬貨を数えなければならないし、労働階級の人々と同じようにバスに乗り、仕事を探すために歩き回り靴擦れにも耐えなければならない。だが、たとえ身体と精神が疲弊しようとも、捨てきれない階級意識がミルドレッドの意思決定の邪魔をする。
その端的な例が、街中で偶然見つけたウェイトレスの求人を断ってしまう場面である。カフェの様子をガラス越しに伺うミルドレッドの視線の先には、支払い代金を小さなトレーに乗せて運ぶウェイトレスの姿がある。客の多くが気品高く見える女性であり、このカフェがある程度ハイランクな場所であることが分かる。
ガラス越しのミルドレッドのPOV(point of view)ショットに映るウェイトレスは、ミルドレッドの視線を認識し、鋭い視線をまっすぐミルドレッドに返す【図3】。のちに職業斡旋所の職員に呼び戻される場面で明らかになるように、この時点のミルドレッドは低賃金かつ客からチップをもらうウェイトレスのような仕事を見下していた。画面中央少し右にボヤけて映る窓枠は、階級意識に固執したミルドレッドの視線を拒絶するウェイトレスの感情を表現していると考えられる。このPOVショットにおける視線の力関係において優位なのは、ウェイトレスの方である。
その証拠に、次の肩越しのショット【図4】では、ボヤけてはいてもウェイトレスの肩はミルドレッドの体より大きく見える。ミルドレッドもまた視線を逸らすことでしか気まずさを回避することができない。このショットで興味深いのは、ウェイトレスがフレーム内に入る前に、ガラスに反射した彼女の姿がミルドレッドの身体と少しだけ重なる点である。この一瞬の重なりは、ウェイトレスとして働き始める彼女の近い将来を予見させる。だが皮肉にも、彼女が働くのはハイクラスなカフェではなく、労働者の集まる簡易食堂である。
プライドでは腹が満たされないし、生計を立てることもできない事実を突きつけるのが職業斡旋所の職員である。
大恐慌時代に生きる女性としてミルドレッドの状況に対してある程度の共感を示しつつも、彼女は「失業して、胃袋かプライドか選択に迫られたら、迷わず胃袋を選ぶ」と助言する。彼女の助言通り、ミルドレッドは職探しで空腹となった果てに立ち寄った簡易食堂でウェイトレスとして働き始める。彼女はプライドではなく、胃袋を選んだのだ。
第2章以降、ミルドレッドはウェイトレスとして生計を立て、レストラン「ミルドレッズ」を開き、三号店まで拡大させる起業家として成功する。そのような成功の背景には厳しい肉体労働があり、女性の肉体労働に真実味を付与したのがケイト・ウィンスレットの演技である。マイケル・ギレンとのインタビューにおいてヘインズは、ウィンスレットがウェイトレスの身のこなしや鶏の捌き方を習得しなければならなかったと明らかにしている(181)【図5】。
大恐慌により多くの男女が職を失ったなかで、ミルドレッドが起業家として成功していく過程をどのように観客に信じ込ませるのか。没落した中流階級家庭の専業主婦から、肉体労働を通じて起業の目標を叶えていく過程において、彼女はいくつもの障壁を乗り越えていく。
その過程において彼女が体験する感情や選択肢の一つ一つは、ウィンスレットの身体を通じた生々しい演技だけでなく、ミルドレッド/ウィンスレットの経験に対して溶けるように同化することを観客へ促すヘインズのフィメール・ゲイズによって感じられる。
本作に登場する女性はもちろんミルドレッドだけではないし、カーティス版のように善悪二元論で女性が分断されるわけでもない。本作はミルドレッドの視線を通じて、同時代の女性たちが置かれた状況や、彼女の友人たちがどのように互いをライバル視しながらも支え合っていたのかが描かれる。
メイル・ゲイズによって見世物化された女性身体ではなく、1930年代アメリカ西部における女性たちがどのように生きる術を模索していたのか、またどのように自分たちの身体や欲望を自分たちのものとして主張したのか。様々な女性の経験を「感じさせる」視線を提示することで、ヘインズは本作に対する観客性を拡大させる。それによって、次節で論じるようなクィアな読みも可能になると考えられる。
トッド・ヘインズのクィアな感性
本稿の最後に、ミルドレッドとヴィーダの母娘関係と“sight”の役割について考察したい。
ミルドレッドの労働は単純に家族を養うだけでなく、上流階級志向のヴィーダの教育に投資するためであり、ミルドレッドは娘を誇りとしている。
ミルドレッドとヴィーダの間には、ヴィーダが幼い頃から見る/見られる相互関係が存在する。労働者の母親に対するヴィーダの軽蔑がしばしば取り上げられるが、その軽蔑もまた彼女が母親から感じる過剰な期待に対する恐れの裏返しであろう。母親の期待へ応えられないのではないかという不安と恐れは、音楽の才能を発揮することで軽減されているのではないか。
17歳になったヴィーダが音楽で挫折を味わうとき、二人の関係に変化が訪れる。口論の末、ミルドレッドはヴィーダを家から追い出すが娘が気がかりで仕方がない。直接目で触れることも、触れることすらも叶わなくなった娘の存在は遠く、そしてさらに愛おしいものとなる。ソプラノ歌手として娘が大成した後もすぐには関係を修復できず、ミルドレッドは娘の存在をアパートの窓、新聞の写真、ラジオから流れる歌声からしか感じることができなかった。
母娘が再会を果たすのは、ミルドレッドとモンティの結婚パーティーである。ヴィーダが家を出て行った後、ミルドレッドは起業に成功した頃のヒモであり、ヴィーダが深く慕っていたモンティと数年ぶりにめぐり会い結婚する。モンティの計らいで再会した母娘は一緒に暮らし始め、ミルドレッドは娘のキャリアのために投資していく。それ以降、ミルドレッドが娘に対して示す独占欲は過剰かつ、ときにエロティックな強度を伴う。
娘への独占欲は、モンティがミルドレッドへコンサート途中で差し出すオペラグラスを通じて提示される、覗き見的なショットによって視覚的に表現される。この覗き見的体験を唯一許されるのがミルドレッドと観客だけである【図6】。皮肉なのは、ミルドレッドが娘を視覚的に独占して味わうための「視線」を与えるのが、彼女が娘を取り戻すために(無意識に)利用したモンティであり、また娘を占有するための「視線」を結末で奪い去るのもモンティである。
ヴィーダとモンティの異性愛関係が母娘関係を浸食する一方で、ヴィーダへのミルドレッドの愛情はクィアな欲望を同時に想起させる。ヴィーダと再会した夜、ミルドレッドは夜中に彼女が眠る寝室へやってくる。ミルドレッドは眠る娘へ歩み寄り、顔をゆっくりと近づけ、少し躊躇するような表情を一瞬浮かべたのち、髪をかきあげて唇にキスをする【図7】。パム・クックが指摘するように、物語世界外で流れるエディタ・グルベローヴァのソプラノがクレッシェンドに達するとき、唇が重なりあい、このクロースアップにおけるエロティックな興奮もまた最高潮に達する(“Text, Paratext and Subtext” 12)。
ケインの原作にはミルドレッドの性的欲望を示唆する記述が多数あり、このキスも原作に存在する。母娘のキスは物語上必要ないと主張する者もいるだろうが、クィア・シネマの作家であるヘインズが母娘関係に潜在するクィアな欲望を見落とすことは難しいと考えられるし、ヴィーダ役のエヴァン・レイチェル・ウッドのバイセクシャリティを加味すれば、このキスを契機として、母娘の見る/見られる相互関係をクィアに読み替える解釈は十分に可能となるだろう。
フィメール・ゲイズという概念自体が2010年代にようやく議論が盛んになってきたものであるため、2011年に放映された『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』が提示するフィメール・ゲイズは、2020年現在の視座からすると強度が低く、多様性に欠けるかもしれない。ヘインズ作品でいえば、『キャロル』ほどに視線のポリティクスに特化した作品ではないという意見もあるだろう。
また、ベル・フックスや他の論者が強調するように、フィメール・ゲイズとされる例の多くが白人至上主義に留まっているという批判に照らせば、『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』や『キャロル』のフィメール・ゲイズにも反省点はあると考えられる。
だが『ミルドレッド・ピアース 幸せの代償』のフィメール・ゲイズは、少なくとも二つの貢献をしている。一つは、肉体労働を通じて大恐慌を生き延びた女性の経験を原作小説の再解釈をもとに構築し直し、現代の観客が共感できる女性の物語を提示している点。もう一つは、『エデンより彼方に』や『キャロル』と同様、クィアな欲望を物語内に同定し、1940年代のハリウッド映画産業が目を背けた関係性や欲望をテレビドラマとして提示した点だ。
このようなフィメール・ゲイズを通じて語られてきたミルドレッドの物語は、ヴィーダへ捧げてきた「視線」との決別(“Get out of my sight”)で終わる。肉体労働者として狭い台所を飛び出し起業したミルドレッドにとって、ヴィーダは彼女自身が得ることのできなかった景色を見せてくれ、彼女がなれなかった何かになる体験をさせてくれる存在であった。本作を「母ものメロドラマ」(maternal melodrama)として分類するならば、自分を犠牲にしてでも娘のために尽力し、娘の大成を祈る母のイメージには、成功する娘の視線と同化したいという欲望が見出されるだろう。単純に娘の成功を祈るだけの母親であれば、ミルドレッドが「消えろ」と叫ぶことはなかったかもしれない。
しかし本作は単純な母ものメロドラマではない。ヘインズのクィアな感性は、母ではなくモンティを選んだヴィーダに対する同性愛的欲望を悲痛な怒りとしてミルドレッドに表出させる。ミルドレッドにとって、成長したヴィーダは彼女自身の同性愛的欲望の対象であった。起業家として成功し、惜しみなく娘に投資できる彼女の財力は、ある意味で彼女の欲望を自由に実践するための手段であったと考えられないだろうか。
ヴィーダへの過剰な投資によって会社からの辞任に追い込まれ、ヴィーダがモンティの元へ去ろうとするとき、“Get out of my sight”というミルドレッドの言葉は、欲望の対象への視線を遮断することで自らの同性愛的欲望と決別させるのだ。元夫のバートと再婚し、グレンデールの家へと戻るミルドレッドには、異性愛家族のなかで妻・母の役割を演じることで同性愛的欲望を抑圧した1930年代アメリカにおける女性の姿を見出せるかもしれない。
ヘインズとレイモンドは、カーティス版では排除されたケイン小説にみる同性愛的欲望をキスによって視覚化し、そして原作にはない“Get out of my sight”というセリフを用いてミルドレッドという女性の経験をクィアに読み直す可能性を現代の観客に提示する。そのような読みの可能性を残すことで、フィメール・ゲイズによって本作が描く女性の物語に対する女性観客の観客性を拡大させたのだ。ヘインズによる(クィアな)母ものメロドラマとして、本作に関するさらなる言説が築かれることを期待したい。
引用・参考文献
“Cate Blanchett on the Female Gaze In ‘Carol.’” YouTube, uploaded by Vanity Fair, 4 February, https://www.youtube.com/watch?v=rYgzL28Bbgs
Cook, Pam. “Beyond Adaptation: Mirrors, Memory and Melodrama in Todd Haynes’s Mildred Pierce.” Screen 54(3), 2013, pp. 378-387.Cook, Pam. “Text, Paratext and Subtext: Reading Mildred Pierce as Maternal Melodrama.” SEQUENCE 2(2), 2015, pp. 1-19.
Guillen, Michael. 2011. “HBO: Mildred Pierce—The Evening Class Interview with Todd Haynes.” Todd Haynes: Interviews (Conversations with Filmmakers Series). Jackson: University Press of Mississippi, 2014, pp. 177-184.
“Jill Soloway on The Female Gaze MASTER CLASS TIFF 2016.” YouTube, uploaded by TIFF Talks, 11 September 2016,
https://www.youtube.com/watch?v=pnBvppooD9I
Taubin, Amy. 2011. “Daughter Dearest.” Todd Haynes: Interviews (Conversations with Filmmakers Series). Jackson: University Press of Mississippi, 2014, pp. 185-192.
※初出:wezzy(株式会社サイゾー)。2020年4月18日掲載。
久保豊
映画研究者。専門は日本映画史(特に木下惠介の作家論)、クィア・LGBT映画史、クィア批評。喪と不在、触覚と体温、エイジングに関心があります。