自分はこのままでいいんだろうかと鬱々とした日々を過ごした会社員時代、昼の立ち食いそばは数少ない癒しの時間だった。10年ほど前、池袋駅東口の繁華街のなかにあるそば屋がオープンした。そば屋としてもじゅうぶんに良い店なのだが、さらに熱いのはその店が“飲めすぎてしまう”そば屋であるということだ。
長く池袋で会社員をしていた時代、昼食を食べるのは圧倒的に、立ち食いそば・うどん店が多かった。
最も多く利用したのは職場から最寄りだった「小諸そば」。味も値段も、ねぎのせ放題のサービスも文句なしのお気に入り店だった。他、気分を変えて「富士そば」や、今はなき「生そば玉川」という店にもよく行った。もっと時代をさかのぼれば、個人系の名店もたくさんあって、そのほとんどがすでになくなってしまったことは悲しいが、いつも「おれははたして、今のままでいいんだろうか……」と鬱々としていた時代において、昼に立ち食いそばを食べている時間は、自分にとっての癒しだったと言える。
ところで、今から 10年ほど前だろうか。東口の繁華街のなかに突然「梟小路(ふくろうこうじ)」というそば屋が新規オープンした。全席椅子完備ではあるけれど、せいろやかけが税込400円、天せいろが600円、名物のひとつ「ネギ煮豚蕎麦」が600円という価格帯からして、立ち食いそばの系譜と考えて問題ないだろう。ここが気に入って、たまに昼食を食べに行くようになった。
ちなみに店名について。立地が袋小路にあるというわけではない。池袋のある豊島区がふくろうの形をしており、駅には待ち合わせスポットの「いけふくろう」があったりと、街全体がふくろう推しなこと。また、店の目の前に昭和の面影を残す「美久仁小路」があることなどとかけてあると思われる。
さて、まずはそば。当然、たぬきとかきつねなどのオーソドックスなメニューはひととおりあるが、「麻婆蕎麦」とか、「鴨と竹の子」や「アサリと生海苔」のつけそばなど、意欲的な創作メニューがあるのも楽しい。また、その日のどんぶりと小そばに小鉢までついた「本日の日替りセット」が500円だったり、「豚カルビ定食」「チキンカツ定食」「鯖味噌定食」などなど、もはや立ち食いそばの域を超えたメニューが豊富だったりもして、その幅広さはここではとても紹介しきれない。ただひとつ言えること、それは、梟小路がシンプルに、信じられないくらい“いい店”であるということだ。
このあたりでもうじゅうぶんに店の良さは伝わったかもしれないが、僕的に梟小路が熱い理由はその先にある。それはこの店が“飲めすぎてしまう”そば屋であるという点だ。
営業時間は日によって異なるが、長い日で、朝の5時半から夜中の12時まで。その間、常に嫌な顔もせず、飲み客にも対応してくれるのがすごい。というか、池袋の繁華街という場所柄、いついかなるときにでも飲んでる客がいるのが愉快だ。
店を入ってすぐは、入り口から差しこむ日差しのなか、カウンター席で朝食や昼食を楽しむ人たちが中心のエリア、その先にボックス席やテーブル席が複数あり、まだ日の高いうちから上機嫌に飲んでいる謎のスーツ集団などが現れだす。ただ、カウンター席が空いていなければそばを食べに来ただけの人もそこを使うことがあり、その、徐々に混ざりだす混沌ぶりがたまらない。
さらに奥へと進むと、小上がりの座敷まである。おもしろいのは、その壁が鏡張りで、もしかしたらかつてはスナックかなにかだったのを改装した店舗なのかもしれないこと。そこまで行くともはや時間の感覚はなくなり、お客さんたちの感じも含めて、完全な飲み屋だ。
食事の客は、入り口で食券を買って店内に入る。一方酒を飲みたい客は入り口で「お酒です」と伝えて店内へ。注文は店内でできる。酒は、ビールにチューハイ、サワーに日本酒に焼酎と、完全に飲み屋レベルの品揃えだ。キープボトルまである。
つまみもまた豊富で、250円のもろきゅうからはじまり、炒めものや揚げものなどなんでもござれ。通常、老舗そば屋で飲む「蕎麦前」のつまみは、板わさでも焼鳥でも、基本的にそば屋にあるメニューの具材を使っていることが前提だ。けれどもここには「ウインナー炒め」もあれば「揚げタコ焼き」もあれば「ハムカツ」もある。決して蕎麦前ほど粋なものではなくて、あくまで「そば屋飲み」。その感覚が、ものすごく心地いいのだ。
とはいえ、ここで粋な“蕎麦前ごっこ”をしてみるのもまた楽しい。というわけで、まずは「板わさ」(300円)からいこう。もちろん凝った飾り切りなどはされていないが、薄切りにした紅白かまぼこがどーんとたっぷり出てくるのが嬉しい。ここで地酒でも頼んだらかっこいいんだろうけど、いつものクセで「ホッピーセット」(450円)を頼んでしまい、やっぱり自分はまだまだ蕎麦前を粋に決められる男ではないなと実感。
ただ、このホッピーセットがすごくて、たっぷりのナカに瓶ホッピー。さらには、こちらがひとり客であろうと問答無用に、巨大なアイスペールにたっぷりの氷までやって来るのだった。きっと使いきれないだろうからちょっと悪いようでもあり、けれどもこの心の余裕が、なんとも嬉しい。
板わさをつまみに1杯目のホッピーを飲みきったら、おかわりの「中」(200円)と合わせて、「天ぷらそば」(500円)も頼んでおこう。暑いので、冷たい「ぶっかけ」を選択。
やってきた冷たい天ぷらそばは、角が立って色が濃いめのそばにかけつゆがかかり、その上にどーんと、標高5cmはあるんじゃないかというかき揚げがのったスタイル。小皿には刻みねぎとわかめ。そうそう、立ち食い系そば屋の多くは、天ぷらそばと言いつつ具はかき揚げひとつというパターンが多く、僕はそれが大好きなんだよな。軽快に揚がったかき揚げに醤油を数滴たらし、ざくざくっと崩して口へ運ぶと、香ばしい油の香りとともに、玉ねぎやにんじんの甘み、ほんのりと焦げた長ねぎの香りなどが一気に広がって、思わずうっとり。すかさず流しこむホッピーのうまさといったら。
つまり、このそばは天ぷらそばであって、かき揚げというつまみと、そばというシメの融合体でもあるのだ。その相性に酒がぐいぐいすすみ、思わず「酎ハイ」(300円)、「緑茶ハイ」(300円)とおかわり。我ながら飲みすぎだが、止まらないものはしょうがない。
そして最後に姿を現すのは、崩れたかき揚げの破片がのった、“ぜいたくたぬきそば”とも言えるシメの一品。そこにねぎとわかめをのせて、一気にかきこむ。しっかりとだしが香り、塩辛すぎない僕好みのつゆうまい。歯切れとのどごしが良く、そばのかおりもきちんと感じられる麺は、こんな値段で食べさせてもらっていいんだろうか? と不安になるレベルだ。
決して気取らず、朝から晩までそば屋酒が楽しめる名店、梟小路。実は、けっこう奇跡の店なんじゃないかと、通いはじめたころから今までずっと思っている。
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『酒場と生活』次回は2024年9月5日公開予定です。
筆者について
1978年、東京生まれ。酒場ライター、漫画家、イラストレーター。酒好きが高じ、2000年代より酒と酒場に関する記事の執筆を始める。著書に『酒場っ子』『つつまし酒』『天国酒場』など。ライター、スズキナオとのユニット「酒の穴」名義をはじめ、共著も多数。